撮影でフィルムを使用していたとき、偶に、使用前のフィルムをパトローネ内に引き込んでしまうことがありました。そのままではそのフィルムは使えないことになり廃棄処分せざるを得ませんが、その解決に貢献してくれていたのが「フィルムピッカー」というもので、引き込んでしまったフィルムのリード部分を再び外へ繰り出してくれるとても有り難い小道具でした。しかも、暗室内ではなくて明るい部屋で。器具自体はプラスチックとゴムへらで出来ていて簡単な作りの物ですが、何故フィルムを引き出すことが可能なのか、その理屈は私は今でも分かりません。そして今回はまた、別の小道具です。レンズにはフィルターを装着する場合が多いです。これまではその着脱には何の問題もありませんでしたが昨日、1つのフィルターがレンズフードから外せなくなっているのが分かりました。素手では勿論、色んな場合に利用出来るというゴム製の物を当てても解決せず、金属製のプライヤーを使ってさえ締まったフィルターはビクともしませんでした。その時、思い出しました。それを解決する小道具が存在し15年も前にカメラ店から戴いた写真用具専門の雑誌にそれが掲載されていたことを。しかし、器具の名称も分かりませんし分厚い雑誌の何処にその記事があったのかさえ記憶はありませんでした。1頁、1頁を丹念にめくっていき漸く探し出しました。「フィルタールーズ」と称されるものでした。早速、ネットで検索しますと2個セットで使用する物であることが分かりました。プラスチックで出来ていて価格は600円強でしたが送料が900円以上も必要との記事でした。それでは購入しづらい為、他のカメラ販売店を探していますと努力の甲斐があって送料無料の店を探し出しました。初めて利用する会社ですが直ぐに注文しました。代金も直後、払い込みました。現物がいつ私の所に届くかは不明ですが、その小道具が役割を果たしてくれることを切に願っています。上記2種の画像を添付します。画像左がフィルムピッカー、右がフィルタールーズです。なお、後者はネット掲載写真を使わせて戴いています。
先ほど用件で出掛けました。往路、我が家直ぐ近くで塀に純白で大型のテッセンが咲いているのに出会いました。その時はそのまま通り過ぎましたが帰路、撮影することにしました。直径は20cmほどもあるでしょうか実に見事な花でした。撮影していますと1台の車が止まりました。その家に住まわれている老夫婦でした。ご主人のお顔は見た記憶がありますが奥様は初めてでした。お話しによりますと肥料は施されず周囲の草を取り除かれるのみ、とのこと。また、紫のテッセンもあったがいつの間にか消えてしまった、との説明でした。「花も喜ぶでしょう」と、私の撮影に対して申されましたので「もっと綺麗に撮ってよ」と云われるばかりですよ、と私は答えました。私に何処からお出でになったのですか、と問われましたのでその直ぐ近くで、以前は茶碗屋をしていたことを申しましたがご存じ無かったようです。割と最近、引っ越してこられたのだと思います。テッセンの写真を添付します。
別の意味での、田んぼアート
別の意味での、田んぼアート
私が常時携帯しているコンパクトカメラには動画撮影機能も備わっています。そしてそれに音まで収められます。静止画に拘る私はこれまで1度もそれを使ったことはありませんでしたが昨日、ウォーキングの途中、テストの意味で初めて使ってみました。今の時代ですから器械は誰にでも使えるように作られていますし、従って初心者の私でも写すことは出来ました。今回の撮影対象は風の影響を受けてユラユラ、とあちこちへ浮遊し続けている水面に浮かんだ枯れ葉でした。観ていますと枯れ葉は生命が存在しているような、あるいは電動ででもあるような動きをしていました。撮影結果は私に1つの勉強をさせてくれました。植物のように個体自体が動かない物の動く姿を捉えるときには周囲の物も画面に同時に採り入れておくべき、ということです。即ち、主要被写体のみを画面に大きく捉えると周囲が省略されて表現したい肝心の主要被写体の動きの表現が制限される、ということでした。主要被写体を可能な限り大きく捉え且つ、同時に動きも完璧に表現する、それを1つの画面にどう取り込むか、課題が生まれました。但し、余程面白い動きの被写体に出会わないかぎり今のところ私は動画の分野へ入っていこうとは思っていません。
