「詞」は歌われるための文学、文字で読まれるのではなく耳で聴かれるための文学であることは、中世の吟遊詩人や琵琶法師がリュートを奏で琵琶を弾きながら吟じた詩や物語を例に述べたが、その本質は近世・近代を通り越し現代まで変わらない。
教育の普及によって庶民の識字率が上がり物語や詩は読み物として「目」に席を譲ったが、辛うじて詞だけは音楽と結婚することで「耳」に届けられ、歌われる文学として中世以来の命脈を保った。
大衆音楽のシャンソン・カンツォーネ・ジャズ・歌謡曲…それぞれを代表する歌手たちは詞の世界を歌い上げ聴く者の胸を打った来た。そこには、人間の悲しみ、苦しみ、諦め、憧れ、歓びが音楽に乗って描かれ、歌い手自身の深い人生体験と詞の主人公とが二重写しとなって感動を呼び起こしたからである。
さて、クラシック音楽ではどうであろう。オペラにせよ歌曲にせよ聴衆の胸に響き心を揺さぶる歌を届けられているのだろうか。声楽では、歌うことは「演奏」として位置づけられている。音楽系の大学にはオペラ専攻や独唱専攻が設置され声楽教育が行われているが、楽曲に対する音楽表現に力点が置かれ、ともするとそれに伴う詞の表現教育がおろそかにされているのではあるまいか。すなわち、詞の文学的理解と人物に対する共感・共振である。それは大学で訓練されることではなく、声楽を志す者自身の素養と体験が土台になることかもしれない。しかし、それが浅い場合、歌われる文学としての詞は聴く者の胸には響かない。その世界は立ち上がらずに、ただ音だけが耳に届き流れていくだけで、音楽的表現の優劣に止まる。

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2009/05/03 16:13:50 カテゴリー:随想

語られる歌と歌われる音楽(1)
2017/08/06 16:26:13 カテゴリー:オペラ
次回は、いわゆるスターとしてではなく、一般の声楽家として歩む意義について述べてみたい。東京ミニオペラカンパニーのプロデュースを経て考えたこと。かつて内幸町ホールで行われた公演で舞台監督を務めた際の体験。近年のクラシック(合唱)BS放送番組についての感想。それらをもとに具体的な企画を考えてみたいと思う。