A PIECE OF FUTURE

美術・展覧会紹介、雑感などなど。未来のカケラを忘れないために書き記します。

memorandum 279 学問

2016-04-30 23:48:24 | ことば
学問とは知覚でなければならない、旅立ちでなければならない。一つものは、そこにみられるほんとうの関係を通して、われわれをもう一つのものへ、さらに他の無数のものへと導くものである。こうした河の渦巻きを見ることが君の考えを風に、雲に、遊星に運んで行く。ほんとうの学問は自分の目のすぐ近くにある小さなものにはけっしてもどらない。なぜなら、知るというのは、どんな小さなものでも全体とつながっているというその構造を理解することであるから。どんなものでもその存在理由を自己のうちにはもっていない。こうして正しい動きによって、我々は自分自身から遠ざかる。
アラン『幸福論 (岩波文庫)』神谷幹夫訳、岩波書店、1998、174頁.


研究すればするほど変わっていく。他の無数のものへ導かれていく。自分から遠ざかるため、小さな身近なものにもどらないように。

memorandum 278 遠くを見よ

2016-04-29 23:27:16 | ことば
憂鬱な人に言いたいことはただ一つ。「遠くをごらんなさい」。憂鬱な人はほとんどみんな、読みすぎなのだ。人間の眼はこんな近距離を長く見られるようには出来ていないのだ。広々とした空間に目を向けてこそ人間の眼はやすらぐのである。夜空の星や水平線をながめている時、眼はまったくくつろぎを得ている。眼がくつろぎを得る時、思考は自由となり、歩調はいちだんと落ち着いてくる。全身の緊張がほぐれて、腹の底まで柔らかくなる。自分の力で柔らかくしようとしてもだめなのだ。君の意志が君の中にあって、君に対して注意を払い、すべてをあらぬ方へ引っ張り、しまいには自分の首をしめてしまう。自分のことなど考えるな、遠くを見るがいい。
アラン『幸福論 (岩波文庫)』神谷幹夫訳、岩波書店、1998、172頁.


遠くを、遠くへ、視線も思考も遠くみよう。

memorandum 277 始めている仕事

2016-04-28 23:25:37 | ことば
つまらぬ仕事などはないのだ、いったんやり出したならば。それは人の知るとおりだ。彼はみんな、仕事を想像するのはもういいと言い、控え石の発見に必死なのである。刺繍もはじめの幾針かはあまり楽しくもない。しかし、縫い進むにつれて、その楽しみが加速度的に倍加する。だからほんとうに、信じることが第一の徳であって、期待することは第二の徳に過ぎないのだ。なぜなら、何ひとつ期待することなく始めなければならないからだ。期待がやってくるのは、仕事がはかどって、状況が進展してからである。仕事に即して現実の計画が生まれてくるものだ。
アラン『幸福論 (岩波文庫)』神谷幹夫訳、岩波書店、1998、170頁.


まだ楽しくならない。期待はしてないが、期待外れなことが多い。

【お知らせ】展覧会「High-Light Scene」

2016-04-27 23:24:25 | お知らせ
この度、京都・Gallery PARCにて展覧会のキュレーションさせて頂きます。
昨年、大阪・サイギャラリーにて企画しました「光路」に続いて、「光」をテーマとした展覧会となります。

 今展では、映像や放送番組などで最も劇的な場面を指して使われる「ハイライトシーン」という言葉を手がかりに、大洲 大作、竹中 美幸、中島 麦の3名のアーティストの作品における「ハイライト」に着目します。

【開催概要】
High-Light Scene
2016年5月4日(水)~5月22日(日)[月曜休] 
11:00 ~ 19:00 *金曜日は20:00まで

企画:平田剛志
出品作家:大洲大作竹中美幸中島麦

会場:Gallery PARC
〒604-8082 京都市中京区三条通御幸町弁慶石町48三条ありもとビル [ル・グランマーブル カフェ クラッセ] 2階
阪急河原町駅より徒歩10分 / 三条京阪駅より徒歩10分
地下鉄東西線京都市役所前駅より徒歩3分
Tel・Fax:075-231-0706 
http://www.galleryparc.com/

協力:サイギャラリーGallery OUT of PLACE
助成:アーツサポート関西

*関連イベント
5月4日(水・祝)12:00~18:00
「Open Draw-ing」中島麦
・上記の時間内、会場内にて中島麦が断続的にドローイングを描きます。

5月5日(木・祝)
先着順で「Hi」ライトなプレゼントを贈呈。(数に限りがあります。ご了承下さい)

5月22日(日)16:00~
「High-light Talk」大洲大作、竹中美幸、中島麦、平田剛志
・企画者、出展者が全員そろってのトークイベントです。


以下、展覧会によせてのテキストです。

―――――

High-Light Scene
平田剛志

 光も風景も、いつも日常にあるのに見逃しています。今日、私は日々の傍らに降りそそいだ「光」を見たでしょうか。今日のハイライト(見所)ではなく、「ハイ-ライト」を。
本展「High-Light Scene」は、3人のアーティストの作品を通じて、日々見過ごしている光(ハイライト)にあらためて目を向けてみる展覧会です。