今の社会では相当多くの機関が電話通信に於いて0120で始まる電話番号を利用しているようです。電話が繋がると人が対応するのではなく先ずは音声で案内が流れ、電話した人が持っている用件内容を、案内される該当の数字と※を押して手続きを進めるようになっています。そしてそれは、用件次第では数回、同じ作業を繰り返すことになります。その後漸く、人が電話口に出てくるという流れです。先日、妻がしきりと数字7桁を告げていました。私は別室にいましたが妻は4回、7桁数字を繰り返して告げ、それでも繋がらなかったのか、かけ直しして更に、もう2回、その数字を口にしていました。関係が無い私まで数字を覚えて仕舞いましたが、当初私は、ちゃんと繋がった状態で何回も数字を告げる必要があったのか、と推量して相手側は、いやに面倒なシステムを導入しているな、と思って首を傾げていました。その後、何か別の方法で相手側と連絡が取れたのか問題は解決していました。後で妻から話しを聞いて不思議に思いました。音声案内での数字入力の後、続けて※を入力するよう案内があった筈ですのに、それをせず、言葉で告げていたことが。それでは一生を費やしても電話は先に進めません。2人で大笑いとなりました。録音で案内が流れているのに、真剣にそれに発言している姿を想像して今でも笑いがこみ上げてきます。年をとるとは何と楽しいことでしょうか、特別の努力をしなくても傑作な出来事が身の回りで頻繁。
昨日、フジバカマの追加移植をしました。1回だけでは少し、苗と苗の間に隙間があったことからその空間を埋める為のものです。しかし、まだ隙間がありますのであと少し、移植の要があります。ちゃんと育っていくのであれば追加なしでも自然に増えて行くのだとは思いますが、1年でも早く密な状態を作りあげたいことから2回目を実施しました。移植の対象とするものは移植前の場所でブロック塀の際にあるものを取り除くことで行っていますが、それには背丈が高くなったもの、低いものとバラバラです。しかし、移植後の様子を観ていますと後者が必ずしもちゃんとしていて前者は萎える、とは云えない状況であることに気づきました。即ち、丈の高さは必ずしも移植の適否には関係ないようです。高くてもピント伸びていますし短くても、しおれた感じのものがあります。このところ毎日、凄い暑さが続いていますので毎夕、水をタップリと与えています。ところで、1つ疑問が湧いています。植物は向日性の筈ですが何故か、移植前の場所ではその反対方向へ繁殖しているように感じています。そちらのほうが密度も濃く丈も高いのです。もしかしたら、南側は土中の条件が不適なのかも知れません。石ころが多いとか、他の植物の根が占領しているとか、土そのものが合わないとか。
ハイビスカスローゼルの種まき
昨日は満を持していたハイビスカスローゼルの種まきもしました。ただ、昨年の収穫後、種の充分な乾燥を怠ったことから腐らせてしまい、残った量が寂しいものとなりました。今年はその時期が来たら倒れ防止用の柵をちゃんと設けようと考えていますが、果たして前述の量でジャム作りが可能な収穫となるのか、問題です。
ハイビスカスローゼルの種まき
昨日は満を持していたハイビスカスローゼルの種まきもしました。ただ、昨年の収穫後、種の充分な乾燥を怠ったことから腐らせてしまい、残った量が寂しいものとなりました。今年はその時期が来たら倒れ防止用の柵をちゃんと設けようと考えていますが、果たして前述の量でジャム作りが可能な収穫となるのか、問題です。
