人生の目的は、愛すべき人を愛すること。自分の人生をコントロールできていないと感じていてもだ。
カート・ヴォネガット『これで駄目なら』飛鳥新社、2016年、132−133頁。
愛すべき人もいなければ、自分の人生もコントロールできていない。
カート・ヴォネガット『これで駄目なら』飛鳥新社、2016年、132−133頁。
愛すべき人もいなければ、自分の人生もコントロールできていない。
芸術にかかわることで、うまくできてもできなくても、魂は成長する。ほんとのことだ。シャワーを浴びるときは歌い、ラジオを聞いて踊るんだ。語り手になろう。
カート・ヴォネガット『これで駄目なら』飛鳥新社、2016年、132頁。
うまくできようが、できなかろうがやってみる。
カート・ヴォネガット『これで駄目なら』飛鳥新社、2016年、132頁。
うまくできようが、できなかろうがやってみる。
物事がうまく、きちんと進んでいるときには、ちょっと立ち止まってみて欲しい。そして、大声で言ってみるんだ。「これで駄目なら、どうしろって?」
カート・ヴォネガット『これで駄目なら』飛鳥新社、2016年、47頁。
これで駄目なら、どうしろって?
カート・ヴォネガット『これで駄目なら』飛鳥新社、2016年、47頁。
これで駄目なら、どうしろって?
テレビとコンピュータは君たちの友達じゃないことを覚えておくんだ。コンピュータなんて、スロットマシンで遊んでいるのと同じだ。そういうものは君たちに、静かにそこに座ったままで下らないものを買い、ブラックジャックをするみたいに気軽に株式取引をやってもらうためにあるんだ。
教育を受け、思いやりのある人々だけが、記憶に留める価値があり、愛し続けることができるものを他人に教えることができる。コンピュータとテレビには無理だ。
カート・ヴォネガット『これで駄目なら』飛鳥新社、2016年、44頁。
スロットマシンとテレビとコンピュータが同じカテゴリーとは・・。たしかに光景としては同じだ。
友達かどうかは、愛し続けることができるものを他人に教えることができるかどうかにある。
教育を受け、思いやりのある人々だけが、記憶に留める価値があり、愛し続けることができるものを他人に教えることができる。コンピュータとテレビには無理だ。
カート・ヴォネガット『これで駄目なら』飛鳥新社、2016年、44頁。
スロットマシンとテレビとコンピュータが同じカテゴリーとは・・。たしかに光景としては同じだ。
友達かどうかは、愛し続けることができるものを他人に教えることができるかどうかにある。
批評家の活動のすべては、現実の前に立って、"われ、いま、なにをなすべきか"、あるいは、"われら、いま、なにをなすべきか"というみずからにむかっての問いのなかから生まれます。
福島辰夫「個人像をめぐって—友人X氏への手紙—」『福島辰夫写真評論集 第1巻 写真を発見する世界』窓社、2011年、30頁。
批評は、いつも問いから生まれる。
福島辰夫「個人像をめぐって—友人X氏への手紙—」『福島辰夫写真評論集 第1巻 写真を発見する世界』窓社、2011年、30頁。
批評は、いつも問いから生まれる。
写真家は、あくまでも写真にむかうべきものではなくて、現実にむかうべき存在です。映像にむかうべきものではなくて、現存する世界の総体にむかうべきものだと私は思います。
福島辰夫「個人像をめぐって—友人X氏への手紙—」『福島辰夫写真評論集 第1巻 写真を発見する世界』窓社、2011年、15頁。
いま、現実にむかっている写真家はいるだろうか。
福島辰夫「個人像をめぐって—友人X氏への手紙—」『福島辰夫写真評論集 第1巻 写真を発見する世界』窓社、2011年、15頁。
いま、現実にむかっている写真家はいるだろうか。
できれば、徒花に見える才能に水(つまりお金)をあげてほしいと思う。
やっかみでは、花は育たない。
才能に対しては、嫉妬をぶつけるのではなく、対価を支払おうではないか。
小田嶋隆『ポエムに万歳!』新潮社(新潮文庫)、2016年、232頁。
美術界はやっかみばかり。
やっかみでは、花は育たない。
才能に対しては、嫉妬をぶつけるのではなく、対価を支払おうではないか。
小田嶋隆『ポエムに万歳!』新潮社(新潮文庫)、2016年、232頁。
