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劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

「詞」――歌われるための文学~オペラおよび歌曲を中心として⑿

2022年02月27日 | オペラ
 インド発祥の仏教ではハスの花について「池の中に蓮華あり、大きさ車輪の如し」(阿弥陀経)とあり、「その花は池の底の泥に根を張っているからこそ美しく花開く」(「淤泥不染の徳」「蓮華化生」)と伝えている。印度から中国へそして遣唐使・留学僧によって日本へ、この思想は先人たちの情熱と労苦によって今日まで息づいている。
 もちろん「その花は池の底の泥に根を張っているからこそ美しく花開く」は人間の真実・人生の真相についての深い比喩表現で、東洋ばかりでなく西洋においても何人もの人生によって証明されている。
 かの喜劇王チャーリー・チャップリンは、少年時代、家庭崩壊と貧困の極限の中にいた。両親はともにミュージックホールの芸人だったが、チャップリン2歳の頃に別居。母ハンナと異父兄シドニーとの3人暮らしが続くが、入退院を繰り返す母のために救貧院に収容され、屋根裏部屋を転々とする日々を送っている。5歳の時、彼は初舞台を踏むことになる。出演中の母がのどを潰して歌えなくなり、支配人が急遽代役として舞台に出したのだ。いつも舞台袖で出番を待つ大人を見様見真似の芸で笑わせていたのを知っていたからだった。
 その後イギリス中のミュージックホールを巡業する過程で少年は歌とダンスからコメディアンを夢見るようになる。生活のために使い走り・ボーイ・工員・受付などあらゆる下働きの経験をするが、やがてアメリカへ渡り、胸を打つ名作を続々と生み出してゆく。世界的な映画人となった彼の人生はまさに「その花は池の底の泥に根を張っているからこそ美しく花開く」そのものである。
 さて、世界的シャンソン歌手、エディット・ピアフの場合はどうだっただろう。1963年47歳で死去。パリ中の商店が弔意を表し休業、墓地での葬儀は40,000人以上のファンが押しかけ交通が完全にストップした。
 彼女の少女時代もチャップリン以上に悲惨だったといってもよい。パリ20区の貧しい地区に生まれ、イタリア系の母は17歳で彼女を出産、カフェの歌手として働いていた。父親はアルジェリア人の血を引く大道芸人であった。両親が貧しかったため、エディットは売春宿を営む父方の祖母に預けられた。やがて15歳になると、パリ郊外でストリート・シンガーとして自立する道を歩む。20歳でナイトクラブのオーナーに見出され、142㎝小柄な彼女は「小さなスズメ」という愛称を与えられた。上流・下流幅広い階層の客が出入りする社交場だったこともあり、翌年にはレコードデビューすることになる。
 第二次世界大戦下の『ばら色の人生』で大成功を収め彼女の代表曲になる(1998年グラミー賞名誉賞)。戦後は世界的な人気を得て、ヨーロッパ・アメリカ合衆国・南アメリカに公演旅行に出る。一方で、若い詩人・俳優・歌手のデビューに尽力し、彼らとの交際もあったが、生涯の大恋愛の相手(プロボクサー:マルセル・セルダン)に出会う。彼には妻子がありいわゆる不倫関係だったが、その彼は飛行機事故死してしまう。その翌年(1950年)に発売されたのが、あの『愛の讃歌』である。

蒼空が崩れ落ち
大地が割れようとも
私は気にしない あなたが愛してくれるなら
世間なんかどうでもいい

私の朝が愛にあふれれば
私の体があなたの腕の中で震えるかぎり
私は気にしない あなたが愛してくれるなら
世間なんかどうでもいい

 原詩はさらに続くが、その大意はかなり激しい内容である。
 シャンソンの女王エディット・ピアフも凄まじい少女期を送らざるを得なかったし、その恋愛遍歴も過酷なものだった。しかしだからこそ、あの蓮のように茎を水面の上まで伸ばし大輪の花を咲かせたのである。「清らかな心」という花言葉は、泥水を吸い上げながらも美しい花を咲かせることに由来する。それは、音楽へのピュアな思いと強い愛があったからこそエディット・ピアフにも当てはまるに違いない。
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「詞」――歌われるための文学~オペラおよび歌曲を中心として⑾

