Blog of SAKATE

“燐光群”主宰・坂手洋二が150字ブログを始めました。

「私日本人でよかった」と思うのは自由。日の丸をどうするかも自由。

2017-05-13 | Weblog
「私日本人でよかった」と書かれた、日の丸をバックにした女性のポスターが、話題になっているようだ。京都のあちこちに貼ってあったという。どこかで見たような気もしてくる。
女性が目を閉じて微笑を浮かべ、どうやら肩から上は着衣していない。なんでそういうデザインにしたいのかはわからない。
起用されたモデルが、日本人ではなく中国人ではないかということも話題になったようだ。

下の方に「誇りを胸に日の丸を掲げよう」と、標語のようなサブコピーがある。
国旗掲揚を呼びかけているということか。
このポスターは、平成23年に、神社本庁が作ったものらしい。6万枚という。
神社担当者が、「昔は祝日に多くの家庭で国旗を掲揚していたが、今は少なくなっている。日本の伝統と文化を尊重する意味で、祝日に国旗を掲げることを啓発しようと作った」と説明したとする記事も読んだが、この国が日の丸を掲げるようになったのはそんなに昔ではない。そういうものが伝統やら文化やらだというのは、明治以降から第二次世界大戦までの、つまりは軍国の時代のこの国の制度を「この国本来のものである」と印象付けようとする、保守的な動きと同じである。

「私は日本人であることに誇りを持っているが日の丸の掲揚は強制されるべきではない」と考える人だって、いるだろう。
「国旗を掲揚しよう」とわざわざポスター作って呼びかけるなんて、あまり他の国ではないのではないか。
国家主義勢力に近い宗教関係者がやっているならなおさらだ。
国旗は他の国との差別化や記号として使われるだけでもよく、愛着を持つ人は自然と持つだろう。
それに違和感を持つ者にはそれなりの理由があるだろうし、理由がなくたって強制されたくないだろうし、強制されるから嫌いになることだってある。
そうして「押しつける」ことが安倍政権が学校教育に取り入れようとしている「道徳」同様に、気味の悪いものに思われるわけである。

私は、「日本人でよかった」と、わざわざ言わなくてはいけないと考えていることじたいに、そもそも問題があるように思う。
他の人が「日本人でよかった」と思わないでいるなら、それはおかしい、そう思うべきだ、と押しつけているように思われる、ということだ。

そして明らかに「I Love(♡) New York」とは違う。
「好き」とは言っていない。
土地や国と人間が、対等でない。
「日本人でよかった」は、国籍や土地の名前ではなく、「日本人」という、ある概念が存在し、そのメンバーシップの中に生まれ落ちたことを喜ぼう、という、何か、思い込みの強さがある。
「日本人」というものに依存している。
依存心がある。
何もしなくても価値のあるもの、ほうっておいてもみんながいいと言ってくれるもの、そういう自動的な価値のあるものとして「日本」「日本人」を位置づけたいらしいのだ。
それは裏返せば、自己同一性の強要である。

そんなに不安なのか、と思う。
不安な人は、他の人を縛りたがる。
日の丸・君が代にまつわる、こういう言説・表現は、そうしたことの証明のようにに思われて仕方がない。

「私日本人でよかった」と思うのは、自由。日の丸をどうするかも、自由。自由な中で人間が選ぶ。

あるいは、もしも周りを見渡して「日本人でよかった」と思える日本でなければ、つまり、過ちが多ければ、日本の方を変えればいいのだ。
愛国心というものは、そういう過程に耐えられるという感情の種類である方が、自然だと私は思う。
コメント
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