クーチミラン

根を、張るときと花の咲くとき

続 病床 おちぼ拾い

2024年07月11日 | 日記

退院後の過ごし方の内、具体的なものについて担当理学療法士の方に尋ねました。その中に、答えを出すのが困難かも、と想像したものも存在していましたし、結果はやはりそれに近いものでした。例えば、PC作業での許容時間、ウォーキングでの時間、立位でのそれ、草取りでのそれでした。質問の内、参考となる答えを戴けたのは、椅子に座っている時間、車でのドライブでの時間でしたがそれでも当然のことながら具体的な時間は示されませんでした。前者は「長くは駄目」、後者については30分ごとの休憩を挟むこと、のアドバイスを戴きました。ラジオ体操は3ヶ月間は見合わせるよう指導されましたが、定期受診時に改めて尋ねることを勧められました。体内に注入されたセメントは安定する迄1ヶ月間、コルセットは3ヶ月間の着用が求められました。入院中はベッドに横たわっている時間が殆どだったことからスマホの操作での私なりの進歩がありました。単語登録の方法、コピペのやり方、再起動の仕方そして写真撮影での強制発光の使い方でした。期間中、出された食事は全て撮影することにしましたが、どうしてもシャッターが切れないケースが2,3回発生しました。後で考えたら自然光の量が不足していたのでは、と思いました。そのことから強制発光機能の使い方の理解に達することが出来ました(通常は、スマホで撮影することは全く無く、カメラに頼っていますが)。

目から大きな鱗が・・・・                                  先日のブログに、リハビリ時に私が歩行の方法を完全に忘れて前に出す手と足が同じ側だったことを書きましたが、これについて極めて感動的なコメントを戴きました。その歩行方法にはちゃんと「ナンバ歩き」と名称が付けられていてしかも、腰痛改善に良い、と云われているとの内容でした。エッ、本当に、と思わざるを得ませんでした。そして昨日、用件を済ませて外出から帰宅しますと妻がスマホの画面を示して私にそれを視るように勧めました。ネット検索していたのです。正に、コメントの通りの記事で高齢者に良い、腰に良いとの記載もありました。しかも歴史的にも古いものでした。このコメントで世の中の“広さ”を痛感しました。コメントに感謝。序でに、全くその通りの徳島の阿波おどりの手と足の運び、400年の歴史を持つと云われていますので当時の手足の運び方がそのまま引き継がれているのでしょうか、それとも何処かの時点で意識的に変更されたのでしょうか。


病床 おちぼ拾い

2024年07月10日 | 日記

毎日、4回ほど訪れられる看護師さんは、血圧、体温、酸素濃度の測定、前日便通の有無、手術痕確認、痛みや痺れの有無を訊かれました。どの患者さんに対しても同様です。私が勤務していた職場での同僚の夢を見ました。起床後に訪れられた看護師さんのお名前がその彼と同じでした。偶然にびっくり。担当理学療法士の方の指導の下、スクワットに取り組んでいました。鏡の前で身体の格好を確認しながらの動作でしたが、その時、直ぐ横で他の患者さんの指導に当たっておられた、私担当の方の先輩に当たられる理学療法士の方が、私の上半身の向きが微かにではありましたが違っていることを指摘されました。私担当理学療法士の方は、違った角度から視ておられた為、気づかれなかったようでした。この病院への入院ではかなりの種類の書類にサインする必要がありました。10種以上在ったでしょうか。それらの殆どはコピーされて私にも渡されました。手術で起きるかも知れないトラブルなども含めてのそれでしたが、リハビリに関するものも在りました。その中で、リハビリに関する文書に目を通して驚きました。全面が虫眼鏡で視なければ読めないような小さな文字等でビッシリと占められていました。それでも読み取っていきますと、それまでに私が指導を受けた内容についての結果が、恐らく全て記されていました。指導の結果、私の能力がどのようになったか、実態はどうか、の記録です。退院日が具体的になった後、薬剤師の方が痛み止めとその副作用を防ぐ胃薬を処方して持ってこられました。そして、痛みがなければ服用する必要はない旨を告げられました。私には、手術による痛みは全く起きていませんでしたのでその薬は使わずに済ませていました。しかし、退院後、数日してふと、考えに変化が生まれました。もしかすると私はその薬に対して誤解していたのではないか、ということです。手術による痛みに対する薬、とばかり考えていましたが、昨年秋から続いている腰の痛みにも有効なのかも、という閃きです。私は手術とは無関係に腰痛を常に、看護師さんに伝えていましたし、それはカルテに記載されていた筈ですのでそれを承知で薬剤師の方は薬を処方されたのに違いありません。その推量を下に今、試験的に毎日、それを服用しています。

