二葉鍼灸療院 院長のドタバタ活動日記

私が日頃行っている活動や、日々の鍼灸臨床で感じたことなどを綴っていきたいと思います。

2012年 終戦記念日にいろいろ考えてみた 3

2012年08月24日 | 社会

時間が経ちましたが、終戦記念日に考えたことの続きです。

天皇陛下とマッカーサーGHQ最高司令官のことについて少し書いて、この話題を終了したいと思います。

終戦後、連合国総司令部(GHQ)最高司令官 ダグラス・マッカーサーは、1945年8月30日に厚木飛行場に到着しました。その映像は時々メディアに出てきますね。

その後、マッカーサーは、9月27日に天皇陛下(昭和天皇)と初めての会見を行います。

マッカーサー回顧録によると、その時の模様を記しています。その中に…

  『私は、天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴え始めるのではないか
   という不安を感じた。連合国の一部、ことにソ連と英国からは、天皇を戦争犯罪者に含めろ
   という声がかなり強くあがっていた。現に、これらの国が提出した最初の戦犯リストには、
   天皇が筆頭に記されていたのだ。私は、そのような不公正な行動が、いかに悲劇的な結果
   を招くことになるかが、よく分かっていたので、そういった動きには強力に抵抗した』


  『ワシントンが英国の見解に傾きそうになった時には、私は、もしそんなことをすれば、少なくとも
   百万の将兵が必要になると警告した。天皇が戦争犯罪者として起訴され、おそらく絞首刑に
   処せられる事にでもなれば、日本に軍政をしかねばならなくなり、ゲリラ戦が始まる事は、
   まず間違いないと私は見ていた。結局、天皇はリストから外されたのだが、こういったいきさつ
   を、天皇は少しも知っていなかったのである』

そんな事情があるなか、天皇のお言葉は、

  『私は、国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行った全ての決定と行動に対する、
   全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるために
   おたずねした』

と仰られました。その言葉に対してマッカーサーが思ったことは、

  『私は、大いに感動にゆすぶられた。死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実
   に照らして、明らかに天皇に帰すべきでない責任を引き受けようとする。この勇気に満ちた
   態度は、私の骨の髄までも揺り動かした。私は、その瞬間、私の前にいる天皇が、個人の
   資格においても、日本の最上の紳士であることを感じとったのである』

と書いてあります。マッカーサー司令官は、会見に天皇陛下が来る時も、帰る時も、玄関には出ない予定でしたが、この35分にのぼる会見の中で何が変わったのか、天皇陛下がお帰りの際には、思わず玄関までお見送りしてしまい、慌てて引っ込んだことが目撃されている、と、『吉田 茂 回想十年』にあるそうです。

この会見を行うにあたり、GHQは天皇のこと、日本人の天皇に対する感情などを調べあげています。また、マッカーサーも早期に日本の統治を終了させたいと思っていたのでしょう。1948年には、大統領選挙に出馬しています(トルーマンが大統領に選出されましたが)。そのことを差し引いても、天皇陛下のお人柄に何かを感じたことは違いなく、後々の様々な決定に影響したと思います。

調べあげていると言えば、第二次世界大戦の発端、経緯は様々なものがあります。資源が少ない日本にとって、諸外国との貿易は産業発展、国民生活には不可欠なものでした。今も同じです。そんな中、海路が分断され、石油、鉄をはじめ生活必需品の輸出入を行うことができなくなりました。いわゆるABCD包囲網(アメリカ・イギリス・オランダ・中国による海上封鎖)です。
これも戦争に突入する大きな要因となりました。昭和天皇は、この戦争を「石油にはじまり石油に終わった戦争」とも話されていたようです。

しかし、しかし、この日本包囲網を含め、太平洋戦争に関る計画は、戦争が始まる以前に計画されていました。アメリカという国は、常に仮想敵国、または仮想敵を示して、それに対する戦略を練り、必要であればそれを実行してきた国です。今もそうです。

