魔人の鉞

時事、歴史、宗教など、社会通念を独断と偏見のマサカリでスッキリ解決!  検索は左窓から、1単語だけで。

再び、特攻の責任について

2024-06-05 09:00:00 | 日記
最近読んだ特攻の本2冊。もう特攻は分かったと思っていましたが、まだまだ知らないことがありました。

「不死身の特攻兵」 鴻上尚史著、講談社 2017年。
驚いたのは、沖縄での特攻作戦を計画する連合艦隊作戦会議が1945年2月下旬に木更津で開かれたとき、断固反対した人がいたということです。作戦は全機特攻、つまり赤トンボと呼ばれた複葉・布張りの九三式中間練習機まで投入するというメチャメチャな計画で、とても作戦と呼べるものではありません。
説明を受けた指揮官の中で、美濃部正少佐がこう反対意見を述べます。(263p)

「劣速の練習機まで狩り出しても、十重二十重のグラマンの防御陣を突破することは不可能です。」

これに対して全軍特攻化の説明をした参謀は色をなして怒鳴りつけました。
「必死尽忠の士が空をおおって進撃するとき、何者がこれをさえぎるか!」

対して美濃部少佐、
「私は箱根の上空で一機で待っています。ここにおられる方の内、50人が赤トンボに乗ってきて下さい。私が一人で全部叩き落して見せましょう。」(264p)

これに誰も何も言えなかったそうです。しかし作戦はそのまま9次にわたり決行されましたが、特攻の戦果はごくわずかでした。沖縄の牛島司令官は最後まで徹底抗戦を命令したため、一般人にも多大な犠牲を出しました。

しかし美濃部少佐は戦後、死の1年前に著した私的回想録「大正っ子の太平洋戦記」にこう書いているそうです。
「戦後よく特攻戦法を批判する人があります。(中略) 不可能を可能とすべき対案なきかぎり、特攻もまたやむを得ず、と今でも思っています。」(266p)

特攻が不可能を可能とするとはとても思えず、対案がなければ止むをえないというのは間違っています。対案がなければ講和するか降伏すべきです。
美濃部氏は防空戦隊指揮官として特攻を否定し、部下の一人も特攻に送らなかったそうですが、特攻に散った者への哀惜と命じた者・支持した者たちへの批判は別物でなければならないと思うのです。戦果を期待できない作戦を命令するのでは、無意味なバンザイ突撃や全滅を美化することになってしまいます。私はそういうことに心の底から腹が立ちます。

「特攻 なぜ拡大したのか」 大島孝之著、幻冬舎 2016年。
その沖縄戦で、宮崎周一陸軍作戦部長の日記には、4月14日の上奏に天皇が「沖縄方面、空中も地上も健斗し逐次戦果を収めたる点よくやって居る」とお褒めの言葉を与えた、とあります。(197p)
昭和天皇は満州事変などことあるごとに感状を出し、命令違反であろうが何であろうが結果さえ良ければ承認して軍部を甘やかし、特攻第1陣には「しかしよくやった」とお褒めの言葉を与えてきました。上記のように「沖縄戦は全機特攻」ということを知っていたはずの天皇がバカげた作戦を褒める。

講和などと言いだせば軍部がクーデターを起こすかもしれない、と心配したと回想録で語っていますが、それは自分が種をまき、水をやって育てたのです。そうした自分の責任にまったくなんの反省もありません。本当に卑怯卑劣で無能な大元帥でした。

昭和天皇の戦争責任をあらためて確認しました。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 一番たしかな幸福は | トップ | 維新キツネと 自民タヌキの化... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事