 


術後4日目から退院まで その5 (終)

2024年07月09日 | 日記

術後17日目 ① 先ずは、反省ごとです。前12日目の②で記した、妻を若い男性に引き合わせた時のことです。その病床を訪ねた時、区画を仕切ってあるカーテンを私はいきなり開けて彼に話しかけました。彼はPC操作をされておられたようにも思いますが、少し、びっくりされた様子でした。私の反省は、カーテンを開ける前に声かけをすべきだった、ということです。事務室などで、其処に入る場合にドアをノックするように。考え起こしてみますと、私のもとを訪れられる担当理学療法士の方も毎回必ず、私の名前を呼ばれた後、カーテンを開けておられました。②この日の午前のリハビリが初めて時刻変更となり40分遅れでした。そしてその内容も、いつもとは異なり、私の身体構造の確認のみとなりました。午後の分は通常のやりかたに戻りました。超嬉しい事実です。午後のリハビリ中、何の話題から話が其処へ飛んだのか記憶ありませんが、私が“世界最高のスイーツ”としている饅頭の名前を出しますと何と、彼女もそれが大好物との返事が返ってきました。凄く驚き、喜びが湧き出ました。ただ、違いは彼女は白餡、私は小豆の(粒)黒餡好みということです。暫くの間、その話が広がることになりました。③リハビリ時に使われていた「セラバンド」なるものを退院後の自宅で継続して使用するため、その購入を担当の理学療法士の方に尋ねると、そのリハビリ室で手に入れられることが分かりました。彼女から、多種の関係物品が記載された用紙を戴き、それに希望の物と氏名を書き込み院内の売店で代金を支払い、店主の方の押印を戴いて、それを彼女に提出することで入手出来ました。④夕刻、入院費の概算が示されました。⑤10周歩きの第8回目と第9回目で偶然にも例の若い男性に遭遇しました。2回の間には相当の時間の経過あったので、その偶然に驚きました。⑥退院日の明日は天気情報では大雨で警報が出される見込みだったことから、妻の迎えが困難となることを考えて、看護師さんに頼んで退院の時刻を先に延ばす旨、了解を戴いていました。術後18日目 退院日 ① 早朝に1回、その後暫くして更に1回、10周歩きをしました。これが最後の歩きとなりました。累計回数は11回です。②看護師さんにより、左手首に付けてあったバーコードと氏名入りのバンドが取り除かれました。③早朝、毎朝来室、声かけされていた内科医の方がお見えになり、私が本日退院であることを告げ、降雨の心配を口にすると「何かあったら仰有ってください」との言葉が述べられました。④午前8時、最後の入院食を戴きました。⑤9時前、理事長さん直々に顔を出されました。丁寧に、厚いお礼を申し上げました。⑤9時20分、最後のリハビリが終わりました。担当して戴いた理学療法士の方に心からのお礼を申しあげ、更に退室時は後ろを振り返って専用室に向かって頭を下げました。⑥10時前、同室だった若い男性が退院の挨拶に来られました。私よりほんの少しの時間、それが早かったようです。その方は私より遙かに年齢が若いので私が、ご活躍されることを口にしますと、同じように私に返されました。(終)

 

 

 

 


