「人生の出発点」(11月記事)は羽田空港での貨物倉庫勤務だったが、「配置転換」という希望があった―いずれ空港ビル内の旅客カウンターの部署に転出できる可能性。現業者用の灰色の労働服から紺のダブル・サイドベンツの上着へ。その憧れがあった。しかし、一年ほど経ったある日、ロンドン本社からの“notice”が掲示される。「今後、欠員が生じても補充の募集はしない」という通告。夢ははかなく潰え去り、「今後とも肉体労働者のままで」という現実が突き付けられた。いくら高卒者としては高給取りでも、夢もなければ発展の道も閉ざされるのであれば、「ここを去る」しかないと思った。
「自分の道」の模索が始まる。「道」といっても、取り立てて特技や資格があるわけではない。ただ、肉体労働の現場からは離れたかった。英字新聞の“help wanted”(求職欄)にあった「若い事務員・若干英語ができる者」を見つけ応募する。羽田勤務より給料はやや下がったが、青山・神宮前の衣料品輸入会社が採用してくれる。アメリカ人のボスと数人の日本人スタッフ。英文タイプが打てたのが役に立ち書類を作成しては東京駅前の中央郵便局に投函したり、また銀座4丁目のメンズ洋品店に商品を納めに行ったりしていた。
ここで学んだのは、日本とアメリカとの職場に対する考えの違いだった。今日まで勤めていた秘書がサンダル片手に『Mr.Sano、バイバーイ』と笑顔で振り返って辞めていったのが印象に残っている。日本社会のように飲み会やら送別会やらは全く無くさばさばした関係だった。経営者もビジネスライクで、勤めて数か月後、ボスから『会社をたたむことになった』と告げられ、<(他の職場への)推薦状>を手渡された。
就職活動が振出しに戻り、再び英字新聞で貿易会社事務員の口を見つけた。銀座八丁目のペンシルビル7階のワンフロア、今度は日本人が経営する会社だった。初めは貿易課に配属され東南アジアからのバイヤーの対応で壁紙を扱う会社に案内したりしていたが、後に商業高校出身ということで経理課に回されることになった。周囲はほとんど大学卒の社員。たまに専務のゴルフバッグを運ぶこともあった。ブルーカラーからホワイトカラーへ、肉体労働から事務労働に変わったものの、やはり夢も発展の道も無かった。
1964(昭和39)年早春、世の中は東京オリンピックを控えて沸き立っていたが、20歳になりながら私は<先の見えない闇の中>で「どう生きたらよいのか」もがいていた。街には、第一回レコード大賞『黒い花びら』が流れていた。高校時代、歌が好きな同級生たちと仲間になったこともあって、歌謡曲は身近にあった。ある日、藁をもつかむ気持ちだったのか、作詞家・永六輔氏の自宅に電話をした。奥様が出られた。将来に悩む見ず知らずの青年の声を聴いたあと、やさしい声で応えて下さった。『永は、いま梅田のコマへ出かけていて留守です。スケジュールはビデオプロモーションの高階さんがご存知です』…教えて頂いた番号にかけると、すぐに「資生堂パーラー(銀座通りを挟んで私の会社の目の前にあった)2Fのティールームで」の約束となった。
『会社にいても先が見えなくて…芸能界のことはまったく分からないし…』追い詰められた表情をしていたのだろう。高階さんはじっとこちらを見つめておっしゃった。『芸能界のことをうんぬんする前に、君、大学へ行ったら』…若者にとって大人のこうした言葉は強く響く。母には事情を話し、一度だけ大学受験をさせてほしいと頼んだ。『…お前がそれほど言うなら』―母子が暮らしていた洋装店社長宅の奥まった六畳一間での会話だった。決算期に区切りがついた日、私は会社を辞めサラリーマン生活にピリオドを打った。
私は「大卒(当時は学歴は価値があった)」の肩書きが欲しくて、進学しようとしたのではなかった。考える時間が欲しかったのだ。四大悲劇の主人公の一人、リア王は自問自答する。…`Who am I? ’社会における自分の存在価値は? “Identity”自分の存在理由は?自分を生き生きと生きるにはどうしたらいいのか。社会の激流に押し流されそうになった自分を留める「一本の杭」それが4年間という時間であり大学という別世界であった。この決断が、今振り返ると「人生の基盤構築」の第一歩となっている。