飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

命ってなんだろう

2023年07月30日 08時51分25秒 | 道徳科
命とはいったいなんだろう。
学校教育においては、たびたび話題になる。
道徳の授業の価値項目にも、生命尊重がある。
命の大切さを子どもたちに考えさせるのである。

しかし、ここで少し違和感を感じる。
一つは、命の大切さとは、考えさせたり、実感させたりするものだろうか。
この人間の根源におけるようなことは他者から強制的に教えられるものではなく、実生活の中で、自分が生きていく中で肌感覚で理解するものだなのだと思う。
だから、命の大切さとは、自分で考えるものであり、実感するものだと考える。
学校教育は、そのきっかけを提示するに過ぎない。

もう一つは、もし、学校教育で命の大切さが教えられるなら、社会全体がもっと命を大切になるようになるのではないか。
少なくとも、9年間の義務教育の中で、道徳や教育課程全般で、誰でもが身につけられる素養ならば、多くは義務教育課程を修了しているわけだから、現実的な姿として現れてもいいはずだ。
しかし、実際は命が粗末にされ、悲しむべき事件を多く起こる。
やはり、生命尊重は学校ではなく、家庭教育で育むものだと強く思う。
家庭に新しい命が誕生し、互いに人として尊重され、大事に育てられれば、学校で教えられなくても、自分を大切にし、仲間を大切にするようになる。
義務教育は学習指導要領のもと、ある一定の水準の教育はされるシステムになっている。
だから、日本全国どこにいても平等な教育が受けられる。
教育の普遍性がある。
しかし、各家庭の教育の実態は多種多様だ。
高い教育力をもつ家庭もあり、逆に残念ながら未熟な教育力しかもたない家庭もある。
それは子供のせいではない。
すべて大人のせいだ。
貧しくても豊かな人間性をもつものもあるし、裕福な家庭でも、人間性は貧しい家もある。
今一度、このことを真剣に考える必要がある。

命とは何か。
辞書で調べてみる。

1 生物が生きていくためのもとの力となるもの。生命。「―にかかわる病気」「―をとりとめる」「―ある限り」
2 生きている間。生涯。一生。「短い―を終える」
3 寿命。「―が延びる」

こんなふうな意味になる。
しかし、本当の意味や解釈ができなければ、生命尊重の授業はできない。
道徳科の授業は、どんな価値でもそうだが、まず授業者が扱うべき価値をどう解釈するかを確定させないと授業を組み立てることができない。
解釈なので、間違っているとかあっているとかではなく、あくまでも授業者、一人の人間として、価値をどう説明するか。
たとば、正義とは何か?信頼友情とは何か?国際理解とは何か?こういったことを自分なりに端的に言えることが、道徳授業の第一歩だと考える。

では、命を考える時にポイントとなる一つの視点は、「どう解く?」(ポプラ社)という本の中にこんなふうに書かれている。
「標本って、昆虫で作られているものがおおいなぁ。
 蝶々を殺して、ネコを殺しちゃいけないのは、どうしてだろう?」
この子供の疑問に明確に答えられるだろうか。

命が大切だということは誰もが認めている。
「命が大切だと思う人は手をあげなさい。」
よっぽどのことがなければ、全員が手をあげる。

そして、子どもたちに問う。
「今日の食事はなんでしたか?」
・ご飯
・ラーメン
・そば、うどん
・さかな
・焼肉
・キャベツ
・ハンバーグ

「これらには、命はありますか?」
子どもたちは、「ある」と答えるだろう。
野菜や植物にも、生きている以上命は存在する。
「さきほど、君たちは命は大切だと言いました。
 でも、その大切な命を私達は奪っていることになりませんか?」
ここで自己矛盾が生じる。
光合成によって自ら栄養を作り出してる植物以外は、他の生き物の生命を奪って、自分の命を維持していることからは逃げられない。

