バルセロナ、ロシア、タイ、香港、ロンドン、パリでは既に演舞が披露されたようです。徳島阿波おどりのことです。その全てのケースについて私が確認したのではありませんが、「連」の演舞の終盤での一般観客を誘い込んでの踊りに関してですが、現場におられた観客の殆どがその踊りに参加されています(日本国内でも勿論、同様ですが)。初めて目にされた踊り、初めて耳にされたお囃子、それなのに積極的に踊りに加わられることはとても嬉しいことです。お囃子の効果が極めて大きいのでは、と私は思っています。お囃子は2拍子で成り立っていますが、ラテン音楽のマンボと同じでその音を聞いただけで気持ちは浮きたち、自然と直ぐ、身体を動かしたくなるリズムです。国が異なっても人は皆同じだと思います。では何故、2拍子はそうさせるのでしょうか。それは無意識の内に心臓の鼓動を思い出させているのではないか、と推量します。使われている楽器の太鼓(ラテン音楽に於けるパーカッションのコンガやボンゴ)の音色も自然にそれを感じさせているのではないか、と思っています。人が歩くのも1,2、1,2です。
「よくもマー そんなことを・・・」は環境活動家のグレタ・トゥーンベリさんが言われた言葉ですが今回ブログのタイトル、よくもマー こんなことが・・・は私がそれを応用したものです。この4日前から又、新しい症状が身体に現れました。左肩、左腕には変わらず痛みが在り不自由から抜け出せずにいる中で更なるストレスが見舞っています。今回の症状には今のところ痛みは伴っていませんのでその点は有り難いのですが、何故、その症状が生まれたのか全く不明です。加齢、それも後期高齢になりますと想像だにしないものが出現ししかも、医院を訪ねても病名が無いのが通常で勿論、薬の処方もありません。耐えるしかないのです。今、どうして現在の症状が出てきたのか、その原因についていろいろと推量を繰り返しています。もしかするとこのことが、と思われる日常の行為等について、いわば人体実験とも云うべきことを自分自身に適用しています。過去に経験したことが無いいろんな事が今後も出てくるのでしょう。一時的なものならまだしも、それが永続するとなると思っただけでも気が滅入ります。口にしても何にもならないことですが亡母は口癖に「年とっとが1番いかん」、と云っていました。
無料配布と聴いて直ちにその送付をお願いした冊子が間をおかずに郵送されてきました。内容は県内に在る球磨村についてのものです。冊子3部と、広い紙の両面に地図や写真を盛り込んで印刷された資料1部が入っていました。内容をまだ、念入りには見て、読んでいない段階ですが、それでも少し覗いたところで気づいたことを掲載記事に依拠して此処にご紹介します。同村は山林が92%,平地は8%だそうです。21の行政区が設けられていて其処に79の集落が存在しているそうです。1行政区内に在る集落の数が1箇所だけの所が3行政区、2箇所の所が1行政区、以下、3箇所が6,4箇所が4,5箇所が3、6箇所も3,7箇所の所が1行政区だそうです。そして、興味深いのが全79の集落の内、村人の姓と集落の名称が一致する集落が65存在しているとのことです。82%に当たります。戴いた資料に今後、目を通して面白い記事を発見しましたらこのブログでご紹介しようと思っていますが今、目に止まっているものの内、幾つかを書きますと、「日隠」(ひがくれ)世帯数15 、「黄檗」(きわだ)世帯数15、「毎床」(まいとこ)世帯数42 などが在り、集落内に同じ姓無しでも「黒白」(くろじろ)世帯数7が在ります。
我が家で西日が当たっては困る所が4箇所在ります。リビング、台所、風呂場それにトイレです。それらに設けられた窓に陽射しが当たらないようにする方法をこれまで相当長い間考え続けてきました。前2者については下屋を作っていますのでそれを利用して簾を吊すことで一応の解決はしていました。問題は風呂場でした。上と下にそれぞれ窓が在り、上は狭くて横長、下の窓は高さもそれなりにとってあり、長さは上の窓より少し長めです。其処にどう、対処するかが最大の課題となっていました。色んな方法が頭に浮かんでは消え、浮かんでは消えして昨日まで何も手つかずの状態でした。地面に角材を打ち込み、それに2箇所穿孔してボルトで木材を継ぎ足す方法(これは神宮の総代担当時に経験した幟を立てる折の要領です)、設置後の耐久性を考えて角材の代わりにコンクリートの角柱を使うことなどもそうでした。建物自体(サイディングの壁面)にキズは付けたくないし、支柱を付けたときその上部部分は直線を保つかそれとも角度をつけるか、陽射しを遮断する肝心の部分には何を使うか、などなどなど、頭の中では行ったり来たりが続いていました。そして今朝、突然妻が「これを使ったら」と言って何かを差し出しました。縦横略2mの広さで2辺には穴を開けてあり、それを守る為の金具も取り付けてありました。布ではなく化学繊維使用だと思います。そのことで私は考える基準が出来、その物をどのようにして設置するかに考えを進めることが出来ました。一気に考えは纏まり早速実行に移りました。作業に当たる場所は午前中でないと不可です。午後はまともに西日を受けますので。何度かの脚立の上り下りは発生しましたが、順調に推移して無事故の内に作業は終了しました。肩の荷が下りました。
細やかな老老介護?
