奈良市秋篠町の森の中に勅願寺(光人天皇)の一つ奈良時代最後の官寺「秋篠寺」がある。奈良時代末期の創建で本尊は薬師如来である。「東門」から自然に包まれた境内に入ると木立の下は緑の絨毯を敷き詰めたように苔むしている。鎌倉時代に再興された「本堂」(国宝)、和洋仏堂は代表作の一つとされさほど装飾もなく簡素だが古都の名刹寺院としての風格と安定感のある優美な姿で気品に満ち溢れている。屋根は寄棟造り、本瓦葺。本堂に25体安置されている仏像の中で特に著名なのが諸技諸芸の守護神として多くの人に慕われている「技芸天立像」が一番左側に見守るかのように優美な写実性、天のような微笑、優しい眼差しで立っておられ、その造形は参拝者の心を惹きつける。境内には「大元堂」、「開山堂」、「霊堂」などの伽藍で形成されている。また秋篠宮殿下(礼宮様)の宮号はご結婚式後、陛下から歴史ある皇室ゆかりのここ秋篠の地名を賜ったことに因んでいるようである。(1202)。
相模原麻溝公園「花の谷」に10本ほどある「ロウバイ」(素心蝋梅)が今年も淡い琥珀色・黄色い花びらを広げ咲いている。1月から2月の真冬に咲き、英名をWintersweet(ウィンター・スウィート)といい周りはフルーティな香りが充満している。すでに7から8分咲きぐらいだろうか?花弁はよく見ると本当に蝋細工のような梅の花に見える。名に梅がついているがロウバイ科の落葉低木で中国(唐)原産で、日本へは17世紀頃渡来したようだ。花の中心部は暗紫色でその周囲が黄色という、なんとも清楚で美しくかつ不思議な花である。「先導」、「先見」、「慈愛」、「優しい心」という花言葉のように花の少ないこの季節(蝋月=12月)に先がけて咲く冬の花として貴重な存在である。(1412)
相模原新戸に曹洞宗の「萬年山長松禅寺」はある。鎌倉公方足利氏満が開基となり曇芳師(応永6年=1339)を迎え臨済宗建長寺宝珠庵の末寺として開山(創建)。幾たびかの再建・中興が行われ、津久井の功雲寺の末寺として再興される。本尊は薬師如来である。当寺には現存する市内最古の文書といわれている足利氏満による応永3年の「寄進状」(田畑240歩=約792平方メートルを寄進)が残されている。この状は郷土の歴史を知る上で極めて貴重なもので市指定有形文化財(古文書・非公開)となっている。功雲寺臨済宗建長寺派から曹洞宗に改宗し、慶安2年(1649)には幕府より寺領10石の朱印地を拝領している。ここでも江戸時代には寺子屋が開かれていたようでその名残がある。「山門」前には「六地蔵」、正面に「本堂」があり緑の豊かな寺域には「鐘楼」、多くの「石像」、そして鉢植えハスの花が季節のアクセントとなっている。(1312)
厚木市依知と金田には日蓮にまつわる星下がり伝説がある「星梅山妙傳寺」、「宝塔山蓮生寺」、「明星山妙純寺」の三つのお寺がある。そのうち鎌倉時代依知郷を領していた本間六郎左衛門重蓮の屋敷跡に建てられた建物が最大の「星梅山妙傳寺」(星降院)である。日蓮聖人が鎌倉片瀬龍ノ口法難後、佐渡へ流罪される途中こ当寺に滞在したといわれている。長い参道を進むと両脇間に「毘沙門天」と「持国天」を安置している「山門=二天門」(日応上人が延享3年1746年建立)が建てられている。「二天門」を潜ると緑の木々と静寂に包まれた境内の正面に重厚感ある「星降殿」(本堂)と右側に17世紀後半建立され「釈迦如来立像」が安置されている入母屋作りの「釈迦堂=独尊堂」がある。ここにも未知なる歴史と美しさが存在していた。(1301)
渋谷区渋谷(金王八幡宮の南)に文化の頃までは「堀の外稲荷」と称されていた「豊栄稲荷神社」(昔田中稲荷とも川端稲荷とも呼ばれていた)はある。創建は昭和36年(1961)、ご祭神は宇迦之御魂命、田中稻荷大神、豐澤稻荷大神である。当社は昭和36年(1961)渋谷駅近くに渋谷高重氏によって創建された「田中稲荷神社」と区内道玄坂に祀られていた「豊澤稲荷神社」が合祀されて現在の地に建立された。社殿の扁額には両社の社号が刻まれている。家内安全、商売繁盛、開運厄除、子授安産など日々の生活の守り神として崇敬されいる。石段を上ると石の鳥居がありその前方に稲荷社特有の朱の鳥居が美しく並んでいる。境内奥に朱色鮮やかな社殿(妻入りの拝殿、流造の本殿)が建ち並ぶ。境内右手には「庚申塔群」が建っている。(1112)