ライフジャケット常時着用は磯釣りでの鉄則の1つです。しかし、鉄則を守っていても死亡に至る事故はありました。もう、数十年も前になります。大分県の磯釣りでのことですが、終始、波は静かで何の問題もない状況だった中で昼食を摂る為に、それまで着用しておられたライフジャケットを脱がれたそうです。そして海に背を向けて食事に入られたとき急に大波が襲い、それに巻き込まれてその方は死亡されました。話しは余分なことになりますが、ライフジャケットを脱がれていた時の発生であることから保険適用についても慎重に検討がなされたようですが、状況全体の流れから結局は事故は不可抗力と判断されて保険適用となったそうです。私は泳ぐことは出来ますが波がある海でのそれは殆ど経験がありませんので必ず、ライフジャケットは身につけていました。しかし、生命の危険が発生するのはそれとは無関係のことも沢山あります。幾度かの甑島釣行の内、3回分について書きます。
1.集団行動に必ず付きまとう危険
私が甑島へ行き始めたのは隣市の釣具店を利用していたことから、その地域のグループに加えて貰ったことによります。先日書きました阿久根港で、水揚げされたばかりの「ヤリイカ」を付け餌・撒き餌用としてトロ箱数杯購入していました。その日は海はやや荒れ気味で釣りを実行するかどうか、の判断が求められていました。わざわざ夜を徹して遠路、阿久根へ来て、しかも餌まで買い込んだ後でもありグループとしての判断結果は“実行”に決まりました。船が甑島に着いた後、予約されていた瀬渡し船に直ぐに乗り換えました。勿論、波はありましたが、それからのことは船頭さんに任せるしかありません。彼がダメ、と云われたらその釣行は取り止め、出港されたらOKでした。船頭さんは船を出されました。暫く進んだ時、大きな「うねり」がやってきました。そしてそれが連続しました。船は木の葉のように大きく浮き沈みしました。波頭に乗った時は次の海面は遙かに低い位置、その低い位置に落ちた時は次の波頭は私達の船の数倍にも及ぶような高い位置でした。船の中央付近に座っていれば船の揺れは少しでも少なかったのかも知れませんが、船首部分に位置していた私はもろに、激しく上下を繰り返す船の影響を受けました。海に投げ出されないように船繋留用のロープを身体に巻き付け両手でそのロープをしっかりと握りしめていました。本当に、頭上から一気に波に呑み込まれる感じでした。その時「自分の人生はこれで終わりだ」と思いました。他には何一つ、頭には浮かばず極めて純粋にそれ1つのみの思いでした。その後、何故かうねりは収まり無事に釣り場へ向かうことができました。翌日、迎えの船が来ました。その日もまだ、波は高かったのですが私達はそれに乗ることが可能でした。しかし、他の磯では船を岩場に着けて釣客を乗せる状態ではありませんでした。船が岩に激突して仕舞います。既に船上にある私達も含めて取り返しがつかないことになりかねません。船頭さんは云われました「飛び込んで(船まで)泳いで来てください」と。勿論、誰もそれが出来る人はおられませんでした。この釣行、集団での判断故に個人のそれは生きず、実施になったのですが、その反対だってあります。集団だから正しい判断になることが。多数決、というのも同じ性質のように思います。
2.命を救ってくれた1枚の広いビニール風呂敷
職場の友人と2人で瀬渡りしました。瀬は海面からあまり高さがなく比較的平らな所でした。船を出してもらう場所は水深が極めて浅く満潮の時しか利用出来ない欠点がありました。当初から、渡ったその瀬で夜を過ごすことに決めていましたが、途中から雨、風が始まり次第に強くなっていきました。外海に面した瀬ですので風もまともに吹き付けます。用意していた雨合羽を身につけ更には傘も差しましたが、後ではそれらは両方役立たず身体は、ずぶ濡れとなりました。雨合羽は相当長い期間使ったものですのでその防水機能が殆ど無くなっていたこともあります。体温がだんだん低くなっていくのがハッキリと分かりました。正に、死に向かって一直線、という感じでした。