「アレクサンドロスの征服と神話」 (『興亡の世界史1』、
森谷公俊、2007、講談社)。
アレクサンダー大王の父フィリッポス2世はギリシア世界に覇権を確立し、コリントス
同盟を結んで対ペルシア遠征を決定 (前337)。 しかしその翌年フィリッポス2世が暗殺
され、アレクサンドロス3世 (大王) が弱冠20才でその後を継ぎマケドニアの王位に就く。
前334年、父王の整備した当時初の常備軍マケドニア軍とギリシア諸国の連合軍を率いて
東征し、エジプトを降伏させ、アケメネス朝ペルシアを滅ぼし、さらに中央アジアを平定し
インダス川に至る。中央アジアやインドでは諸部族の抵抗強く、多くの町で虐殺を繰り
返す。将兵の厭戦気運が高まり、ついに軍を返した (前325)。
この間わずか12年で空前の大領土を征服し、前323年バビロンにて死去。後継者が決まって
いなかったため将軍たちの後継争いが起こり、やがて3分割される。
当初の目的・名分はペルシア戦争の仇を撃つ、ということで、アケメネス朝ペルシアを滅ぼす
までは良かったのですが、その後は大王個人の、神になりたいという欲望のままに軍を進め、
虐殺を繰り返しました。
文化的にはギリシア人が東方に発展してギリシア文化が広まったと言われていますが、森谷
氏によればそれは以前から交流があったことで、大王によって突然起こったことではない。
また社会制度としては、大王はペルシアの制度と支配階級を温存したので、東方でギリシア
的社会ができたわけでもない、ということです。20か所ともいわれるアレキサンドリアを
建設しましたが、後に残ったのはエジプトの1つだけ。
こういうと稀代の英雄を軽く見るようですが、私が思うに個人的な野心だけで大征服をなし
遂げたもので、文化や制度を変えた人ではない。ローマのシーザーのように夷狄を同化した
わけでもなし、ナポレオンのように新社会の法典を整備したわけでもない。蒙古のように
ただ虐殺し征服して君臨しただけ、ということになってしまったのです。
つまり、征服に理念がない。何のために沢山の人を殺戮したのか。死の直前、自身の神格化
を命じたそうですが、その後熱病で死んだのは神罰ではないか、と感じました。しかし、
もう少し長生きしたらナポレオンのような悲運が待っていたかもしれませんから、あるいは
幸運だったのかもしれません。
(わが家で 2014年2月13日)
「イスラームのロジック」 (中田考 2001年、講談社)。
中田氏は、イスラームを理解するにはブタの禁忌といった表面をとらえて異文化として
納得するのではなく、「全人類に向けられた普遍的メッセージとしてイスラームに向き
合う必要がある。」 (11p) と主張しています。また梅棹忠夫氏や小室直樹氏の論を引いて
イスラームをある意味で理想的な、完成された宗教として位置付けています (75p)。
しかしイスラームを初めから普遍的理想的なものとして見るのも、一つの固定観念では
ないかと思います。それでは冷静な他宗教との比較検討ができません。
また 「偶像とは自己の欲望の投影に他ならず、(中略) 唯物論、無神論、無宗教等は
人間の我執の幻影への隷属、形を変えた偶像崇拝なのである。」 (38p) と断定していま
すが、きわめて乱暴な論理です。イスラームにおいては絵画彫刻ばかりか音楽を含むあら
ゆる芸術が偶像崇拝として禁止されていますが、とても非人間的なことだと思います。
イスラームで言葉だけがなぜ偶像の範囲に入らないのかといえば、それは神が言葉で語って
いる、というその1点だけでしょう。私は浅学菲才ですが、仏教的に言えばすべては輪廻
するのであり、「無謬不可変の言葉」 もいつか偶像になりうるのではないでしょうか。
イスラーム神学では神の存在の否定から出発し、もし 「造り主」 が存在するならばそれは
かくかくしかじかの性質を持っていなければならない、そういう性質を持つ者はすべて
アッラーフと同一である。ということだとしています。(131p~)
その属性とは、
1.本体属性 存在すること。全き存在者、必然存在者、宇宙の作り手。 空間を占めず、
空間を占めるものに依拠するものでもない存在。
2.否定的属性 宇宙に存在する者すべてに神性を否定することから出てくる。
① 時間において始点を持たない無始 ②時間において終点を持たない無窮、
③生成消滅するものと共通点を持たない非生成、 ④他の何物にも依存しない自存、
⑤無比である唯一性。
3.有意属性
①能力 ②意思 ③知識 ④生命 ⑤聴力 ⑥視力 ⑦言語能力。
未だこのほかにイデア属性の7つの有意属性を加えて20とし、それら全部を3つのカテゴリー
に分類するということです。
こうした複雑な神学論は、要するに神の存在を宇宙の存在にとって必要不可欠とする論理に
ほかなりません。実際に 「イスラームに神なし」 などと言えばジハードの対象になりかね
ないはずでしょう。
それに言語能力も神の属性に数えられていますが、神が語ったという聖典クアルーンは
アラビア語で書かれ、1字1句の改変も許さないもので、従って翻訳してはならないそうです。
全知全能の神はなぜ諸国民にすぐ分かるようにしなかったのか、じつに不思議です。にも
拘わらず、アッラーフはいきなりああしろこうしろと人間に命令するたいへん横暴な神で、
アラビア語を学ばなければ何を命ぜられているのかさえ、正確には分かりません。
この本で、仏教徒としてはイスラームを理解することがたいへんな困難だということが
よく分かりました。
(わが家で 2014年2月23日)