凡ての人間は現世にいる限りは誤謬だらけなのである。完全であることは出来ないし、また矛盾から逃れることも出来ない。しかしそれは本来の面目ではないはずである。元来は無謬なのである。ここで無謬というのは完全であるという意味ではなく、不完全なままに誤りのない世界に受取られることをいうのである。だから誤謬のままで無謬になるのである。誤謬を取り去って無謬になるというようなことは人間には出来ない。だが有難くも誰が何をいつどう作ろうと、本来は凡て美しくなるように出来ているのである。秀でた者は秀でたままに、劣る者は劣るままに、何を描きどう刻もうと、凡ては美しさに受取られるように仕組まれているのである。
柳宗悦『新編美の法門 (岩波文庫)』岩波書店、1995年、98頁。
すべては美しさのためにある。
誤謬だらけの人生に幸あれ。
柳宗悦『新編美の法門 (岩波文庫)』岩波書店、1995年、98頁。
すべては美しさのためにある。
誤謬だらけの人生に幸あれ。