A PIECE OF FUTURE

美術・展覧会紹介、雑感などなど。未来のカケラを忘れないために書き記します。

未読日記268 「木に潜むもの」

2009-05-30 23:32:41 | 書物
タイトル:木に潜むもの
編集:東京国立近代美術館
編集担当:三輪健仁(東京国立近代美術館)
翻訳:山本仁志
デザイン:森大志郎+松本直樹
印刷:八紘美術
発行:東京国立近代美術館
発行日:2009年
内容:
東京国立近代美術館にて開催された<木に潜むもの>(2009年3月14日~6月7日)展のブローシャ。
テキスト「木に潜むもの」中村麗子(東京国立近代美術館)
作品図版(6点)
出品リスト

頂いた日:2009年5月9日
頂いた場所:東京国立近代美術館ギャラリー4
 展覧会全体ではたった8点の出品作品だが、橋本平八作品が3点見れるというだけで、評価したい展覧会。出品作品が少ないとはいえ、階下で行っている企画展<ヴィデオを待ちながら>より、訴求力があるのはこちらの方だろう。
 圧倒的なのは橋本平八の『牛』(1934年、木/石、彩色、東京藝術大学蔵)である。この木彫、石を素材とする『牛』には誤解を恐れず言えば、並々ならぬ「生命」がある。ただの木や石が、「気」や「意志」として我々の前に現前することの神秘を思う。じっと見ていると、いつしか引き込まれ・・いや、引きずり込まれ、遠い場所へと連れ去られていってしまうようだ。見ることの恐怖と喜びのダイナミズムがこの作品には漲っている。
 そして、この作品の不思議さをさらに際立たせているのが、木彫と石という異なる素材で作られた「牛」が2点並列されて展示されているということだ。ブローシャによれば、「石に牛の姿を見出し、それを木彫にした」(p.4)と書かれている。そうすると、石の牛は作家の手によっては作られていないということになる。作家は「牛のように見えた石」を、木彫で「石の牛」を制作した、ということになる。
ややこしいが、勝手な推測をしてみるとこの作品は「牛」を制作したものではないのかもしれない。つまり、「牛のように見えた石」を制作した作品ということになるのではないか。そう、橋本平八は「石」を木彫によって制作したということになる。これを見立てというのか、再現というのかは今の私にはわからない。それに、なぜ二つの牛を並べて展示したのか、まるで双子のように仲良く置かれた作品は、同じ「牛」として存在しながら、異なる牛であることの差異を示すためであろうか。
 しかし、アニミズム的な思考を持つ橋本平八にとって、近代的な「形式」的問いは持っていなかったのかもしれない。それが、橋本平八作品が「近代美術史」という枠の中で「場違い(out of place)」な場に追いやられ、「近代」が扱いかねている理由のような気がする。だが、私にとっては、いつの時代になっても場違いなスケールで魅了されてしまうことは間違いない。

 追記:この後に、東京藝術大学大学美術館にて開催されている<芸大コレクション展 春の名品選>(2009年4月14日~6月14日)において、橋本平八作品を5点見ることができた。『牛』と同じ1934年制作の『或日の少女』(1934年、木、彩色)も、同年制作と考えると興味深い。

 さらに余談ついでに、平田宗幸という人の『茄子水滴』(制作年不詳(明治時代か?)、赤銅、鍛造、虫は四分一・銀)は、数年前から茄子の美術史を考案したいと考えている私のインスピレーションを刺激してくれたことも書き添えておこう。

Recording Words 008

2009-05-29 22:13:38 | ことば
まじめに悩み、まじめに他者と向かいあう。そこに何らかの突破口があるのではないでしょうか。とにかく自我の悩みの底を「まじめ」に掘って、掘って、掘り進んでいけば、その先にある、他者と出会える場所までたどり着けると思うのです。
(姜尚中『悩む力』集英社新書、2008年、p.42)

ここで大事な言葉は「まじめ」という言葉だ。この言葉は今ではあまりいい意味では使われないし、むしろ「まじめだね」などと言われると、からかわれているような、型物で話にならないという蔑んだような見方が込められているように感じる。
私自身も「まじめ」と言われるのが嫌で、なるべく「まじめ」にならないよう、ルーズに見えるように生きたかった。だが、いかんせん性格というのは、直しようがないもので根が「まじめ」なことは変わらない。
しかし、それも悪くはないと思うことにした。私は「まじめ」について悩み、考え、そう結論した、
と、不真面目な私は書いてみたい。