午前に定例の買い物に行きました。レジで私の前の高齢の女性の方が、支払いの為の機械の操作が分かられず困っておられました。通常ならレジの方など店員さんがそのサポートをされるところですが、レジの女性は忙しく他の店員さんもその近くにはおられませんでした。私が少し移動してその老女の方のサポートをしました。画面操作、お金の挿入口、お釣りが出てきた場所などを案内し、最後には買い物された物がいっぱい入った籠を近くのテーブルまで運んで差し上げました。私としては珍しく発生した小さな親切でした。このようなケースも老老介護というのでしょうか。
本場徳島市の「阿波踊り会館」では専属の「連」もしくは「有名連」単独での演舞が常時行われていますが、其処では「連」の方達による演舞が終わる前、会場のお客さんにステージに上がって戴き「連」の方達と一緒に踊るコーナーが設けてあります。また、夏の本番時も飛び入りの人達向けのそれが用意されていて、少しの練習の後、数千人の観客が居る有料演舞場へ踊り込むことになっています。踊りの上手下手は勿論、問題ではありません。数日前、PCで動画を観ている折、複数の「有名連」のメンバーから選ばれた踊り子さん、鳴り物の人達数十人が台湾の桃園市という所で演舞されるものを発見しました。会場は街中の広場みたいでしたが踊り場周りは観客でビッシリでした。その踊りの最後でもやはり、観客に呼びかけが行われ、多くの老若男女が応じられて踊り場へ出て来られ、そして踊られました。徳島で観ていた同じような場面では特に感じるものはありませんでしたが、外国台湾でのそれは異なりとても強く心を打たれました。飛び入りの人達は「連」の踊りを観ておられる時もそうでしたが、実際に踊られる時は如何にも楽しそう、嬉しそうでした。その様子を観てこういうのが国際間の争いを防ぐ土台、基礎、基本である、との信念をより強くさせられました。政治に任せっきりではいけません。徳島阿波おどりの「連」は日本国内の各地は云うまでもなく、フランスを初め色んな国に出掛けておられます。それは第1の目的は国内では限られてきたような感がある観客を外国に求める、というものなのでしょうが人と人、国と国との関係をよりよくする事にも大きく貢献しているのは間違いありません。
私は数十年前、読み耽っていた「宮本武蔵」の出版を記念して当該出版社から頒布された掛け軸を購入しました。それは「午眠布袋図」というもので宮本武蔵が描いたものの複製版でした。その画題の通り絵の内容は午眠されている布袋さんなのですが、購入したにも拘わらず何故、午眠か、何故、それが布袋さんか、その理由を考えたことは全くありませんでした。只単に、漫然と掛け軸を所有している、というだけのことでした。昨日、妻が床の間に茶席で掛ける為の他の掛け軸を掛けたことから急に「午眠布袋図」を思い出しその絵の内容について想像してみました。武蔵は毎日を生きておられるか死ぬことになるか、の超緊張の中で送っていた筈で、安眠もままならなかったかも知れませんし、気が休まる時は寸時としてなかったのではないでしょうか。そのことからひとときの心の安らぎの重さ、大切さを表現するにあたり布袋さんの午眠姿を思いついたのではないか、と想像しました。布袋さんはその姿がふっくらとしておられますので、精神的なゆとりの象徴として最も適切な対象となったのではないでしょうか。そこで思い出したのは午眠する夏目漱石の写真でした。武蔵の件とは意味するところが全く異なりますが、熊本市の坪井という地域に漱石の旧居が在ります。そこには漱石が和室で昼寝をしている写真が掲示されています。私はその写真がこの上なく好きでそれに勝る写真は未だ現れません。と、云いますのは写真ではその和室には床の間を初めとして漱石の身体以外、何1つとして存在していません。いわば空っぽなのです。その点が私の心を掴んで離さないのです。その何もない空間は限りなく想像力を働かせてくれ、何処まで続くか分からない奥深さと、物に囚われず心に生まれる豊かさを感じさせてくれます(モノクロ写真にもその事は云えます)。もし、其処に物が在ったら写真を観た人の関心はそれに注がれて仕舞い想像する行為は停止して仕舞うでしょう。因みに、我が家の床の間は以前、完全に物置化して仕舞っていていました。“無”がもたらす精神的な豊かさを完全にシャットアウトしていたばかりでなく、大切な部屋を完全に倉庫にしてしまっていました。