術後4日目から退院まで その2

2024年07月06日 | 日記

術後5日目 病床が変わったことから、私担当の理学療法士の方は新しい病床へ来られて、その環境整備まで手伝われた。午後のリハビリ時、一時的に私は歩行時の手と足の運びが分からなくなり、前に出した手と足が同じ側となって、それを訂正できなかった。私が「まるで阿波おどりみたい」というと彼女は頷かれた。6日目 洗髪する日のシャワー使用時は直前使用の方の持ち時間の余りを利用することを思いつき、それを実行した。そのことで余裕をもってシャワーできた(但し、私の持ち時間がまるまる余ってしまった)。7日目 担当理学療法士の方の付き添い・指導の下、病院内の通路の上り下りや通常歩行の様子が確認された。その結果、使用していた歩行器が撤収された。8日目 この日に、担当理学療法士の方の口から、そのお父さんの生まれられた月日が知らされた。年齢は59歳とか。(ということは彼女は私にとっては孫のような存在)彼女のアドバイスにより、この日から自主的に歩行訓練を開始した。病院の建物は言わば長方形みたいになっているが、その2階は各辺に沿って病室などが配置され、中央の部分は「島」のような作りとされている。その一角にナースステーションが在る。従って、2階に限ってその島の周囲を周回できる。患者さんはそこを利用して歩行訓練される方がおられる。私は、日に2回、それを実行することにし「2周歩き」と名付けた。9日目 抜糸の処置が入ったことによりリハビリ開始時刻が少し遅れた。1階の専用室に向かって階段を下りていると、すれ違う瞬間、「あっ、○○さん」と、女性の方が私の名前を呼ばれました。前述の方に代わってその日午後のみ私のリハビリを担当される理学療法士の方でした(このケースで、中国雲南省昆明空港での、現地ガイドさんとの出会いを思い出しました) 


術後4日目から退院まで その1 

2024年07月05日 | 日記

手術後の病院側の対応は略、同じ医療行為の繰り返しでしたので、この後は日々ごとの記録からランダムに纏めた事柄を記載していきます。①私担当の理学療法士の方のお父さんは私と同じ月日の生まれ。②病室が同じだった若い男性は仕事で、私の妻が勤務していた機関(県外)に出入りされていた。③同じく同室だった別の高齢男性の勤務先が我が家から200mほどしか離れていない場所であった時期があった。④リハビリでは器具類は一切使用されず全て人の手で行われた。⑤リハビリ項目の中で、片足立ちが、目を開けていても全く、といってよいほど出来なかった。⑥私の病室からリハビリ専用室迄は当初の4回は担当の理学療法士の方が付き添われたが、5日目以降は独りで足を運ぶことが求められ、それを実行した。⑦最後のリハビリとなった退院日のそれでは、その終了後、部屋の出口で振り返り頭を下げて感謝の気持ちを捧げた(大相撲の力士が取り組み終了後に土俵に向かって行うように)。⑧「人間万事塞翁が馬」を彷彿とさせる事案があった。私が落下事故を引き起こして入院した不幸が招いた、運良く無関係となった不運な出来事。⑨病床上で足を組んでいるところを、偶々、部屋前を通りかかられた担当理学療法士の方が目に留められ、その格好は止めるように注意を与えられた。ベッドに仰向けに横たわっていると自然に足を組みたくなるが、その度にその注意を思い出して取りやめるようになった。⑩術後5日目、病室が変更になった。この病院では病室について一定の流れを設けてあるようだ。手術当日はナースステーションが在る同じフロアー、その後ある期間がきたら1階上の病室、更に療養が必要で退院時期が長引く方は同じフロア-の別の場所、となっているみたい。私は1度の変更で済んだ。部屋の移り変わりは患者さんは自分の身体のみ移動させれば良く、沢山所有している物品等は収納ボックス等がキャスター付きのため病院側の職員さんで行われる。実に簡単で合理的。

 

 

 

 