持参した荷物に思いを巡らせていて思い当たる物がありました。外国の食料品用容器販売会社が提供していたもので、1枚の広いビニール風呂敷です。それをリックから取り出して4隅の1つを後頭部と後の岩との間に挟んで押さえ、2隅を両手で持ち、残る1隅を足で押さえました。それからは身体が段々と温かくなり体温が上昇していきました。時折、眠りにも入ることが出来ました。翌朝、迎えに来られた船頭さんが言われました。危険を感じて向かいに行こうかと強く思ったが、妻がそれを引き止めた、と。それはそうです。漁港とは云えないほどのごくごく小さな船着き場、街灯などは勿論無く真っ暗、しかも満潮時でないと船は動かせない。磯へ行くには径なき径を通って山越えするしかない地域なのでした。加えて強い雨と風。奥さんが止められたのは当然のことです。なお、命を救ってくれたその風呂敷、今でも大切に保存しています。
3.救って戴いた、別の船頭さん
前述の友人と2人で訪れた別の磯。船着き場からは直ぐ近くの磯ではありましたが水深は数十メートルもありました。夜もその岩場で過ごすつもりでいました。しかし、考えてみますと海面からそう高くない位置での釣りとなり、しかも、大きな波が来たときに上へ逃げることも出来ない磯でした。夕刻まではその場所で釣りしていましたが、次第に不安が生まれ、その場所を離れる必要を感じましたが、私達がお世話になった船頭さんへは連絡のしようがありませんでした。不安が募っていく中で偶然、1艘の船が通りかかりました。その船頭さんに声を掛け、救って戴きました。そして、その夜はその船頭さんの家に泊めて戴きました。余談になりますが、翌朝の食事、おかずは全て魚で内臓までがその対象でした。加えて初体験だったのは、醤油でなく塩で食べられていたことでした。綺麗な海で獲れた魚ゆえ内臓まで食べられるのでしょうし、孤島ゆえ自給自足の様式になっていたのでは、と推量し、その為自家で作れる塩が使われていたのではないか、と思っています。その船頭さんに今でも感謝、感謝、感謝を捧げています。
1.集団行動に必ず付きまとう危険
私が甑島へ行き始めたのは隣市の釣具店を利用していたことから、その地域のグループに加えて貰ったことによります。先日書きました阿久根港で、水揚げされたばかりの「ヤリイカ」を付け餌・撒き餌用としてトロ箱数杯購入していました。その日は海はやや荒れ気味で釣りを実行するかどうか、の判断が求められていました。わざわざ夜を徹して遠路、阿久根へ来て、しかも餌まで買い込んだ後でもありグループとしての判断結果は“実行”に決まりました。船が甑島に着いた後、予約されていた瀬渡し船に直ぐに乗り換えました。勿論、波はありましたが、それからのことは船頭さんに任せるしかありません。彼がダメ、と云われたらその釣行は取り止め、出港されたらOKでした。船頭さんは船を出されました。暫く進んだ時、大きな「うねり」がやってきました。そしてそれが連続しました。船は木の葉のように大きく浮き沈みしました。波頭に乗った時は次の海面は遙かに低い位置、その低い位置に落ちた時は次の波頭は私達の船の数倍にも及ぶような高い位置でした。船の中央付近に座っていれば船の揺れは少しでも少なかったのかも知れませんが、船首部分に位置していた私はもろに、激しく上下を繰り返す船の影響を受けました。海に投げ出されないように船繋留用のロープを身体に巻き付け両手でそのロープをしっかりと握りしめていました。本当に、頭上から一気に波に呑み込まれる感じでした。その時「自分の人生はこれで終わりだ」と思いました。他には何一つ、頭には浮かばず極めて純粋にそれ1つのみの思いでした。その後、何故かうねりは収まり無事に釣り場へ向かうことができました。翌日、迎えの船が来ました。その日もまだ、波は高かったのですが私達はそれに乗ることが可能でした。しかし、他の磯では船を岩場に着けて釣客を乗せる状態ではありませんでした。船が岩に激突して仕舞います。既に船上にある私達も含めて取り返しがつかないことになりかねません。船頭さんは云われました「飛び込んで(船まで)泳いで来てください」と。勿論、誰もそれが出来る人はおられませんでした。この釣行、集団での判断故に個人のそれは生きず、実施になったのですが、その反対だってあります。集団だから正しい判断になることが。多数決、というのも同じ性質のように思います。