未読日記267 「No.794」

2009-05-28 22:17:12 | 書物
タイトル:リベルデュオ 2009年度版 No.794
発行:高橋書店
発行日:2009年3月1日
価格:630円
内容:
2009年4月始まり手帳No.794 リベルデュオ<シルバー>クリアカバータイプ
シンプル・イズ・ベスト!!
一ヵ月の予定がひと目でわかる優れもの。好みで選べる全8色。

4月始まり 日曜始まり
月間予定表:ブロック式
週間予定表:なし
判型:手帳判(156×91mm)
ページ数:64
月間予定表記入欄:2009年3月~2010年3月

地下鉄路線図(別紙)
別冊アドレスノート
東京・大阪近郊鉄道路線図(別紙)
切り取りメモ
横ケイメモ
年齢早見表

購入日:2009年5月7日
購入店:伊東屋 渋谷東急東横店
購入理由:
これは「書籍」ではないのだが、発行が「書店」のため、特別に取り上げたい。
いつも手帳は4月始まりを使用する。日本の慣習上、年度末区切りの方が、仕事上都合がよいということが一番の理由である。だが、昨年度使っていた手帳が今年の7月まで月間予定表が付いており、GWを過ぎてもそのまま使っていた。しかし、環境が変わったこともあり、そろそろ新しい手帳に変えようと意を決した。

そこで、売り場でさんざん調査し、選んだのがこの手帳である。決して満足しているわけではない。なお、いままでの人生で私が完璧に満足する手帳に出会ったことはない。

今回、私が手帳に求めていた条件がある。
安い、軽い、薄い、デザインがいい、月間予定表がメインであること、東京・関西圏の鉄道路線図が付いていること、以上が私が今年の手帳に求めていたものである。

そこで、今回の手帳をチェックしてみたい。
●安さ・・
 630円であれば、1000円でお釣りがくるので妥当だろう。
●軽さ・薄さ・・
 64頁+別紙のアドレス帳、手帳サイズなので軽くてよい。
●デザイン・・
 この手帳は、デザインが施されていないという点で、評価したい。
●月間予定表・・
 強いて言えば、月曜始まりが望ましい。また、2010年4月まであると、一ヵ月多く使えそうで、お得な気がするのだが、それはさすがに無理か。いままで、私は月間予定表+週間予定表のある手帳を使ってきたが、ほとんど月間予定表しか使っていないことに気づいたのだ。だから、今年からは潔く月間人として生きたいと思う。
●鉄道路線図・・
 当初、別紙という扱いが不満だったが、使ってみるといろいろな場で頁に迷うことなく取り出せるので勝手がいいことに気が付いた。そして、紙質がツルツルしていないので、駅名にマーキングしたり、書き込めるのも評価できる。手帳に多いのが、オリジナルの路線図をつけるというのがある。これが、使いにくい。また、白黒や2色などで作られているのも問題外である。地下鉄路線図など色で判断していることが多いのだから、ここは慣例にしたがってほしいと思う。また、地下鉄路線図しかつけないという手帳も必要ない。地下鉄路線圏内に住んでいる人の方が稀なのだから、乗り換えのことを考えて、広域の鉄道路線図をつけるべきだろう。
●クリアカバー・・
 意外とこれがいい。清潔感がある。個人的に、革の手帳が好きではないので、この「軽さ」「冷たさ」がいいと思う。また、クリアカバーの折り返し部分に路線図やチケットを挟み込んだり、細かい収納スペースとしても役立てられる。ある意味、平凡な手頃感と適度な愛着具合、距離感があり良好な手帳との関係が今年は築けるかもしれない。

Recording Words 007

2009-05-27 22:25:25 | ことば
今では、「ふさわしく」あること、しかるべきところに収まっている(たとえば、まさに本拠地にあるというような)ことは重要ではなく、望ましくないとさえ思えるようになってきた。あるべきところから外れ、さ迷いつづけるのがよい。決して家など所有せず、どのような場所にあっても決して過度にくつろぐようなことのないほうがよいのだ。
(エドワード・W・サイード『遠い場所の記憶 自伝』中野真紀子訳、みすず書房、2001年、p339-340)

サイードほど試練と波乱に満ちた境遇なわけはないが、私自身も自分の収まる場所に関して居心地の悪さをずっと感じてきた。だが、積極的に「Out Of Place」であることを引き受けようと今は思う。「場違い」であるからこそ、できることやれることがあったし、やってきたと思うからだ。
そう、この居心地の悪さこそ、生きることの「リアリティ」だ。それに、私が安楽できる「場」など、この世にないし、あるとしたら人と人との間に生まれるつかの間の「場」だけだろう。だからこそ、あなたといる場所と時間が大切なのだと今は感じている。

未読日記266 「フランスの野性と洗練」

2009-05-25 20:44:52 | 書物
タイトル:マティスの時代―フランスの野性と洗練
編集・発行:石橋財団ブリヂストン美術館
執筆:塩島明美
発行日:2009年4月
内容:
東京・ブリヂストン美術館にて開催されているテーマ展示<マティスの時代―フランスの野性と洗練>(2009年4月21日―7月5日)のリーフレット。
1.マティスとフォーヴィスムの出現:1905年頃まで
2.フォーヴの仲間たち:それぞれの道
3.親密なあるいは曖昧な空間:ヴァリエーション、装飾、室内、窓、空間の広がり
4.色とかたちの純粋化:拡張する画面、余白の問題、越境、即興

頂いた日:2009年5月6日
頂いた場所:ブリヂストン美術館
マティスと聞けば、まずは行ってしまう。マティスは現代絵画を見る際に、多くの視点・思考を提供してくれるのだから。その意味で今展の小企画でも得ることは大きい。布や壁紙の装飾を描きながら、「装飾」を超えているさまを見るとマティスの絵画を見ることは毎回あきない。また、マティス以外の出品作家についても、私の勉強不足もあるが、思わぬ良品に出会い充実した内容であった。


Recording Words 006

2009-05-24 23:12:14 | ことば
しかしまあ、いま生きてゐる、今日を生きてゐると、明日は、もう一つの光がさすんぢやないか。……つまり世界はこのまゝでいゝんぢやないか、……といふやうなことに、よく没頭しさうなるんです。自分で偉さうな考へをもたないで、そこらの凡人と同じやうな身になつたところに、ほんたうの天国の光がくるんぢやないかといふことを感じることがあるんです。
(正宗白鳥「文学生活の六十年」竹内整一『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』ちくま新書、2009年、p.57)

 孫引きなのだが、とても印象的な言葉だったのでここに紹介したい。
ここには、今日を生きることの、存在を肯定する思想が含まれているように感じる。しかし、「このまゝでいゝんぢやないか」と書くところにどこかなげやりなところもあり、達観しているんだか、あきらめているのだか、実に不思議な後味の言葉である。
 この文章は後半が承服しかねるのだが、「そこらの凡人と同じ」になった方が幸せなんじゃないか、という考え方はよく私も高校生の時にしていたことを思い出す。つまり、何も知らず考えず、流行に乗って、流されて生きるほうが、人が受け入れてくれるし、その方が幸せなのかもしれないと。
 例えば、テレビのお笑い番組や大ヒットしているハリウッド映画が好きと言うだけで、かなりの人と共通の話題ができて、人間関係が築けるのかも・・などと思うもののテレビは見ないし、単館系ミニシアターで上映されるアート系映画が好きで、京橋の東京国立近代美術館フィルムセンターに1950年代の日本映画特集を連日見に行くような高校生はマトモじゃないし、「そこらの凡人」と同じ身になれないと我に返るのだった。
 白鳥の言葉は本書で興味深く論じられており、こんなに恬淡な人だとは思わず興味が湧いた。かつて小林秀雄と「思想と実生活論争」を繰り広げたイメージを裏切るものである。その白鳥は大学時代に内村鑑三の影響によりキリスト教の洗礼を受けている。内村鑑三の名前がここに出てくることにも驚くが、日本の近代思想史を考えると、日本におけるキリスト教の影響というのも考察の視野に入れなければならない気がする。「しかしまあ、いま生きてゐる、今日を生きてゐると、明日は、もう一つの光がさすんぢやないか。」