2022年01月29日 | オペラ
 「歌」が生み出されるとき、いわゆる「メロ先」か「詞先」かは別として、曲に詞が付き、詞に曲が付けられる。詞は文学、曲は音楽であるが、ともにその世界には「情感」が込められ流れている。だが、それが聴衆をまず動かすのは、音楽の方であろう。前奏が始まり音楽の世界に誘われたその後で、詞が歌われ言葉が表現する世界が眼前に浮かんでくる。だがそれ以上に音楽は感情に直接働きかけるので、情感を伝えるうえで優っている。言葉の方はいったん耳に届いたあとで、その情景や意味するところを想像しなければならないので、詞の世界に込められた情感に心が向くのは遅れてしまう。このタイムラグを超えて歌曲としての感動(=詞と曲の一体化)が生まれるとしたら、それはひとえに作品世界を聴き手に伝える歌い手の「歌」にある。音楽とともに詞の世界を表現する言葉が歌い手自身に内在する場合に限り、音声を伴う音楽ではなく「歌」になる。このことは本稿⑻で『城ヶ島の雨』を取り上げた際にも触れた。
 「歌い手自身に内在する言葉」は、あらゆる声楽家にとって重要な問題である。歌曲には音楽とともに詞の世界があり、言葉の内実まで深く表現しなければならない。それを軽視することは「歌」をないがしろにすることにつながるからだ。
 さて、「聴き手の心を打つ歌とは」「詞と歌い手と聴き手の関係とは」を考えるには大衆音楽から入ると理解が早いだろう。庶民の喜怒哀楽を音楽に乗せて語りかけるという面で、詞の世界の表現がメロディ以上に重要なエレメントになることは疑いない。
 例えば、シャンソン。
 パリのコンセルヴァトワールに留学していた若き日の作曲家・黛敏郎が『とてもいい歌だから、ぜひ歌ったら』と譜面を送ってきた「愛の讃歌」(1950年・詞:エディット・ピアフ、曲:マルグリット・モノー)。受け取ったのは後に「日本のシャンソンの女王」と称される越路吹雪。当時は宝塚歌劇団を退団後、東宝専属の女優となってミュージカルに出演、また歌手としてシャンソンや映画音楽のカヴァーで活躍していた頃だった。1952(昭和27)年、帰国した黛敏郎が音楽監督を務める日劇のショー「巴里の歌」で越路は初めてこの「愛の讃歌」を歌う。黛がピアノを弾きながら原詩の訳を伝える。それを聞きながら「日本語詞」を書きあげたのは岩谷時子。越路が歌劇団にいた15歳から宝塚出版部に勤めていた親友だった。
 翌1953年春。“舞台で歌うこと”を何よりも愛し、新しい自分を切り開きたい情熱は越路をパリへと向かわせる。ところが、エディット・ピアフのステージを生で聴いた衝撃は大きかった。本物の歌と自分との乖離に打ちのめされ、日記に書きつける。『…ピアフを二度聴く。語ることなし。私は悲しい。夜、一人でなく。悲しい、寂しい、私には何もない。私は負けた。…』
 しかし、パリ行から戻ると、失意のどん底から越路は立ち上がる。「“私の”歌」を生み出していく。それを支えたのは、越路とともに宝塚を退社し東宝に所属していた岩谷時子である。越路のマネージャーを無給で担いながら、訳詞・作詞家として世に出ていた。岩谷はピアフが歌う原詩とは全く異なる翻案を試み、越路のための「愛の讃歌」を作詞した。音楽(曲)は全く同じでも、そこに付けられた詞(言葉)によって全く異なる世界が生み出され新しい命が吹き込まれる魔法。「エディット・ピアフのシャンソン」に言葉を失った越路吹雪が親友の書き上げた詞によって「自分自身のシャンソン」を歌い出すことになる。
 ピアフの書いた原詩と岩谷時子が書いた「愛の讃歌」を比較するとき、外国人と日本人・人生体験の違いがあぶり出される。そのあたりから考えていきたいと思う。

