魔人の鉞

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「イスラームを学ぼう」 を読んで

2014-02-09 20:10:58 | 宗教

「イスラームを学ぼう」 (塩尻和子、2007年、秋山書店)。
「実りある宗教間対話のために」 と副題があり、イスラームとの対話をめざす
基礎知識を解説しています。私なりにまとめてみました。

1.イスラームは精神的なものだけでなく人間の生活全体と社会の在り方まで
  規定するので、「教」 を付けないのが適切。

2.六信=ムスリムが信ずるべきもの

 ① 神   名はない。「アラー」 は「神」 のことで 「アラーの神」 では
       ない。なんとユダヤ教やキリスト教と同じ神だそうです。
       全知全能の絶対神で、天地の創造主であり宇宙の支配者。

 ② 天使  神によって光から作られ、神の手足となって働く。

 ③ 聖典  預言者ムハンマドに与えられたアラビア語の「クアルーン」
       (コーラン) が最後の啓示であり、神の言葉を直接書き留めた
       ものであり、一字一句改変できない。
       旧約聖書、新約聖書も同じく神の啓示で、イスラームの聖典で
       あり、ユダヤ教徒もキリスト教徒も同じ 「啓典の民」 とされる。

 ④ 預言者 ムハンマド(モハメット)が最後の最大の預言者である。
       クアルーンには最初の人間アダムを始めとしてモーセ、イエス
       ら新約・旧約聖書を含め25人の預言者が紹介されており、全て
       の預言者を信じることとされる。

 ⑤ 来世  この世に終末があり、人は死後に復活する。生前の行いに審判
       が下され、善人には楽園が、悪人には火嶽がある。

 ⑥ 神の予定  世界は全知全能の神の計画と意思によって動いている
       こと。(人間に許された一部の 「自由意思」 との関係は神学
       的に論争の的となる。)

3.五行=ムスリムが行なうべきもの

 ① 信仰告白 「神=アラーのほかに神なし」
        「ムハンマドは神の使徒である」 の2句を唱えること。
 
 ② 礼拝  日没、夕べ、暁、昼、午後の1日5回、マッカの方角を向いて
       行うことが義務付けられている。
 
 ③ 喜捨  年間収入に対して定率で義務付けられる、一種の宗教税。

 ④ 断食  イスラーム暦9月 (ラマダーン月) の1か月間、日の出から
       日没まで飲食ほかの人間的欲望を断つ。

 ⑤ 巡礼  肉体的・金銭的に可能な者は、生涯に1度、マッカに巡礼
       すること。もちろん、可能なら何度行ってもよい。

4.イスラームの人間観
 ① 原罪はない。アダムが地上に降りたときに原罪は許された。
 ② 人間は神の被造物で泥から作られ、神の代理として世界に下された。
 ③ アラーを信ずる人=ムスリムは氏族・民族の別なく平等である。 
    (ただし女性は別。)
 ④ 女性は子どもを産み育てることが本分。結婚前は家長に従い、嫁し
   ては夫に従う。但し老いて子に従うのでなく、子にかしずかれる。

5.偶像崇拝の厳禁
  神の教えだけが信仰の対象でなければならない。神をかたどった一切
  の偶像、彫像、絵画は禁止される。音楽も禁止。

6.イスラームは比較的平和な宗教
 「コーランか剣か」というのは誤解。キリスト教よりも戦いが少ない。
  これは事実のようです。ユダヤ教やゾロアスター教などとも支配と
  被支配の関係ながら共存し、改宗を強制していないそうです。
  イスラム教が拡大していったのは、私が思うに、信徒は民族や出自に
  関わらず対等である、という教義が被征服者の側から歓迎されたから
  ではなかろうか。

7.ジハードとは
  本来は信仰上の 「努力」 という意味であり、戦闘も含まれるがそれ
  だけを指すものではない。
  現代の過激な原理主義勢力の自爆攻撃などは、多数からは容認されない。

8.教団組織がない
  イスラームには教団組織がなく、聖典の解釈などは一般には高位の
  聖職者のファトワによっている。誰のファトワを信ずるかは各ムスリム
  に任される。
  このため自爆テロのような 「ジハード」 を否定する組織的規制は
  実際上不可能。
  
9.イスラームの科学
  ローマがキリスト教化し、多神教のギリシア文化を排斥したとき、異教
  に寛容なイスラム世界がそれを取り入れ発展させた。
  ルネサンス以降、西欧近代文明が発展するまで、イスラム世界が最も
  進んだ文明を持っていた。


(感じたこと)
イスラームが他宗教と比較的平和に共存してきたというのは、あまり知り
ませんでした。見直したいと思います。
しかしどうしても幾つか気になるところが見受けられます。

まず信仰する神は、全知全能の絶対神で、天地の創造主であり宇宙の支配者
です。そして人間は神の代理人で、世界を支配するとのことです。
前に書きましたが、私は横暴な唯一神と契約を結ぼうという気持ちが理解
できません。わが大乗仏教ではこんなことは全然考えられません。
人間が世界を支配するとは、新約・旧約にも書いてなかった気がしますが。

