劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

演劇は瞬間芸術である!

2010年09月12日 | 演劇
 演劇は瞬間芸術である。2時間足らずで跡形もなく消え去ってしまう。役者が舞台から引っ込み、観客が客席から立ち去れば、そこはガランとした劇場内部に戻ってしまう。世界的演出家ピーター・ブルックは、それを‘ The Empty Space(何もない空間)’と呼んだ。
 演劇は、また一回性の芸術でもあって、その日の舞台は、次の日の公演で再現することはできない。たとえ物語や筋立てが同一であっても、その日の舞台での、役者の言葉と動き・息と間・ノリとアンサンブル、照明のタイミング、そして客席からの観客の反応、それらが同じであることは一度としてないのだ。
 こうした時間芸術としての側面は音楽にも当てはまるが、演劇は同時に空間芸術でもある。舞台空間に展開される俳優の演技、その衣装、それに光を当て演技空間を浮かび上がらせる照明、そして何よりも演劇空間を美術作品として造形する舞台装置。
 しかし、演劇は、建築や絵画という時間を超えた空間芸術とは異なる。紀元前の神殿や100年前の名画は、今もなお私たちの目の前で魂の深部を揺さぶる。だが、演劇は時代を超えて残ることはできない。
 歴史は浅いが、演劇の隣接分野である映画はどうだろう。それは、Motion PictureでありFilmであるので、もともと記録される芸術である。したがって、チャップリンの作品は、消えることなく永久にスクリーンに映し出される。時間芸術の音楽にしても、その演奏は録音され、その深く豊かな音楽の響きをいつまでも私たちに送り届けてくれる。
 演劇は瞬間にして消えるからこそ、潔いのかもしれない。それは「祭り」に似ている。非日常のエネルギーが盛り上がり爆発した後は、何も無かったかのように人々は日常に立ち戻っていく。神社もお寺も祭りが終われば、その熱気は境内のどこにも見当たらない。木立の葉を風が揺らし、石畳の上で雀が遊んでいるだけだ。
 演劇芸術を再現することは不可能だが、映像記録として残すことには意味があろう。脚本は残っても、その上演がどのようなものだったのか。見物からの拍手はどれほどのものだったのか。もし、ギリシャ古典劇やシェイクスピア劇、能狂言や人形浄瑠璃、歌舞伎の映像記録が残っていたら、どんなに興奮することか。
 東京ドラマポケットは無名の演劇ユニットだが、実験性の高い上演の証しとして、DVD映像や舞台写真を残し保存することにしている。

 ※舞台写真は、TDP宣伝写真担当:伊藤達巳氏による。


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