A PIECE OF FUTURE

美術・展覧会紹介、雑感などなど。未来のカケラを忘れないために書き記します。

未読日記123 「忘却録」

2007-10-30 23:24:01 | 書物
タイトル:忘却録
著者:浜田涼
発行:富士ゼロックス株式会社アート・バイ・ゼロックス
発行日:2007年7月26日
内容:
2007年7月26日-8月15日に東京・六本木のアート・バイ・ゼロックス ギャラリーにおいて開催された<浜田涼「忘却録」>展のカタログ。

テキスト「イラつく写真」村田真(美術ジャーナリスト)
作品図版21点、作家略歴収録。すべて英文あり。

浜田涼web site http://www.hamadaryo.com/

入手日:2007年10月24日
作家の方より郵便で頂いたもの。
浜田涼の作品は焦点の合わないピンボケした写真をメディウムやフィルム、アクリル板で覆いをかける手法で制作されている。ソフトフォーカス系の作品を制作する作家はかなりいるので浜田涼の仕事も一見そのような流れに組み込まれてしまうかもしれない。
しかし、ブレた写真にさらにフィルムやアクリルで覆いをかけることで、ブレた写真が発するイメージをさらに消し去ろうとする仕掛けは浜田涼の作品ぐらいしか私は知らない。

今回の展示では、フィルムによって覆われた「landscape」「sensibilia」シリーズの展示が特に印象的だ。図版を見るとわかりやすいが、壁から作品が現れているような、いや、消え去ろうとしているような展示なのだ。写真の撮り方もあるのだろうがこの消えていくような残像感はなぜか恐怖感よりやわらかさ、あたたかさがあり不思議な感覚に襲われる。
フィルムを覆いとして使用した作品は、非常に繊細な展示のために多々難しい点もあるのだが、会場全体が光で覆われた環境で作品を見てみたいと夢想する。作品は焦点の合わないレンズを通し、その写真は不透明なフィルムやメディウム、アクリル板で覆われ、さらにそれを見る観客と作品を光が包み込む。そのとき、わたしが見るのは忘却の彼方にあった「写真」なのかもしれない。


浜田涼 展覧会情報

寿限無2007展-DocuART-
2007年11月3日(土・祝)-11月24日(土)
アート・バイ・ゼロックスギャラリー

ブック・アンデパンダン
2007年11月23日(金・祝)-12月24日(月・祝)
芦屋市美術博物館


未読日記122 「京都」

2007-10-29 23:49:13 | 書物
タイトル:でっか字まっぷ 京都
表紙デザイン:安藤久美子
発行:昭文社
発行日:2007年
内容
河原町から錦市場・三条は1/3,000で施設・店舗名まで分かる超詳細図を新規採用、市内主要部は1/5,000メッシュ図で詳細に収録。1/15,000メッシュ図は旧版より南に拡大、石清水八幡宮・宇治市大久保までを収録。
(昭文社ホームページより)

購入日:2007年10月24日
購入店:有隣堂 アトレ新浦安店
購入理由:
京都に出かけるため、ガイドブックをいろいろ物色していた。だが、余計な雑記事が多く使い物にならない。ならば地図を1冊買って眺めている方が何億倍もいいと思い手軽な新書判サイズの本書を購入。
私は地図好きである。大学の卒論も地図論なので、したがって地図にはうるさい。今回私が地図に求めた条件は以下の通り。

1、バス路線図があること。
2、字が大きいこと。
3、目的の場所がわかりやすく掲載されているかどうか。

この3点をチェック項目としたが、従来どおり紙質、デザイン、フォント、重さなどを無意識条件として加算した。
この昭文社の「でっか字まっぷ」シリーズは字が大きく、色使いや記号もわかりやすい。また、今回の京都行きはバスを中心とした移動になると想定していたため、バス路線図がほしかったのだが、膨大にある京都のバス路線を2Pにまとめるのは至難の技だったようで、ここだけ字が小さい(笑)時刻表もついているとさらに便利だが、バスは頻繁に来る、焦らず旅したいと考え時刻表は却下。
3は光悦寺をキーワードに検索した。
ここまで詳細に選んで購入したから満足していると思われるかもしれないが、けっして満足しているわけではない。なにせ電車の出発時間までの空き時間と書店の品揃えの悪さという悪条件下での地図探しだったからだ。次はもっといい京都地図を手に入れたいが、とりあえずこの地図に書き込み、貼り付け、スクラップして自分の地図にしていくこととする。