ムスリムは民族を問わず神の前に平等なのに、女性は対等ではありません。
クアルーンに明文の禁止規定はないが、実際には女性は肌どころか顔も見せ
てはならないのです。人間扱いでないとさえ言えます。
この面ではキリスト教がむしろ進んでいます。ローマ以来女性も財産や領土
を相続していました。
イスラームの女性差別は当時の社会構造の反映かもしれませんが、実際には
いろいろ抜け道的解釈があるようです。しかし抜け道ではダメでしょう。

科学の進歩についていえば、イスラームが進んでいたのにキリスト教世界
に追い越されてしまったのは、厳格すぎるイスラームの教義が人間の自由な
発想を抑圧してきたからだと思います。新しい物事が出て来るたびに教義
に違反しないかどうかいちいち聖職者が判定する、などということで科学
が進歩するでしょうか。
聖典クアルーンは神の言葉で一字一句の改変も翻訳も許されない、という
ようなことでは科学も文化も発展はできません。
教会組織がないことは良いことのようですが、、それからの解放もできない
ということで、結局社会の停滞を生じてしまったのかもしれません。

音楽や絵画彫刻といった文化もすべて偶像崇拝として禁止されています。
先史時代の洞窟などにさえ見ることのできる人間的な創造力を、完全に
封じ込めてしまったのです。唯一許されていたのは教会建築くらいで
しょう。お酒も禁止。神話時代からの酒飲み民族の後裔はとても生きて
行くことができません。 ま、被支配民としてならば飲めるかも・・・

こうしてみると、イスラームは全体として人間の想像力と創造力を封じ
込める、とても悲しい、非人間的な教えです。草創当時は社会改革の理想
があったと思いますが、大帝国を作った後は現状維持にとどまってしまい
ました。このような宗教を10数億人が信仰しているというのは人類全体の
損失でもあり、とても残念です。
しかしムスリムに改宗を勧めるのは塩野七生さんによると死罪に当たる
そうですから、私も命を惜しんで、同情するだけにしておきます。
       (わが家で  2014年2月9日)

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「もう、神風は吹かない~特攻の半世紀を追って」 に感動

2014-02-07 20:12:12 | 第2次大戦

昨日までシュミット村木眞寿美さんの「もう、神風は吹かない」 (2005年、河出書房新社) を
読んでいました。ドキュメンタリーとしても流れがわかりにくく、ちょっと取っ付きにくい本
でしたが、読み進むうちに眞寿美さんの飾らない真摯な人柄と、おそらくそれに心を開いた
元特攻隊員たちの本音にぐいぐいと引きつけられました。

「特攻によっても戦勢の挽回ができるなどと真剣には信じていなかった軍令部が、二千数百人
を『搭乗員としての誇りを無惨に打ち砕く、片道攻撃という手段を選ばぬ自殺行為』に追いやる
前に、軍人の見栄を捨てて和平交渉に入っていれば、未成年を含む前途ある若い命は救われ
たのではないか。」(64p)

また隊員の回想。整備不良で飛行機が故障したり、敵機に撃墜されたりした 「生き残りの
特攻隊員は、トラックで福岡市内の沖縄航空作戦のための第六航空群司令部に搬送された。
(中略) 参謀が入ってきた。最初の言葉が、『なんでおめおめ帰ってきた。死にぞこないの
卑怯者。臆病者、そんなに死ぬのが怖いか。』」(181P)

私は思わず涙が出ました。特攻で死んだはずで軍神とする手続きをしたのに「生き残ってしまった」
特攻隊員は、人目に触れては困る存在だったのです。
満足な訓練もできず、不十分な機体で援護もなく、レーダーで張って待ち構える敵に突っ込み
生還を許されない特攻が、驚いたことに大本営承認の公式な作戦でした。生き残りの隊員の多く
はただ死ぬだけのための効果の上がらない作戦だと感じていたようです。眞須美さんのインタ
ビューに本音が次々と吐露されます。
日本の戦争指導は精神論ばかりでめちゃめちゃで、人を消耗品としか考えず多くの命を無駄に
死なせたのです。

終戦の玉音放送の後、若者を道連れに特攻した宇垣中将を称賛する人もいるようですが、とん
でもない間違いだとする著者に賛成です。死ぬなら一人で自決するならまだわかります。特攻
を美化するなど、狂気です。なのにデタラメな指導者たちが今は靖国神社に神として祀られて
いるのです。梅原猛氏は、靖国神社は敵味方なく死者を祀る日本の伝統に合わない「新宗教」だ
と言っています。

