A PIECE OF FUTURE

美術・展覧会紹介、雑感などなど。未来のカケラを忘れないために書き記します。

未読日記208 「秘密の色層」

2008-10-31 00:29:27 | 書物
タイトル:モーリス・ルイス 秘密の色層
編集:前田希世子、赤松祐樹
デザイン:永井裕明、矢嶋大祐(株式会社エヌ・ジー)
制作・発行:川村記念美術館
金額:1600円
内容:
謝辞・はじめに
図版
カタログ
「モーリス・ルイス:制作の秘密」ジョー・クルック、トム・ラーナー
年譜
日本における主要展覧会・邦文参考文献

購入日:2008年10月25日
購入店:川村記念美術館 ミュージアムショップ
購入理由:
国内では20年ぶりとなるモーリス・ルイス展の展覧会カタログ。<ヴェール><アンファールド><ストライプ>といった主要なシリーズを国内所蔵作品を中心に15点を一堂に展観する試み。国内所蔵作品中心といえど、増設された川村記念美術館の展示室に一堂に並べられたさまは圧巻である。絵画を見ることの喜びと幸福を味わえるその空間は、私に「美術」を見ることへの美しい希望を残してくれた。
 ルイスの作品はステイニングという薄めた絵の具を生地のままのカンヴァスに染み込ませる手法を用いているが、色と色が混じりあう作品でも、けっして汚くならず、そこには色彩と色彩の重なりが層となり生み出される豊かな深みと奥行きが立ち現われている。絵画とは層である、とジョルジョ・デ・キリコは以前書いていたが、ルイスの作品は抽象表現主義の言説を持ち出すことはせずとも、絵画の本質を試行/思考した稀有な作品群だろう。

余談1
作家の生涯などは、ことさら取り上げることはないのだろうが、モーリス・ルイスという画家の年譜を見るとこの時代の美術、この時代に生きることに幻滅を憶える身としてはとても感動的だ。私の年齢に近い26-30歳の項を見てみよう。

「1938年の社会保障登録の記録によるとニューヨーク、6番街1362番地に住み無職。(中略)当時のルイスは、控えめでもの静か、思慮深い人間以外と話すのを好まなかったという。(中略)最低限の生活のなかで唯一の楽しみはMoMAを訪れることだった。」(p.50)

31歳になっても

「ボルチモアに戻り両親と同居、兄弟からの援助で生活し、家の地下室をアトリエにして制作を続ける。」(p.50)

なにやら身につまされるニート/フリーターのような人生ではないか。

ルイスは49歳の生涯で11回の個展を行なっているが、その個展はすべてステイニングという技法を見出した41歳の時以降なのだ。さらに年譜を見る限りでは初めての個展は41歳の時である。生前はほとんど無名に近かった。その制作方法も謎に包まれており、家のアトリエで制作しても、妻が仕事から家に帰ってくるころにはその形跡も残さないほどきれいに画材やカンヴァスが片付けられていたというエピソードが残っている。このように、年譜からわかるのはルイスのもっとも充実した制作時期とは41歳以降から亡くなるまでの8年間ということになる。
 現世利益ばかりを追い求めるこの時代では、とてもルイスのような生き方、作品制作は一笑に付されるだけかもしれない。だが、ルイスの年譜からわかるのは、年齢でも時代でも流行でもなく、自身の制作への姿勢、倫理のようなものを持ち、制作し続けることだとわかる。その潔癖なまでの思考は、残された作品からでも充分感じられるであろう。絵の具がカンヴァスに染み込むように、ルイスのひそやかな身振りは、カンヴァスという場に自身の痕跡を染み込ませていたようだ。その反響・評価が没後になるのも当然なのかもしれない。