術後3日目

2024年07月04日 | 日記

昨夜の周囲の状況から、その夜は睡眠はとれないかも、と予想していましたが、その通りとなり遂に、一睡も出来ませんでした。例の、私が代わってナースコールをして差し上げた方の状況があったからです。その最大の理由はその方の凄い「いびき」なのですが、私は私でトイレ起きが甚だしく頻繁だったのです。(このトイレ起き状態はその日に限ったことでなく入院後毎日でした。)水分は充分に摂り運動はせずただ、ベッドに横たわっているだけですので汗をかくこともなく、当然にその原因を創り出していました。手術後は毎日、退院日まで病院としてのルーティンがありました(後半では一部カットされた計測もありますが)。起床後、昼過ぎ、午後3時すぎ、そして夜、看護師さんによる各種の確認がありました。血圧、酸素濃度、体温の測定、傷口のその後の確認、足指の機能検査、服薬確認などなどです。担当の理学療法士さんも同様に毎日、午前8時20分頃に来室されその日の私のリハビリ予定時刻を告げられました。午前は9時、午後は1時がその殆どでした。そしてこの日が私にとってのリハビリ専用の部屋の利用となりました。リハビリの数種の施術は、極めて優しく、柔らかく、ゆっくりとした速度で為されていきました。このことは私には「目から鱗」でした。強く、時には激しくするものだと思い込んでいましたし、それが効果をもたらすのだ、と解釈していたのです。私の、シャワーの初使用日でもありました。午前に来室された看護師さんが予約を入れていてくださったのです。シャワと入浴については予約制となっていて、それぞれの入り口前に掛けられたボードに病室名と氏名を書いて予約することになっています。1回のそれに充てられた時間は30分間です。私がナースコールをして差し上げた方はその後、甚だしい回数のナースコールをされていました。終わったかと思うと直ぐ又、と言う具合です。加えて、間違ってボタンを押されたことも多かったです。ただ、看護師さんはその都度、駆けつけられ、1度も見放されたことはありませんでした。それに私にとっては不思議なくらいに皆さん、親切で丁寧に優しくその患者さんに対応しておられました。私が代理した初回などは数人で駆けつけられました。正に、どうしてそんな対応が出来られるのか不思議に思えてなりませんでした。(私たちの病室はナースセンタの比較的近くであったことから、センターでベルが鳴る音が聞こえていました)


それからの病床

2024年07月03日 | 日記

術後2日目                                           朝、点滴2種、夜を徹して身に付けていた各種計測器具(心電図、血圧計、酸素濃度計測器それに伴うディスプレイ)が取り除かれました。身体清拭、手術着から普段着への切り替え、血栓予防ストッキングの取り外しが行われ夜には最後の点滴開始手術痕の確認、服薬実行の有無膀胱まで挿入されていた管の取り除き(長さ20cm。人生初。このとき僅かな痛み)私のリハビリ担当の若い女性理学療法士の方から午前と午後、指導を。各種の実行前後に血圧、酸素濃度計測、足の機能確認が。遵守事項として、食事・トイレ・入浴時以外はベッドに横たわっていること、コルセットは入浴時以外は就寝時も着用することの指導あり。トイレの使い方、自販機の使い方も実際に現場で指導を受ける。シャワー室に火鋏が置いてあり当初は疑問に思ったが、あとで、それは落とした物をしゃがまず(腰を伸ばした状態で)に拾うためであることを知る。運ばれてきた食事で、その説明票と現物が異なっていたため、後に来室された栄養士さんにそのことを告げる。私の氏名は正確に記されていたことから、完全に間違いとは思えなかったが。記載では米飯だが現物はパンだった。栄養士さんの説明ではこの病院ではそのやり方をしている旨の答えで、その後も同じ状況は繰り返えされた。患者さんに対しての少しの説明が必要である、と思う。入院され、私と同じ病室に来られる高齢の患者さんは全員といって良いほど便秘に悩まれているようだった。(便秘については別途、記すことを考えています。)病院に預けていた日々服用の7種8錠の私の薬(これを病院に持参するのに、ハーモニカ購入により付与されたポイントで戴いたそのケースが役立ちました。)も全て返却され、加えて病院からは念のため痛み止めと胃薬が処方されました。食事に添えられた牛乳の成分が、私が日常飲用しているものと全く同じだったことに安心感と大きな喜びが生まれました。病院は整形外科ですが内科担当の医師も配置されていて、毎朝8時頃に必ず各(?)患者さんの病床を訪れられて様子を覗われ「今日も頑張りましょう」と声かけをされました。病院で働かれる方は全て、その職種を問わず(清掃作業の方達も含めて)お会いすると必ず挨拶を交わされました。スマホを所有していることの有り難さを、その購入後初めて実感しました。妻との連絡が必要となり。去る5月30日の初受診後、同病院医師の方から、手術終了までその使用を止められていたサプリがこの日、解禁になった。手術後、その痛みから絶叫状態が続いていた同病室の高齢の方に代わって私がナースコールをして差し上げた。


