A PIECE OF FUTURE

美術・展覧会紹介、雑感などなど。未来のカケラを忘れないために書き記します。

memorandum 577 悪習

2017-11-02 23:31:49 | ことば
 何よりも先ず、我々は無益な営みを役に立つことの惨めさから解放しなければならないだろう。(・・)長らく、我々には無益な営みの内に隠れた有用性を発見しようとする嘆かわしい習慣があった。言うまでもなく、真に断たれるべき悪習はこちらの方なのだ。

というのも「……は何の役に立つのか」という問いは、自由を約束するどころか逆に自由の領域を狭め、意欲を低減させる脅迫だからである。用途の強迫観念は思考の自由な営みに介入し、好奇心を用途の重い足枷で縛りつけ、拘束しようとする。


澤野雅樹『不毛論 役に立つことのみじめさ』青土社、2001年、48-49頁。

有用性は不自由だ。

memorandum 576 創造

2017-11-01 23:25:46 | ことば
創造とは、用途に殉ずることではなく、用途の集合から切り離された次元で遂行される営みであり、あるいは少なくとも用途に対する戦いの実践であるだろう。事後的に用途が見出されたり、何かの「役に立つ」ことが分かったとしても、それは全く別の話である。

澤野雅樹『不毛論 役に立つことのみじめさ』青土社、2001年、30頁。

創造が「役に立つ」ことはない。

memorandum 575 限界

2017-10-31 22:14:03 | ことば
 些か教訓的な物言いをすれば、大人とは大人の限界を教える者にほかならず、親や教師もまた親や教師としての限界を教える者でなければならない。さもないと、子供の問う行為が際限なく答えを要求することでしかなくなってしまうからである。大人や教師による答えの終わりなき供給が、むしろ子供を大人に答えを要求する者の地位に固定してしまうのであり、延いては大人になるということがおのれの問題の探索者になるということであることをも完全に見失わせることになってしまうのである。というのも問題は他者に求めて得られるものではなく、ただ二重に専心するより他にないものなのだから。二重と言ったのは、問題の探索に関する専心が同時に問題そのものへの専心でもありうるからである。親の限界や教師の限界を知る時、子供は大人になる決意をするのだが、時を同じくして、彼らは親や教師に聞いても得られないものを得ようと問題の探索を始めたり、問題に独力で専心し始める。

澤野雅樹『不毛論 役に立つことのみじめさ』青土社、2001年、27頁。

大人になるとは限界を知ること。

memorandum 574 不安

2017-10-30 23:44:55 | ことば
われわれは、不安にとりかこまれていることをよく知っているし、またそれについてのべつ聞かされているから、絵画——衰退した——がキャンヴァスのなかで力を込めて不安を描いてみても、それに感動したりしない。

藤枝晃雄『現代美術の展開』美術出版社、1977年、26頁。

絵画は希望であってほしい。

memorandum 573 無償の労力

2017-10-29 23:33:29 | ことば
僕は、無償の労力こそが美に近い部分もあるなと思ってるんです。だって、美術が人類に必要かというと、よくわからないじゃないですか。進化心理学的には、生存に有用だというものではない。自然環境で生存するには、本質的に芸術も文学も要らないものではないですか。その「無意味さ」こそが芸術の本質であり、それはきっと、人類にとって何かの本質に触れていると思う。

藤田直哉編・著『地域アート 美学/制度/日本』堀之内出版、2016年、419-421頁。

無償な存在であること。人間と同じく芸術も存在の「無意味さ」が本質かもしれない。

memorandum 572 どこに行き着くのか

2017-10-16 20:45:09 | ことば
どこに行き着くのかは本人にもよくわかっていない。じゃあ、なんの確信でその造形に向かうのかというと、先人たちの工夫の歴史に確信して、それを引き継いでいるからです。それは美術史に限らず、精神分析の歴史や思想史もそうだろうけど、そういう歴史の確信を担保にして何かを作ることができる。目的地は見えないけれど向かう方向は見える、ぐらいの確信でやるものなんじゃないか。それがはたして美的に重要なものなのかとか、美術史として重要なものなのかとか、洗練された造形性とは何かとか、実はそこではあまり問題ではない気がする。僕を後押しする確信は過去にあり、不明瞭な未来を見てみたいというのが先に進む原動力なんだと思う。

田中功起、田中功起×遠藤水城×藤田直哉「「地域アート」のその先の美術——美術の公共性とは何か」、藤田直哉編・著『地域アート 美学/制度/日本』堀之内出版、2016年、183頁。

「目的地は見えないけれど向かう方向は見える」という感覚はよくわかる。逆に、はっきり見通せている方がおかしい気がする。
しかし、日本のアーティストで「先人たちの工夫の歴史に確信して、それを引き継いでいる」人はほとんどいないのではないか。美術館もギャラリーもほとんど行かない見ない、本も読まないアーティストばかりでは、美術の歴史は途絶える。

memorandum 571 偉大

2017-10-15 11:31:35 | ことば
この人たちはみな世人が芸術を愛した時代に生きていました。彼らは一般の趣味の中に浸っていました。しかるにわれわれの時代では世人は絶対に芸術以外に生きています。芸術はもう群衆のためにあるのではないのです。古代人は彼らのまわりに芸術家がまったく偉大であるになくてならぬ空気を持っていました。今日はもう公衆に偉大がない。公衆は落ちた。そこが疵です。われわれは決して公衆に支えられてはいません。三四十年のうちには、お仕舞いになるでしょう。

高村光太郎訳、高田博厚・菊池一雄編『ロダンの言葉抄』岩波書店(岩波文庫)1960年、12頁。

この言葉が現代においてもまったく古びていない事実に驚きを感じる。


memorandum 569 現在

2017-10-12 23:24:52 | ことば
 宗教では「未来」はわれわれのうしろにある。芸術において「現在」は永遠である。茶人たちの考えでは、真の芸術鑑賞は、芸術から生きた感化を生みだす者にのみ可能である。
どんな環境にあっても、心の平静を保たねばならぬ。(・・)
おのれを美しくしなければ、美に近づく権利がないからである。


岡倉天心『英文収録 茶の本』桶谷秀昭訳、講談社(講談社学術文庫)、1994年、92頁。

永遠の「現在」を生きる。

memorandum 568 共感

2017-10-11 23:17:50 | ことば
 共感の能力がある人にとって、傑作は生きた現実になり、友愛のきずなによってそこへ惹きつけられる心地がする。巨匠は死なない。その愛と不安は、幾度も繰り返して、われわれの中に生きるからである。
岡倉天心『英文収録 茶の本』桶谷秀昭訳、講談社(講談社学術文庫)、1994年、69頁。

傑作に共感することは、私たちの中で作品が生き続けることである。