余談2
この展覧会を見た翌日、ステイニングつながりで目黒区美術館で開催されている<丸山直文展-後ろの正面>を見た。同じステイニングという技法を用いているとはいえ、モーリス・ルイスのステイニング・作品空間と比較することに意味はない。両者は技法が同じであって(丸山氏はステイニングだけを使っているようではないように見えたが‥)、作風はまったく異なる。それはあまりに技法中心主義な見方である。
 ただ、ルイスの作品はいまだどのように描かれているかわからないという点で、見る者に制作・技法への興味を掻き立てるのだが、丸山直文の場合を見るとルイスの制作方法を推測する材料を与えてくれるかもしれない。会場内で流されていた映像によれば、丸山直文はカンヴァスを床に平置きにして描いているのだ。距離をもって作品を見たいときは、自身が脚立に乗り上から見下ろす。では、ルイスも平置きで描いていたのだろうか?それとも立てかけて描いていた?あとは、皆さんの推理にお任せしよう。

TOUCHING WORD 067

2008-10-23 23:33:55 | ことば
今はしかし、音楽に満ちた耳を眠りの中に持って行かねばならない。就寝する前に、星空を見つめ、耳を音楽でいっぱいにすることは、君のどんな催眠剤よりもよりよい
(pp.562-563 「ガラス玉演戯」『新潮世界文学全集37 ヘッセⅡ』ヘルマン・ヘッセ 高橋健二訳 新潮社1968.11)

眠る前に音楽を聴きます。
眠る前に画集を見ます。
眠る前に英語の本を読みます。
眠る前に日本語の本を読みます。
眠る前に数字日記をつけます。
眠る前に週末のことを考えます。
眠る前に目覚ましをセットします。
眠る前によく電気を消し忘れます。
おやすみなさい。


TOUCHING WORD 066

2008-10-23 00:37:06 | ことば
君はわたしをうらやむべきではない、ゴルトムントよ。君が考えているような平和は存在しない。平和というものは確かにあるが、われわれの内に持続的に宿り、われわれからもはや離れることのないような平和は存在しない。常にくり返し不断の戦いによって戦い取られ、毎日毎日あらたに戦い取られなければならないような平和があるばかりだ。君はわたしが戦っているのを見ない。君はわたしが研究しているときの戦いを知らない。祈祷室でのわたしの戦いを知らない。君がそれを知らないのはいいことだ。君は、わたしが君ほどむら気に左右されないのを見るばかりだ。それを君は平和だと思っている。だが、それは戦いなのだ。正しいすべての生活がそうであるように、君の生活もそうであるように、戦いと犠牲なのだ。
(p.310 「知と愛」『新潮世界文学37 ヘッセⅡ』ヘルマン・ヘッセ 高橋健二訳 新潮社1968.11)

今日、平和を得るための戦いでどれほどの犠牲をしたことだろう。ときどき平和より、犠牲にされる時間とエネルギーに悲しみを憶える。

未読日記207 「引込線」

2008-10-20 23:58:47 | 書物
タイトル:所沢ビエンナーレ・プレ美術展2008 カタログ
編集:椎名節、坂上しのぶ、保谷香織
撮影:山本糾(表紙、見返、会場・出品作品)
デザイン:大石一義
制作:大石デザイン事務所
発行:所沢ビエンナーレ実行委員会
発行日:2008年10月1日
金額:2000円
内容:
埼玉・所沢の西武鉄道旧所沢車両工場において開催された<所沢ビエンナーレ・プレ美術展 引込線>(2008年8月27日-9月12日)の展覧会カタログ。カタログは会期終了後の発行となる。