サボテンの花、撮影機会をなくしてしまいました

2024年06月05日 | 日記

我が家隣の方が自宅前の公道に面した場所に置いておられる鉢植えのサボテンに黄色の花が咲いているのを一昨日、観ました。花の大きさは5cmくらいはあったと思います。その色は濁りのない凄く綺麗な黄色で観ていて芯から心が洗われる素晴らしさでした。妻にも直ぐに知らせ、妻も直ちに足を向けました。感想は私同様でした。撮影の気持ちが湧きましたがあいにく、午後の強い日射しが当たっていたことからそれが弱まって柔らかい光となってからに決め、その場を去りました。しかし、夕刻を迎えてもやはり日射しは強く、その日の撮影を諦めました。恐らく午前に開花するのだろう、と推量して翌朝、確認しに行きますと花は閉じた侭の状態でした。気温が上がれば開花かな、と思いなおしてその時を待ちましたがそれでもダメでした。そして遂に、1日中待っても開花はありませんでした。今朝、更に足を運びますと蕾は小さくなって消え去っていくような感じでした。隣家の方にその名前をおききしましたが、ご存じありませんでしたし、ネットで検索しましたが特定には至りませんでした。福寿草のそれに似ていたようにも思います。


人生3度目の“拷問”を受けました

2024年05月31日 | 日記

私が受けた拷問はこれまで3回です。内2回はMRI検査、あと1回は鍼灸施術での時です。前者の検査は別にもう1回存在しますがその時は何故か、診断中は昭和演歌が流され続けていました(演歌嫌いの患者さんでしたら拷問と捉えられたかも知れませんが)ので、ここでは該当しません。検査する部位によって発せられる音が異なるのでしょうか。MRI検査所要の約30分間、穴の中に閉じ込められ頭の直ぐ近く、と思われる位置から大きな、鼓膜を破り裂くような雑音(?)が流されました。少しでもその衝撃を和らげるため両耳に分厚い当て物は添えられましたが、それでも音量は凄いものでした。はるか昔に行った第1回目から全く、改善はされていないのでは、と思います。ただ、それでも今後2度とそれはしたくない、との気持ちまでにはなっていません。昨日、病院を受診しました。朝9時40分頃には現地に到着しましたが全てが終了したのは午後6時を過ぎていました。到着時は、待合室はいっぱいの患者さん、それが私たち(夫婦)だけが其処に取り残された感じの診療時間終了間際の様子となりました。医師による問診、診察、説明、指導等、勿論、所要時間に含まれていますが、課された事柄の殆どは検査、検査、検査、検査、検査、検査・・・・・、多種の検査でした。それらは決して不必要なものではなく、必要あってのものだったろう、と解釈しています。


