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Blog of SAKATE

“燐光群”主宰・坂手洋二が150字ブログを始めました。

沖縄・浦添市広報による「ハクソー・リッジ 映画の舞台を体感するためのガイド」

2017-06-01 | Weblog
メル・ギブソンが監督した映画『ハクソー・リッジ』がまもなく日本で公開される。予告編は、ネットでずいぶん前から流れている。
沖縄・浦添の「前田高地」での戦いをクライマックスにしているらしい。その場所が連合軍側が付けた呼び名「のこぎり崖」=「ハクソー・リッジ」なのだ。
沖縄戦に衛生兵として従軍したデズモンド・ドスという「兵器を持つことを拒否した兵士」の実話をベースにしているということで、それだけを聞く限り、非戦のメッセージが込められているのかもしれない。ただ、主人公の戦闘拒否は、宗教上の理由からということになっているようで、メル・ギブソンは10年前、宗教映画『パッション』も撮っているから、どのような扱われ方になっているかは観てみないとわからないが。

同じメル・ギブソン監督の『ブレイブハート』の撮影が行われたのはアイルランドのダブリンからバスツアーで一日で回れる位置で、十四年前にリムリックのカンパニーから振付の仕事を依頼されてダブリンに一週間滞在したとき、休日に私も行ってみた。海に囲まれた壮大な自然の半島である。
そして、浦添・前田高地も『ハクソー・リッジ』のおかげで、「映画の舞台」として、多くの人が訪れているらしい。
映画では切り立った岩肌の崖だが、今は緑の木々に覆われているという。

連合軍側から見れば「戦地」としての映画の舞台だろうが、そもそもここは普通に人々が生活を営んでいた場所である。
戦争は、住民を巻き込み、国や軍の論理で命を奪うものだ。
ここを訪れる人たちが、戦争の悲惨を思い、平和憲法を抱く国民が二度と戦争をしないという決意を新たにするなら、それは意義のあることだ。

浦添市は映画『ハクソー・リッジ』との関連で、「前田高地」のことを、市の広報で重ねて知らせている。写真や図解を駆使して、力を入れている。展示などもしているらしい。

『ハクソー・リッジ』の公開によせて
http://www.city.urasoe.lg.jp/docs/2017050200104/

『ハクソー・リッジ』〜作品の舞台をご案内します〜
http://www.city.urasoe.lg.jp/docs/2017052900033/

『ハクソー・リッジ』の向こう側 〜沖縄戦の記憶〜
http://www.city.urasoe.lg.jp/docs/2017052500073/

この国の右傾化・保守化、そして戦争に反対することを「左翼的」と決めつける軍国化の風潮の蔓延は度しがたく、年々、修学旅行や平和学習で沖縄を訪れることを認めなくなってきており、沖縄戦の歴史に触れる若い人たちも減ってきているという。
とりあえず映画によって沖縄戦のことが知られることじたいは、意義があると思う。

この国が「新たな共謀罪」を進めているのは、「戦争に反対する勢力」を封じ込めるようとするためである。
全てのことは繋がっている。過去はいつでも現在とともにある。

「前田高地」に至る前に、北谷に上陸した連合軍が南下し、日本軍と激しく衝突した「嘉数高台」(宜野湾市)の戦闘については、拙作『普天間』でも触れている。こちらも参照していただければと思う。
https://www.amazon.co.jp/普天間-坂手-洋二/dp/4624700961
http://rinkogun.com/Yoji_Sakate/entori/2012/5/18_Futenma.html