厳しい見方をすれば、いくら人間が命が大切とか共生だと主張したところで、我々は他の生命を奪わずには生きていけないのも明白な事実なのだ。
またこのことは大自然の営みにおいて、生きもの同士の連鎖があるように、人間も生き物である以上、食物連鎖の中にあることは避けられない。
結局、都合のいいように人間のエゴの中で生きていることに気がつく。
家を建てたり、開発行為をするときには森を伐採し、山を削って整地する。
人間にとって都合の悪い虫や動物は害虫として駆除する。
ライオンが人を食べると人食いライオンと言われ、人がライオンを殺すとハンティングというスポーツになる。
自分勝手な論理の中で人間は生きている。
また、奪われる命のその痛みを本当は感じながら生きるべきなのに、ふだん意識することはない。

だからこそ、いろいろな生命の恵みによって生かされている、そのおかげをいただいているという感謝の心を持ち、そのような人間らしい反省の中から、私たちは謙虚にならなければならない。

教師自身が「命の大切さ」をどう思うかということが一番大事である。
「命の大切さ」というのは、人としての生き方そのものである。
教師自身が日頃どう生きているか、自分がどう生きているかを問いかけること、そのこと自体が命の大切さである。
命の大切さの教育は、教師自身がいきいきと生きていないと意味がない。

もう一つの命の捉え方。
子どもたちに問う。
「命とは◯◯だ」
この◯◯にはどんな言葉が入ると思いますか。
ノートに書いてもっていらっしゃい。

・大切だ
・かけがけのないもの
・ひとつのものだ
・平等だ
・尊いものだ
・弱いものだ

いろんな言葉を入れるだろう。
これにも正解はない。
自分の価値観の表れが言葉になる。

ある人はこんなふうに言っています。
「命とは時間だ」

命というものは目に見えない。
目に見えないものだけれど、君たちが使える時間こそが君たちの命なのです。
若くして死んでも本当に自分らしくその時間を使っていたら、その人は長生きしていると言える。
命を大切にするということは、ただ病気をせずに長生きするということではなく、どう自分らしく命を使うかなのだということだ。

このことを考えると必ず思い出す人物がいる。
吉田松陰である。
吉田松陰は、安政の大獄で捉えられ、「留魂録」を書き終えた日の翌日、1859(安政6)年10月27日、伝馬町牢屋敷にて即日処刑が行われた。
この時、松陰は30歳という若さだった。
享年30歳(満29歳没)直前に江戸・小伝馬町牢屋敷の中で書き上げられた「留魂録」。
全十六節からなるこの留魂録は、「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」という有名な辞世の句を巻頭にして始まる。
その中の第八節は、「松陰」の死生観を語るものである。
彼は死生観について次のように言っている。

【第八節(現代語訳)】

一、今日、私が死を目前にして、平穏な心境でいるのは、春夏秋冬の四季の循環という事を考えたからである。
つまり、農事で言うと、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。
秋、冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ち溢れるのだ。
この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるというのを聞いた事がない。

私は三十歳で生を終わろうとしている。
未だ一つも事を成し遂げることなく、このままで死ぬというのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったことに似ているから、惜しむべきことなのかもしれない。
だが、私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えたときなのであろう。
なぜなら、人の寿命には定まりがない。
農事が四季を巡って営まれるようなものではないのだ。

人間にもそれに相応しい春夏秋冬があると言えるだろう。
十歳にして死ぬものには、その十歳の中に自ずから四季がある。
二十歳には自ずから二十歳の四季が、三十歳には自ずから三十歳の四季が、五十、百歳にも自ずから四季がある。
十歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。
百歳をもって長いというのは、霊椿を蝉にしようとするような事で、いずれも天寿に達することにはならない。

私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。
それが単なる籾殻なのか、成熟した栗の実なのかは私の知るところではない。
もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになるであろう。
同志諸君よ、このことをよく考えて欲しい。

『星の王子様』の中にも「本当に大切なものは目には見えない」という一節がある。
目には見えない命の大切さを実感させるには、目に見える形でのモデル、つまり命を大切に使っているモデルを見せることも大事である。
いつの世も、人は人から学ぶのである。