ごあいさつ
作品リスト
伊藤誠
「日本現代美術覚書’91」青木正弘
遠藤利克
「捩じれの行くえ」天野一夫
大友洋司
「80年代考-80年代ニューウェーヴをめぐって」坂上しのぶ
岡安真成
「捻転する彫刻-「芸術と客体性」から、ブルース・ナウマンを読む」沢山遼
木村幸恵
「1965年夏:前衛の花火 「アンデパンダン・アート・フェスティバル」が問うアノニマス性」高橋綾子
窪田美樹
「洞窟の思想と1970年代-中西夏之から戸谷成雄、遠藤利克への架橋の試み-」谷新
高見澤文雄
「「問い」としての「アフリカ」」千葉成夫
建畠朔弥
「置換」拝戸雅彦
多和圭三
「美術館員のひとりごと」原田光
手塚愛子
「美術と場所」真武真喜子
戸谷成雄
「三木富雄論 序章-「表現」の切断-」峯村敏明
中山正樹
「桑山忠明と伝統」本江邦夫
増山士郎
「「網膜」は存在しない」守田均
水谷一
「「描くこと」について」山本さつき
山下香里
「「横たわる人体」としての《正午》-アンソニー・カロの「身振り」をめぐって-」渡部葉子
山本糾
シンポジウム
音楽パフォーマンス
ワークショップ
展示ガイドツアー
公開制作
(本書目次より)

各作家、略歴、テキスト収録

予約日:8月31日
購入店:西武鉄道旧所沢車両工場
購入理由:
戸谷成雄、遠藤利克、中山正樹ら作家が中心となり、企画・運営を行なう<所沢ビエンナーレ>のプレ美術展「引込線」の展覧会カタログ。
内容を見ていただければ分かるように、通常の展覧会カタログとはその性格を異にする。なぜなら、出品作家の作品図版、経歴、コメントの掲載は当然として、美術評論家、研究者、ジャーナリスト、学芸員らによるテキストが展覧会内容とはまったく接点をもたず自立したかたちで収録されているのだ。このような形式の展覧会カタログは初めて見た。その理由として「本書は、カタログ機能と批評誌の機能を合わせもったもの」とし、美術家にとっての作品記録集、著述家にとっての作品発表の現場として機能するカタログというのが本書成立の趣旨なのだという。つまり、著述家もまた作家であり、その発表場所がギャラリーではなく、カタログという本であるという違いだということだ。この試みは、美術研究・批評において、とても勇気ある試みだと評価したい。もちろんそのような文章などいらないという意見もあるだろうし、作品本位に考えるならば、出品作家及び作家について(あまり)言及がないのは、資料として物足りない気もする。だが、批評におけるテキストとカタログの関係とは何だろうか。とくに現代美術において展覧会カタログでは解説文のようなものが多く、洋楽CDアルバムに付属するライナーノーツのように当たり障りのない文章さえ散見される。それならば、各著述家が書きたいテーマを自由に書けばよいではないか。そのような「批評」への引込線としての機能も付随させたこの展覧会は、現在開催されている「批評」なきトリエンナーレとは対極にある展覧会だろう。

 「批評」はそれとして、では肝心の作品はどうだったのかと言えば、こちらもまたノンテーマであり、作りたいものを作り展示するという構成である。車両工場という極めて特殊な場を得ながら、ノンテーマゆえにやや散漫な印象を受けてしまうのは否めない。とくに絵画作品は展示環境が悪く、分が悪い。しかし、特殊な「場」であることの特性は「場」が空間を助けるという点であろう。私はシンポジウムがあった日に鑑賞したのだが、シンポジウム前の昼間と終了後の夕方と2回見た。夕方に見た際、突如振り出した夕立がこの空間を一変させたのだ。会場の所々からは雨漏りがし、作品周辺の一部に水溜りができたのだ。通常ではありえないことだが、水溜りと強く打ち付ける雨音、どんよりと暗い工場内に灯される光、外から吹き込む雨風が、工場内の空間を劇的にしてしまった。作家にとっては迷惑でしかないと思うが、水谷一、木村幸恵の作品は昼間より見たときよりもすばらしかった。時間を別とすれば、多和圭三「景色-境界-」(2008)は今展中最も印象深い作品であった。この「景色」こそ、この「場」とともに記憶し続けることになるだろう作品となった。テーマがあるなしに関わらず、結局は作品にすべてがかかっているということだろう。

