何よりも先ず、我々は無益な営みを役に立つことの惨めさから解放しなければならないだろう。(・・)長らく、我々には無益な営みの内に隠れた有用性を発見しようとする嘆かわしい習慣があった。言うまでもなく、真に断たれるべき悪習はこちらの方なのだ。
というのも「……は何の役に立つのか」という問いは、自由を約束するどころか逆に自由の領域を狭め、意欲を低減させる脅迫だからである。用途の強迫観念は思考の自由な営みに介入し、好奇心を用途の重い足枷で縛りつけ、拘束しようとする。
澤野雅樹『不毛論 役に立つことのみじめさ』青土社、2001年、48-49頁。
有用性は不自由だ。
というのも「……は何の役に立つのか」という問いは、自由を約束するどころか逆に自由の領域を狭め、意欲を低減させる脅迫だからである。用途の強迫観念は思考の自由な営みに介入し、好奇心を用途の重い足枷で縛りつけ、拘束しようとする。
澤野雅樹『不毛論 役に立つことのみじめさ』青土社、2001年、48-49頁。
有用性は不自由だ。