寂しいから、とひとは言う。だが、寂しいのは、じぶんがここにいるという感覚がじぶんがここにいるという事実の確認だけでは足りないからである。人がもっとも強くじぶんの存在をじぶんで感じることができるのは、褒められるのであれ貶されるのであれ、愛されるのであれ憎まれるのであれ、まぎれもない他者の意識の宛先としてじぶんを感じることができるときだろう。「ムシられる」(無視される)ことでひとが深い傷を負うのは、じぶんの存在がまるでないかのように扱われるからであり、じぶんのこの存在がないことを望まれていると感じるから、そういう否定の感情に襲われるからだ。だれからも望まれていない生存ほど苦しいものはない。老幼を問わず。
鷲田清一『感覚の幽(くら)い風景 (中公文庫)』中央公論新社(中公文庫)、2011年、116頁.
職場でもプライベートでも日々無視され、「じぶんの存在がまるでないかのように扱われ」ていると、わたしは他者の意識の宛先になっていないとつくづく思う。
これまでもこれからもだれからも望まれない生を生きていくのだろう。
鷲田清一『感覚の幽(くら)い風景 (中公文庫)』中央公論新社(中公文庫)、2011年、116頁.
職場でもプライベートでも日々無視され、「じぶんの存在がまるでないかのように扱われ」ていると、わたしは他者の意識の宛先になっていないとつくづく思う。
これまでもこれからもだれからも望まれない生を生きていくのだろう。