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「詞」――歌われるための文学~オペラおよび歌曲を中心として⑽

2021年12月19日 | オペラ
 オペラ台本の作者としては、声楽家の「発音と声量」によって音楽とともに詞の世界も聴衆に明瞭に伝わってほしいと述べたが、「オケの音圧と人間の声」という問題は、私がオペラに関わる以前のストレートプレイ時代に端を発している。2005年から2010年にかけて「音楽演劇」という新たなジャンルを開拓した時期に当たる。
 「音楽演劇」はいわゆるオペラを含む「音楽劇」とは別物で、演劇と音楽が異なる存在として自立しつつ、交差また融合し、両者によるポリフォニーが成立する世界である。演劇(俳優のセリフと演技)が「この世とあの世の狭間で繰り広げる人間のドラマ」を、音楽は「神」の視点からみつめその人物たちの運命を操りあの世へと送る――そうした劇構造になっている。
 ※参照:「音楽演劇『オフィーリアのかけら』からミニオペラ『悲恋~ハムレットとオフィーリア』へ」早稲田大学イタリア研究所招聘研究員 森佳子(「雪女とオフィーリア、そしてクローディアス 東京ミニオペラカンパニーの挑戦」/2019年・幻冬舎刊・206ページ~)
 その上演過程において、「オケの音圧と人間の声」という問題に直面したのである。演劇における音楽は生演奏を常とすることが演出家としての基本姿勢であった。録音された媒体をスピーカーから流すのではなく、小オーケストラによる音楽を直接響かせる。それは贅沢とか単なる趣向ではなく、演劇上演の儀式性を大切にしたかったからで、古代ギリシャ劇場や中世日本の能舞台にも繋がることである。
 ただ「能」の場合、囃子方や地謡が演奏するとき、シテ(劇の主人公)の演技は舞踊になるが、「音楽演劇」はその大半が俳優のセリフ表現になるため、アンサンブルの生演奏が重なるとき、どうしても音圧の問題が出てくる。
 役者のセリフが音楽によってかき消されることがあってはならないので、私は上演台本や演出方法に工夫を凝らした。セリフだけの箇所と音楽が入る部分を分けたり、指揮者・演奏家たちに人物の言葉と演奏が重なるときには音圧を抑えるようなタッチにしてもらったりした。
 音楽は「神」の立場からドラマを進行させ人物を見つめるのだから、演奏家たちは俳優と一体になって演奏するこの体験を面白がってくれた。普段の演奏会やコンサートにおいて楽譜通りに弾く場合とはかなり異なるからだ。
 ※写真上から
『冥界の三人姉妹』(横浜/2005年)・『オフィーリアのかけら』(横浜・東京/2007~8年)・『Shadows<夏の夜の夢>に遊ぶ人々』(東京/2010年)
 
 オペラは歌劇であり演劇の一分野でもあるが、そのフィールドはクラッシック音楽である。しかしながら、オペラ歌手はオケの音圧を超えて「歌」すなわち音楽と言葉の世界を表現しなければならない点で、「音楽演劇」に通じる課題を抱えていると言えよう。
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「詞」――歌われるための文学~オペラおよび歌曲を中心として⑼