対日戦争計画として作成された計画は「オレンジ計画」と言われるものです。当時、あらゆる場合を想定し、仮想敵国ごとに色で現して計画つくっていました。その色が日本はオレンジだったということです。ちなみにアメリカはブルーです。太平洋戦争はおおむね、この計画に沿った形で遂行されました。
なんと、この計画は、1906年~14年の間に作成されました。ということは、太平洋戦争が始まるかなり以前から戦略方針が決定されていたということです。その後、随時、改訂されますが基本の骨子は変わることがありませんでした。そして、太平洋戦争が勃発するや、24時間ごとに戦艦の現況を反映して、次にどう動いたらいいか、ということが計画の中で随時更新されていたそうです。

アメリカのいくつかの仮想敵国の戦争計画の中で、日本に対するオレンジ計画は、最も卓越したものであったということです。アメリカのアジアへの植民地拡大の足がかりとして、戦略的に日本は重要であったということでしょう。また、このオレンジ計画が練られた頃、米国内では人種差別が凄まじく、奇しくも日本から数千人単位でアメリカへ移民として渡った、そんな状況もあったようです。

ようは、今のアメリカと同様に「どうしたら戦争を始めることができるか」ということを常に考えていたということになります。

アジアは確かに、日中戦争が起こっていましたが、アメリカは、さらに、それを上回る戦略と情報収集能力で、自国の利益をさらに強く、そして、そんな意味の大きな視点からアジアを注視し、そして、我がものにしようと計画を実行していたということになります。

第一次世界大戦後、戦争による反省から「国際連盟」が1919年、パリ講和会議により結成されます。その連盟規約に、日本が提案し、是非とも加えて欲しかったのが、”人種あるいは国籍の如何により法律上あるいは事実上なんら差別を設けざること”いわゆる「人種差別撤廃条項」でした。何度も反対されたので修正案を何度も提出したにも関わらず、欧米列強の反対にあいました。決議は多数決で決定するにも関らず、議長のアメリカ大統領 ウッドロー・ウィルソが「大事な決議は全会一致で…」ということに変えて、あえなく日本の提案は否決されました。
その後、様々な経緯があり、日本は国際連盟を脱退します。「こしゃくな日本」ってな感じで、対日戦争計画ができる下地はあったのでしょうね。
第二次世界大戦の日本の大きな目的の一つが人種差別撤廃と大東亜共栄圏の構築です。日本は敗戦国となりましたが、戦後、東南アジアやアフリカ各国の植民地が独立していきました。

現在、尖閣諸島や竹島の問題が世の中を賑わしています。ここで領土問題をとやかく言うことはしませんが、ここは日本だ、ここは韓国だ、ここは中国だ、と言っている間に、実はそれより高い立場(いや、裏の立場からと言ったほうがいいのか)から、国際戦略的にどこかの国が操っているのかもしれませんよ…と私は、そんな見方もしています。

ついでに言うと、戦後、日本は韓国にも中国にも、アジア各国に賠償金を払っています。そして何度も謝ってきています(本意、不本意は別にして)。韓国とは日韓基本条約により、取り決めを行い、当時の日本の国家予算の10分の1にあたる額の賠償金または、有償支金を払っています。世界の中で、敗戦国、また、植民地であった国に対して賠償金を払った例はありません。さらに、日本は朝鮮統治の中で整備したインフラなどの資産をすべて譲渡しています。
お金の問題ではない…などと言われるかもしれませんが、いつまで政治にこのような問題を持ちあげて、騒乱を生み出すのでしょうか。今回は毅然とした態度を貫き、問題解決をして頂きたいと思います。そのせいで経済や人的交流に支障が出ることは、お互いの国にとって得策ではないでしょう。お互い改めるところを改める。そんなことが大切だと思います。

あっと、話はそれましたが

日本は、戦うべくして戦い、残るべくして残っているのだと思います。戦争や紛争はあってはならないことです。しかし、起こってしまったことを教訓として、大切な部分はどこにあるのか、中心としなくてはいけない考え方はなんなのか、何のために(誰のために)、どのように決断しなければならないのか、そして、敵味方を越えて感じるものとは何なのか、そのようなことを、天皇陛下(昭和天皇)は、敵国の司令官であるマッカーサーの関係から、私たちに残して頂けたのではないかと思いますね。

日本をよりよい国にしていくために、世界の人々みなが平和で、愛の満ちた世界で過ごせるために、現在、物質的に余裕のある日本人がもっと考えていくことが大切なんでしょうね。