 「書籍」としての問題点もまたテーマに関わる。作品ならば、その展示される「場」に合わせた作品の制作・展示ということができるが、テキストの場合、そうはいかない。なぜ、この展覧会にこの文章なのかという理由がわからないのだ。もっとも知らなくてもかまわないのだろうが、個々のテキストの主題も多岐に渡っており、魅力的ながらもその多様さゆえに読みにくい。これだけの豪華な執筆陣だからこそ、もう少し「編集」してもよかったのではないだろうか。

TOUCHING WORD 065

2008-10-16 22:41:32 | ことば
憎悪という感情は低次元のものではない、あるいは低次元の憎悪と区別されるべき憎悪というものがある。権力の無法さ邪悪さを憎む感情がなければ、政治が肉感されることはないだろう。憤怒と憎悪を正しく人間的感情にまで運ぶ作業を通して、人は大きな悪というものを正確な形で掴むことができるのである。総じて日本人は憎悪という感情の訓練に著しく欠けている。あるいは憎悪という感情を甚だしく軽んじている。自らの憎悪の感情を直視できない人間は、他者に憎悪されることにも不感な人間である。
(p.77-78 「詩「雨の降る品川駅」とは何か」『昭和イデオロギー 思想としての文学』林淑美、平凡社2005.8)

「憎悪という感情の訓練」に欠けている私は感情の起伏というものがあまりないと思っていたが、ここ数日のストレスには「憎悪」としかいいようのない感情を抱き、その持て余した感情の矛先をどのようにすればいいのか困惑さえしてしまうのだった。ここ数日の(職場の)権力の無法さに接すると、その圧倒的な「暴力」としかいいようのない行為、発言に自分が力なく切りつけられていくのがわかる。粉々に砕かれていく塵みたいな私という存在は、いま「憎悪」という感情によってかろうじて保たれている気がする。どうやら、かつて少年のころ味わったことのあるあの「悪」という存在にまたここでも出会ってしまったようだ。

未読日記206 「flower vase」

2008-10-14 23:12:40 | 書物
タイトル:WITHOUT THOUGHT Vol.9 flower vase
編集・ブックデザイン:NAOTO FUKASAWA DESIGN
発行:ダイヤモンド社
発行日:2008年9月4日
内容:
東京・六本木のGallery le bainにて開催された<WITHOUT THOUGHT Vol.9 "flower vase" NAOTO FUKASAWA + DMN DESIGN WORKSHOP EXHIBITION 2008>(2008年9月2日-9月19日)の展覧会カタログ。

テキスト:深沢直人(プロダクトデザイナー)
「without thoughtの楽しみ方」河嶋隆司(DMNディレクター)
図版37点

入手日:2008年10月6日
さまざまな企業のデザイナーを集めて行なわれる深沢直人によるワークショップの成果を発表する展覧会のカタログ。今回のテーマは「花器 flower vase」。
普段は企業、産業のためにデザインをするデザイナーたちがこのワークショップでは自由なデザインを繰りひろげている。without thought=「考えない」というだけに、直感的なデザインには遊び心が溢れている。例えば、ビニールテープ花器、水滴の花器、土のような鉢など思わぬ材質、形状があり、日常の中に花器をどのように見るのかデザイナーの視点が感じられて各品ともそのアイデアに感心してしまうことだろう。

現実的に見ると難点もある。まず、花器=器とはなんだろうか。それは水がはいることだ。当たり前だが、いくらきれいな花でも水がなければ枯れてしまうだろう。つまり、花器のデザインとは水をどのように器に満たすかに現実的な問題点があるということだ。そういった点を考慮して、あらためてこのカタログを見直してみるとなかなか水が入りそうもないものがいくつかあるのだ。
 では、なぜそのような花器が生まれるのかを考えてみよう。それは自戒を込めて言えば、身の回りに花・植物がないということだろう。もちろんなかにはガーデニングをしたり、ベランダーとして、鉢植えで植物を育てている人もいるかもしれない。だが、鉢と花器は用途が違うわけで一緒にはできない。花・植物を自宅・仕事場で飾ることがなければ、花器のデザインをwithout thought「考えない」でデザインすることはできないだろう。身体で習慣になっていないものをデザインとしてかたちにすることは難しい。その思考の飛躍と現実に物質として存在させることの難しさを考えさせられる機会としてはよき展覧会であった。