2.命を救ってくれた1枚の広いビニール風呂敷
職場の友人と2人で瀬渡りしました。瀬は海面からあまり高さがなく比較的平らな所でした。船を出してもらう場所は水深が極めて浅く満潮の時しか利用出来ない欠点がありました。当初から、渡ったその瀬で夜を過ごすことに決めていましたが、途中から雨、風が始まり次第に強くなっていきました。外海に面した瀬ですので風もまともに吹き付けます。用意していた雨合羽を身につけ更には傘も差しましたが、後ではそれらは両方役立たず身体は、ずぶ濡れとなりました。雨合羽は相当長い期間使ったものですのでその防水機能が殆ど無くなっていたこともあります。体温がだんだん低くなっていくのがハッキリと分かりました。正に、死に向かって一直線、という感じでした。持参した荷物に思いを巡らせていて思い当たる物がありました。外国の食料品用容器販売会社が提供していたもので、1枚の広いビニール風呂敷です。それをリックから取り出して4隅の1つを後頭部と後の岩との間に挟んで押さえ、2隅を両手で持ち、残る1隅を足で押さえました。それからは身体が段々と温かくなり体温が上昇していきました。時折、眠りにも入ることが出来ました。翌朝、迎えに来られた船頭さんが言われました。危険を感じて向かいに行こうかと強く思ったが、妻がそれを引き止めた、と。それはそうです。漁港とは云えないほどのごくごく小さな船着き場、街灯などは勿論無く真っ暗、しかも満潮時でないと船は動かせない。磯へ行くには径なき径を通って山越えするしかない地域なのでした。加えて強い雨と風。奥さんが止められたのは当然のことです。なお、命を救ってくれたその風呂敷、今でも大切に保存しています。
3.救って戴いた、別の船頭さん
前述の友人と2人で訪れた別の磯。船着き場からは直ぐ近くの磯ではありましたが水深は数十メートルもありました。夜もその岩場で過ごすつもりでいました。しかし、考えてみますと海面からそう高くない位置での釣りとなり、しかも、大きな波が来たときに上へ逃げることも出来ない磯でした。夕刻まではその場所で釣りしていましたが、次第に不安が生まれ、その場所を離れる必要を感じましたが、私達がお世話になった船頭さんへは連絡のしようがありませんでした。不安が募っていく中で偶然、1艘の船が通りかかりました。その船頭さんに声を掛け、救って戴きました。そして、その夜はその船頭さんの家に泊めて戴きました。余談になりますが、翌朝の食事、おかずは全て魚で内臓までがその対象でした。加えて初体験だったのは、醤油でなく塩で食べられていたことでした。綺麗な海で獲れた魚ゆえ内臓まで食べられるのでしょうし、孤島ゆえ自給自足の様式になっていたのでは、と推量し、その為自家で作れる塩が使われていたのではないか、と思っています。その船頭さんに今でも感謝、感謝、感謝を捧げています。
昨日のブログに登場させましたフエフキダイですが、地元では「タバメ」と称しておられました。身体全体が淡黄色でやや細長く、口先が尖っていて人が笛を吹く時の口の姿に似ていることからその名が付けられたようです。私が初めて手打の磯で1.6kgのその魚を釣り上げたときは普通云う“ビギナーズラック”そのものでした。勿論、自宅へ持ち帰りましたが翌日は出勤日でしたのでクーラーボックスに入れ氷漬けにして出掛けました。帰宅後に魚拓を取る為です。食べることよりもそれが楽しみだったのです。釣り人は殆どの方がそうではないでしょうか。大変な期待をその事に持って仕事を終えて帰宅しクーラーボックスを開けてみますと中は空っぽでした。