それを子孫へ伝えていくためには、「今」 自分が何を考え、思い、どう行動するかが、すべてなのだと思います。

あーーーーーー、また長くなった   最後まで読んで頂けた方、ありがとうございます

これで、2012年 終戦記念日に考えたことを終わりたいと思います。

 
  二葉鍼灸療院 田中良和

コメント (4)
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2012年 終戦記念日にいろいろ考えてみた 2 

2012年08月17日 | 社会

2012年、終戦記念日にいろいろ考えたことを綴っています。その続きです

もう一つ、なかなかポツダム宣言を受け入れられなかった理由は、その条文にあるようです。

◆ポツダム宣言は、13の条文からなりますが、作成はトルーマンの側近で知日家である人物が中心となり作成されました。その中で、日本を早期に降伏させるためには、日本人が最も大切にしている「天皇の地位保全を保障」することだとし、起草文にはそれが書かれていたようです。

トルーマンは、その「天皇の地位保全の保障」に関する部分を削除しました。
日本には、早々に降伏してもらって欲しくなかった理由があったからだと言われています。

原爆です。

原爆投下はマンハッタン計画やアメリカの対日戦略の中で、投下の相当前から計画されていたようです。どうしても人体実験をしたかったようです。戦後、そのマンハッタン計画の設備やブレーンが、そのまま原子力発電へチェンジしていきました。それが現在の日本の原子力発電を支えています だから日本にある原発なのに、その事故の詳細が国民に伝わるのが遅いのです。お伺いを立てなければいけない所があるからではないでしょうか

話は戻して…和平への仲介役をお願いしていたソ連が突如、参戦したり、満州で多くの開拓民の方々がソ連の兵士に虐殺、連行され、略奪、暴行され、ましてや、広島、長崎に原爆を投下されまいた。そんな中でも、ポツダム宣言を受け入れるかどうかという結論には至りませんでした。しかし、1945年8月9日、宮中の地下防空壕において、歴史的な御前会議が開かれることになり、天皇陛下のご英断により、受諾が決定されました。

その御前会議に内閣書記官長として列席されていた、迫水久常 氏の証言があります。
以下、長いですけど引用。

~引用開始~

 第二次世界大戦末期において、国土は原爆を投下され、数多くの同胞を、国土内のみならず、あるいは、北海の地に、あるいは南溟の空に失いました。それにも関らず、当時の最高戦争会議においてはポツダム宣言の受諾か本土決戦覚悟の戦争継続か、議論は二つに分かれて、どうしても決まらなかったのであります。そこで、まとまりをつけるためには、陛下の御聖断を得るしかなしと、当時の鈴木総理は決意して、昭和二十年八月九日の二十三時から、地下十メートルにある宮中防空壕内の一室で、歴史的な御前会議を開くことになりました。

 陛下は足取りも重く、お顔は上気したるごとくにて、入って来られました。今も深く印象に残っておりますのは、髪の毛数本額に垂れておられたことです。会議は総理が司会致しまして、まず私がポツダム宣言を読みました。日本に耐えがたい案件をのむのでありますから、まったく、たまらない事でした。
 次に外相が指名されて発言しました。その論旨は、この際、ポツダム宣言を受諾して戦争を終えるべきであるということを、言葉は静かながら、断乎申されました。次に阿南陸軍大臣は、外相の意見には反対でありますと前提して、荘重に涙と共に今日までの軍の敗退をお詫びし、しかし今日といえども、必勝は帰し難しとするも、必敗と決まっていない。本土を最後の決戦場として戦うにおいては、地の利あり、人の和あり、死中活を求め得べく、もし事、志たがう時は、日本民族は一億玉砕し、その民族の名を青史にとどむることこそ本懐であると存じます、と言われました。次の米内海軍大臣はたった一言、外務大臣の意見に全面的に同意であります、と言われました。平沼枢密院議長は列席の大臣総長にいろいろ質問された後、外相の意見に同意であると言われました。参謀総長、軍令部総長は、ほぼ陸軍大臣と同様の意見であります。この間、二時間半、陛下は終始熱心に聞いておられましたが、私は本当に至近の距離に陛下の御心配気なお顔を拝して、涙の滲みでるのを禁じ得ませんでした。
 一同の発言が終わった時、私はかねての打ち合わせに従って、総理に合図いたしました。総理が立ちまして、おもむろに、「本日は列席一同熱心に意見を開陳いたしましたが、只今まで意見はまとまりません。しかし事態は緊迫しておりまして、まったく遷延をゆるしません。おそれおおいことではございますが、ここに天皇陛下の思し召しをお伺いして、それによって私どもの意見をまとめたいと思います」と述べられ、静かに陛下の御前に進まれました。
  (中略)
 陛下はまず、「それならば自分の意見を言おう」と仰せられて、
 「自分の意見では外務大臣の意見に同意である」と仰せられました。