さらに次のように子どもたちに伝える。
日野原重明氏の言葉だ。

「いのちは見えないもの。
 それは風のように,その影としての梢のゆらぎや,雲の流れていることの本体は頭では分かるが,その本体を心で感じることは難しいものです。
 しかし,いのちは君たちがいつも持っている,今も持っていて,そしてそれを自分のために使っているのではないかと。
 心臓はいのちを保つために,脳に酸素と栄養を血液によって送って人間が考えることができるようにさせ,同じく手足に血液を送って動かせるようにし
 ています。
 いのちを支えるのに心臓はポンプの働きをしています。
 しかし,心臓がいのちではありません。
 いのちは自分でどうにでも使える自分が持っている時間なのです。」

「はなぜ目に見えないか。
 それは命とは君たちが持っている時間だからなんだよ。
 死んでしまったら自分で使える時間もなくなってしまう。
 どうか一度しか無い自分の時間、命をどのように使うか、しっかりと考えながら生きていってほしい。
 さらに言えば、その命を今度は 自分以外の何かのために使うことを学んだほしい。」
 日野原重明/医師

授業ではこんなふうに問いかけたらどうだろう。

発問 
「君たちは、今日は朝起きてから、今まで何をしてきましたか?」
 ノートに順番に、できるだけたくさん書きなさい。
 5つかけたら先生のところへ見せに来なさい。
 そのあとは席にもどりさらに続きを書きます。」

・ベッドから起きた
・顔を洗った
・歯を磨いた
・朝ごはんを食べた
・身支度を整えた
・窓をあけた
・歩いて登校した
・トイレに行った
・授業の準備をした

発問
今日君たちがしたことは、誰のためにしたことですか?

・自分のため

発問
君たちがしたことはすべて(ほとんど)自分のためにしたことです。
自分のために時間を使っています。
それでは尋ねます。
自分のために以外に時間を使ったことを書いてみてください。

※おそらく、ほとんどかけない。
 例えば、こんな意見はでるかもしれない。
 ・みんのために教室の窓をあけた
 ・教室のゴミを拾った
 ・給食当番をやった
 ・掃除をした

説明・発問
これらのことは仲間のため、友だちのためにやっていることで意味のあることです。
でも、厳密に言うと自分と仲間のためということになります。
厳密に、自分以外の人のために時間をつかって何かしたことはありますか。

まだ、経済的にも自立していない子どもたちが人のためだけにできることは限られている。
子どもたちは、時間の使い方を現実問題として考えるときにそれは全て自分のために使った時間で,自分のために勉強し,自分のために遊び,自分のために食べ,眠っているのではないか気づく。

少しむずかしいが、ここで子どもたちに作文を書いてもらう。
自分の持っている時間が,君たちのいのち,それをどう自分以外のために使うかを考えて作文にする。

このことによって子どもたちには時間としてのいのちが実感され,自分の命,他者の命、草木の命,動物の命を大切にして生きていくようになる。

「時間の使い方によって運命は決まってくる」

「時間だけは神様が平等に与えてくださった。
 これをいかに有効に使うかはその人の才覚であって、うまく利用した人がこの世の中の成功者なんだ」
本田宗一郎

「君子に三惜(さんせき)ありこの生を学ばす、一に惜しむべきなりこの日間過(かんか)す、二に惜しむべきなりこの身一敗、三に惜しむべきなり」
意味は次のとおりとなる。

君子に三つの惜しむべきことがある。
一に折角人間に生まれて、どう生きるか学ぼうとしないこと。
二に毎日をだらだら過ごしてしまうこと。
三に自分の人生を自分で失敗に持っていってしまうこと。

自分で自分の人生を失敗に持っていくような愚かなことは避けたい。
「酔古堂剣掃(すいこどうけんすい)」陸紹行(りくしょうこう)

saitani