未読日記121 「熊野 雪 桜」

2007-10-25 22:12:03 | 書物
タイトル:鈴木理策 熊野、雪、桜
企画・監修:東京都写真美術館
ブックデザイン:秋山伸+松井健太郎(Schtucco)
発行:淡交社
発行日:2007年9月14日
内容:
(2007年9月1日-10月21日に東京都写真美術館において開催された「鈴木理策 熊野、雪、桜」展の展覧会カタログ。)

熊野から雪、そして桜へ―
鈴木理策のまなざしを紡いだ待望の写真集

鈴木理策は1963年和歌山県生まれ。故郷である熊野やその周辺を題材にした作品で、第25回木村伊兵衛写真賞を受賞。2003年に国際デビューを果たして以降は、風景写真の新時代をになうアーティストとして、海外でも急速に評価が高まっています。
東京都写真美術館の個展「鈴木理策 熊野、雪、桜」の公式カタログとして刊行された本書は、熊野、桜をテーマにした代表的な連作と、雪をモチーフにした新作≪White≫から約80点を収録し、作家の継続的なまなざしを紹介するものです。
(本書帯より)

論考
「崇高と空白」鷲田清一(哲学者、大阪大学総長)
「瞬間と悠久を行き交う写真 熊野を原点として」丹羽晴美(東京都写真美術館学芸員)

購入日:2007年10月13日
購入店:東京都写真美術館 NADiff × 10
購入理由:
夜闇にマッチの明かりが灯る写真から展覧会は始まる。そこからは灯りを求める虫のように鈴木理策の写真の世界へと急速に引き寄せられていく。いままであった雑念は遠く退き、いま眼の前にある熊野、雪、桜しか私の前にはなかった。展覧会は熊野、雪、桜へと美しいグラデーションを描く。観客はその流れに身をまかせるだけでいい。余計なキャプションも解説パネルも音声ガイドもこの展覧会にはいらない。なぜなら作品が言葉を持ち、発する声を観客を読み、聞き取ればいいからだ。

この展覧会の一番のハイライトは新作の≪White≫だろう。
おそらく今年度の展覧会において、この≪White≫は屈指の空間を出現させた。この空間では観客は全身で写真を受け止めることになる。雪の白、床・壁の白、印画紙の白・・。この白の洪水の中で鈴木理策の写真は雪が持つ陰影さえ写し取ろうとする。この白を見続けているうちに私はロバート・ライマンの絵画を思い浮かべた。そう、この白は何も写っていないわけではない。この白は「余白」の白ではないのだ。

未読日記120 「冨井大裕」

2007-10-24 23:21:12 | 書物
タイトル:αmプロジェクト2007 ON THE TRAIL Vol.2 冨井大裕
デザイン:長内研二、河野伊央
発行:武蔵野美術大学
発行日:2007年10月2日
内容:
2007年10月2日-10月13日に東京・京橋のart space kimura ASK?にて開催された<αmプロジェクト2007 ON THE TRAIL Vol.2 冨井大裕>展の展覧会カタログ。

論考
「架空の通販カタログには…」鷹見明彦(美術評論家/αmプロジェクト2007キュレーター)
作品図版26点、作家略歴収録。

入手日:2007年10月13日
入手場所:art space kimura ASK?
100円ショップなどで手軽に手に入りそうな日用品を使ってミニマルな彫刻/インスタレーションを制作する冨井大裕の展覧会リーフレット。掲載されている作品図版はすべて展示されているわけではないが、初期から最近作までの図版が掲載され資料としては充実した仕上がり。
冨井の作品に私が関心を持ったのは今年art & river bankで行われた個展においてだった。この展覧会は<世界のつくりかた>と題され、梱包された作品とその作品の展示図面、指示書が展示され観客は図面と梱包された作品のユニットから、いまだ見えざる作品を想像するというものだった。
作家である「私」でなくとも作品は設置可能であるという挑発とも思えるような奇抜な展示に、美術の制度と作品の成立を問う精神が見え隠れし刺激的な展覧会となっていた。これだけ書くとコンセプチュアルな内容に見えるが、その展示自体が、ただ置かれているように見えながら「作品」となっているところに冨井の思考の積み重ねが感じられる内容となっていた。
その後のswitch pointでの個展では最小な材料による最小な「彫刻」が出現しており、久しぶりに「彫刻」を見たという気がした。日用品を素材とした作品を制作する作家は多いが、散らかしっぱなしのインスタレーションという印象は拭えない。だが、冨井の作品は小手先遊びのレディメイドでも散らかしっぱなしのインスタレーションでもなく(本人の思惑は別として)それは「彫刻」だった。
反復と集積と集合。やっていることはとてもシンプルでときにユーモアを感じさせるが、その作品には一貫した倫理のような厳しさが感じられる。「倫理」という言葉が正しいのかはわからないが、その姿勢こそが冨井の作品を昨今流行の「笑い」やポップから距離を置くことになっているのだろう。高柳恵里、田中功起らにも同じような姿勢が感じられ、この名づけえぬ日常のまなざしをまずは受け止めていきたい。