映画『ハクソー・リッジ』は、6月24日日本公開。


以下は、同HPにある、この映画の主人公についての既述のある「浦添市史 第五巻資料編4 戦争体験記録より抜粋」から。

日本軍の総反撃と死闘の末
 態勢を整えた日本軍は、前田守陣地を死守すべく物量に勝る米軍と死闘を展開していった。戦闘のあまりの激しさに米兵の中には発狂者も続出したといわれている。次にその戦闘状況を資料で跡づけていく。
「四月二十九日の未明から朝にかけて、日本軍は、第九六師団前線の前面にかけて総反撃にでた。午前五時十五分、第三八三連隊の第二大隊は、手榴弾や槍をもった日本軍の強襲をうけ、G中隊の一小隊などは、この戦闘で三十名から九名になってしまった。とはいえ、第三八三連隊では二回にわたる日本軍への猛反撃で、およそ二百六十五名の日本兵を倒し、またその日の午後の戦闘では、戦車隊や火炎砲装甲車を先頭に、二百名以上の日本軍をやっつけたのである。(一三四頁)
 四月二十九日に前線交替をするまでに、第三八一連隊は戦闘能力四〇パーセントに激減、損害じつに一千二十一名にのぼった。そのうち五百三十六名は、前田丘陵四日間の戦闘でなくしたものであった。また小隊の中にはわずか五名ないし六名しか残らないところもあった。兵の多くは消耗しきっていて、彼らを後方に運ぶため、丘の下でトラックが待っているにもかかわらず、そこまで兵器をもっていく気力さえ失っていた。
 第三〇七連隊が、四月二十九日浦添丘陵分水嶺に達しておどろいたことには、ニードル・ロックのてっぺんは、幅六十センチそこそこの広さしかないということだった。丘陵の南側はけずられたように急に落ち、高さは北側ほどではなかったが、日本軍が洞窟を掘り、トンネルを通したのはここである。地下壕でそれぞれの洞窟を連絡していることがわかったのはまったく偶然からで、五月二日、一台の戦車が一つの洞窟に六発の黄燐弾をうちこんだところ、十五分ほどたったころ、三十名ほどのかくれた陣地からもくもくと煙がでてきたのが目撃できたのである。
 前田丘陵に、はげしい争奪戦がくりひろげられた。いくたびか攻め、いくたびか攻められた。手榴弾は飛びかい、洞窟やタコ壺壕には弾薬がなげこまれ、夜は夜で、双方とも敵のいつくるともしれぬ夜襲におびえていた。米軍は地上軍に加えて、空からも応援をたのみ、爆弾やナパーム弾が毎日のように投下された。戦車と装甲車は南東の方面から猛烈に攻めたてたが、丘の頂はいまなお頑強な日本軍の手中にあって、兵隊の言葉をかりていえば『ありったけの地獄を一つにまとめた』ようなものであった。(一三五〜一三六頁)
 一方、第二七師団右翼のほうでは五月一日、第三〇七連隊第三大隊が仲間を攻め、そこから学校のほうにむかって進撃をつづけていった。ところがこの作戦中、日本軍の砲弾が後方の弾薬集積所に落ち、大爆発音とともに一瞬にして五名が戦死、米軍はかなりの時間、弾薬にこと欠いてしまった。二日になっても戦況は進展しなかった。3日になって、同連隊の第一大隊では手投弾戦で死闘をくりひろげたが、日本軍もまた、反対側丘腹から手投弾や機関銃弾を雨あられのようにそそいではげしく応戦し、加えて遠距離から八一ミリ砲白砲で攻撃したのである。
 それは全く地獄絵図だった。帰ってきた兵隊は『もう二度とあんなところへなんかいくもんか』と叫んだ。だが小隊長の話によると、そういった兵隊自身、五分もたつとふたたび手投弾をもって引返していって、栓をぬくが早いか、日本軍めがけて投げつけたのである。(一三六頁)
 前田高地の戦闘で、とくにめざましい働きぶりを示したのは、B中隊の衛生兵ドス一等兵。彼はセブンスデー・アドベンチスト教会の信者で、信教上銃はもたないことになっていた。そのため衛生兵に回されたわけだが、高地攻略戦中、他の兵が撃退されても彼だけは頂上にふみとどまり、何回となくロープで、負傷兵を下方に降ろし、洞窟から洞窟にとび回って、負傷者に救急手当てをほどこし、こうして日本軍の猛砲火の中を、実に多くの兵のいのちを救ったのである。彼はのちに議会名誉勲章を授けられた。
 浦添丘陵の戦闘で、米軍の損害は大きかった。三十六時間もつづいた一回の戦闘で、第三〇七連隊の第一大隊は、少なくとも八名の中隊長を失ったことがあった。また四月二十九日、八百名で丘陵を攻めたてた部隊の、戦いすんで五月七日、丘をおりるときは、三百二十四名に減っているところもあった。だがこの戦いで日本軍は推定三千の兵を失ったのである。」(一三七頁)
 この前田の戦闘では、血なまぐさい肉弾戦の末、米兵でさえ、日本軍の“バンザイ攻撃”を地でいくような行動に出たことが記録されているが、第三十二軍残務整理部資料によると、弾の尽きた日本軍の中には、石を投げつけて抵抗しようとした部隊もあったことが記録されている。
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