なお、カタログは展覧会に出かけたとき、頂いた案内状にカタログを頂けるとのことで要望したところ、後日に郵送されたもの。感謝。

未読日記205 「わたしたちに許された特別な時間の終わり」

2008-10-09 00:23:27 | 書物
タイトル:わたしたちに許された特別な時間の終わり
著者:岡田利規
装画:小金沢建人
装幀:新潮社装幀室
発行:新潮社
発行日:2007年2月25日
内容:
第2回大江健三郎賞受賞作
「私はついにこの一冊にめぐりあった」(「群像」2008年5月号選評より)

あ始まったんだねやっぱり戦争。
イラク空爆のさなか、渋谷のラブホで四泊五日。

これが外国語に翻訳されたものを読む、世界のあちらこちらの読者たちは、この瞬間・場所の総体が、2003年の(自分らの場所と)じかにつらなっている渋谷、新宿のあたりであることを、しっかりしたリアリティーにおいて把握するだろう。そう私は信じます。
大江健三郎 「群像」2008年5月号 選評より

岸田戯曲賞受賞、「チェルフィッチュ」で演劇界に衝撃を与えた新鋭が、小説の世界に切り拓いた新しい地平。各紙誌絶賛!

この本はすごく面白い。これを書いた人の存在はずっと消えない、と言ってもいいくらいの価値がある。
保坂和志 「新潮」2008年4月号

見慣れた渋谷の景色を「彼女」が外国の街のように眺めるラストシーンがすごくいい。
斎藤美奈子 「朝日新聞」2007年4月22日朝刊

これは「イラク戦争」について日本語で書かれた、もっとも優れた小説だ。いや、もっと、それ以上のものだ。
高橋源一郎 「週刊朝日」2007年3月23日号

本書帯より

購入日:2008年9月28日
購入店:横浜赤レンガ倉庫1号館 横浜トリエンナーレ2008特設ミュージアムショップ
購入理由:
横浜トリエンナーレ2008に参加しているチェルフィッチュの演出家・岡田利規による初の小説集。もともとはチェルフィッチュにより2005年に「三月の5日間」として上演された戯曲を小説化したのが本書。併録に初のオリジナル小説となる「わたしの場所の複数」を収録。
チェルフィッチュの存在は、森美術館で昨年行なわれた<六本木クロッシング2007:未来への脈動>展(2007年10月13日-2008年1月14日)で初めて具体的にその存在を知った。その時は、しっかりと映像作品を見る時間がなかったため、あまり印象には残らなかった。
そして先日、<横浜トリエンナーレ2008>の横浜赤レンガ倉庫1号館会場で、チェルフィッチュの舞台作品「フリータイム」のDVD上映を見る機会があり、私は唖然としてしまったのだ。それは、舞台上の女性が亡き祖父と映画「ゴッドファーザー」の思い出について語る件だった。そのひとり言のような、誰かに話しかけているかのような独白に、演劇特有の妙なテンションの高さがまったくなく、淡々とした語りでありながら、終りがないような先が見えない物語に聞き入って(見入って)しまったのだ。そして、舞台上にいる俳優たちの会話とまったくクロスしない不可思議なダンスにも見える所作がユーモアを発していて、先を見続けたい誘惑に駆られたのだ。以前、快快(ファイファイ)の公演を見たときにも同じような感覚を感じたが、快快(ファイファイ)にはダンスがあり、音楽があり、映像があった。だが、チェルフィッチュのこの「フリータイム」には、ひそやかな音楽こそあるものの、あとは淡々とダラダラ続くような「会話」があり、ダンスにもならない動きがあるだけなのだ。ここには、セリフになろうとする前の「言葉」、ダンスになろうとする前の体の「動き」のようなものが現われていた。まるで、帰り道に1人で頭の中の考えを整理するため、ひとり言をつぶやく行為のように。
入口でもらったパンフレットを見ると、その日にチェルフィッチュの公演があるというではないか。急遽予定を変更して見なければと思う。そして、チェルフィッチュの演出家・岡田利規の初の小説集をミュージアムショップで見つけ手に取ってみる。そこには私が敬愛する保坂和志氏のコメントがあった。なにかがつながった気がして、まずは買うことにした。これからなにがどうつながっていくかはわからないが、反応してしまった身体には正直でありたい。