昨日は、とても嬉しいことがありました

2024年05月14日 | 日記

昨日、とても嬉しいことがありました。それは講演会の聴衆として男女の中・高校生が団体として多数、参加していたからです。感受性が強く、将来の進む道を探っているであろう、そして悩むこともあろう年齢の彼ら彼女らにとって講師のお話は必ず役に立つはず、と私は思いました。講師は現国連事務次長、軍縮担当上級代表の中満 泉氏でした。主催は、我が町から誕生された総理大臣清浦奎吾氏のその就任100周年を記念するもので、私はその催しがあることをチラシで知ったその直後、ネットで妻ともどもの参加申し込みをし無事に受け付けて貰っていました。公演開始の直前には山鹿灯籠踊りの演舞がありましたが、その折、中満氏は生徒達に挟まれた状態で客席に座られていました。何でも無い場面ではありますが生徒達にとっては得がたい経験になったのではないでしょうか。講演の終盤には当然のことに、質疑応答が採り入れられていましたが、極めて残念なことに高校生3人、それも女生徒だけによる質問で終わりました。会終了後、偶々、退室が同時となった女生徒に「質問したかったろ?」と話しかけますと、ハッキリとそれに頷いた答えが返ってきました。仕方ないことではありましたが、可能であれば別の機会にでも彼ら、彼女らとの懇談の場が設けられたら良いな、と夢の世界を願わずにはおれませんでした。講演の最後の部分では私にとっては正に、思いもよらない話が出てきて喜びが湧きました。当時の国際連(以前はですが)第2代目の事務総長だったハマーショルド氏の発言の紹介でした。中満さんは現在は還暦とのことでしたので当時の事は直接はご存じ無いのですが(私は、中学生の時、同氏に心酔して、新聞からか雑誌からか覚えていませんが、写真を切り抜き自分のアルバムに貼っていました。何故、心酔したかの原因も全く覚えていません)先輩から教わられて財産とされている言葉のようでした。それは、どんなに(現在のような)不安定な社会状況にあっても将来を悲観する必要はない。必ず、それを解決する存在の人が出現する、という意味の言葉でした。講師の中満 泉氏については私は日頃から、もしかすると私たちが屡々、食事に訪れる店(その社長さんとはインドへ旅したこともありますし)、また、その近くに住まわれる方とは皇居清掃でご一緒したこともありますが、何れの方も姓は中満と言われ、地域で多く存在する姓ゆえにその関係を中満 泉氏に対して推量していました。講師紹介の中で同氏について語られる中で私の全くの推量が正しかったことが判明しました。泉氏ご本人は東京生まれ、米国居住だそうですが、血筋を遡れば、私たち夫婦が屡々訪れる食事処がある地域の村長を14年間務められたり、また、別の方は総理大臣清浦氏と縁戚になられるとのことでした。


シジュウカラ、続いてウグイスの鳴き声が・・・

2024年05月07日 | 日記

今朝6時前、4軒隣にある竹藪あたりから2種の鳥の鳴き声が続いて聞こえてきました。何れも声たかだかな。最初のはシジュウカラ、そして2、3分後にウグイスでした。特に、後者の泣き声は何処までも届くのでは、と思える殊の外、大きくハッキリとした声でした。嬉しい出来事でした。ついでに他の2件を添えます。1件は、このところ我が家の裏庭で飛び回りが頻繁な蝶です。モンシロチョウ、モンキチョウ、キアゲハ、クロアゲハ。特にモンシロチョウは6匹くらい居ます。他は2匹ずつのように思えました。今、裏庭で咲いているのは真っ盛りを迎えたような「ヒルザキツキミソウ」くらいですが、それに止まる様子はなく、ただ飛び回る感じです。もう1件は、「黄唐辛子」の苗に関してです。6本を育てていますが、その育ち具合はそれぞれで、高さが異なります。内、1本の高さ20cmほどに育ったものに、まるで苗の一部であるかのようにビッシリと「カメムシ」が張り付いていました。今年はこれまでに3,4匹は除去して居ましたが今回のように多数匹、それも実を寄せ合っていた状態は黄唐辛子を育てることになっての数年間で初めてのことです。ピンセットを使って1匹ずつ取り除きました。今日でピリオドとは行かないはずですので今後も注意して対応することになります。この虫が飛ぶ様子をみたことはありませんので、何処からどのようにして毎年、やってくるのでしょうか。ピンセットで掴むときも、茎の反対側にくるり、と回って逃げる程度です。


我が家の桜も開花宣言

2024年03月27日 | 日記

熊本は昨日、開花宣言がされました。我が家は、その定義(6輪開花)からすれば僅かに早い期日にその状態を迎えていましたが、その程度が微かだったことから宣言は見送っていました。昨日の我が家の開花状況は木全体の3割程度でした。今日は快晴のようですので一気に花が咲き進むのではないでしょうか。本年も又、昼、夕食をその近くで摂る機会が多くなる筈です。何処の桜も同じですのでわざわざ此処に掲載する必要はありませんが、撮影はしましたので場賑合わせにそれを添えます。