 陛下のお言葉の終わった瞬間、私は胸がつまって涙がはらはらと前に置いてあった書類にしたたり落ちました。私の隣は梅津大将でありましたが、これまた書類の上に涙が滲みました。私は一瞬各人の涙が書類の上に落ちる音が聞こえた気がいたしました。次の瞬間、すすり泣きであります。そして次の瞬間は号泣であります。
 涙の中に陛下を拝しますと、はじめは白い手袋をはめられたまま、親指をもって、しきりに眼鏡をぬぐっておられましたが、ついに両方の頬をしきりに、お手をもって、お拭いになりました。陛下もお泣きになったのであります。

 陛下のお心のうちは、けだし、想像を絶するものがあったに違いありません。みんなが号泣しているうちに、なお陛下は、絞り出すようなお声で、念のために理由を言っておくと、次のような意味のことを仰せられました。

 「太平洋戦争が始まってから、陸海空軍のしてきたことをみると、予定と結果がたいへん違う場合が多い。大臣や総長は、本土決戦の自信があるようなことを先ほども述べたが、しかし侍従武官の視察報告によると、兵士に銃剣さえも行き渡っていないということである。このような状態で、本土決戦に突入したらどうなるか、非常に心配である。あるいは日本民族は、皆死んでしまわなければ、ならなくなるのではなかろうか。そうなったら、どうしてこの日本を子孫に伝えることができるであろうか。自分の任務は、祖先から受け継いだ、この日本を、子孫に伝えることである。今日となっては、一人でも多くの日本人に生き残ってもらって、その人たちが将来ふたたび立ち上がってもらうほかに、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。このまま戦い続けることは、世界人類にとっても不幸なことである。自分は、明治天皇の三国干渉の時のお心もちを考えて、自分のことはどうなってもかまわない。堪え難いこと、忍び難いことであるが、かように考えて、この戦争をやめる決心をした次第である。…」

 陛下のお言葉は、人々の号泣の中に、とぎれとぎれに伺いました。日本国民と、さらに世界人類のために、自分はどうなってもかまわないという、陛下の広大無辺なる御仁慈にたいし、ただひれ伏すのみでありました。陛下のお言葉はさらに続きまして、国民がよく今日まで戦ったこと、軍人の忠勇であったこと、戦死者戦傷者にたいするお心もち、また遺族のこと、さらにまた、外国に居住する日本人、すなわち今日の引揚者にたいしまして、また戦災にあった人にたいして、御仁慈のお言葉があり、一同は、また新たに号泣したのであります。
 陛下のお言葉は終わりました。総理は立って陛下に入御を奏請し、陛下は、お足取りも重く室をお出になりました。時に午前二時でありました。
  ~「終戦の真相」 迫水久常 述より~

~引用終了~

昭和天皇は立憲君主制を誰より自覚されていたため、陛下のお言葉による政治的決断は、この終戦の時と、2・26事件の時の2回だけであったそうです。どちらも辛いご英断をされました。

天皇陛下は当時、大日本帝国憲法下では、国家元首であり、「神聖にして侵すべからず」存在でした。ですから、ポツダム宣言に「天皇の地位保全の保障」がなかったことが、日本人にとっては我慢できなかったのでしょう。ですから、このような戦況にも関らず議論が分かれてしまったのでしょう。

しかし、天皇陛下が自ら、わが身を犠牲にしてでも、日本国民と国土を子孫に伝え続けるための御英断をされたわけですね。
天皇にとっては、昔も今も、「国民が大御宝」なのです。そこが、単なる皇帝や将軍などとは違うところなんです。このような天皇であるからこそ、日本国民は天皇陛下、天皇家を尊ぶわけです。

