goo blog サービス終了のお知らせ 

相模太夫の旅録=Tabi Log

☆ 旅は一枚の写真から始まる!!

☆ 旅先での四季彩々一期一会の被写体を瞬撮!!

平塚発祥の地「平塚の塚緑地」

2025-07-17 07:23:17 | 史跡・遺跡
平塚市平塚4丁目、日蓮宗寺院「要法寺」の西隣に平塚発祥の地、当地地名の由来となったとされる史跡「平塚の塚緑地」はある。平安時代の中期、天安元(857)年、桓武天皇の孫・高見王の娘である政子が京都から東国に下る途中にこの地で没し、その柩を埋めて塚を作ったところ、塚の上が平らだったことから「平塚」という地名となったと伝わる。現在は石造りの杭に囲まれた高さ1mほどの塚が築かれ中央が元平塚市長「戸川貞雄」揮毫の「由来碑」(眞砂子と表記)、左側が「平塚碑」(政子と表記)が建てられている。傍らに政子が葬られて以来三代目とされる「松の巨木」が植えられている。平塚の歴史の古さが伝わってくる場所である。(2507)
 
 
 
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古墳時代の「能ヶ谷香山古墳群」

2025-01-30 13:10:48 | 史跡・遺跡
先日リニューアルオープンした「香山園」「瑞香殿」の背後の丘陵部に「能ヶ谷香山古墳群」があり表示板が立てられている。何となく古墳らしい盛り土が垣間見ることができる。この古墳群は、古墳時代の「円墳2基」「横穴墓20基」が確認されている。円墳は丘陵頂部に造られ6世紀末から7世紀前半のものである。横穴墓は丘陵斜面部に造られ7世紀末から8世紀初頭のものと判明している。付近には縄文・弥生時代からの包蔵地も存在する主な出土品には、縄文土器、土師器、須恵器、耳環、勾玉、玉類、直刀、鉄製品、灰釉陶器、板碑、古銭、ガラス製の小玉・水晶製の切子玉・メノウ製の勾玉などが出土している。これらの出土品を見ていると古墳じだの息吹が感じられる。(2501)
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

座間「遺跡公園」の「鷹番塚横穴墓群」

2025-01-01 21:04:06 | 史跡・遺跡
座間市入谷4丁目、東建座間ハイツ内にある「グリーンパーク」の隣に緑豊かな空間があり遊具、スベリ台も設置され子供たちの遊び場となっている「遺跡公園」はある。ここは昭和43年「座間ハイツ」開発時に発見された凡そ1300~1600年前の間に全国的に造られたお墓で「鷹番塚横穴墓群」である。「鷹番塚横穴墓群」という遺跡の上にある「遺跡公園」には1号、2号の2基が存在するが、2基とも埋没しており残念ながら内部を見るのは困難である。ここからは刀子や人骨、土師器などか出土しており「座間市埋蔵文化財包蔵地」に指定された。また造成中発見された3号墳、4号墳、5号墳は調査・記録された後に湮滅したとされる。(2412)
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

多摩市落合にある遺跡庭園「縄文の村」へ!!

2024-12-14 07:29:11 | 史跡・遺跡
東京都多摩市落合一丁目に東京都の「埋蔵文化センター」はある。当センターには多摩ニュータウンを開発時、昭和41年(1966)より40年という歳月をかけ770ヶ所の遺跡を発掘し出土した縄文土器が展示されている。「多摩ニュータウン遺跡群」は稲城、多摩、八王子、町田の4市に跨る、東西14km、南北2~4km、総面積3000haという広大な丘陵内に点在している1000ヶ所の遺跡を云う。また隣接する遺跡庭園「縄文の村」は多摩ニュータウンNo.57遺跡(縄文時代集落=縄文前期の住宅跡2軒、中期の住居跡5軒、落とし穴)が発掘、その保存を目的に整備された。紅葉に彩られた「縄文の村」には3棟の復元住居がある。村全体は当時の姿を再現した「縄文の森」の中に一つは「4500年前の敷石住居」、二つは「6500年前の竪穴住居」、3つは「5000年前の竪穴住居」、そして「湧水」、「竪穴住居の模型」が復元されている。しばし古の「縄文人」の暮らしぶりに思いを馳せるひと時であった。(2412)
 
 
 
 
 
 
 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖武天皇が鎮護国家を祈願して創建の「武蔵国分寺跡」を辿って!!

2024-11-19 07:03:47 | 史跡・遺跡
国分寺市西元町・東元町に古代寺院跡の「武蔵国分寺跡」はある。奈良時代の中頃、聖武天皇は仏の力で国を安定させるために、諸国(60余国)の国分寺に国分寺・国分尼寺の建立を命じた中の一つがこの武蔵国分寺跡(史跡)である。現地案内板によると国分寺、国分尼寺は「天平13年」(741)の聖武天皇の詔により仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院。「国分寺」が金光明四天王護国之寺、「国分尼寺」が法華滅罪之寺。昭和31年以来の発掘調査によって東西720m、南北(中軸線上)550mの寺地と、寺地中央北寄りの僧寺寺域(360~420m四方)及び寺地南西隅の尼寺寺域(推定160m四方)が明らかになり、諸国国分寺中有数の規模であることが判明した。更にこの中で寺地・寺域は数回の変遷があることが確認されている。また、僧寺では諸国国分寺中最大規模の「金堂」をはじめ「講堂」、「七重塔」、「鐘楼」、「東僧坊」、「中門」、「塀」、「北方建物」が、また尼寺では「金堂」、「尼坊」、「中門」などが調査されている。武蔵国の文化興隆の中心施設であった国分寺の終末は不明であるが元弘3年(1333)の分倍河原の合戦で焼失したと推察される。史跡指定地域約10万m2は現在「史跡公園」の整備に向けて土地の公有化が推進されている。「武蔵国分寺跡」は全国の国分寺跡と比べても規模が大きく、その歴史的重要性が認められ大正11年に「国指定史跡」に指定された。なにしろ東大寺の東西南北とも8町に匹敵する大きさであり、かつての武蔵国の面影に触れることができる古代寺院跡地であった。全国に50ヶ所近くの国分寺が現存しているが、その殆どが国の指定を受けている。総国分寺、総国分尼寺は「東大寺」である。(2411)
 
 
 
 
 
ビナウォーク広場に建つ七重塔
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする