タイトル:木に潜むもの
編集:東京国立近代美術館
編集担当:三輪健仁(東京国立近代美術館)
翻訳:山本仁志
デザイン:森大志郎+松本直樹
印刷:八紘美術
発行:東京国立近代美術館
発行日:2009年
内容:
東京国立近代美術館にて開催された<木に潜むもの>(2009年3月14日~6月7日)展のブローシャ。
テキスト「木に潜むもの」中村麗子(東京国立近代美術館)
作品図版(6点)
出品リスト
頂いた日:2009年5月9日
頂いた場所:東京国立近代美術館ギャラリー4
展覧会全体ではたった8点の出品作品だが、橋本平八作品が3点見れるというだけで、評価したい展覧会。出品作品が少ないとはいえ、階下で行っている企画展<ヴィデオを待ちながら>より、訴求力があるのはこちらの方だろう。
圧倒的なのは橋本平八の『牛』(1934年、木/石、彩色、東京藝術大学蔵)である。この木彫、石を素材とする『牛』には誤解を恐れず言えば、並々ならぬ「生命」がある。ただの木や石が、「気」や「意志」として我々の前に現前することの神秘を思う。じっと見ていると、いつしか引き込まれ・・いや、引きずり込まれ、遠い場所へと連れ去られていってしまうようだ。見ることの恐怖と喜びのダイナミズムがこの作品には漲っている。
そして、この作品の不思議さをさらに際立たせているのが、木彫と石という異なる素材で作られた「牛」が2点並列されて展示されているということだ。ブローシャによれば、「石に牛の姿を見出し、それを木彫にした」(p.4)と書かれている。そうすると、石の牛は作家の手によっては作られていないということになる。作家は「牛のように見えた石」を、木彫で「石の牛」を制作した、ということになる。
ややこしいが、勝手な推測をしてみるとこの作品は「牛」を制作したものではないのかもしれない。つまり、「牛のように見えた石」を制作した作品ということになるのではないか。そう、橋本平八は「石」を木彫によって制作したということになる。これを見立てというのか、再現というのかは今の私にはわからない。それに、なぜ二つの牛を並べて展示したのか、まるで双子のように仲良く置かれた作品は、同じ「牛」として存在しながら、異なる牛であることの差異を示すためであろうか。
しかし、アニミズム的な思考を持つ橋本平八にとって、近代的な「形式」的問いは持っていなかったのかもしれない。それが、橋本平八作品が「近代美術史」という枠の中で「場違い(out of place)」な場に追いやられ、「近代」が扱いかねている理由のような気がする。だが、私にとっては、いつの時代になっても場違いなスケールで魅了されてしまうことは間違いない。
追記:この後に、東京藝術大学大学美術館にて開催されている<芸大コレクション展 春の名品選>(2009年4月14日~6月14日)において、橋本平八作品を5点見ることができた。『牛』と同じ1934年制作の『或日の少女』(1934年、木、彩色)も、同年制作と考えると興味深い。
さらに余談ついでに、平田宗幸という人の『茄子水滴』(制作年不詳(明治時代か?)、赤銅、鍛造、虫は四分一・銀)は、数年前から茄子の美術史を考案したいと考えている私のインスピレーションを刺激してくれたことも書き添えておこう。
編集:東京国立近代美術館
編集担当:三輪健仁(東京国立近代美術館)
翻訳:山本仁志
デザイン:森大志郎+松本直樹
印刷:八紘美術
発行:東京国立近代美術館
発行日:2009年
内容:
東京国立近代美術館にて開催された<木に潜むもの>(2009年3月14日~6月7日)展のブローシャ。
テキスト「木に潜むもの」中村麗子(東京国立近代美術館)
作品図版(6点)
出品リスト
頂いた日:2009年5月9日
頂いた場所:東京国立近代美術館ギャラリー4
展覧会全体ではたった8点の出品作品だが、橋本平八作品が3点見れるというだけで、評価したい展覧会。出品作品が少ないとはいえ、階下で行っている企画展<ヴィデオを待ちながら>より、訴求力があるのはこちらの方だろう。
圧倒的なのは橋本平八の『牛』(1934年、木/石、彩色、東京藝術大学蔵)である。この木彫、石を素材とする『牛』には誤解を恐れず言えば、並々ならぬ「生命」がある。ただの木や石が、「気」や「意志」として我々の前に現前することの神秘を思う。じっと見ていると、いつしか引き込まれ・・いや、引きずり込まれ、遠い場所へと連れ去られていってしまうようだ。見ることの恐怖と喜びのダイナミズムがこの作品には漲っている。
そして、この作品の不思議さをさらに際立たせているのが、木彫と石という異なる素材で作られた「牛」が2点並列されて展示されているということだ。ブローシャによれば、「石に牛の姿を見出し、それを木彫にした」(p.4)と書かれている。そうすると、石の牛は作家の手によっては作られていないということになる。作家は「牛のように見えた石」を、木彫で「石の牛」を制作した、ということになる。
ややこしいが、勝手な推測をしてみるとこの作品は「牛」を制作したものではないのかもしれない。つまり、「牛のように見えた石」を制作した作品ということになるのではないか。そう、橋本平八は「石」を木彫によって制作したということになる。これを見立てというのか、再現というのかは今の私にはわからない。それに、なぜ二つの牛を並べて展示したのか、まるで双子のように仲良く置かれた作品は、同じ「牛」として存在しながら、異なる牛であることの差異を示すためであろうか。
しかし、アニミズム的な思考を持つ橋本平八にとって、近代的な「形式」的問いは持っていなかったのかもしれない。それが、橋本平八作品が「近代美術史」という枠の中で「場違い(out of place)」な場に追いやられ、「近代」が扱いかねている理由のような気がする。だが、私にとっては、いつの時代になっても場違いなスケールで魅了されてしまうことは間違いない。
追記:この後に、東京藝術大学大学美術館にて開催されている<芸大コレクション展 春の名品選>(2009年4月14日~6月14日)において、橋本平八作品を5点見ることができた。『牛』と同じ1934年制作の『或日の少女』(1934年、木、彩色)も、同年制作と考えると興味深い。
さらに余談ついでに、平田宗幸という人の『茄子水滴』(制作年不詳(明治時代か?)、赤銅、鍛造、虫は四分一・銀)は、数年前から茄子の美術史を考案したいと考えている私のインスピレーションを刺激してくれたことも書き添えておこう。