未読日記204 「横浜トリエンナーレ2008ガイドブック」

2008-10-07 01:53:27 | 書物
タイトル:横浜トリエンナーレ2008 ガイドブック
編集:三上豊
   西山哲、藤沼優子(インターパプリカ)/小川紀久子
   岡しげみ(横浜トリエンナーレ事務局)
デザイン:高橋歩
発行:横浜トリエンナーレ組織委員会
内容:
<横浜トリエンナーレ2008:タイムクレヴァス>(2008年9月13日-11月30日)のガイドブック。

ごあいさつ
謝辞
「タイムクレヴァスへ」水沢勉(横浜トリエンナーレ2008総合ディレクター)
総合ディレクター+キュレーター
参加アーティスト
映像資料展示
特別展示
会場一覧
会場地図
会場別作家一覧
横浜トリエンナーレ組織委員会

購入日:2008年9月28日
購入場所:新港ピア
購入理由:
横浜トリエンナーレの特別チケットパックを購入した際に、特典としてついていたハンディ・ガイドブック引換券でもらうことができたガイドブック。おなじものはもちろん販売していて、900円で買える。

ガイドブックなので、簡易な情報しかないが、約68名(組)の参加作家の情報が入っているので、気になった作家の情報をすぐ得るには便利な冊子である。

今回、私が見ることができた会場は新港ピア、日本郵船海岸通倉庫、横浜赤レンガ倉庫1号館、運河パーク(インフォメーションセンター、リングドーム)しか見ていない。そのため、このトリエンナーレ全体を総括するようなことはいまの段階では控えるが、「現代美術の祭典」と謳いながら、美術外の芸術領域に集客を頼らなければならないところに、現在の美術が直面している可能性と崩壊を見ることができ、その破綻が私にとって予想外な出会いを得ることができた展覧会だったという意味で、複雑な心境ながらこのトリエンナーレの存在を評価したい。

ダンサー、音楽家、映画監督、建築家などさまざまなジャンルの表現が、混在し合い、さらにパフォーマンスをメインに打ち出したことは、別に今に始まったことではない。取り上げるべき美術家が星の数ほどいながら、現代美術の展覧会に美術以外を主な表現領域とする作家たちが場を占めることに、ささやかな発見の喜びと失望も覚えるというそれだけのことなのだ。

何を隠そう私にとって、この展覧会でチェルフィッチュの<フリータイム>を観劇できたことはすばらしい時間だった。これについては、別に書きたいと思うので今は控えたい。だが、問題は彼らではなく、彼らを選んだ側にある。チェルフィッチュの公演を見たからといって、美術をもっと見ようとはおそらく思わないだろうからだ。美術をもっと身近に、親しく感じるどころか、結局他分野の芸術領域に関心を向けさせてはいまいか。だが、不安になるのはよそう。私にとってメイン3会場を見て、印象に残った数少ない「美術」は中西夏之の「絵画」だったからだ。彼が作り出した絵画場こそ、いま私たちが見たかった「場」だった。物だらけで「場」を作り出すインスタレーションより、中西夏之の作り出す「絵画場」の方が、どれだけ空間をインスタレーションしていたことだろうか。

横浜トリエンナーレ → http://yokohamatriennale.jp/2008/ja/