私は大きな驚きの声を挙げました、信じられませんでした。そして次の瞬間、何と、刺身になって食卓に上っているのを目にしました(隣保の鮮魚店に頼んで処理して貰っていたのです)。母は一刻でも早く、新鮮な内に私に食べさせようと配慮した結果なのでしたが、私は激しい怒りが心頭に達しました。出勤前にあれだけ諄いほど魚拓作成のことを告げて了解させていたのに、と。親でなければぶん殴ってやりたい強烈な興奮に陥りました。母は刺身にすることに何か、後ろめたさを感じながらスッキリしない気分だったそうです。私の立腹はその後、相当長い期間収まりませんでしたが、その件を口にすることは一切、しませんでした。母は恐らく私のそれと同様に心にトゲが刺さった状態が継続し続けたのではないでしょうか。ところで、その経緯とは無関係で、タバメは見た目には色も形も美しいのですが全く美味しくなく、しかもイヤな臭みを持っていますので釣るだけが楽しみの魚のようです。
もう、30年以上も前になりますが、未明2時頃に起床して単車で熊本駅へ向かい、駅前の自転車店に単車を預けて国鉄の急行列車に乗り鹿児島県阿久根へ向かいました。そこから港までの移動に何を利用したかの記憶は飛んでいて思い出せませんが、港からは船に乗りました。行き先は同港から約4時間(?)を要していた終着の下甑島の手打港でした。目的は魚釣りです。単独での釣行ですので費用を抑えるため瀬渡し船は頼まず、地磯に決めていました。船が着いた場所の直ぐ傍に岩場が在り鉄製の梯子が掛けられていて、それを上り切った場所が磯でした。携帯している荷はクーラーボックスを含めて大きな物で、一度に運び上げることには困難が伴いましたので2、3回に分け、梯子の上り下りを繰り返しました。1日に2便(?)しかない航路でしたので同日に阿久根へ戻る船はないことから岩場で夜を過ごしていました。所謂「へそ天」(釣りでは、臍を天に向けて寝ると星空を眺められて心地よい、などの意味があるようですが、本来は犬や猫などの行動で使われる言葉のようです)の効果に浸っていました。翌日の船で帰途についていましたが釣果はゼロが毎回でした。ところで、先般、その下甑島へ今度は撮影目的で行きたい気持ちが湧いてきました。手打地域だけでなくその西側に立地する瀬々野浦や片野浦という地域にも釣りに関しての強い想い出があるためです(他の釣り人が1人で4、5キログラムもあるフエフキダイ4、5匹を釣りあげたり、私が死の1歩手前に至ったり)。計画を立て色々と想像を巡らせましたが、ネットで船の運航時刻を調べますと手打港行きの便がありません。以前、その1つ手前の寄航港だった長浜港が今は終点になっていました。疑問と関心を抱きながらもそれ以上の調べは行わず甑島行きは実現させずそのま眠らせていますが、数日前、新聞のTV欄を見ていましたら「こころ旅」という番組で下甑島が採り上げられていることを発見しました。ところが私がその記事を発見したのは番組が終了した直後でした。悔やまれてなりませんのでNHKへ再放送について尋ねようと思いましたが、その日はもう夜、翌日とその翌日は土曜・日曜でしたので週明けに尋ねようと予定していました。日曜日、何となく番組欄を見ていますと何と、その日に再放送の記事がありました。実に、実にラッキーでした。これが最初の幸運です。番組は俳優火野正平氏が自転車で全国各地を訪ねられるものですが、今回が甑島が対象で新聞記事はその表現になっていて、下甑島との文字はありませんでした。画面は上甑島が紹介されていき番組は終わりました。下甑はダメか、と残念に思い諦めかけましたら、続いて下甑分が始まりました。これが2つ目の幸運です。2回分が纏めて放送されたのでしょうか。その番組を観て30数年前と地域の状況が大きく変わっていることを知りました。現在は手打港へは船は行かず、長浜港が出発・到着の起点・終点となっていました。その代わり、手打港方面へは立派な道路が作られていました。新聞記事を発見したのも、番組の内容が私が疑問を抱いていたことを解決に導いてくれたのも正に偶然のことでした。火野氏が手打港に着かれた最初の場所は私が利用していた地点ではなく同地域ではありますが少し離れた所で、その後、移動して私が望んでいた港へ行かれたようでした。ところが、そのタイミングで生憎、電話が入りその対応に神経を注いでいたことから私にとっての肝心な部分のTV内容をしっかりと視つめる事は出来ませんでした。これは残念でした。なお、フエフキダイに関しての衝撃的なエピソードを明日のブログに書きます。