2021年12月02日 | オペラ
 声楽鑑賞においては、それが歌曲であろうとオペラであろうと、音楽は詞自体を音楽化してしまう。詞の言葉は表意文字から表音文字へ変わってしまうので、聴衆は詞の文学的世界を想像する暇もなく流れゆく音楽世界に心を預けることになる。
  あめはふるふるじょうがしまのいそに(雨はふるふる 城ヶ島の磯に)
  りきゅうねずみのあめがふる(利休鼠の 雨がふる)
 鑑賞者は詞の意味を追うのがやっとで、その情景や文学的世界をつかむところまでは行けない。それをしたい場合は、別の時間に原詩を読む必要があるだろう。しかし、声楽家の資質や歌唱に対する取り組み方によっては、音楽の翼に乗った詞の世界をオーディエンスに味わってもらうことができる。その代表例が、オペラの場合、伝説的存在マリア・カラスだが、このことについては稿を改めて取り上げたい。

 さて、もう一つ、声楽家にとって「発音と声量」という音声面での課題がある。発音が不明瞭だと「詞」が伝わらない。声量が豊かでないと「歌唱」も貧弱になる。オーケストラが響かせる音圧に歌手の歌唱が拮抗できているか、これが出来ていないと、声楽という芸術は成り立たない。音楽劇でも、ミュージカルはオーケストラが演奏する音量に、出演者は頭部に仕込んであるマイクで対抗できるが、それは人間の声というよりPA(拡声装置)から出される情報になってしまう。それに対してオペラの歌唱は人間の声として客席いっぱいに届けられる。機械的媒介なしにそれができるのはベルカント唱法など発声法を身に着けているからだ。※「東京文化会館やNHKホールなど、国内外のオペラを多く上演する会場は、『原則的にPAは使わない』という、いわば原音主義をとっている」(‘97・3・20朝日新聞、朝刊)
 したがって、歌声がピアノやオーケストラの音圧にかき消されることなく耳にしっかり届くとき、客席を埋めつくす人々は安心して歌の世界を楽しめる。そうしたお客様からの声が、東京ミニオペラカンパニー公演vol.1『悲戀~ハムレットとオフィーリア』(JTアートホールアフィニス/2016年)・vol.2『雪女の恋』(東京文化会館小ホール/2019年)では届けられている。※参照:「雪女とオフィーリア、そしてクローディアス 東京ミニオペラカンパニーの挑戦」(幻冬舎刊・209ページ~/231ページ~『客席からの声』)

 
 楽譜に付された詞の言葉が声楽家の「発音と声量」によって客席の隅々まで届き、また、音楽に乗ったその言葉によって、詞の世界が聴衆に伝わることを願ってやまない。上記の東京ミニオペラカンパニー公演で、制作・脚本・詞を担った筆者は出演した声楽家たちによってその芸術的至福を与えられたのである。※参照:東京ミニオペラカンパニーHP/tokyominiopera.tumblr.com。「東京ミニオペラカンパニー」で検索、videoをクリックする。
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「詞」――歌われるための文学~オペラおよび歌曲を中心として⑻

2021年11月09日 | オペラ
 声楽は器楽とは異なり文学的要素を伴う。歌曲における詞が音楽に導かれつつ人物の心情や情景など具体的な世界の表現を求めるからである。クラシック歌手はそれに十分応えているだろうか。音楽面の演奏にばかりとらわれて、詞を言葉としてよりも音として扱ったり、表面的理解に止まっていたりはしないだろうか。
 音符に付されている「ひらがな」からは詩の世界は現れない。楽譜をいったん置いて、音楽から自立した詞(の原稿)そのものに向き合わなければならない。その過程を経ないかぎり歌曲における心情や情景を描き出すことはできない。
 さらに、その作品が発表されるまでの経緯や背景を知ることは歌唱に直接関係ないかもしれないが、表現の奥行や深さを知ることに無関心でいられる歌手の演奏が空疎なものに終わってしまうことだけは明白である。