未読日記119 「PUNCTUM TIMES」

2007-10-23 23:33:16 | 書物
タイトル:PUNCTUM TIMES No.004 SEPTEMBER 2007
編集長:寺本一生
ロゴ・デザイン:仲條正義
表紙写真:鈴木理策
発行:PUNCTUM TIMES
発行日:2007年8月31日
内容:
東京・京橋にあるギャラリー・PUNCTUM(プンクトゥム)が発行している無料の季刊誌。
新聞紙サイズ(ブランケット判)/16P/一部カラー/3000部

■ 特集:鈴木理策
□ インタビュー by 竹内万里子
□ インタビュー by 後藤繁雄
□ 対談:大森克己×鈴木理策
□ 作品掲載(新作「雪」ほか代表作)
□ 新作撮影同行取材

■ 連載
□ 新しい写真を旅するための地図(3)竹内万里子×後藤繁雄
□ BEHIND THE PHOTOGRAPHY(4)ひとつぼ展 ディレクター 大迫修三氏
□ 在本彌生 エッセイ+写真(4)
□ 竹内万里子 『写真と言葉のあいだ』(3)
□ 塩田正幸 新作写真(4)
□ 上田和彦『アートと資本主義』(4)
□ 小林杏『! PHOTO POP! 写真の国メキシコ』(2)
□ oko『ロンドン通信』(2)
□『introducing NEW ARTISTS』(2)佐藤路子

■ プンクトゥム ギャラリーインフォメーション
(PUNCTUMホームページより)

入手日:2007年10月13日
入手場所:PUNCTUM
2007年10月1日-10月14日にPUNCTUMにて開催された「石川奈都子:淡ひ蒼」展を見た際に入手したもの。ちょうどその後に東京都写真美術館で開催されている「鈴木理策」展を見ようと思っていたので、参考資料となればと思い持ち帰った。
新聞紙サイズは保存に困るのであまり好きではないが、特集内容は無料とは思えないほど充実した内容である。「鈴木理策」展については、この後また取り上げることになるので割愛する。
ちなみに、このとき見た「石川奈都子」展は、京都を撮った写真展。大阪出身でずっと京都に暮したいと思い、その夢が叶い京都の日々の暮らしをやわらかい光で捉えた好感のもてる展覧会だった。私もまた京都好きであり、京都に暮したいという計画をひそかに持ち続けている人間である。それゆえ少し嫉妬を感じたりしつつ、写された京都を見つめながらこの街への思いを募らせるのだった。


未読日記118 「册」

2007-10-22 23:04:46 | 書物
タイトル:季刊 册 vol.0 2007冬号
編集:新見隆、平林悠紀子、前田さつき
デザイン:長内デザイン室
挿絵:中島まり
発行:二期リゾート
発行日:2007年2月15日
内容:
「冊な話・一 逸格の背景」松岡正剛(編集工学研究所所長)
「ものづくりの言葉・一 舞台に立つガラス達」増田洋美(ガラス作家)
「アート・ビオトープ便り 庭の幻想・一 シュタイナーのゲーテアヌム詣で」新見隆(武蔵野美術大学芸術文化学科教授、ギャラリー册顧問・キュレーター)
「コラム 册の美 続・橋本真之論-「構造と装飾」に関する一考察」奥野憲一(工芸評論)
「コラム 一册の食 「巴里の空の下オムレツのにおいは流れる」石井好子著 暮らしの手帖社」平林悠紀子(ギャラリー册)

