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劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

「詞」――歌われるための文学~オペラおよび歌曲を中心として⑷

2021年05月05日 | オペラ
 「詞」は歌われるための文学、文字で読まれるのではなく耳で聴かれるための文学であることは、中世の吟遊詩人や琵琶法師がリュートを奏で琵琶を弾きながら吟じた詩や物語を例に述べたが、その本質は近世・近代を通り越し現代まで変わらない。
 教育の普及によって庶民の識字率が上がり物語や詩は読み物として「目」に席を譲ったが、辛うじて詞だけは音楽と結婚することで「耳」に届けられ、歌われる文学として中世以来の命脈を保った。
 大衆音楽のシャンソン・カンツォーネ・ジャズ・歌謡曲…それぞれを代表する歌手たちは詞の世界を歌い上げ聴く者の胸を打った来た。そこには、人間の悲しみ、苦しみ、諦め、憧れ、歓びが音楽に乗って描かれ、歌い手自身の深い人生体験と詞の主人公とが二重写しとなって感動を呼び起こしたからである。
 さて、クラシック音楽ではどうであろう。オペラにせよ歌曲にせよ聴衆の胸に響き心を揺さぶる歌を届けられているのだろうか。声楽では、歌うことは「演奏」として位置づけられている。音楽系の大学にはオペラ専攻や独唱専攻が設置され声楽教育が行われているが、楽曲に対する音楽表現に力点が置かれ、ともするとそれに伴う詞の表現教育がおろそかにされているのではあるまいか。すなわち、詞の文学的理解と人物に対する共感・共振である。それは大学で訓練されることではなく、声楽を志す者自身の素養と体験が土台になることかもしれない。しかし、それが浅い場合、歌われる文学としての詞は聴く者の胸には響かない。その世界は立ち上がらずに、ただ音だけが耳に届き流れていくだけで、音楽的表現の優劣に止まる。
 一流の声楽家になる条件は、読譜、音域の幅と声量の豊かさ、魅力的な声質、正確な演奏技術など音楽面はもちろんのこと、詩や脚本(リブレット)の理解と人物そのものを体現する土台がなくてはならない。以前、不世出の歌姫・マリア・カラスについて記事を書いたので検索して頂ければ有難い。 
 映画『マリア・カラスの真実』を観る 
2009/05/03 16:13:50 カテゴリー:随想
 また、日本の大衆音楽の女王・美空ひばりについて大学で講義したことがあり、その記事にも目を通して下されば幸甚である。
語られる歌と歌われる音楽(1) 
2017/08/06 16:26:13 カテゴリー:オペラ

 次回は、いわゆるスターとしてではなく、一般の声楽家として歩む意義について述べてみたい。東京ミニオペラカンパニーのプロデュースを経て考えたこと。かつて内幸町ホールで行われた公演で舞台監督を務めた際の体験。近年のクラシック(合唱)BS放送番組についての感想。それらをもとに具体的な企画を考えてみたいと思う。
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記録が蘇らせるもの~オペラ年鑑と演劇学論集紀要に思う~