人の氏名や地名で、それに当ててある漢字は簡単な文字でもその読み方は全く分からないものが無限に在ります(最近の、誕生した子に付けられる名はそのレベルを更に超えた分野と言えますが)。しかし、それらはフリガナを添えてあれば納得出来るケースがあることも確かです。ところが、地名に関しては何故、その表現になったか、という理由や経緯が絡んで来ることは往々にして感じることです。この3日前だったでしょうか、ラジオで地方のニュースを聴いていますと熊本県内で昨年、大水害に見舞われた村で、その村に存在する珍しい地名を纏めた冊子が希望者には無料で提供される旨が放送されました。そういえば、水害発生後、メディアを通して何度かそれらの地名を耳にしたことを思い出しました。今回の放送後直ぐに当該村の役場に電話を入れて提供元機関の電話番号を教えて戴き、時間を置かずに電話しました。私が聴いたのは県内向けの放送ですので、冊子のことを知られた人の数はそれなりに限られていた、と推量しますが、それでも電話は話し中となっていました。結局は7回目に繋がりました。電話を取られた女性の方はスンナリと私の要望を受入れ下さいました(送付先をお知らせする折、私の名前を云いその字を説明しましたが、1発でちゃんと理解されたような感触でした)。冊子は今日にも手許に届くのでは、と期待していますが、この夏が終わり過ごしやすい季節を迎えたら現地を訪れてみたい気が起きてきました。冊子を参考に村内を歩いて周り私好みの被写体探しをしたいのです。珍しい地名と実際の光景との関係をカメラで捉える事は不可能でしょうが、何とかその片鱗のまたその片鱗でも画像にすることが出来れば「甲の上」です。その地域はこれまで鉄道や車で数回、通過したことはありますが下車したことはありません。村には宿泊施設も在るようですので、1日で無理なら1泊、それでも尚不足なら更にもう1泊、今はそんな妄想(?)に浸っています。コロナでの閉じこもりからの解放の第1歩となるかも知れません。
我が家の庭などで頻繁に目撃する近所の飼い猫を観ていますと、冬は日が当たる暖かい場所を選び夏は涼しいだろうと思われる日陰で身体を休めています。恐らく鋭い感覚でそういう場所を探し当てているのだと思います。梅雨が明けていよいよ、暑さは激しく厳しく、しかもコロナ禍で外出、旅行は侭ならず庭の草取りもなかなか実行出来ません。家の中に閉じ籠もった日々は特に何をすることも思い浮かびません。TVもラジオ番組も心に届くものは殆どなく、無為徒食の毎日です。そういう中、家の中でただ、1箇所だけ快適をもたらしてくれるスポットを探し出しました。南から北へ向かって庭、ベランダ、網戸、ガラス戸、板張り縁、障子戸①、6畳和室、障子戸②そして最も北側が廊下となっていますが、その廊下で障子戸②との境付近が貴重な、貴重な我が家唯一の避暑スポットであることが分かりました。庭からの風が和室を通ることでその温度を下げ、半分ほどに開いた障子戸②から廊下へと流れます。その風が実に心地よいのです。ガラス戸や障子戸①を、②同様の開き具合にしてみましたが、外気の熱を孕んでいて効果はありませんでした。ガラス戸や障子戸①を全開にして障子戸②を半開にしておくと風はちょうどビルの谷間を抜けるときのように速度も速くなり、快感を与えてくれ、エアコンが効いた部屋より遙かに大きく効果を発揮します。新聞を読むとき、歯磨き時、ゆっくりと過ごす時などにその場所に椅子を置いて過ごしますし、昼寝の時は茣蓙を敷いて横になります。家屋新築後20年強を過ぎて初めてそのことに気づいたことは何とも悲しいことです。
