相模太夫の旅録=Tabi Log

☆ 旅は一枚の写真から始まる!!
☆ 旅先での四季彩々一期一会の被写体を瞬撮!!

桜~サクラ~さくら追撮の旅が終わる!!

2023-04-12 10:23:58 | 桜・桜まつり
「桜」はバラ科サクラ属に分類される落葉広葉樹で、原種は11種確認されている。エドヒガン、オオシマザクラ、ヤマザクラ、カンヒザクラ、マメザクラ、チョウジザクラ、オオヤマザクラ、カスミザクラ、タカネザクラ、ミヤマザクラ、クマノザクラなどが認められており、これらの変性や交雑などから「ソメイヨシノ」「カワズザクラ」、ジュウガツザクラ、フユザクラ、カンザクラ、オカメザクラ、枝垂れ桜など数十種類の自生種が存在する。桜に何故こうも心惹かれてしまうのだろう? 桜は日本の国花だから親しみがわくというだけではなく、花そのものが美しく品がある。桜はまず長い冬を越えたあと春の訪れを知らせてくれ絶妙のタイミングで咲いてくれる。この時期は人間の人生の節目、転換期に関わっている。3月は卒業式、退職など別れがあり、4月は入学式、入社式と出会いがある。桜はこれから楽しいことに花を添え希望を象徴しているような花である。そしてなによりもその気品か漂う花姿を披露したかと思うとあっという間に潔く散ってしまう姿、儚さが日本人の美学気質に合っている。良寛和尚の辞世の句「散る桜 残る桜も 散る桜」と詠んでいる。「今どんなに美しく綺麗に咲いている桜もいつかは散る」。限られた命、時間と心得よと。また小野小町は「花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」と呼んでいる。桜の魅力、美しさに憑りつかれた様に2月初旬から相模太夫の今春の「桜追撮の旅」がスタート。「河津桜」では「松田山」、「ギオンスタジアム」、新戸の「河津桜あじさいライン」、「相模原公園」、「橋本公園」、宗仲寺。河津桜に続いて見逃せないのが「枝垂れ桜」で相模原公園「せせらぎ園」、「原町田交差点」、「浄運寺」と「青柳寺」へ足を運んだ。そして3月も半ば東京では桜の女王「ソメイヨシノ」が開花確認され慌しくなった。町田の「恩田川」、相模原では「相模原公園」、せせらぎ園、「麻溝公園」、「古山公園」、「相模原市役所さくら通り」、「松が枝公園」、「東林間桜通り」、相模原沈殿池、上溝桜並木へ。座間では谷戸山公園、「かにが沢公園」、芹沢公園、「さくら百華の道」、緑ヶ丘跨線橋の「座間桜」、さがみ野、大和では泉の森、千葉では昭和の森、千葉公園、創造の杜。都内では「上野恩賜公園」、「千鳥ヶ淵」、「靖国神社」、「目黒川」を巡撮した。桜のトリを務めるのが先週から咲き始めた濃ピンク色の花ビラが美しい「八重桜」である。八重桜の名所、相模原下溝の「下原の八重桜通り」に赴いた。締めにふさわしいゴージャスな桜であった。約40ヶ所、2ヶ月に及ぶ数百km?の移動距離となった「桜追撮の旅」がフィナーレを迎えた。(2304)
河津桜

枝垂れ桜

ソメイヨシノ

八重桜




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万福寺地域の氏神として建立の「十二神社」

2023-04-12 08:44:39 | 神社
麻生区万福寺3-2-3=新百合ヶ丘北口、世田谷通りへ出た所の高台に明治期には「旧万福寺」の鎮守・氏神としてこの地の人々に厚く信仰されていた「十二神社」は鎮座している。正徳元年(1711)建立、その後嘉永4年(1851)に再建された。祭神は宇気母智大神。日本神話の神様で五穀の起源神、食物神である。保食神とも表記され「稲荷神」である倉稲魂命と同一視もされている神様である。十二神とは12柱の神で天神7氏、地神5氏である。しかし同地も都市開発にて地形が大きく変わり、山を均し元の位置に平成18年(2006年)に新たに神殿を建てた。境内には当地を知る数々の石碑も建てられ、古きこの地が偲ばれる。風土記稿の「医王寺」(真言宗で金栄山と号し薬師如来を本尊とする)は現在は廃寺であるが十二所社参道の東側の下にあり、土地開発以前には跡地に万福寺会館が建てられ、その会館の中に医王寺の遺物が安置されていた。鳥居より石段の参道を進むと正面に「社殿」がある。(2304)
 
 
 
 
 



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無量寿の塔が高々と聳える「三寶山勝楽寺」

2023-04-12 07:35:05 | 寺院
町田市原町田に八王子の極楽寺末寺の浄土宗寺院「三寶山勝楽寺」(紹隆院)は鎮座している。天正元年(1573)源蓮社光誉上人開山。創建は天正元年(1573)。本尊は阿弥陀如来(阿弥陀仏)。寺伝では江戸時代には「二六の市」が門前で開かれ交通、物流の増加と共に寺を中心に地域が発展した。明治初期に廃仏毀釈のため当時の原町田村の人々の手により相模の国「大山」より良弁不動ともいわれる「不動明王」が移された。古文書では当寺の門前大通り左角に小綺麗な茶屋(宿屋)があり、幕末の横浜開港(1759)以後、来村した外国人宿泊の記述がある。1865年、後年「トロイの遺跡」の発見者の「シュリーマン」も来訪、原町田で宿泊し見聞記録を残しており当寺へも立ち寄ったと推察される。「山門」を抜けると境内の奥に木造入母屋造の「本堂」、大山より不動明王を祀る「不動堂」、高々と聳える「無量寿の塔」、本堂地下には「誕生殿」、「蓮華殿」、「舎利堂」、「梵鐘」、「庫裡」、青銅の燈籠がある。当寺は原町田七福神の一つ「寿老人」を祀っている。(2303)
 
 
 
 
 
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