2021年04月15日 | オペラ
 人間は自分の存在を確かなものとして感じたい。しかしそれには他者による承認や支持が必要で、「自分は受け入れられている、この世に生きている」という実感はそこから生まれる。人間が社会的動物といわれる所以だ。
 そのことは芸術作品にも当てはまる。いかに芸術性に富んだ作品でも、誰一人としてそれに目に留めなければ、そして後世に残らないとしたら、それは存在していなかったと同然、虚しく消えてしまう。
 文学は書物としてその世界を留めることができる。建築や絵画を中心とした美術は、破壊や焼失などから免れればその姿を残すことができる。しかし、音楽は演奏されている間だけ生きていて終了すればその実体は跡形も無くなる。演劇にしても同様、幕が下りれば観客の脳裏にしか残らない。
 ただ、音楽はレコード・CDなど記録媒体によってその演奏を伝えることはできるし、映画はもともと「活動写真」なのでフィルムやデジタル媒体によってその姿を完全に再現できる。一方、演劇やオペラという舞台芸術はそうはいかない。上演を撮影したDVDは映像資料に過ぎず、その概要は伝えられても劇場での直接体験には遠く及ばない。それでも、上演記録として広く知ってもらうという点で映像資料にも意義があるとも言える。
 東京ミニオペラカンパニー公演vol.2『雪女の恋(初演)』(東京文化会館小ホール/2019.2.25)が盛大なるアンコールをもって終了した後、指揮者から手紙があった。『新作オペラの初演、良い台本と良い作曲、歌手・合唱・オーケストラ、そしてお客様の感動、すべてが揃うことは本当にまれです。』…このマエストロの思いは上演に関わったメンバーに共通のもので、後援・マネジメントの東京二期会事務局からも次のような報告メールがあった。『入場者数は一般 461 学生22 招待券24 合計 507名 座席数649なので78.36%  18:30 開演 (休憩19:31-19:47) 20:50終演 完成度の高い素晴らしい作品に仕上がり、大好評でブラボーも沢山かかってよかったですね。』…平日月曜日の公演が満席に近い状態だったことは珍しいとのこと。
 無名のオペラユニットにとって一般の集客を当てにすることは難しい。出演者をはじめ上演関係者が周囲の方たちへの広報およびチケット販売にいかに努めたかが分かる。また、当日回収されたアンケートや次々とメールで寄せられた「客席からの声」はこの新作オペラに対する共感と感動にあふれていた。
 …これが一晩で消えてしまう。日本語による新作オペラの再演は容易ではない。個人プロデュースとしては経費面から1回公演が限度であり、また、一般のオペラ団体や劇場主催のレパートリーは集客面からポピュラーなグランドオペラに絞られ、母語による新作が取り上げられることは見込めない。そこで、せめてこの『雪女の恋』を中心に東京ミニオペラカンパニーの活動を一冊の本にまとめたいと考えた。『雪女とオフィーリア、そしてクローディアス 東京ミニオペラカンパニーの挑戦』(幻冬舎・刊)は一般図書として発売されたが、同時に<学術研究資料>として演劇・音楽関係の学部を擁する全国の大学および日本演劇学会、東京二期会などに寄贈された。すると、昨年、日本演劇学会から「演劇学論集 紀要71」の新刊紹介ページへの掲載」の連絡が入った。個人出版の図書が公的機関の出版物に「記録」として残り、消え去る運命の公演作品が命を留めたことになった。
 さらに、今年に入って「日本のオペラ年鑑2019」が届けられた。文化庁委託事業「令和2年度次代の文化を創造する新進芸術家育成事業」として、昭和音楽大学オペラ研究所がまとめたものである。一昨年の日本全国のオペラ上演の実態を1年間かけて蒐集・整理して論評を付した貴重な記録で、東京ミニオペラカンパニーの『雪女の恋』についても<2019年の公演より 舞台写真集><オペラの公演記録/Ⅱ.中小規模会場公演><日本初演オペラ一覧>に掲載されており、特に<2019年のオペラ界/その他の公演より(東京)>の『雪女の恋』に対する舞台評(関根礼子氏)には励まされる思いであった。上演関係者はこのオペラ年鑑の記事に接し、『雪女の恋』再演の道を探り始めた。作曲者と台本作者は、この作品の更なる完成度のために協働することになった。
 「演劇学論集 紀要71」そして「日本のオペラ年鑑2019」における<記録>が、消え去る運命にあったオペラ作品を蘇らせる力を秘めていることを示したのである。
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クラウドファンディング~活動支援と資金提供~