ちなみに、天皇陛下のお仕事は、学校の教科書で勉強するように、国会や内閣での任命、認証など、栄典に関して、外交文章の認証、外国大使・行使の接受、等々様々であり、書類の署名・押印などの仕事は年間1000件を超えるということです。その他に、国民や国土、または世界の幸せを願う皇室祭祀は年間30回にのぼります。

上記のような経緯があり、終戦に至ったわけです。そして、天皇陛下の切なる願いが届き、残った日本人の皆さまが一所懸命、この国をよくすべくご尽力頂き、現在は、世界第2位の経済大国となり、飢餓で苦しむこともなく、豊かな生活を営むことができています。

やっぱり長くなりますね~

ではでは、パート3では、天皇陛下とマッカーサー元帥のことを少し話し、現在の状況を踏まえて「これから…」を書きたいと思います。

  二葉鍼灸療院 田中良和

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2012年 終戦記念日にいろいろ考えてみた 1

2012年08月17日 | 社会

今年、2012年は、1945年8月15日の終戦から67回目の夏でした。少し遅れましたが、そんな終戦記念日に、いろいろ自分なりに考えてみたことを書いておきたいと思います

 終戦とは、第二次世界大戦(大東亜戦争)の終結です。この戦争により、世界で約6000万人の方々が、アジアでも2000万人の方々が尊い命を落とされました。この戦争における悲惨なことは、一般の方々の犠牲が多かったということです。

先の戦争により命を落とされた、日本の、そして世界のすべての方々のご冥福をお祈りしたいと思います。

大きな戦争における反省により日本は、直接的には戦争を起こすことなく現在に至っています。しかし、世界では中東、アフリカをはじめ多くの地域で今も紛争や戦争状態に陥っており、おおくの一般市民の方々が犠牲になり、不自由な生活を強いられています。
シリアでの内戦は連日、報道されていますが、どこに真があるのか一般の報道だけでは分かりません。気をつけなければならないのは、大手マスメディアから流れる情報を鵜呑みにしてはいけないということです(と、私は思っています)。少し前にアメリカ軍が引き上げたイラクでは、石油の権益はメジャーが握り、復興という名のもとにインフラ等を整備した会社は、ほとんどがアメリカの有力者の系列の企業が行いました。一般の市民はどうかというと、戦争により、職も、家も無くした方々が、難民となりイラクの国境沿いに100万人規模で暮らしているそうです。良いか悪いかは分かりませんが、フセイン政権ではこのようなことは無かったそうです。ですが、これが戦後の現状の一面です。

ちょっと、話は逸れましたが…

この時期になると、靖国神社参拝問題や領土問題で世の中が賑わうようになります。
ここの所も、竹島や尖閣諸島の問題で、韓国や中国政府とのやりとりが報道されています。先日は、4年に一度のスポーツの祭典であるロンドンオリンピックが幕を閉じました。日本は過去最多の38個のメダルをとり、種目により明暗がはっきりと現れたな~なんて思いました。
日本サッカーでは、女子の「なでしこジャパン」が銀メダル、男子は3位決定戦で惜しくもメダルを逃しました。惜しかったですが、よく頑張ったと思います。日本のサッカーのレベルもどんどん上がっているなと感じました。

しかし、この試合で問題が…試合後、韓国人選手が「竹島(独島)は韓国の領土である」というようなプラカードを掲げて会場を走り回りました。
国同士、いろんな問題はあるにせよ、これはオリンピック精神(オリンピズム)に反する行動です。オリンピック憲章には、宗教、人種、政治をオリンピックの場に持ち込んではいけないことがうたってあります。この問題はイデオロギー云々以前の問題です。ルール違反です。陸上の為末 大さんがツイッターで書いているように、IOCがオリンピック憲章に基づき、粛々と処分、対応することが必要だと思います。安易に、これにより国同士のイデオロギーの主張に進まないほうがいいでしょう。ルールを守れないならオリンピックに出場しなけりゃいいのです。

