タイトル:まばゆい、がらんどう
編集:椎木静寧
編集アシスタント:村上友重
アートディレクション&デザイン:中島英樹
デザインアシスタント:吉本武臣(NAKAJIMA DESIGN)
印刷:
株式会社サンエムカラー
発行:
東京藝術大学美術学部附属写真センター
発行日:2010年1月6日
内容:
東京藝術大学大学美術館にて開催された<まばゆい、がらんどう>(2010年1月6日~1月20日)の展覧会カタログ。
A5サイズ、白黒、全63p
「まばゆい、がらんどう」椎木静寧(美術家)
「空間化する芸術―現象/物体」梅津元(芸術学)
「複製技術時代のダンス―物語失効後の身体」島津京(美術史/芸術学)
図版
志水児王
鷹野隆大
高嶺格
谷山恭子
玉井健司
平野治朗
森弘治
作家略歴
頂いた日:2010年1月17日
頂いた場所:東京藝術大学大学美術館
美術館受付の方より頂いた1冊。どうもありがとうございます。
新年早々に奇妙なタイトルを持つ現代美術展が東京藝術大学大学美術館で開かれた。それが本展<まばゆい、がらんどう>展である。出品作家を見ると、現代美術界の個性派、実力派が揃っている。皮肉ではないが出品作家で「まばゆい」作家は高嶺格や鷹野隆大だが、一般的な訴求力はないだろう。そんなハードコアな現代美術家たちを集めて、抽象的なタイトルを持つ展覧会をやってしまうのだから大学美術館らしくてすばらしい。
さて、「まばゆい」とは視覚的で、「がらんどう」とは空間を指す言葉だが、「まばゆい」はともかく、展示を「がらんどう」にするわけにもいかない(内藤礼のように展示室を「がらんどう」にしてしまう人もいるが・・)。
だが、本展の展示やカタログを見て感じるのは「がらんどう」より「まばゆい」に比重が置かれているのかもしれない。そもそも「まばゆい」には「恥ずかしい、てれくさい」という意味もある。例えば、鷹野隆大の大判写真に写る裸の男性たち。大判サイズゆえに視線は自然と男性器へ誘導させられてしまうことの恥ずかしさ。そう、「まばゆい」には「度が過ぎていて、見ていられない」という意味もある。
逆に照明が暗いことで作品に使われるレーザー光の「まばゆさ」が鮮烈な清水児王作品。マンガン記念館の光がまったく入らない坑道にインスタレーションを制作した際の高嶺格の日記・テキスト作品『在日の恋人』は、近づく展覧会会期までの作品制作の焦りや思いが、度を過ぎた計画を実行に移す高嶺の存在を「まばゆい」ものにしている。ちなみに、『在日の恋人』は2008年に河出書房新社より単行本として出版されたが、もともとは展覧会で発表された作品である。単行本になるくらいなので文章量が多いが、読み始めると長さは気にならなくなる(最も私は時間が足りずに全部は読めなかったのだが)。
そして、本展中、もっとも「がらんどう」にして、「まがゆい」作品だったのが、森弘治である。昨年のhiromiyoshiiで行われた個展<his speech>も鮮烈だったが、今展の『Study for clone project』(2009、HDビデオ、ステレオサウンド)、『Re:』(2009、HDビデオ・プロジェクション、ステレオサウンド)は2010年最初の収穫にして、(日本の)現代美術映像作品の変革と更新を高らかに告げる傑作である。
『Study for clone project』は黒バックに女性がクローンにまつわる話をする。その際に、彼女は手元を見ながら親指とそれ以外の指を順にくっ付け合わせながら話すのである。親指と人差し指、続いて親指と中指、そして薬指、小指とリズムを取るかのように、その割にはぶっきらぼうに話す女性の身振りの可笑しさと奇妙さが同居した作品である。誤解を恐れずに言えば、これは「ダンス」である。
続く『Re:』は、ある女性の「ぜいたく」と収入をめぐる問いかけに対する女性たちの返答を映像とした作品(のよう)である。登場するほとんどの女性たちは年収1000万円前後の生活をしている人たちなのだが、その生活の「ぜいたく」さが鼻につくところを同じ女優が演じることで滑稽味を出している。変幻する「女性」、しかし変わるようで変わらないお金持ちたちの生活が語られていく様は、異なる意見が同一人物から発せられているようにも見えて、演技の境界性を感じることだろう。
そして、森弘治が斬新なのは「日本語」で作品を制作していることである。何をあたり前のことを言っているんだと思われるかもしれない。だが、多くの現代美術映像作品は「言葉」がなかった。あったとしても短い単語か会話、あるいは英語だった。しかし、森弘治作品では過剰なまでの日本語によるナラティヴが映写されるのである。そして、役者たちの会話とちぐはぐな身振り、ないしは周到なキャラクター設定と台詞が丁寧なリアルさを構築することに成功している。この過剰なまでのモノローグこそ、がらんどうな現代日本のリアルな現在なのかもしれない。
最後に本図録について述べよう。図版は展覧会が新作中心となるため、掲載図版は旧作中心となっている。そこが残念でならないが、致し方ない。また、企画者である椎木静寧氏のテクストで言及されている作品が、展覧会では未出品な作品が多いため、展覧会コンセプトがわかりにくくなっている気がする。梅津元氏のテクストはグループ展としては珍しいが志水児王の作家論。余談だが、志水氏のレーザー光を使った作品は、会場規模が大きいか、建築的な特殊性や制約が課された方がおもしろいと思うのだが、今展のようにこじんまりした展示ではコンパクトすぎるのではないだろうか。そして、島津京氏のテクストはどの作家についても触れていないダンスについての小論。なぜ掲載されているのかよく意味がわからない。