相模太夫の旅録=Tabi Log

☆ 旅は一枚の写真から始まる!!
☆ 旅先での四季彩々一期一会の被写体を瞬撮!!

かつて大名が宿泊した「小原宿本陣」を訪ねて!!

2018-11-12 09:25:22 | 史跡・遺跡
相模原市緑区小原、昭和感が漂う相模湖に程近い甲州街道沿いにある里山に囲まれた宿場町、江戸時代に参勤交代の折に大名行列をしながら江戸と領国を往復する際に大名が泊まった江戸から9番目の宿「小原宿本陣」はある。「小原宿本陣」は神奈川県下に東海道と甲州道中で合わせて26軒あったが現在残っているのはここ「清水家の建物」1軒のみで大変貴重な建造物として平成8年に県重要文化財に指定された。この本陣を利用したのは信州の高島藩、高遠藩、飯田藩の大名と甲府勤番の役人で、家来たちは脇本陣や旅籠に分かれて宿泊した。清水家は江戸時代は本陣・庄屋、そして問屋を兼務していた。本陣の役割を果たす傍ら養蚕農家としても使われていて、農家の生活も窺い知れる。建物の概要は定紋のついた敷居の高い玄関がある純日本風の豪壮な建物である。建造物の建造年代は不詳ながら19世紀初期(江戸時代後期)と推定され約200年経過していると思われる。構造は4層の兜造りの入母屋風建物で規模は間口13間、奥行7間、91坪。部屋数は15畳が2間、12.5畳が1間、8畳が3間、6畳が3間、4畳が3間、2畳が1間の間取りとなっている。大名が泊まった15畳の部屋がそのまま残り、他に台所、堀こたつ部屋、昔のかご、什器、衣類、箪笥、機織り、二階は物置のようで農作業用の機具、養蚕に用いたような棚が保存されている。本陣の前に「小原宿高札場」と墨書きされた看板が復元されている。街道沿いには昔ながらの小原宿古民家6軒残っている。往時の面影が残る町並みはまるで江戸時代にタイムスリップしたかのようである。(1811)

















コメント

縄文時代を学び体験する「第15回 勝坂縄文まつり」が始まる!!

2018-11-03 15:45:13 | 史跡・遺跡
本日(11/3)10時より快晴の秋空の下、相模原市南区磯部に縄文時代中期大集落跡がある国指定史跡「勝坂遺跡公園」において、縄文時代の歴史に触れ体験するという「第15回 勝坂縄文まつり」が開催された。相模原市のゆるきゃら「さがみん」も来てくれ開会式が始まった。開会式では来賓の挨拶の後、いよいよ「火入れ式」である。3組の人が昔ながらの木をもむようにして火起こしを行い「松明」に移し来賓のリレー式で「火入れ式」が行われ、いよいよ本日の「縄文まつり」がスタートした。お祭りはバラエティに富んだプログラムで「土器野焼き」、「弓矢狩猟」、「差笹」、「縄文服試着」、「石器づくり」、「火おこし」など古代体験、「発掘調査」、「勝坂遺跡クイズラリー」、「谷戸の暮らし」や河川生物に触れる自然体験、縄文クリの試食、縄文汁が振舞われた。受付周辺にはテントが張られ飲食品の販売が行われていた。祝日とあってまた古代コンテンツ(縄文)を体験・楽しむことができるとあって子供連れのファミリーで大賑わいであった。すぐそばのざる菊園では「ざる菊花見会」が行われここ勝坂(磯部)の秋は熱く盛り上がっている。(1811)














コメント

相模原に縄文時代中期の大集落跡「勝坂遺跡」古代ロマン!!