入手日:2007年10月13日
入手場所:ギャラリー册
2007年10月5日(金)~31日(水)に東京・竹橋にあるギャラリー册にて開催されていた<秋の三重奏(ポリフォニー)―花・陶・ガラスの饗宴>展を見に行った際に、「どうぞご自由にお持ち下さい」と言われ持ち帰ったギャラリー発行のフリーペーパー。
このギャラリーは千夜千冊で知られる松岡正剛氏がギャラリー内の棚に並ぶ書籍編集を手がけ、そのギャラリー名も氏によるものだとか。そのつながりでこの季刊誌でも松岡氏がエッセイを寄せている。
古本屋のように古い本が並んでいるが、そうかと思えば新しい新刊書も並んでいたり、その書棚のディスプレイ自体がひとつの展示空間であり、本好きにはたまらない空間となっている。
この冊子は、表紙の紙の手触りが品がよく、私も好きな紙だ。私もこんな冊子を作りたいものだと思う。

未読日記117 「フェルメール「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展」

2007-10-20 00:18:46 | 書物
タイトル:アムステルダム国立美術館所蔵 フェルメール「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展
監修:中村俊春
デザイン:梯耕治デザイン室
発行:東京新聞NHKNHKプロモーション
発行日:2007年9月26日
金額:2300円
内容:
2007年9月26日-12月17日に東京・国立新美術館において開催された<アムステルダム国立美術館所蔵 フェルメール「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展>の展覧会図録。

論考
「メッセージ」ロナルト・デ・レーウ(アムステルダム国立美術館長)
「≪牛乳を注ぐ女≫」ターコ・ディビッツ(アムステルダム国立美術館絵画部長)
「家庭を描いた17世紀オランダ風俗画の中の主婦と女の使用人」中村俊春(京都大学教授)
「台所の情景と台所をめぐる情景-フェルメールの影響としてのオランダ風俗画」エステー・ディールチェス(美術史家)
「オランダ風俗画に描かれたレリーフをめぐって-ウィレム・ファン・ミーリスの「窓枠絵」とフランソワ・デュケノワのレリーフ」宮島綾子(国立新美術館研究員)

購入日:2007年10月8日
購入店:国立新美術館 Souvenir From Tokyo
購入理由:
仕事で出かけ参考資料として購入。
とは言え、フェルメールの「牛乳を注ぐ女」は見ておくべき名作だった。この1点のためだけにひとつの展覧会が組織されたようなもので、その他の作品選定、展示構成には苦心の後が窺える。正直、他の作品は付属物みたいなものでいいものは少ない。だが、前日読み終わった前田英樹の「倫理という力」という本の中で強く響いた「在るものを愛せよ」というフレーズがリフレインし、数多の風俗画を「在るもの愛する」という視点からこれらオランダ風俗画を見ていた。
そんな言葉が響きながら足を止めたのは19世紀に描かれたヘンドリック・ヨハネス・ウェイセンブルッフの≪ハーグの画家の家の地階≫(1888)という作品だった。タイトル通り家の地階を描いたものだが、その絵の雰囲気は「静物画としての室内画」なのである。壁にかかったフライパン、床に置かれた樽、鍋、壁に取り付けられた一枚の木の板の上には白い皿があり、左側の床には空き瓶らしいものが見える。画面中央後景には台所にいる女性が見えるが、あきらかに画家の関心はこの地階にある「もの」に向けられている。なにもない壁や床の汚れ、絵画的には「余白」になる部分が湿気を含んで、こちらにまでひんやりとした空気感を伝える。なんにもないように見えながら、この絵にはなにかがある。この地階に漂う気配、雰囲気こそこがこの絵画に「あるもの」なのだ。

未読日記116 「囚われの女Ⅰ」

2007-10-18 22:43:11 | 書物
タイトル:失われた時を求めて9 囚われの女Ⅰ
著者:マルセル・プルースト 鈴木道彦訳
装丁:木村裕治
カバー画:キース・ヴァン・ドンゲン「眠るアルベルチーヌ」
発行:集英社/集英社文庫ヘリテージシリーズ
発行日:2007年1月24日
内容:
私自身もその規則正しい動きでかすかにゆすぶられる。かくて私はアルベルチーヌの眠りの上に船出したのだ。
(本書帯より)