フジバカマの移植に着手しました。それは少しは衝動的な感じではあったのですが必ずしも間違いではなかったのではないか、と思っています。出来れば降雨の前日が好ましい、との考えも持っていて、その日を待つことも頭の中には存在していました。しかし、水遣りをちゃんとすればその問題は何とか乗り切れるかもしれない、との判断が働きました。幸い、空模様も曇りに近いものとなっていました。ネットで移植の方法、時季を調べましたが門外漢の私にはその記述に理解出来ない部分がありましたが、にも拘わらず移植実行となりました。実行以前に移植先に水をたっぷり撒きました。その後すぐ、移植ごてで現物を掘り出しました。移植先は隣り合わせに3か所を設けていて何れにも周囲に私が通れるほどの巾で空間を設けています。写真撮影用です。第1回目の移植では内、2か所にそれぞれ部分的にフジバカマを植えました。私のやり方で大丈夫か、を確認するため敢えてそうしました。仮に、全ての面積に移植してしまいますと私のやり方が間違っていた場合、全滅となりますし且つ、以前の場所も今回の移植でフジバカマの量が甚だしく減少してアサギマダラを失望させることになるからです。移植を終えてからまた、水をやりました。それでも新しい場所では葉はだらり、と垂れ下がって萎えていました。気がかりの為、夜、懐中電灯を持って現場へ足を運び確認しましたら水遣りが効果を現して葉は元の元気さを取り戻していました。今日は昼頃から雨、との情報がありますのでその前に、残った場所へ移植を続けようと予定しています。新しい場所は1m四方が1か所、275cm×66cmが2か所です。なお、従来の場所にも相当量を残すことにしています。ところでフジバカマは根を伸ばすことで種を保存して行っているように感じています。ちょうど「ヤブカラシ」(旧姓 私にとっての天敵草)と同じように。
「日+日+月」で出来る2字熟語2種は何でしょうか、というのが問題でした。今回の金沢行きの時わざわざ訪ねたカフェでのことです。前回、同市を訪れた時、JR金沢駅近くの街中心部を散策中に見つけたそのカフェで、主要道路の脇を通る小さな通りに在ります。前回は時間的なことが関係していたのかお客は私達のみだったように記憶していますが、今回は外国人も含めて数組の方がおられました。以前も同じような問題が出されていて私は正解を見つけることが可能でしたが、今回の問題は同店にいた間には1種のみしか思いつきませんでした。再び同店へ足を運んだのには理由があります。その折に同店で働いておられた若い女性の方が、私が居住している市で営業しているラーメン店を教えられたからです。その方は大牟田出身と言われたように思いますが、今回はもう店を辞めておられました。私達夫婦はそのラーメン店は全く知りませんでしたが、旅を終えてから探しに出掛け確かに存在していました。今回、そのカフェに行ったのはそのことを報告したい気持ちもありました。ところでクイズには、店を離れた後、妻が解答に辿り着きました。「明日」と「朝日」です。私は「+」を使う事に全く、考えが及びませんでした。旅行終了後、メールで回答を送りました。別に賞品とかがあるわけではありませんが、店長さんと妻共々親しく会話出来たことからその気になったのです。私がお送りしたメールは迷惑メールに分類されていた為、着信に気づかれなかったとのことで、昨日その旨を記した返信メールを戴きました。