雨はふるふる 城ヶ島の磯に
利休鼠の 雨がふる
雨は真珠か 夜明けの霧か
それともわたしの 忍び泣き
雨はふるふる 日はうす曇る
舟はゆくゆく 帆がかすむ

 1913(大正2)年10月、楽曲『城ヶ島の雨』は発表された。詞・曲ともに歌曲史に残るこの佳品はどのようにして誕生したのだろう。作詞者・作曲者、そしてこの名曲を世に送り出したプロデューサーが、三者三様、その静謐な世界とは全く異なる激しく劇的な状況を生きていたのである。
 北原白秋は、詩集『邪宗門』『思ひ出』を刊行後文名が高まり、1913(大正2)年歌集『桐の花』で歌壇にもその名を馳せた。しかし、その前年、隣家の松下俊子と恋に落ち別居中の夫から告訴され一時未決監に拘置されるというスキャンダルを起こしていた。白秋は翌春に俊子と結婚し三浦半島の三崎に転居する。時に28歳。『城ヶ島の雨』はこの地で書かれることになる。

 作詞を依頼したのは早稲田が生んだ秀才で、大先輩の島村抱月。
抱月は、坪内逍遥が創設した文学部の講師を務めた後、英国オックスフォード大学・独逸ベルリン大学に留学。帰国後は文学部教授となり「早稲田文学」を復刊し、師・逍遥とともに「文芸協会」および「付属演劇研究所」を設立、新劇運動の口火を切る。(※1906~1909年。この頃、抱月の書生だった中山晋平は東京音楽学校予科(現・東京藝術大学・音楽学部)ピアノ科に入学。1912年、梁田貞らとともに卒業している)
 1913(大正2)年。当時42歳、順風満帆、飛ぶ鳥も落とす勢いだった境遇は、研究所の看板女優・松井須磨子との恋愛スキャンダルで一変する。妻子ある身の抱月は、師・逍遥と訣別し文芸協会を去り、須磨子とともに芸術座を結成する。この怒涛の時期に抱月は白秋に詞を、書生として育てた中山晋平の学友・梁田貞に曲を依頼している。『城ヶ島の雨』―白秋の詩にメロディがついたのはこれが初めてであった。
 翌年の1914(大正)4年以降、中山晋平も参加した芸術座は華々しい活動を展開する。抱月による脚色『復活』(原作:トルストイ)興行はヒットし、須磨子による劇中歌『カチューシャの唄』(作曲:中山晋平)は全国津々浦々に広まり、今でもレコードとして残っている。新劇の大衆化に貢献した抱月だが、演劇興行は責任者の体力を消耗させる。1918(大正7)年、全世界を襲ったパンデミック「スペイン風邪」に罹患、急性肺炎で命を落とす。享年47歳であった。

 『城ヶ島の雨』の作曲者:梁田貞は、東京音楽学校の受験に一度失敗した後、早稲田大学商科に一時在籍。1909年に本科声楽科ピアノ専攻科に入学。学友中山晋平とともに同校を卒業。府立一中・玉川学園・早稲田大学などで音楽教育に力を注ぎ、歌曲・童謡・校歌と旺盛な作曲活動による功績を残している。

 筆者の『城ヶ島の雨』との出会いは、高校時代の文化祭、講堂いっぱいにひろがるS.R.先生の歌唱(バリトン)であった。学校が横須賀久里浜にあり、白秋が身を寄せた三崎の仮寓も級友の家の近くということで、身近な世界であった。高校三年に出会った『城ヶ島の雨』は、卒業後レコードを買い求めターンテーブルに何度も乗せてそっと針を落とした。
 S.R.先生が白秋の三崎移住の事情を知っていたかどうかはわからない。しかし、歌うその横顔さえも長く心に残っていたのは、高校教師となったご自身のある孤独が聴き入っていた生徒に伝わったからではないだろうか。
 歌曲誕生の背景や詩人の思いを理解しておくことは絶対条件ではないが、演奏発表において、その歌曲と歌唱者自身の根底にあるものが共振するときのみ、歌は聴衆に訴える力を持つのである。

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