未読日記265 「古今亭志ん生 弐」

2009-05-23 23:10:06 | 書物
タイトル:隔週刊CDつきマガジン 落語 昭和の名人 決定版⑨ 五代目古今亭志ん生 弐
編集人:宮本晃
監修:保田武宏
寄席文字:橘左近
CDリマスタリング:草柳俊一
アート・ディレクション:渡辺行雄
デザイン:片岡良子、姥谷英子
編集:小坂眞吾(小学館)、内田清子
制作企画:速水健司
資材:高橋浩子
制作:田中敏隆、南幸代
宣伝:長谷川一、山田卓司
販売:豊栖雅文、竹中敏雄
広告:林祐一
発行:株式会社小学館
発行日:2009年5月12日
金額:1,190円
内容:
五代目古今亭志ん生【ここんてい・しんしょう】1890~1973 弐
吞む・打つ・買う、で磨いた話芸

CD(61分)
黄金餅・・・餅は金なり
千早ふる・・・竜田川は相撲取り
二階ぞめき・・・吉原そっくり

●晩年の志ん生 倒れてもなお、稽古は続く
●CD鑑賞ガイド 奇怪な噺を明るく楽しく
落語をもっと面白くする連載3本立て
田中優子「かるたの流行」
五街道雲助「手ぬぐいの見立て」
山本進「柳派と三遊派」

購入日:2009年4月30日
購入店:福家書店 銀座店
購入理由:
志ん生の「えー」から始まる落語は、それだけで何か楽しいことが始まる気がしてならない。実際、その数秒後にはもう笑っているのだから、すべては「えー」から始まる。
今回の噺では死体をかついで、江戸を横断する『黄金餅』はアナーキーな噺だし、途中カエルの会話まで挿入される『二階ぞめき』もシュールきわまりない噺で、突拍子もない噺でも志ん生という人は、自分の「噺」にできてしまう人だ。こんな境地に至りたいものである。


Recording Words 005

2009-05-22 22:47:35 | ことば
「出来る」とは、もともと「出で来る」という意味であり、ものごとが実現するのは、「みずから」の主体的な努力や作為のみならず、「おのずから」のはたらきにおいて、ある結果や成果が成立・出現することによって実現するのだという受けとめ方があったがゆえに、「出で来る」という言葉が「出来る」という可能の意味をもつようになったとされているものです。
(竹内整一『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』ちくま新書、2009年、p.138)

そう、この「おのずから」というはたらきが重要なのだ。私がいま親鸞に関心を抱いているのも「「凡夫」である自己の一切のはからいを捨てて、阿弥陀仏の「不可思議」なはたらきに身を与けようとした」(本書p.58)からだし、他にも森鷗外の「諦念 resignation」や夏目漱石の「則天去私」もまた同じく「おのずから」というはたらきが認められるだろう。そして、これらの思考には「みずから」の自覚的な意識を含んだ「あきらめ」としての「おのずから」があり、ここには「おのずから」と「みずから」のどちらかに簡単には解消されない「あわい」がある。この微妙なパワーバランスの上に成り立つ「出来る」(出で来る)ことの不思議さ。「おのずから」私にも「出来る」ようになりたいが、今は「出で来る」のを待つしかないか・・。

未読日記264 「最後の親鸞」

2009-05-21 22:08:41 | 書物
タイトル:最後の親鸞
著者:吉本隆明
カバーデザイン:菊地信義
装幀者:安野光雅
発行:筑摩書房/ちくま学芸文庫
発行日:2002年9月10日
内容:
親鸞の思想は、直弟子たちの聞書きなどに書きとめられた言葉によって、死後はるかな時間をへだててしだいにその巨きな姿をあらわした。非僧非俗の境涯に集約されるその知の放棄の方法はどのようなものだったのか? 宗教以外の形態では思想が不可能であった時代に、仏教の信を極限まで解体し、善悪の起源とその了解について思考の涯てまで歩んでいった親鸞の姿を、著者は全身的な思想の集注で描ききっている。 解説 中沢新一
(本書カバー裏解説より)