それで思い出すのが西部邁氏です。氏は右の論客だそうで、つい最近 「無念の戦後史」(2005年、
講談社) を読みましたが、大東亜・太平洋戦争は自衛戦争で国際的に許されるものだと主張して
います。
史実を無視するなら論客とは呼べません。国際連盟脱退の主因となった満州国は、「五族協和の
王道楽土」 と謳われましたが、阿部総理には残念ですが実際は侵略そのものでした。関東軍の
自作自演による柳条湖事件以来の15年戦争は中国国内で戦われ、かの国に数千万人という人的
被害を出しました。日本の兵隊さんもかなり死にましたが、武力で攻めて行って負けた後で自衛
戦争といっても、相手が納得するはずがありません。

そして真珠湾攻撃でアメリカを本気にさせた太平洋戦争では、惨憺たる失敗に終わったインパール
作戦あり、戦死ではなく餓死の島と言われたガダルカナル戦あり、生還を許さない特攻作戦あり、
さらに凄惨をきわめた沖縄戦に至ります。それでも日本では誰も責任を問われません。西部邁氏は、
多くの若者や兵隊を無駄死にさせたことをどう捉えているのでしょうか。私は戦後生まれですが、
そうした兵隊さんや人々の無念を思うと、とても責任者を許すことはできないと感じます。

極東軍事裁判は事後法に依るものでA級戦犯は戦犯ではないというのですが、では滅茶苦茶な
戦争指導で有為の人々を無意味に死なせた責任は誰にあるのですか。西部邁氏があらためて
その責任を追及しているということは聞きません。そうではなく、むしろ戦争を歓迎した国民みな
に責任があるとして 「一億総懺悔」で当然としていますが、盗っ人猛々しいというべき論理です。

眞寿美氏の言葉を西部邁氏に差し上げます。「死の覚悟をさせておいた若者に対する終戦時の
精神的虐待には凄惨なものがある。(中略) 自国民に対してさえこうだから、ましてや他国の
犠牲者、他国民の傷に関しての無関心は推して知るべしである。」 (232p)

朝鮮の王妃・閔妃虐殺は太平洋戦争以前に起きたことですが、軍かどうかは別として日本人の
仕業であり、王宮に押し入って王妃を惨殺し、その場で火をかけて遺体を焼くという残虐極まる
所業でした。かの国人でなくとも1000年は語り継がれる悪行です。その後に起きた朝鮮併合の
法律論は別にして、閔妃虐殺は日本人としてまことに恥ずべきことでした。

西部邁氏は偉そうなことを言っていますが、兵の命も相手の痛みもほとんど感じていないので
しょう。こんな人が論客だとは、日本の右派の知的退廃もひどいものです。 私は氏をまったく
信用しません。

ところで、特攻隊員の手記などの記録を世界遺産に申請しようという動きがあるそうです。隊員
たちの純真な心は痛ましいものですが、日本の特攻作戦がいかに非人間的なものだったかを
世界に知ってもらう機会になるなら、意義はあるでしょう。それが本来の意図ではないにしても。

       (わが家で 2014年2月7日)

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ヒンズー教をちょっと覗いて

2014-02-04 20:18:02 | 宗教

「ヒンドゥー教 インドという謎」 (山下博司、2004年、講談社)。
ヒンドゥー教はインドに侵入したアーリア人の古代バラモン教から発展し、現在インドの
多数派となっている宗教です。

聖典はバラモン教の聖典である膨大な 「ヴェーダ」 で、口誦で伝えられ紀元前1500年頃から
前1000年頃に成立したそうです。その後ゴータマ・ブッダの時代である紀元前500年頃までに、
「ヴェーダ」 の極致と解される 「ウパニシャッド」 が成立しました。「ウパニシャッド」 とは
「近くに座る」 という意味で、秘伝として近親や少数の弟子に伝えるもので、個人の救済が
中心課題だったようです。

またヴェーダの創造伝説中にすでに 「人が4種のカースト」 として生まれたとあり、カースト
制度は聖典に発するそうです。ヒンドゥー教は仏教や原始ジャイナ教の衰退後に多数派となって
行きますが、カースト制度を改革するどころか、さらに拡大強化する方向に進んでしまいました。

ブッダはこうしたヴェーダ聖典を尊重しなかったので、インド宗教界では 「非正統派」 とされます。
またブッダはその教えを秘伝ではなく広く一般人や異教徒にも布教したと言われています。

輪廻からの解脱はインドの根本思想で、仏教もそれを受け継いでいます。またウパニシャッド哲学
では 「梵我一如」 が核心とされますが、それは 「ブラフマン (梵) と呼ばれる根本原理と、アート
マン (我) と呼ばれる個人の本体とが究極的に同一であるという考え方」 だそうです。「一切衆生
悉有仏性」 という大乗思想とも近いように思われます。

なおブラフマン=ヴィシュヌあるいはシヴァ神=は最高神であり創造神ですが、ヒンドゥー教には
その他もろもろの神々もいる多神教です。私は唯一絶対神の宗教よりも親しみを感じます。
     (わが家で  2014年2月4日)

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