美術界はやっかみばかり。
人間は、そんなに笑う必要があるのか、ということだ。
笑いは、スパイスに過ぎない。主食ではない。
その意味で、一日中笑い転げているいまのテレビはどうかしている。スパイスばかりが運ばれてくるテーブル。唐辛子の胡椒煮ナツメグ添え、みたいな。
ニュース番組やスポーツ番組でも、21世紀のテレビ出演者は、全員が笑いを取ろうと思っている。
小田嶋隆『ポエムに万歳!』新潮社(新潮文庫)、2016年、216頁。
たびたびアーティストトークの司会などで人前でお話させていただく機会があります。その際、いつも心がけているのは笑いを取ろうとはしない、ということです。小田嶋氏も書いているように、昨今はなにかにつけて「笑い」が求められます。お笑い番組の影響からか、人前で話すことは笑いを取ることという考えがあるのかもしれません。
しかし、テレビ業界ならまだしも、美術界にまで「笑い」を求めるのはいかがでしょうか。私たちは芸人ではありません。芸人は笑いを取るテクニックを身につけており、彼らはそれで仕事をしています。しかし、私たち美術界の人間にそのような技術はありませんし、言うまでもなく「笑い」で収入を得ているわけでもなく、目的でもありません。
もちろん、トークの進行中、笑いが起こることはまったく問題ありません。緊張を緩和する点で大いに歓迎です。私は笑いを「取ろう」とすることに対して、疑問を感じるのです。関西圏はお笑い文化が根づいているせいか自然に笑いを取ることを身につけている方もおりますが、それは例外です。美術のトークイベントにおいて、そのような饒舌さ、笑いを目的にしてはいけないのではないかと感じます。まずは、作品について、自分の言葉で語ること、作品について他者と言葉を共有することに尽きるのではないでしょうか。
関西の方に較べると、関東出身の私は口下手で声が小さく、毎回ご迷惑をおかけしています。おそらく、ご不満な方も多くいるかと思います。私としては、いつも無理に笑いをとろうとはせず、考えていること、思ったことを率直に、真摯にお話することを心がけています。そこでのお話や言葉が少しでもご来場頂いた方にとって刺激になる時間となれば幸いです。
笑いは、スパイスに過ぎない。主食ではない。
その意味で、一日中笑い転げているいまのテレビはどうかしている。スパイスばかりが運ばれてくるテーブル。唐辛子の胡椒煮ナツメグ添え、みたいな。
ニュース番組やスポーツ番組でも、21世紀のテレビ出演者は、全員が笑いを取ろうと思っている。
小田嶋隆『ポエムに万歳!』新潮社(新潮文庫)、2016年、216頁。
たびたびアーティストトークの司会などで人前でお話させていただく機会があります。その際、いつも心がけているのは笑いを取ろうとはしない、ということです。小田嶋氏も書いているように、昨今はなにかにつけて「笑い」が求められます。お笑い番組の影響からか、人前で話すことは笑いを取ることという考えがあるのかもしれません。
しかし、テレビ業界ならまだしも、美術界にまで「笑い」を求めるのはいかがでしょうか。私たちは芸人ではありません。芸人は笑いを取るテクニックを身につけており、彼らはそれで仕事をしています。しかし、私たち美術界の人間にそのような技術はありませんし、言うまでもなく「笑い」で収入を得ているわけでもなく、目的でもありません。
もちろん、トークの進行中、笑いが起こることはまったく問題ありません。緊張を緩和する点で大いに歓迎です。私は笑いを「取ろう」とすることに対して、疑問を感じるのです。関西圏はお笑い文化が根づいているせいか自然に笑いを取ることを身につけている方もおりますが、それは例外です。美術のトークイベントにおいて、そのような饒舌さ、笑いを目的にしてはいけないのではないかと感じます。まずは、作品について、自分の言葉で語ること、作品について他者と言葉を共有することに尽きるのではないでしょうか。
関西の方に較べると、関東出身の私は口下手で声が小さく、毎回ご迷惑をおかけしています。おそらく、ご不満な方も多くいるかと思います。私としては、いつも無理に笑いをとろうとはせず、考えていること、思ったことを率直に、真摯にお話することを心がけています。そこでのお話や言葉が少しでもご来場頂いた方にとって刺激になる時間となれば幸いです。