また、話が脱線しましたが…

8月15日の終戦記念日は、日本がポツダム宣言を受諾した日です。ポツダム宣言は、アメリカ・トルーマン、イギリス・チャーチル、ソ連・スターリンがドイツ、ベルリン郊外のポツダムに集まり、日本に降伏するように、アメリカ、イギリス、中華民国の名で出された共同声明のことです。7月26日にポツダム宣言が発表されました。この宣言に関して、日本では、戦争続行か降伏かについて、激論が交わされ、なかなか答えが出ませんでした。

日本は、この段階に来て、戦争を続行することは不可能でした。が、どうしてすぐに降伏しなかったのでしょうか

◆7月26日、ポツダム宣言が発表された当時、ソビエト連邦とは「日ソ中立条約」を結んでいたため日本へ参戦していませんでした。そこで日本はソ連に和平の斡旋をお願いしていました。その間、宣言を黙認していたのですが、世界からは無視していると捉えられたようです。

そして、8月6日、アメリカは、広島へウラン濃縮型原子爆弾、続けて、8月9日に長崎へプルトニウム型原子爆弾を落としました。22万人もの命が失われ、後遺症に苦しむ人が現在もおられます。

この8月9日、何を血迷ったか、これが戦争時の空気なのか?、自分たちだけ、この戦争で得るものがないと思ったのか、ソ連は中立条約を破り、満州と樺太、千島列島へ攻撃を開始しました。8月15日にポツダム宣言を受諾してからも、瀕死状態の、無抵抗の日本、日本人を攻撃しました。その結果、満州では多くの人が捕虜となり、シベリアへ連行され、過酷な環境のもと強制労働を強いられました。約60万人の方々がシベリア抑留され、昭和30年代には全員帰還することができましたが、約5万5千人の命が失われました。

また、満州への攻撃は過酷を極め、略奪、暴行など凄かったということです。日本へ逃げようと必死の中、どうしても小さい子どもを連れていると、皆、つかまって死んでしまうということで、現地の中国の方に泣く泣く子どもを預けて、逃げまどいました。それが中国黒竜江省に多くの残留孤児をつくることになりました。しかし、中国の方には、子どもを預かり、育てて頂いて感謝です。生きているだけでも幸せなのですから。

ソ連の攻撃は、先ほど書きましたように8月15日を過ぎても続行。9月5日、千島列島、現在の北方領土まで制圧して終了しました。ですから北方領土は、無抵抗の日本に対して土地を略奪したという経緯があるのです。それが戦争なのか ソ連(現 ロシア)では、9月2日が日本に対する先勝記念日です。9月2日に戦艦ミズーリの甲板にて日本が降伏を受け入れる調印式が行われ、完全に戦争が停止したわけです。が、ソ連は9月5日まで日本の領土を略奪し続けました。まんまと自分の国で法律を制定して、北方領土はソ連のものだとしてしまいました。

9月2日に行われた、戦艦ミズーリでの日本の降伏に関する調印式ですが、共同声明をともに出している、中華民国の蒋介石は出席すらせず、イギリスのチャーチルは選挙に敗戦し、母国へ帰り、出席していたのは、トルーマンだけだったそうです。
また、蒋介石は日本との戦争後、中国共産党との闘いに負け、その身を大陸から追われ、台湾に身を移します。戦後、日本の植民地から解放された台湾で、着実に力を伸ばし、中華民国を建国。その間、台湾の多くの方々が犠牲になりました。その数たるや日本との紛争時を遥かに超える数だということです。台湾の現地の人々は「アメリカは日本に原爆を落としたが、台湾には蒋介石を落としていった」と言われるくらいです。

こりゃまた、話が逸れてきた…

その後、様々な戦後処理が行われ、1951年、サンフランシスコ講和条約が発表され、翌年1952年4月28日に調印式が行われ、ここで戦争の一応の終結となりました。

いろんな細かい経緯があるのですが、ポツダム宣言を受諾する決断は、天皇陛下、自らがご決断をされたそうです。

だいぶ長くなりましたので、パート2では、ポツダム宣言をなかなか受諾できなかった、もうひとつの理由と、天皇陛下について書きたいと思います。

 
  二葉鍼灸療院 田中良和

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第94回全国高校野球選手権石川大会 ~決 勝~ 星稜vs遊学館