 


深刻な(?)PCトラブル発生

2024年03月26日 | 日記

ケーブルで繋いだ2台のPC間を1個のマウスによりポインターを行き来させる機能が突然、完全停止してしまいました。ホスト側PC内にポインターは留まり、リモート側のPCに移動しなくなったのです。また、ある方法を使ってリモート側にポインターを移すと今度はリモート側からホスト側へ戻すことが出来なくなりました。直前までは正常に稼働していましたし、これまでも小さなトラブルは度々、発生していましたが、そのケースでは習得した方法で解決し続けてきました。しかし、今回は異なっていました。これまでの解決法が全く役に立たず、それから先に踏み込んでまで新しい方法により挑戦しましたが異状には変化は生じませんでした。これは私としては深刻な問題でした。その問題が解決しなければPC作業が、ケーブルで繋ぐ以前の状態に戻り相当に不便で煩雑なものになります。マウスも2個必要となり(3個の所有はしていますのでその点では問題ないのですが)、一方で作成したフォルダーやファイルはUSB器具に収めてそれをもう一方のPCに挿入し直す必要が出てきます。ケーブル接続で折角覚えた喜びが面倒に変わります。どんなに努力しても解決には至りませんでした。遂にはケーブル販売会社に電話で尋ねることを決めました。幸い、福岡にも支店が在りました。電話に出られた方に一応の説明をしましたが、技術関係の方で無いと分からない、ということから後刻、連絡を戴けることが案内されましたので受話器を置きました。技術関係の方からのお尋ね内容はそれらの殆どが私が挑戦してきたことでしたので、表示される画面は略、スムーズに進んでいきました。そして、ある時点でトラブルの現象は消え去り無事に正常な状態に戻すことが出来ました。振り返ってみますと、指導受けた内容と、私が相談前に採った方法は殆ど同じように思えたのですが、何故、私の考えは成功しなかったのか、が疑問として残りました。推量になりますが、作業の順序に違いが在ったのかも知れません。或操作を先にするか、後でするか、の違いだったのかも知れません。


超常現象 不思議のシャボン玉?

2024年02月13日 | 日記

昨日の午後は陽光が降り注ぐとても気持ち良い条件でした。屋内は炬燵が必要な寒さなのに外は快適、正に正反対の状況が生まれていました。あまりの温かさにフジバカマ区域を仕切る土台石に腰を下ろして過ごしていました。少しして、直ぐ近くの梅の木付近から1個のシャボン玉?が飛んできました。その後、続いてそれより少し大きめのものがもう1個飛んできました。に包まれました。近くには誰も居ません。その場所には大分前から私は居たのですが近所から人の声は一切、聞こえてはきませんでしたし、子どもの声も全く在りませでした。飛び去ったのは確かにシャボン玉そのものに見えました。その現象、一体、何だったのでしょうか。自然に発生することがあるのでしょうか。謎は、私の疑問は、其の侭、続いています。そういえば、以前、私の実兄が亡くなった後、その長男家族が我が家を訪れたときのことです。納骨がその目的だったのですが、墓でのその実施後、我が家で過ごしている最中に彼の両脇から煙りが立ち上りました。何度も。私は直後は自分の目を疑いましたが数度それが発生したことから仏壇で使用した蝋燭の火が彼の服に移ったのかも、との想像が働きました。直ぐに彼の背後に回って確かめましたがそれは全く、無関係でした。妻は偶々、その席を外していましたのでその現象は全く知りませんが、同席の彼の娘もその煙を見ていました。略、私と同じ位置に座っておられたからでしょう。従って、彼の横の席だった奥さんには全く、その現象は見えていませんでした。後に、ネットで検索しますと確かにそういうことが在るとの記載に出会いました。そしてそれは幸運の意味が在ることも添えてありました。超常現象とはそういうものなのでしょうか。序でに、彼に対するその父親の思いや接し方には生前、非常に強いものが在ったそうです。