「半夏生」の季節が終わり既にそれらは枯れて行っていますが、先ほど庭に出ますと「黄トウガラシ」の実2個がそれぞれ、半分ほど黄色に染まっていました。その状態は丁度、半化粧といえそうで冒頭記載の「半夏生」を引き継いだみたいな感じです。その黄色は、生まれたばかりの為か実に綺麗で純粋、爽やか、新鮮、澄み切った色をしています。今後、全体が完全に黄色に染まり更に、他の多くの実がその後に続く筈で、その色を保ちたい気持ちを強く持っています。完全に黄色化した実は収穫してユズ胡椒にする12月まで冷凍保存しますが、問題はそのユズです。ユズは皮だけを利用しますので今年はその黄色が綺麗な内に収穫することを考えています。ただ、我が家のユズの木自体が高齢化しており果たしてその条件が出現するかどうか分かりません。もしかすると最初から実の表面に黒い大きなシミが数多、出来ているかも知れません。
障がいをを負ったアブラゼミ それを救う術が分かりませんでした。草取り中、雑草の中からアブラゼミの鳴き声が発生しました。私の作業で身の危険を感じたのだと思いますが暫くの間、セミが何処に居るのかは分かりませんでした。作業を進める内に漸く見つけ出せはしましたが私の当初予想とは異なり、飛べない状態にありました。当初は、生きる期間が終わりに近づいているのかも、との想像だったのです。しかし、セミを捕まえてよく観察しますと右の羽根に異常が在りました。飛翔するのに絶対に必要である1番大きな羽根が3分の1ほどしかなく、その先端は丸い小さな粒状になっていました。それでは絶対に飛べない、と思いましたし、実際セミは私から逃れようと羽根をバタつかせましたが飛ぶことは出来ず、移動も出来ませんでした。恐らく生まれた時からその姿だったのだろう、と思います。他の動物から襲われ食いちぎられた感じではありませんでした。何とかその羽根に手当てして飛べるようにしてやりたい気持ちは湧きましたが、どうすることも出来ず、その侭、地面に置きました。
下記の3件は何れも10年から20年前くらいのことです。
1.驚きの一言
九州内の或場所を訪ねることにしました。1度も行ったことがなかった目的地でしたので時刻表の末尾に添えてある宿の一覧をみて泊まる宿を決めました。直ぐに電話を入れて予約を始めましたが電話口の方とのやりとりの中で、私の名前を告げた後、先方からの求めに応じて住所を言い始めました。宿泊先は県外でしたので私が住む県の名を云い、続けて郡(当時)の名を告げました。そして続いて町の名を口にした直後です相手の方が「〇〇でしょう」と、それに続く大字名を言われました。〇〇は私が住む地域の大字名です。私はとんでもなく驚き言葉を失いました。一体、どういうことか。その理由を想像しようにも想像することは出来ませんでした。そして、実際に宿を訪れた時にその理由が分かることに大きな関心を抱き続けました。期日が来て実際に宿を訪れた時、電話に出られた方は宿の奥様で、何と私が住む町の隣町(現在は合併で同じ市になっています)出身だったのです。大字名をご存じだったのは、私の町のことも相当にご存じだったのだろうと、推量しました。加えて、その方は日本のある有名な女性のお姉さんであることも分かりましたし、それを思ってよくお顔を拝見していますと、妹さんより更に美貌を持っておられました。
2.敬いの一言
徳島に通い始めて2年目、前年とは異なる宿を時刻表で探し予約の電話を入れました。年配と思われる男性が出られて対応されました。予約が可能だった事から相手の方からの求めに応じて住所、氏名を告げましたが、名についてその漢字を口にした折、相手の方は「〇□の〇でしょう」と言われました。私の名の〇は一般的には殆ど使われない漢字なのですが、それを直ちに示されたのです。私はビックリし且つ、ただ者ではない方だろう、と想像しました。敬いの気持ちが起きました。その一言が私の心を掴み、翌年からもずっと、その宿に泊まるようにしました。今はその宿は廃業となっています。
