サ カ タ の ブ ロ グ 

やぁ、みんな。サカタだよ。

保存

2022年03月23日 | サカタだよ

つい保存してしまう。いつかネタになるんじゃないかと思ってスマホで撮った写真の数々。ひまなとき画像フォルダを開いて見返すうちに何枚かつなげてブログ書けるんじゃないかと思ったまま忘れたり、実際に書いてみて保存したのを気まぐれに更新したり。 ←イマココ (クイーン50周年展で撮って保存した70年代のステージ衣装)

 



美術館・博物館・ミュージアムのたぐいに出かけては、差し支えなさそうな展示物や解説パネルを写真に撮って保存しておく。何かのネタになるんじゃないかと思って、撮ったまま忘れてしまう。駄菓子屋の写真なんかは架空の少年時代の思い出をつけてSℕSに上げたろか? と企んだ覚えがあるけど結局やらなかった。
 
 
 


古代ヤマト政権がかたちを定めた巨大墳墓にいまも通じる名称をつけたのは、江戸時代の下野国・宇都宮出身の学者、蒲生君平(1768ー1813)という展示パネルを見て、メモ代わりに撮影して保存した。貴族が乗る馬車になぞらえて、前が方形(四角)で後ろが円形の墳墓=「前方後円墳」と名づけたのか。なるほどしかし、実際どっちが前だかわかりゃしない。




ヤマト朝廷もそのうち古墳で威武を示すばかりでなく、大陸の様式を真似た最新の建築で国府を設けて諸国を直接統治しようと試みる。屋根瓦のある建物(次の写真のようなもの)だ。藤原氏が天皇家を半ば乗っ取るまでは地方の有能な役人も中央で活躍する機会があったようで、下野国からは下毛野朝臣古麻呂という秀才が中央で大きな働きをした。栃木の博物館のパネルに書いてあるのを見て、興味が沸いたので写真に撮って保存したまま忘れた。
 
 

国府はどこも大体こんな感じの建物だったようだ。国の数だけ国府があったのに全部なくなっちゃった。跡を訪ねても草ぼうぼう、礎石ぐらいしか残ってなくて往時を偲ぶすべもない。この模型、じつは国府ではなくヤマト政権が陸奥の蝦夷の土地を勢力圏に加えるために、いまの仙台のちょっと北に設営した多賀城という前線基地で、城という名こそあれ同時期の国府と同じようなものっぽい。ちょうどいいから保存したまま、すぐ忘れた。

 

瓦の屋根がついた建築物はいまのタワマンのようなステイタスの象徴で、まだまだ庶民はこんな竪穴住居でライフをエンジョイしていた。麻の貫頭衣を着て魚を獲って食べてるわりに、獣の毛皮など敷いて不思議な暮らしぶり。なにやら穀物のようなものを団子のようにして盆に乗せている。見れば見るほど、疑わしい点がたくさん。それでも写真に撮って保存したまま、いつしか忘れ果てた。

 

庶民が竪穴住居で豊かな暮らしを謳歌しているころ、ヤマト政権が多賀城に築いた国府のようなものは、統治の協力者である蝦夷の伊治公砦麻呂によって攻められ、宝亀11年(780)焼失してしまった。騒乱は20年あまり続き、坂上田村麻呂が征夷大将軍として延暦20年(801)どうにか静まらせたようだけど、詳しいことはわからない。多賀城が炎上する前にも、どこかで撮影して保存したまま忘れていた展示パネルによると争乱がいろいろ起きたようだ。

本日はここまで!

次回はエイプリルフール(4月1日金曜日)更新だけど、いつものようにうそはつかないよ。

コメント
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