 「ハイライト」には2つの用例があります。
 ひとつは映像や放送番組、小説において最も重要な、または感動的な部分や場面、見せ場、見どころを指す「ハイライトシーン」です。映画やドラマ、演劇やコンサートからスポーツまで、「ハイライトシーン」を通じて私たちは物語や試合の内容、結果を知ることができるのです。転じて、ある一日または旅行や祭り、冠婚葬祭などにおいて印象的な出来事やエピソードを「ハイライト」と呼び、過去を想起・回想してもいるでしょう。「ハイライト」とは、過去を照らす光でもあるのです。
2つ目は、絵画用語としての「ハイライト」です。光のあたった最も明るい部分を白や黄色の絵具などで浮き立たせる「ハイライト」は、光沢やテクスチュアを再現する光学的な表現技法として15世紀のフランドル絵画において確立され、現在では写真やマンガまでハイライトが効果的に使われています。

 以上のように、「ハイライト」には、一方では非日常的な見どころや見せ場、他方ではこの地上を照らす日常的な「光」を再現・模倣する言葉として、まったく異なる意味があるのです。
「ハイライト」は、岡田温司が「ハイライトの逆説」と呼ぶように、二面性があります。例えば、絵画における「ハイライト」は自然な光の再現描写ですが、ハイライトそのものは白や黄色の絵の具の塊りでしかありません。鑑賞者は人物や物質に反射・反映する「ハイライト」を見ているのか、絵の具の塊を見ているのか、ともすればハイライトは絵の具が物質として知覚されてしまう可能性を孕んでいるのです。この「ハイライト」の二面性は、「再現されたものと再現の媒体」、模倣と反模倣、フォルムとアンフォルムという対極的なイメージの揺らぎをもたらすことでしょう。それは今展における3人の作家にも通じるものです。

 大洲大作(1973年大阪生まれ)は、主に列車の車窓を過ぎる一瞬間の光のシークエンスを捉えた写真作品を制作してきました。大洲の「光のシークエンス」は光の「ハイライトシーン」でもありますが、本展では車窓とは異なる日常の「ハイ-ライトシーン」を捉えた未発表・新作のプリント写真およびスライドプロジェクションを出品します。スライド映写機の光源を通じてスクリーンに映し出される「光」は、「それは=かつて=あった」ハイライトの存在を明かすことでしょう。


 竹中美幸(1976年岐阜生まれ)は、水彩、アクリル樹脂を用いた平面・立体作品を手がけ、(半)透明を介在した光と影、重層的な視覚の揺らめき、瑞々しさを視覚化してきました。近年は映画フィルムを素材に、暗室の闇のなかでフィルムに光を留めた作品を制作しています。映画フィルムというシークエンスに刻まれた色彩は、展示空間に差し込む光(と影)とも合わさり、私たちそれぞれの「ハイ-ライトシーン」へと続いていくことでしょう。

 中島麦(1978年長野生まれ)はストロークの集積・蓄積から生れる絵画やドローイングを制作してきました。近年は、ドリッピング、ポーリングによる偶然性を取り込んだ絵画制作を行なっています。中島の作為と無作為、偶然と必然、カオスとコスモスがせめぎ合う画面には、描く行為の痕跡と絵の具の物質性が刻まれた「ハイライトシーン」が形成されています。今展では、大洲大作の写真作品を素材とした新作ドローイング(5/4に公開制作)、および新作のキャンバス作品を出品します。

 今展で鑑賞者が見るのは、カメラが捉えた光(ハイライト/シーン)であり、過ぎゆく光や色彩をフィルムやキャンバスに留めた「ハイライトシーン」です。3人の作品が展示空間にどのような「光景」を見せるのか、新緑まぶしい5月の「High-Light Scene」をお楽しみください。




未読日記1179 『光の子ども2』

2016-04-26 23:27:32 | 書物
タイトル:光の子ども 2
著者:小林エリカ
ブックデザイン:五十嵐哲夫
校正:藤井豊
発行:東京 : リトルモア
発行日:2016.2
形態:201p ; 21cm
内容:
個々の人々の想いと、歴史のうねり。
小林エリカさんは近い将来、
この国の最も重要な表現者の一人になるだろう。
――中村文則(帯コメントより)


小説「マダム・キュリーと朝食を」で芥川賞・三島賞候補となった小林エリカがひもとく〈放射能〉の歴史。
マンガ表現の最先端がここにある。

―― “希望の光”はいかにして兵器となり、歴史的悲劇をもたらしたのか。
1898年、マリ・キュリーによって名付けられた〈放射能〉と、今日直面するエネルギー問題のつながりを、2011年生まれの光少年と猫のエルヴィンが案内します。

目次
E=mc2
TRIUMPH des LICHTES über die FINSTERNIS
FISSION
QUO VADIS
isotope
History
Map & Guide
Book List

