A PIECE OF FUTURE

美術・展覧会紹介、雑感などなど。未来のカケラを忘れないために書き記します。

付箋2

2005-10-29 01:41:12 | 美術
 荒木経惟の写真集『青の時代』は濃密な写真体験だった。
最初に本屋で目にし、立ち見したとき、時代(あるいは昭和と言ってもいい)の空気感がフィルムに込められていて「青」くなったことを覚えている。記憶や過去や死が絡まりあって濃密な書空間を作り出しているからだ。

この写真集に収録された写真は、ある偶然から生まれた。
荒木が撮り過ぎたネガを外に置いておいたところ、雨ざらしになり、5~10年経ち腐りかかったネガがもとになっているからだ。そこには、予想もしない雨の力により、青く染まり汚れやシミが定着されていた。

同時発売された『青の時代』と対になる写真集『去年ノ夏』のあとがきインタビューで荒木経惟はこのように発言している。
 「何ていうんだろうね、「予感」て言葉はよく使ってるけど、未来を先をわかりたいっていう欲求は誰にでもあるじゃないか。そういう行為でしょ。何かこう、次のこと、次の自分、変わっていくっていうところ、それを見たいし、表現て言葉はあんまり好きじゃないんだけど、そういうことを表現することを例えば「芸術」という言葉で言ってるんだよ、きっと。予兆のことをね。」(荒木経惟『去年ノ夏』、アートン、2005年、p.165)

予兆の芸術、予感の芸術。
5~10年先の青写真が見えること。
この『青の時代』は過去から現在に届けられた一つの写真集だった。


崩落の行方

2005-10-25 01:07:40 | 美術
 「第20回平行芸術展(最終回):崩落の記譜法」が開催されています。
24年間計20回を数えるこの長寿展覧会も今回で終了です。

 今回の平行展、展覧会テーマである「崩落」にこだわらなくても、それぞれの作品が響きあう上質な展覧会となっています。とくに、山下香里のインスタレーションは、崩れそうな椅子、粘土で作られた塔のようなもの、テーブル状のかたちをしたものがいくつも積み重なるなど、ぐらぐらとした不安定感を感じさせて秀逸です。他の遠藤利克、黒須信雄、染谷亜里可、横尾忠則等も最終回であるということを強調せずとも、それぞれの作家の持ち味がよくでた展覧会だと言えるでしょう。

 一つの時代の終わり、などと言うのは大袈裟ですが、見届ける価値のある展覧会でしょう。
この最終回にリバイバルも再放送もありません。お見逃しなく。

開催直前!第20回平行芸術展

2005-10-18 00:50:09 | 美術
(まだ、開催前ですがぜひ足を運んで頂きたい展覧会をご紹介致します。)

第20回平行芸術展:崩落の記譜法
2005年10月24日(月)~11月5日(土)
11時~19時 日曜休み 入場無料
会場:東京青山小原流会館1F/B2F(エスパスOHARA)
   東京メトロ銀座線・千代田線・半蔵門線「表参道」駅B1出口より徒歩3分
主催:多摩美術大学芸術学科峯村コース

企画:峯村敏明
出品作家:遠藤利克
     黒須信雄
     染谷亜里可
     戸谷成雄
     山下香里
     横尾忠則

more ifho→http://www.tamabi.ac.jp/geigaku/heikouten/index.html

おそらく2度と実現することのない出品作家の顔ぶれにより、伝説化すること必至の展覧会である。この時期、日本にいてこの展覧会を目撃できることを一つの奇蹟として、あなたは享受しなければならない。いや、この時代、東京にいるものはこの展覧会へいち早く駆け付けることが義務だとさえ言っても過言ではない。これを見るか見ないかであなたの未来は大きく変わりうる可能性があり、その可能性に賭けてみない者は真剣に考え直した方が身のためだと、念のため言っておく。
これは、そんな危険で、しかし、魅惑的な展覧会なのだから。

付箋1

2005-10-17 23:39:22 | 美術
 先ほど、東京国立近代美術館にて彫刻家・黒川弘毅氏のアーティスト・トークを聞く機会があった。その中で、氏は彫刻のかたちについて、「かたちの必然性」があるという発言をされていた。それは、何かのかたちを表わすのではなく「これから、かたちを成そうとする直前のかたち」を表わしたいのだという。
 かたちの完成ではなく、かたちの予感を感じさせること。
 そう、「予感」はプロダクトなどの工業生産品にはない。かたちを指向しながら、かたちになっていないもの。かたちになりきれていないもの。彫刻を見ることは、予感を感じとることかもしれない。

Travis, being lighted

2005-10-05 00:44:35 | 美術
 カメラによって写真を撮るとき、私たちはほとんどレンズの存在を忘れている。それは、音楽を聞くときのスピーカーやヘッドホンの存在、電話の受話器、歩くときの靴の存在みたいなものである。スピーカーや受話器にノイズが入ってはじめて、スピーカーという機械を意識する。普段はほとんど耳に近くて意識することがない。あるいは、履き慣れた靴から新しい靴に履き替えたとき感じる違和感によってはじめて「靴」を意識するあの感覚だ。カメラを使うときも、現実を切り取っているつもりだが、そこにレンズがあることをほとんど忘れている。
 小泉伸司の写真を見るとき、その忘れていたもうひとつのレンズを意識させてくれる。なぜなら小泉は映画館の映写窓にカメラを向けて撮影をしているからだ。私たちが映画館で映画を見るとき、映写機によって(最近はプロジェクターもあるが)フィルムが映写されていることを意識せず映画の世界に見入っている。だが、小泉の作品に目を向ければ、そこに見えるのは、ガラス上に刻まれた傷跡、汚れ、埃、塵、ぼんやりとした色やかたちである。どのような映画かは判別できず、そこから物語や人物を把握することはできない。映画の一コマも映写窓とカメラレンズを二重に介在させて切り取ってみると、まったく見たこともない映像が立ち現れてくる。その抽象的な人物やノイズに被われた色彩、光、闇。どことなく闇のなかに閉じ込められたイメージや光、人物たちのうごめきを目撃するようだ。これを見たとき、フランシス・ベーコンの描く人物像を思い出した。身体の極端な変型、絵筆のストロークは映像的だったのか。

 なお展覧会のタイトルはマーティン・スコセッシ監督による映画『タクシー・ドライバー』でロバート・デ・ニーロが演じた主人公の名前からとられたという。映画同様にどこか狂気を感じさせる強度のある写真である。

小泉伸司展
Travis, being lighted
2005年9月24日(土)~10月8日(土)
art & river bank