語り手はアルベルチーヌをパリに伴って行き、二人の同棲生活が始まる。しかしアルベルチーヌを他の女から引き離してしまうと嫉妬は鎮められ、あとには倦怠しか残らない。アルベルチーヌは真実を語らず、語り手は彼女の行状に疑惑の目を注いで、ありとあらゆる可能性を想像してはひとり苦しむ。そんななかで、語り手はヴェルデュラン夫人のパーティに出かけようとして、ごろつきのような若者を従えてやってくるシャルリュス男爵に出会う(第五篇Ⅰ)。エッセイ:加賀乙彦
(本書カバー裏解説より)

購入日:2007年10月7日
購入店:紀伊國屋書店 渋谷店
購入理由:
「そう、どう言ったらいいのかしら。あなたのお部屋にあった本をわたしが外へ持ってって読むとするでしょ?でも他人にはあなたの本だなって分かるものなのよ。何となくあなたのくさい吸入のあとが残っているんですもの。些細なことね、どう言ったらいいのかなあ、でも結局、些細なことってなかなかいいものなのね。」
(p.41 本書より)

マドレーヌを紅茶にひたしたときの香りから始まったこの物語には、さまざまな匂いが漂う。そのさまざまな香りを読者は嗅ぎわけながら、あるいはその香りに気づくことなく読み進める。この小説から立ち上る香りに、私は幾度もめくる頁をとめた。読み進め、立ち止まり、前に戻り、あるいは同じ箇所を何度も読む。その時私は家であり、電車の中であり、喫茶店であり、図書館であり、路上であった。
それでも、匂いはかき消されることなく、微かにそこに漂っていた。
書物を読むこの「時間」の中には、失われることのない「匂い」があった。

些細なこと。
些細なこととは本当に「些細なこと」なのだろうか。
人が「些細なこと」だな、と感じるのはどんな時なのだろうか。
あるいは、人が「些細なこと」だと感じるのは、その経験を過去として振り返った時にしか「些細なこと」だと決定できないのかもしれない。
「些細なこと」の条件とは何だろうか。

「恋愛とはおそらくある強い感動のあとで、なお魂をゆり動かす波紋のひろがりにすぎないのだろう。」
(p.41 本書より)

ここでの「恋愛」を「読書」「書物」と言い換えることは可能だろうか。

語り手とアルベルチーヌとの恋愛模様は複雑だ。
ソドムとゴモラの世界で、なお「恋愛」をすることは可能なのか。


未読日記115 「高松次郎-1970年代の立体を中心に」

2007-10-17 23:55:27 | 書物
タイトル:高松次郎-1970年代の立体を中心に
編集:千葉市美術館
発行:千葉市美術館
発行日:2000年5月16日
金額:2,000
内容:
2000年5月16日-7月16日に千葉市美術館にて開催された<高松次郎-1970年代の立体を中心に>展の展覧会図録。

収録論考
「高松次郎と見えないもの」中原佑介(美術評論家/京都精華大学教授)
「高松次郎における1970年代-立体造形の展開について」藁科英也(千葉市美術館学芸員)
再録文献
「高松次郎 演習ゼミ」
「物質性と存在性」
「金網の柵に沿った長い道」

購入日:2007年10月6日
購入店:千葉市美術館 ミュージアムショップ
購入理由:
<文承根+八木正 1973-83の仕事>展関連イベントとして開催されたシンポジウム<1970年代・高松次郎以後>(講師:中原佑介、峯村敏明、建畠晢)に参加後に購入した図録。

息の合った3人によるシンポジウムは現代美術の現場で長年作品を見てきた者だからこそ語りえる同時代者のひとつの証言だった。ここで語られた話は語らなければ書物にも残らず消えてしまう記憶であり、体温であり、感情だった。1970年代という今から約40年ほども前のことを語れる人はこれからますますいなくなっていくだろう。「現代美術」の「現代」はいつまでも「現代」なのではない。そう、過去の「昭和」の美術が語られる機会はあまりに少ない。1970年代は検証するにはまだ新しすぎるのかもしれない。だが、この時代を生き、この時代の美術をリアルタイムで見てきた人々の記憶がなくなる前に、その記憶の一端に触れたいと思うのだ。