2018-10-10 17:52:53 | 史跡・遺跡
相模原市南区磯部に大正15年(1926)に約5000年前の縄文時代中期の大集落跡が発見され関東地方の標式遺跡、国指定史跡となっている「勝坂遺跡公園」はある。考古学者大山柏氏の発掘で発見された縄文土器は立体的な装飾の文様や顔面把手などの特徴が希少であり後に「勝坂式土器」と命名された。縄文時代中期の目安としてその貴重性が認められた。同時に発見された多くの打製石斧も土を掘る道具と考えられ縄文時代において農耕の可能性を示すものとして注目を浴びた。昭和48年(1973)の発掘で発見された集落の一部2ha「勝坂遺跡D区」が昭和49年に国の史跡として指定、昭和55年と59年にも追加指定を受けた。D区の東方、谷を隔てた台地に位置する勝坂遺跡A区では平成17(2005)年の発掘調査で発見された集落の一部、磯部字中峰2097番1ほか3,797㎡が平成18年に新たに追加指定となった。勝坂遺跡周辺は起伏に富んだ自然の地形に緑豊かな斜面樹林や湧泉など、縄文人が長く暮らし続けた豊かな自然環境が今なお残っている。平成21年には「大自然の中の縄文時代を体感」をコンセプトに「遺跡公園」が完成。園内には縄文集落が再現され土葺きと笹葺きの「竪穴住居2棟」と周辺には竪穴住居廃絶後の窪地なども復元された。遺跡の西側の「有鹿谷」には「有鹿神社の奥宮」があり、この谷で祭祀遺跡が発見された。今この公園がかつての縄文人が濃厚をし生活をし、暮らしていたのかと思うと感慨深いものがある。(1810)












コメント

博多の街の遺跡~カラフルな土塀「博多塀」

2018-09-26 20:39:22 | 史跡・遺跡
福岡博多の街の日本庭園周りや神社や寺院の境内で土色した何やら模様のある「土塀」を見かける。「博多塀」ということが分かった。東京では谷根千ほかに「築地塀」が残っているが、それとは違いこの土塀は戦国時代、相次いだ戦乱で廃墟となった博多の町を豊臣秀吉が復興するとき、戦火兵火で焼け残った石や瓦等が塗りこめた「土塀」を造った。神社や仏閣や豪商の屋敷に数多く築かれ博多塀でといわれた。当時は長く続いたこの土塀を「博多八丁塀」と言っていた。歴史的な遺跡でそこには秀吉の平和への願いが込められている。この土塀は廃材活用の造り方をしていた究極のリサイクル土塀と言えるかもしれない。この「博多塀」がもっともよく残っているところは江戸時代の代表的な庭園様式を有し茶室を擁している「楽水園」である。当時の歴史を辿って復元されたものである。その他「櫛田神社」に博多商人・島井宗室の屋敷跡のものや御供所町の「聖福寺」や「妙楽寺」に復元された「博多塀」を見ることができる。この土塀は秀吉の太閤町割りによるまちの再興、都市計画であったかと思うと感慨深いものがある。(1809)














コメント

弥生時代後期から古墳時代前期の住居跡「野方遺跡」

2018-09-22 12:06:00 | 史跡・遺跡
福岡市西区野方に弥生時代後期から古墳時代前期(約1800-1700年前)の人々が生活を営んでいた居住跡「野方遺跡」はある。この遺跡は早良平野に面した広石峠の出入り口に位置し標高17~20mの扇状地にあり、南北600m~東西200mの南北に細長い台地にあり昭和48年に住宅地造成工事中に高校生が発見した。発掘調査の結果、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての遺構が確認されその内、遺構の集中している中央部を「国指定」となった。(昭和50年6月)弥生時代の遺構は大小二つの環濠があり、大きい環濠内には住居を建て、小さい環濠内には高床式倉庫を建て食料を保存していたものと思われる。環濠の外側には墳墓がある。住居跡は100軒以上発見されており規模としてはかなり大きな集落であり、環濠からは土器、石器、鉄器に混じってサメ、タイ、スズキなどの魚類や貝類、鳥類、動物の骨が出土している。またこの近辺には早良王国として知られる「吉武高木・大石遺跡」や「丸隈山古墳」、「今宿大塚古墳」など多くの遺跡がある。古の生活ぶりが今にも伝わってきそうである。(1809)









コメント