2021年03月16日 | オペラ
 クラウドファンディング(英語: crowdfunding)とは、群衆(crowd)と資金調達(funding)を組み合わせた造語である。不特定多数の人が他の人々や組織に財源の提供や協力などを行うことを意味する[1][2]。ソーシャルファンディングとも呼ばれ[3]、日本語では「クラファン」と略されることもある[4
クラウドファンディングは防災や市民ジャーナリズム、ファンによるアーティストの支援、社会・政治運動、ベンチャー企業への出資[5] 、映画[6] 、フリーソフトウェアの開発、発明品の開発、科学研究[7] 、個人・事業会社・プロジェクトへの貸付など、幅広い分野への出資に活用されている。※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 私がこの用語に出会ったのは、あるコンサート主催者がオペラ公演を企画した際に資金が無くこの手段を利用しようとした時だった。無名な者が見ず知らずの一般大衆から資金調達をしようと考えること自体に無理があり、しかもごく限られた層にしか興味を持たれない新作オペラが対象となると「絵にかいた餅」そのものだった。
 この企画が立ち消えになったことで、書かれた脚本・詞と完成した曲が宙に浮いてしまった。私は出会った作曲家兼ピアニストとの協働作業を埋もれさせたくなくて、自身が主宰者となり「東京ミニオペラカンパニー」というユニットを立ち上げた(その経緯および活動内容は、当ブログに掲載してあります)。奇跡的に魅力的なオペラ歌手との出会いがあり、ほかの出演者やスタッフの参加の見通しがついたことで人材は調った。
 しかし、問題は資金調達だった。出来立てほやほやで無名のオペラ団体の観客動員には限界がある。公演vol.2『雪女の恋(初演)』の場合、総経費は700万円を超えた。劇場費、道具・衣裳製作費、稽古場利用料、宣伝広告費などの直接経費についてはチケット収入でなんとか賄えても、作曲・指揮・演出・歌手(ソプラノ・メゾソプラノ・テノール・バリトン)・合唱団(12名)・演奏家(ピアノ・ヴァイオリン・チェロ・ハープ・フルート)・舞台スタッフ(装置・照明・衣裳・ヘアメイク・舞台監督)・宣伝美術デザイナー・記録(DVD/舞台写真)・公演マネジメント費などの人件費(総経費の約50%)は自己資金を充てなければならなかった。我が貯えは底をついたが、この活動には「日本語による新作オペラの発展」という意義があったので、プロデューサーとしてはこの企画発案時から納得済みのことであった。
 「人はパンのみにて生きるにあらず」―文化芸術に歓びを求め、そこに生きがいを感じる人間がいてこそ、社会に潤いが生まれるのである。しかし、それを絶え間なく継続し集団として維持していくとなると、まるで絶壁をよじ登るがごとき困難と危険とを抱えることになる。いわゆる先進国の中でもっとも文化(学問・芸術・教育)予算が少ない日本、それに追い打ちをかけている「コロナ禍」で、芸術団体は<虫の息>状態に追い込まれている。
 日本の現代劇を担ってきた代表的な三劇団(俳優座・文学座・民藝)のうち、戦前から活動してきた文学座から「クラウドファンディングのお願い」が届いた。文学座には「文学座支持会」というファンの組織があり、平時における支援(チケット予約や地方公演における協力など)があるが、今は有事である。「三密」があってこその稽古、そして劇場公演に大幅な制約がかかり、劇団としての運営が困難を極めているのだ。これまでは<活動支援>で収まっていたのが、今や経営のための<資金調達>が必要となってきて、今回の「クラウドファンディング挑戦中」となっている。現時点では、目標金額1,000万円を超える応募が既にあり、次の目標2,000万円に向かいつつある。
 『女の一生』『欲望という名の電車』の主演・名女優杉村春子、その相手役を務め『花咲くチェリー』の当たり役で輝いた北村和夫、お二人とも天上にて気をもんでおられるに違いない。劇場の灯がともされ続けることを願うばかりである。
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「詞」――歌われるための文学~オペラおよび歌曲を中心として⑶

2021年02月09日 | オペラ
 「詞」は歌われるための文学である。文字で読まれるのではなく耳で聴かれるための文学である。それが手渡される相手は、本の読者ではなく歌い手にとっての聴衆である。書く立場の者としてこのことを考えるとき、三つの重要なポイントが浮上する。第一はもちろん「作詞と作曲」、第二は「作品と歌手」最後に「歌手と聴衆」である。言い換えれば、生み出した詩の世界を音楽がどのように表現するか。出来上がった歌はだれによって歌唱されるのか。歌手はどのような場でどのような聴衆に対して歌うのか。
 第一の「作詞と作曲」は<言葉と音楽>の問題で、前回および前々回の記事内容にも関連する。この「歌が作品化される過程」については後日取り上げることにして、まずは、第二および第三を先行させたい。歌の最終的な表現者は歌手であり、じっと見つめ耳を傾けるのは聴衆である。その“表現の場”をまずは目に浮かべながらペンを握るのが作詞家で、歌の誕生の出発点だからである。