購入日:2016年4月25日
購入店:丸善 京都本店
購入理由:
 1巻目と同じく、4月24日朝日新聞朝刊に掲載された大竹昭子さんの書評を読み、「High-Light Scene」展の参考文献として購入。
「ハイライト」は放射能の「光」とは関係ないが、「希望の光」ではあると考えたい。
科学は希望の「光」として放射能を作ったが、美術は「ハイライト」を作った。
その「ハイライト」に私たちは何を見るのだろう。何を見てきたのだろう。



未読日記1178 『光の子ども1』

2016-04-25 23:24:28 | 書物
タイトル:光の子ども 1
著者:小林エリカ
ブックデザイン:五十嵐哲夫
校正:藤井豊
発行:東京 : リトルモア
発行日:2013.12
形態:183p ; 21cm
内容:
1900年のパリの万博と21世紀の福島はつながっている.
キュリー夫人が発見した放射性の物質の歴史を光少年と猫のエルヴィンが案内してくれる.

希望と不安.半減期.

それは生きものの体に刻まれた時間だ.
タイム・リミット. まだ間に合う? まだ?

―― 萩尾望都(帯コメントより)

“放射能”をテーマに描いた、小林エリカ渾身の新作コミック。
“放射能” それはいつ、どこから、どうやって、ここに来たのか?
いまから115年前、科学者マリ・キュリーによって名づけられた“放射能”。
マリが「わが子」と呼んだ、幻想的な青白い光を放つ新元素ラジウムは、本当に人類の希望だったのか?
マンハッタン・プロジェクト、広島・長崎、スリーマイル、チェルノブイリ、そして…。
2011年の日本に生まれた主人公“光”と、猫の“エルヴィン”を通じて、“放射能”の歴史がひもとかれていく。
史実とフィクションを交えた物語。センシティブかつ強烈な意欲作。

目次
LUMINOUS
Marie
dollar
METROPOLITAN
HALF-LIFE
88
History
Map & Guide
Book List

購入日:2016年4月25日
購入店:丸善 京都本店
購入理由:
 4月24日朝日新聞朝刊に掲載された大竹昭子さんの書評を読んで、「High-Light Scene」展の参考になるかもと考え購入。会期が迫っていることもあり、「光」に反応してしまう。
マンガはほとんど読まないので疎いのだが、放射能をテーマとするマンガがあるとは思わなかった。絵柄の好みがあるので、買うか一瞬迷ったが、この時期に知ったのも出会いである。



memorandum 275 ヘラクレス

2016-04-23 23:29:38 | ことば
 すべてのものがわれわれには障害である。もっと正確にいえば、すべてのものは無関心であり、何のかかわりもないのだ。大地の表面は人間の営みがなければ藪と疾病になる。敵でもないが、味方でもないのだ。人間の味方をしてくれるのは人間の営みだけである。希望があるから、不安が生まれるのだ。
アラン『幸福論 (岩波文庫)』神谷幹夫訳、岩波書店、1998、93-94頁.

希望や期待を抱いてしまうから、不安や焦燥にかられる。わかってはいたし、わかってはいるのだが、無関心になれない現実がある。

memorandum 274 未来は考えない。

2016-04-22 23:22:39 | 書物
 ぼくの考えをいうと、未来は考えないで、目の前のことだけを見ている方が好きだ。ぼくは占い師に自分の手相を見せに行かないばかりでなく、事物の本性のなかに未来を読もうともしない。なぜなら、われわれがどんなに物知りになり得るとしても、われわれの目がそう遠くまで届くとは思わないから。だれの身に起ころうと重要な出来事はすべて予測を超えていて、予見できないものだと知った。好奇心がなおったとしても、おそらくまだ用意周到の慎重さをなおす必要がある。
アラン『幸福論 (岩波文庫)』神谷幹夫訳、岩波書店、1998、91頁.

人生なんて、予測、予見できないことしか起きない。

memorandum 273 みんな歩き出している。

2016-04-21 23:30:26 | ことば
だれも選んではいない。みんな歩き出している。どんな道もいい道なのだ。思うに、処世術とはなににもましてまず、自分とけんかをしないことである。自分が下した決心や今自分のやっている仕事において。自分とけんかをするのではなく、自分の決心や職業をりっぱにやってのけることだ。われわれは出来上ったこれらの選択、われわれ自身が選んだのではない選択の中に、宿命をみたがるものだが、これらの選択はわれわれを拘束するものではない。なぜなら、悪い運命などないから。どんな運命もそれをよいものにしようと欲するならば、よい運命となるのだ。自分自身の性質についてとやかく言うことほど自分の弱さをあかししているものは何もない。だれも選びとることはできない。天から与えられたものはじつに豊かなものだから、どんな大きな野心をもつ者にも満足を与える。必然を美徳とすることこそ、美しい仕事、偉大な仕事なのだ。
アラン『幸福論 (岩波文庫)』神谷幹夫訳、岩波書店、1998、80頁.

歩きだした道は、必然の道かもしれない。