購入日:2009年4月24日
購入店:DORAMA 下北沢PART6店
購入理由:
祖母の葬儀の時、宗派が浄土真宗であったことを知った。折に触れ浄土真宗の葬儀のやり方、お経や言葉などに触れていくうち、その思想の巨大さを実感し始めている自分がいた。それまで、そういったことに関心があったわけではない。そこで、浄土真宗の宗祖といえば親鸞であることから、親鸞について書かれた本を読もうと思い、浮かんだのが本書であった。今年は何となく吉本隆明を読もうと思っていた矢先だったことから不思議な偶然を感じた。どこか古本屋にないかしらんと探していたが、ふらりと入った古本屋で見つけることができた。この機会に宗教を思想としてとらえることで、親鸞思想を考えてみたい。
 なぜ、いま親鸞なのだろう。別に祖母が信心深い人だったわけではないのだが、なぜ祖母が浄土真宗だったのかを考えてみることで、祖母の人生を別のまなざしから見ることができればと思うし、祖母をきっかけとして宗教というものを考えてみるのも必然性があって興味深いと個人的に思うのだった。そもそも自分の祖母(家族)がどんな宗教を信じていたのかを知ることはそんなに不思議なことではない。 そんな流れで最近は親鸞や浄土真宗についてよく考えていて、名古屋市博物館で本願寺展を見たり、京都の西本願寺、東本願寺へリサーチをしたりしている。そのせいか、ここのところ親鸞や浄土真宗に関する情報を得ることが多い。そんな偶然のひとつで本日(5月21日)は親鸞の誕生日だということを昨日、築地本願寺へ行った際に知った。

未読日記263 「柴田元幸ハイブ・リット」

2009-05-21 22:00:30 | 書物
タイトル:柴田元幸ハイブ・リット
編訳者:柴田元幸
装幀:吉田篤弘・吉田浩美(クラフト・エヴィング商會)
英文校正:Peter Branscombe/Owen Schaefer/Joel Weinberg
協力:佐伯弘美(朗読コーディネート)/大村麻紀子(デザイン)
DTP:株式会社秀文社
印刷所:図書印刷株式会社
音声編集:安西一明
CD制作:株式会社学習研究社
発行:株式会社アルク
発行:2009年1月19日第2刷(2008年11月30日初版発行)
定価:2,381円+税
内容:
名翻訳家がひらく英語と文学へのゲートウェイ
・対象レベル:中級から(英検2級/TOEIC TEST600程度)
・CD2枚付き 収録分数:A 60分/B 48分 収録言語:英語

英文(アメリカ短編小説)+翻訳(日本語)+作者の朗読(英語)=
柴田元幸先生が作った一生使える「英語の教科書」

オースター、レベッカ・ブラウン、ケリー・リンク、ダイベック、ユアグロー、ミルハウザーの短編小説を収録。

本書収録作品
HAPPY BIRTHDAY by Barry Yourgrau
FOILE A DEUX by Rebecca Brown
THE GREAT DIVORCE by Kelly Link
PET MILK by Stuart Dybek
SNOWMEN by Steven Millhauser
AUGGIE WREN’S CHRISTMAS STORY by Paul Auster

購入日:2009年4月24日
購入店:ジュンク堂書店 新宿店
購入理由:
これはすばらしい。英語を学びたいと考えている文学好きな人にとって、本書はうれしいコンセプトだろう。現代アメリカ文学の著者たちの短編小説が原文と翻訳それぞれが収録された上に、著者本人による朗読までついているのだからたまらない。本にCDが付くことが珍しくなくなった昨今、巷に溢れている英語本のほとんどは面白みのない勉強教材CDだった。だが、本書は違う。「勉強」という学習面もありつつ、文学に触れるという本質的な目的も味わえるのだ。何のために英語を学ぶのかと言えば、英語の本を読みたかったり、英語で会話したかったりすることが本来の目的であるはずなのに、英語教材のつまらなさは、多文化を多言語によって知る喜びを削減している。
 また、本書を購入したのはただの英語学習という目的だけではもちろんない。落語、現代詩とCDマガジン、CDブックを購入してきた過程で、今度は英語の「声」という存在を味わってみたいと思ったことも理由のひとつだ。朗読者が著者本人なので、その点もプロが読むより、個性があって楽しい。ぜひ、今度は評論やエッセイなどの著作でも出してほしい。現役作家じゃなくても、ジョニー・デップがニーチェを読むとか、ナオミ・ワッツがスーザン・ソンタグを読むとか、そういうプロジェクトなども楽しいだろう。これだったら難しい哲学書も憧れのスターの声を聞いているだけで楽しく理解できてしまうかも?