 そもそも「歌」とは人間にとって有史以来欠かせないもので、時代もジャンルも超えて存在し続けており、クラシックの声楽はその流れの一部分でしかない。現代ではジャズ・ロックなどポピュラー音楽の勢いには凄まじさを感じるほどだ。ライブの場合、「歌」以外の要素を無視できない。きらびやかな歌劇場の幕が上がれば豪勢な舞台装置が聴衆を物語の世界へ誘ってくれるし、大規模なイベント会場では多彩な照明効果やPA(拡声装置)が興奮と熱気を巻き起こしている。しかし、文明の進展に伴ってそれら「歌」以外の要素が「歌」そのもの、歌本来の表現力を削いでしまってはいないだろうか。
 その昔、電子楽器はもちろんピアノもチェンバロさえも発明されていなかった時代は、笛と素朴な弦楽器と太鼓くらい。中世、町を巡った吟遊詩人はリュートを奏でながら自作の詩を詠っていたし、日本では琵琶法師が琵琶を弾きながら平家物語を吟じていたことだろう。そこには商業主義のつけ入るスキなど無かった。歌の世界に誘われ再び現実に戻った聴き手たちが、地面に置かれた帽子や床に置かれた小鉢の中に謝金を入れたに違いない。
 では、現代はどうだろう。
 声楽家がオペラの人物に扮し、またステージで歌曲を歌唱する。聴衆が客席でそれを味わう。そのアリアは主人公の内面を描き切っているか。その独唱は心を打つものか。詞を書く者として、これまでの体験から「歌を豊かなものとする条件」について述べてみたい。
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「詞」――歌われるための文学~オペラおよび歌曲を中心として⑵

2021年01月03日 | オペラ
 日本が生んだオペラの名作といえば、團伊玖磨作曲『オペラ 夕鶴』であることは疑いない。
 劇作家木下順二が1949(昭和24)年婦人公論に発表した戯曲『夕鶴』は、同年ぶどうの会(主演:山本安英)により関西を皮切りに東京、中京、西日本、全国へと巡演されていった。毎日演劇賞「脚本・演出・装置・照明・音楽部門」を総ざらいにし、つうを演じた山本安英には第一回文部大臣賞が授与されている。民話を素材にしたこの舞台劇は戦後日本国民に希望を与え、教科書にも掲載され、文庫本は驚異的な重版を数えてきた(平成十七年三月、五十九刷)。
 この一幕劇上演において音楽を担当した團伊玖磨は、引き続きオペラ化に着手し、藤原歌劇団(主演:原信子・大谷洌子)による歌劇「夕鶴」上演【関西・東京/1952(昭和27)年】を実現させる。また国内に止まらずオペラ「夕鶴」は外国まで羽を伸ばす。言語を主体とする演劇に比べ音楽は国境を超えられるからだ。海外における翻訳上演は1957年のスイスに始まり1960年のニューヨークおよび西ドイツと展開し多くの国のオペラハウスのレパートリーとなった。そして近年では、日本人歌手と指揮者による日本語による海外公演も行われている。まさしく日本創作オペラの代表といえるだろう。
 演劇人の私は、クラシック音楽においては門外漢である。その私がこの「オペラ『夕鶴』」に強い関心を抱いたのは、かつて学生時代に「ことばの勉強会」(山本安英・木下順二主宰/本郷赤門前YWCA二階)に通っていたこともあり舞台劇『夕鶴』に対する傾倒がキッカケになっていたに違いない。その流れで初めてオペラを観劇する体験につながるのだが、そのことが半世紀以上を経た2019年、オペラ『雪女の恋』(東京上野文化会館小ホール)制作の礎になるとは当時は思いもよらなかった。以下は、公演プログラムに掲載した文章の抜粋である。

1966年2月12日㈯午後7時。東京文化会館大ホール<3階Cは列16番>の席で、私は『オペラ夕鶴』の開演を目前にしていた。戦後を代表する舞台劇がどのようにオペラとして生まれ変わるのか、演劇科の学生の胸は期待に膨らむ。そして…主人公つうを演じた伊藤京子の美しさとリリック・ソプラノの歌唱の豊かさが深く心に残った。しかし、劇のセリフそのままをベルカント唱法で聴くことに違和感を覚えたのも事実だった。「どんなことばも、みんなうたってしまう不自然さ」が、≪夕鶴≫のなかにはある…(「夕鶴の音楽」木村重雄~上演プログラム)。作曲家團伊玖磨が劇作家木下順二の台詞を最大限に尊重しつつ作曲した苦労は並大抵ではなかったことだろう(「オペラ『夕鶴』の15年」團伊玖磨~同上プログラム参照)。
 私が創作オペラに関心を持ったのは、この日からだった。戯曲をオペラ化するのではなく初めから歌劇のための脚本を、演劇のセリフに付曲するのではなく歌唱されるための日本語の詞が書かれなければならない。…

 私がその時覚えた「違和感」は、日本の創作オペラおよび母語による歌劇における問題と可能性に起因するのかもしれない。そのことについて次回から考えてみたい。
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