シンポジウム終盤、峯村氏と中原氏が高松次郎の作品が八木正へ与えた影響について日本語と英語のタイトルの話になった。高松次郎の「複合体」は八木正では「COMPLEX WORKS」。高松の「単体(英題ONENESS)」は八木「ONENESS」(展覧会未出品)という具合だ。この符号はとても偶然とは思えないだろう。シンプルだが奥の深い言葉を選ぶ高松に言葉の感度のよさを感じ、ならばと作品図版も見たくなり、かつて千葉市美術館で開催されたこの展覧会図録を購入した。図版は全頁白黒図版ながら、ひとつの写真作品としても美しい1冊。

追記:シンポジウムの中で峯村氏が「京都イズム」という言葉を使っていた。とても興味深い言葉だったので書きとめておきたい。おおざっぱに要約すると、京都出身あるいは京都を活動拠点とした作家たちが質素な(チープな)素材を使いながらも、それがみすぼらしく見えないというような趣旨の発言だった。これは私も感じていたことだったのだが、いったい「京都」という都市文化の影響は美術にどれくらい影響しているのだろうか。東京出身の私が京都論を語れるはずもないし、地方の特色ですべてが語れるわけでは当然ないけれど「京都思考」というものがあれば知りたいものだと思う。

未読日記114 「文承根+八木正 1973-83の仕事」

2007-10-16 23:57:29 | 書物
タイトル:文承根+八木正 1973-83の仕事
企画・編集:京都国立近代美術館、千葉市美術館
デザイン:西岡勉
発行:京都国立近代美術館、千葉市美術館
発行日:2007年8月7日
金額:\1,200
内容:
2007年8月7日-9月17日京都国立近代美術館、2007年9月23日-11月4日千葉市美術館にて開催された「文承根+八木正 1973-83の仕事」展の展覧会図録。

京都を拠点に活動し、1980年代初頭に惜しまれながら逝去した二人の美術家、文承根(ムン・スングン1947-82)と八木正(やぎ・ただし1956-83)が残した作品についての展覧会を開催します。本展は京都国立近代美術館と千葉市美術館の所蔵品を中心に構成されるものであり、文承根と八木正の作品を網羅する回顧展ではありません。そしてこの展覧会は、四半世紀前に世を去った二人の俊才について二つの美術館が続けてきた日常業務と作品研究の中間報告を兼ねた、所蔵作品展という性格を持っています。(以下略。本展チラシテキストより)

収録論考
「序論-(近代)美術館のコレクションと展示」河本信治(京都国立近代美術館学芸課長)
「限られた時間に-ムン・スングンの仕事」河崎晃一(兵庫県立美術館学芸員)
「文 承根あるいはシステムとプロセス」尾崎信一郎(鳥取県立博物館美術振興課長)
「八木 正の彫刻」藁科英也(千葉市美術館学芸係長)
「臨界の生-八木 正」中谷至宏(京都市美術館学芸員)

購入日:2007年10月6日
購入場所:千葉市美術館 ミュージアムショップ
購入理由:
あまり聞き馴染みのない二人の現代美術作家の展覧会。文承根は<活字球>という球に漢字の版が取り付けられた作品を過去に見たことがあった程度の知識だった。八木正にいたってはほとんど名前も作品も知らず、この展覧会を見て、作品と前衛陶芸の八木一夫の次男であることを知った。だが、知られていないことが作品の質を決めるわけではない。両者の作品の佇まいから発する静けさに陶然となった。
1970年代。大阪万博以後の美術界にこのようなミニマルで繊細な仕事をしていた作家がいたことはもっと評価されていいだろう。
両者とも若くして亡くなってしまったため、その作品世界を深化させることなく途絶えてしまったことは残念だが、その若さ、未完成ゆえの揺らぎが作品に強度を与えているともいえる。それは、多くの先行する美術家たちの影響が見て取れることからもあきらかだろう(例えば、文で言えば吉田克朗、李禹煥、八木ではプライマリーストラクチャーズの彫刻など)。それは思考と表現方法がうまく混ざり合いながら、確かな味付けを施されながらもどこか調味料の一部がダマになって残っているような感じと言えばいいだろうか。
すっきりしない書き方をしてしまったが、同時開催の所蔵作品展<1970年代の美術-『文承根+八木正 1973-83の仕事』展理解のために->と合わせて、千葉市美術館の現代美術コレクションのすばらしさを堪能できるまたとない展覧会であり、このようないい「仕事」に感謝をしたい。