明神男坂のぼりたい
関根先輩の話によると、こうらしい。
先輩が昼前に二度寝から目覚め、リビングに降りると、リビングに続いた和室の襖が密やかに開いた。何事かと覗くと、和室の奥に十二単のお雛さまのような女の子がいて、目が合うとニッコリ笑って、こう言った。
「おはようさんどす……言うても昼前どすけど、お手水(ちょうず)行かはって、朝餉(あさげ)がお済みやしたら、角の公園まで来とくれやす……なにかて? そら、行かはったら分かります。ほなよろしゅうに……」
そう言うと、女の子は扇を広げて、顔の下半分を隠し「オホホホ……」と笑い、笑っているうちに襖が閉まったそうな。
「……なんだ、今の?」
そう呟いて襖に耳を当てると、三人分くらいの女の子のヒソヒソ声が聞こえる。そろりと二センチほど襖を開けてみると、声はピタリと止み、人の姿が見えない。
そこで、ガラリと襖を全開にすると、暖かな空気と共に、いい香りがした。
訳が分からず、ボンヤリしていると、ダイニングからトーストと、ハムエッグの匂いがした。
「じれったい人なんだから。ほら、朝ご飯。飲み物は何にする。コーヒー? コーンポタージュ? オレンジジュース?」
「あ、あの……」
「その顔はポタージュスープね。いま用意するから、そこに掛けて。それから、あたしは誰なのかって顔してるけど、名前はアンネ・フランク。時間がないの、さっさとして。着替えは、そこに置いといたから、きちんと着替えて、公園に行ってね」
先輩がソファーに目を向けると、着替えの服がキチンとたたんで置いてあった。
「あの……」
アンネの姿は無かった。
のっそり朝食を済ませ、トイレに行って顔を洗うと、なぜか、もう着替え終わっていた。
なにかにせかされるようにして外に出ると、桜の花びらが舞って四月の上旬のような暖かさ。桜の花びらは公園の方からフワフワと飛んでくる。
桜に誘われるようにして、公園に行くと、満開の桜を背にし、ベンチにあたしが座っていた。
「なんだ、明日香じゃないか。公園まで来たら何か有るって……いや、説明しても分からないだろうな……」
「分かるわよ。あたしのことなんやさかい」
「え……」
「今日は、啓蟄の日。土に潜ってた虫かて顔を出そうかって日なんよ。心の虫かて出してあげんと」
「明日香、難しいこと知ってんだな」
「先輩、朝寝坊やさかい時間がおへんのどす。先輩が好きなんは一見美保先輩に見えるけど、ほんまは、うちのことが好きなんとちゃいます?」
「え……?」
「ちなみに、うちは保育所のころから先輩が……マナブクンが好きなんどす。どないどっしゃろ、答を聞かせておくれやす!」
「そ、それは……てか、なんで京都弁?」
「どうでもよろしおす。それよりも時間がおません、ハッキリ言うておくれやす!」
「え……どうしても、今か?」
「もう……時間切れ。明日返事を聞かせとくれやす!」
で、桜の花びらが散ってきたかと思うと、あたしの姿はかき消えて、いつもの公園に戻ってしまっていた。桜はまだ固い蕾で、梅がわずかにほころんでいる春の兆しのころだった。
「なんかバカみたいな話だけど、夢なんかじゃないんだぜ」
そうだろ、そうでなかったら、わざわざあたしを御茶ノ水の喫茶店に呼び出したりしなだろう……お雛さまと馬場先輩の明日香と、アンネの仕業だと思った。でも、それは言えない。
「それは、やっぱり夢ですよ。卒業して気楽になって、三度寝して見た夢です。だいいち、うちが京都弁喋るわけないし」
「そうか……でも、明日香、演劇部だから、京都弁なんか朝飯前だろ」
「そんなことないですよ、だいいち演劇部は辞めてしまったし」
「そうか……オレ、一応考えてきたんだけど」
先輩が真顔で、あたしの顔を見つめた。
心臓が破裂しそうになった。
「そ、そんなの、無理に言わなくてもいいです!」
「……そうか、じゃあ、やめとくわ」
「ア、アハハハ……」
赤い顔して笑うしかなかった。
家に帰ると、敷居にけつまづいてしまった。その拍子に本棚に手が当たって『アンネの日記』が落ちてきて頭に当たった。
「あいたあ……」
『アンネ』を本棚に仕舞て、ふと視線。お雛さんと明日香の絵が怖い顔してるような気がした。
「睨むことないでしょ。花見の約束だけはしてきたんだから」
それでも、三人の女の子はブスっとしている。
あたしと違って、ブスっとしてもかわいらしい……。
そこで思い出した。
めったにないことなんだけど、今日は、明神さまに挨拶するのを忘れていたことを。
※ 主な登場人物
鈴木 明日香 明神男坂下に住む高校一年生
東風 爽子 明日香の学校の先生 国語 演劇部顧問
香里奈 部活の仲間
お父さん
お母さん 今日子
関根先輩 中学の先輩
美保先輩 田辺美保
馬場先輩 イケメンの美術部
佐渡くん 不登校ぎみの同級生
巫女さん
だんご屋のおばちゃん