明日、5月10日より(公社)全日本鍼灸学会学術大会 愛知大会に参加し休診させていただきます。
(内容はここをクリック 第68回(公社)全日本鍼灸学会学術大会 愛知大会へ参加します!)
私の師匠である東洋医学研究所®所長の黒野保三先生は、「私たちは鍼灸医師である」と常々お話になります。
先生の50年に及ぶ鍼灸の研究とその臨床実績が語っている言葉であるので思いですが、大事な認識・目標だと思います。その大きな何ものかの力に私は先生を師事させていただき、今後も大きな目標でもあります。
(東洋医学研究所®のHPにご興味のある方はど~ぞ~ 東洋医学研究所® )
私も医師の皆さまとの交流がありますが、看護師さんもそうですが、勉強量たるや残念ながら鍼灸師の比でないほどに勉強されていますし、臨床現場では命に関わる状況判断をしなければならない場合も多いです。
患者さんやそのご家族に対して担当になれば重い責任がありますので、その仕事を全うするにはより多くの知識と臨床経験が必要です。
鍼灸師が勉強していないということではなく、志高く、勤勉に、情熱を持って活動されている同業者の皆さまはたくさん知っております。
私は、この仕事の答えと言いますか、目的は”私を頼って来院され、目の前で苦痛を訴えている患者さんをどう、より良い状況に導くか”ということだと思っています。
目の前の患者さんの状態を把握し、鍼灸を行い、または専門病院に紹介し、患者がより良い心身の状況や社会環境で生活できるように導くことが、敢えて師匠の言葉を使わせていただきますが鍼灸医師の大きな基本なのだと感じています。
当院では、やはり腰痛、膝痛、肩痛、首痛など慢性、急性の疼痛疾患の患者さんが多いです。
その病態や発症状況なども個人個人で違いますし、個人一人を見ても毎回状態は違っています。
そして、その痛みには歴史があり、もしかしたら重大な命に関わる身体的病変に対しメッセージを送っているのかもしれません。
疼痛疾患だけでも奥が深いといつも感じます。
だから知識を深め、技術を磨くことが必須なのです
また、不妊症や婦人科系の患者さんも多く来院されます。
私は男性ですので実感として女性の心身は分かりませんし、生殖医療大国日本だけではありませんが世界の生殖医療は日進月歩で発展しています。
だから最新の知識を得て、鍼灸技術に応用し患者さんに還元する必要があるのです
その他、最近では、腸間膜脂肪織炎、幼児の顔面神経麻痺、うつ病、慢性前立腺炎、レイノー病、アトピー性皮膚炎などなど難病に指定されているのもから、社会生活が著しく制限される病気での来院も多くあります。
これら希な病気や症状でご来院する患者さんに関しては医療機関との連携が必要となってきますが、鍼灸治療が適応であった場合、その日々の症状や訴えから、やはり??のような、知らない医学的知識や疑問点が多く出てきます。
それらに全て応えることができればいいのですが、現時点で私には難しいので、様々な文献や書籍を調べながら対応させていただいております。
患者さんの日々の訴えから学びを得て、自分の仕事を成長させてもらっています。
だから自分が無知であることを知って知識を獲得し、その知識を技術に落とし込んでいかなければいけないのです
これは私がライフワークで行っている野球部のトレーナー活動にも言えます。
そして、患者さんを幸せに導くためには、これら自分を行動させる、湧き立たせる心が大事なのだと思います。
湧き立たせ、行動する心は、世の中のため、人のためになりたいという欲求と、ワクワクする好奇心が必要だと思っています。
江戸時代後期の国学者である佐藤一斎さんが書かれた『言志四録』という書物があります。
私が敬愛する西郷隆盛さんも、この書を座右の銘とし、その中から一〇一条を選び『南州手抄言志録』として残しています。
『言志四録』の中の言志後録 第四条にこう書かれています(口語訳)
孔子の学問は、まずみずからの修養に努め、人に接しては敬(慎み敬う)を養い、これを広め万民を安らかにすることが目的であり、どれもが実際のことに即した実学である。
「書物を学ぶこと、学んだことを実行すること、真心を尽くすこと、正直であること」の四つの事柄を説いている。
そして、「つねに言っていることは、詩経、書経の精神であり、礼記のとおり礼を守ること」であって、必ずしも詩を誦(しょう)し、書を講ずることだけを専門としたわけではない。
だから、当時の学問した者は、才能の点では優秀な者とそうでない者の差はあったが、それぞれがその器を大成することができたのである。
このように人は誰もが道を学ぶことができるのであって、人によって優秀とか、優秀でないとかの差があるわけではなかった。
ところが後世になって、この孔子の学問は堕落して、芸の一つになってしまった。
一度目を通すとすぐ暗誦するなどというのは芸である。
このように学問が芸に堕落してしまったので、優秀とか優秀でないの差ができてしまったのである。
ここにおいて学問は実践・実行から離れてしまった。
そのためか、世間の人は「誰々は学問は十分にあるが、行動が伴わないとか、誰々は行いは十分であるが、学問は足らない」とか言うようになった。
だが、孔子の学問を修めた者で、学問が十分にあって行動が欠けている者などあろうか。あろうはずがない。
世間の人の言葉は誤っているというべきである。
『「現代語抄訳」言志四録』 岬龍一郎;編訳』
私たちの仕事にも通じることだと私は思っています。
書物を学ぶこと 知識を得ること
それを実行すること 知識を技術に落とし込んで磨きをかけること
真心を尽くすこと 患者さんの痛みを自分の痛みと捉え、自分の持っている全ての知識と技術を尽くすこと
正直であること 自分の至らない点を反省し、素直に患者さんから学び、知識、技術の見直しを図ること
孔子の実学、それは知識・技術と心は一つ。臨床と経営も二つで一つ。そのどちらち大きく傾いてもバランスを崩すのだと思います。
まさしく世の中、陰陽のバランスで成り立っているということでしょう。
そんなことを思いながら、明日から学術大会で多くのものを吸収し、患者さんに還元したいと思います。
そう言えば実行委員で、一つの会場に缶詰状態でした~ またそれもいい意味で学びとなります。
最後までお読みいただき、ありがとうございます