3.感激の一言
深夜の雲南省の省都、昆明の空港でのことです。手続きを終えて私達のグループ10数名は空港建物から外へ出始めました。私はその最後尾で歩きましたが、私の順番が来たとき「〇〇さん」と私の名を呼ばれる男性の声が聞こえました。それが私達のグループの人でないことは直ぐに分かりましたが、声がした方に視線を向けると出迎えに来ておられる若い男性がそうであることが分かりました。現地のガイドさんでした。あの場で、しかも見知らぬ方から私の名を呼ばれるなんて想像だにできないことで、全身感激に包まれました。日本の旅行会社の方から連絡が行っていたことは間違いありません。その現地ガイドさんも写真撮影大好きな方でしたので、その関係もあり、情報が事前にそのガイドさんに送られていたのに間違いありません。
鬱陶しい蒸し暑さの梅雨が終わり夏を迎えました。直ちに陽射しは身を焦がす強さとなり、それが連続しています。譬え朝の早い時間帯でも屋外の日が当たる場所ではそれに耐えることは出来ませんし、家が作る陰で何とか作業をこなすことだけが可能となっています。1日の大部分の時間を部屋の冷房を効かせた所で送っていますが、何も行動を起こす意欲が湧かないその状況で自然と頭に浮かんでくるのは暑くて“熱”かった徳島の夏のことです。計56日間に亘って歩き回り、ファインダーを通して見つめ続けた光景やそれに関する諸々のことが思い出されます、まるで昨日の出来事のように。夏の本番の初日、朝早く宿を出て行きつけの大衆食堂へ。これが毎朝、毎年の私のルーティンとなりました。自分で好みのおかずを選らぶことができる店で当初は老ご夫妻だけでの営業でしたが、何年か経ってその娘さんが手伝われるようになりました。普段の生活では朝から魚を食べる事には抵抗があったのですが、その食堂では全く何の躊躇いもなく魚料理を選択していました。此処での食事は、昼、夜のそれを殆ど取らないため極めて重要な役割を果たしていました。即ち、1日分のエネルギー、栄養等を朝食で得る考えだったのです。食事を終えたらいよいよ、阿波踊り撮影の場所へ徒歩で約30分間、強烈な陽光を浴びながらの移動でした。現地に着いたときには既にシャツは汗でビショビショになっていました。踊りの初日朝9時開始の「奉納踊り」です。場所は蜂須賀家墓所「興源寺」でした。朝食の場所からタクシーを利用すれば直ぐに着く距離なのに、その方法を採らなかったのは吝嗇家としての誇りを捨てきれなかったからです。
現地に到着したその日、その街は丁度、祭りの日でした。大通りには至る場所にステージが設けられてそれぞれに催しが開催されていました。踊りあり、歌あり、色んな演し物を観ることが出来ました。そして、脇道の商店街も大通りに負けない人の出で、すれ違いが困難なほどでした。更に、裏道、路地に入りますと生活感に満ち溢れた人々の日常生活を目に出来ました。それら全ての場所で私は次から次へと、被写体とすべき夥しい光景を目にすることが出来、カメラを取り出し、適するレンズを選んでいました。正に、私にとって大感激、至福の連続でした。しかし、そのような場面に遭遇出来たのは宿泊するホテルを出発する予定時刻までの僅かな時間でしたので、その事が気になり続けていました。雑踏の中でホテルまで戻る道がハッキリとは分からなくなりそのルートが曖昧になってしまいました。その時点で目が覚めました。全ては夢だったのです。夢で良かった、という場合も在り、夢で残念だった、ということもあり今回は普通なら後者に該当するケースではありますが、例外的に大感激、至福のときだった、と感じています。夢の中で訪れた国は中国ですが、該当する省は何処にも存在していず私が勝手に作り上げた都市です。また、宿に到着した時は、修学旅行としてでしたが、1歩外出した折にはもう、社会人になっていました。お後が宜しいようで・・・。