2012年08月06日 | 高校野球

7月28日(土)、星稜は2007年、甲子園へ出場して以来、久しぶりで決勝に進出しました。

只今、ブログを書いているのが、甲子園の組み合わせ抽選の結果が出た翌日です。石川県代表の遊学館の初戦は、青森県代表の光星学院です。強豪校ですね。石川県の代表としていい試合を繰り広げて欲しいと思います。
やっぱり遅くなったのは、ブログを書く気力がなかったのと、書く時間が…

 第94回全国高校野球選手権 石川大会  ~決 勝~  石川県立野球場  天気:  
                                                   気温;35℃

  星 稜  遊学館  (試合開始  午後1時) 

   遊 学  000 101 130  6
   星 稜  000 000 000  0

この日は、午前中の診療を早めに切り上げ、患者さまにはご迷惑をおかけしました。やはり朝からいつもと違う感じがしました。湧き上がる熱といいますか、何やら落ち着きがありませんでしたね。まだまだ未熟者です 
そんな時に限って、忙しいものなんですね。早朝から診療室を飛び回っていました

一路、石川県立野球場へ 

試合前の選手の様子を観ましたが、特に気負ってもいない様子でした。試合後、聞いた話ではシートノックから少し動きが硬かったということでしたが…

いつものようにバックネット裏にて観戦。山下副部長、荒山コーチとともに、灼熱の太陽の下、選手の戦いを見守りました。

久しぶりに星稜コンバットマーチを聴き、全校応援での声援を聴き、 感動 しました。そして、やっぱり決勝戦に進むこと、甲子園に出場することは特別な意味があるな~と思いました。

試合は、序盤、コントロールに苦しむ森山君でしたが気力と、伸びのあるストレート、定まらないコントロール、変化球を駆使して最少失点に抑えてきました。途中、室木君、川口君と繋ぎ、8回途中からは再びライトを守っていた森山君が投げるという継投でした。

相手には10安打されましたが、そんなに打たれたという感じがありません。というのもバントやセーフティーバントを効果的に絡められ、得点されたからでした。しかし、8回、相手の中心選手である小林君に2点タイムリーを打たれたところで、ゲームの流れは完全に戻らいものになってしまいました。相手の攻撃にはほぼミスがありませんでした。

森山君は、北信越大会後から、あまり投球できない中、よく投げたと思います。この試合では、復調の兆しがみられる投球をしていたので、もう少し長く、彼に高校野球をさせてあげたかったですね。 わたしも大いに責任を感じます。

打撃陣は、まったく精彩に欠けました。あの程度のボールであれば、いつもならファールにできるところを、すべて打ちにいき当たり損ねの打球がほぼフェアグランドに飛んでいきました。また、打者が投球をよけたところバットに当たり、フェアグランドに転がったり、エンドランをかけたら、ライト前ヒットのボールを走者の足に当たってしまったりと、何か流れ自体が少しずつ離れていくような、現象がチラチラと起こりました。
厳しい試合においても、何度かはチャンスが訪れるものです。この試合でも何度かありました。エンドラン失敗、バントの失敗、ミスが重なるとそれは得点につながらず、勢いを引き寄せることができません。そんなチグハグな攻撃でした。相手はミスなく効率的に点を重ねていきました。

試合結果ほどに両校の力の差は感じませんでしたが、総合的な実力の面において差が出てしまいました。悔しいけど、それが現実に表れた試合でしたね。

しかし、3年生の選手たちが築いてきた野球は、新しい星稜の歴史のトンネルをあと少しで貫通というところまで進めてくれたのだと思います。私はそんな気がします。3年生の選手が残してくれた意志を新チームは受け継いで、さらに発展してくれると思っています。

決勝戦の雰囲気というものは、何か大会の締めくくり、ここまで凌ぎを削ってきた試合の最終戦ということで、やはり特別の空気が漂います。特に夏の大会は、照りつける太陽と晴れ渡る空がそれを演出しているのか、さらに特別な空気があります。来年の春そして夏、チーム星稜は、きっとその雰囲気を楽しみ、そして、そのハードルを乗り越えていってくれるでしょう

3年生のチーム星稜の皆さんお疲れさんでした そして、ありがとう

選手のみんなが、次に用意された、人それぞれの、様々な場面で、活躍してくれることを楽しみにしてます 

本当に、ありがとう 


   二葉鍼灸療院 田中良和 

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