飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

体育の授業の目的

2023年07月10日 09時07分13秒 | 体育科
学校体育の目標は次のように学習指導要領に書かれている。
「心と体を一体としてとらえ、適切な運動の経験と健康・安全についての理解を通して、生涯にわたって運動に親しむ資質や能力の基礎を育てるとともに健康の保持増進と体力の向上を図り、楽しく明るい生活を営む態度を育てる」ことにあると記されている。(学習指導要領「生きる力」第2章)
要するに楽しく明るい生活を営む態度を育てるために、生涯教育の一端を担う体育授業の意味を言っている。

最近は集団行動を指導しない、指導できない教師が増えている。
この集団行動は、全体主義に通じるという極論をいう方がいて、指導することに抵抗をもつ教員もいる。
号令のもとに全員が同じように行動する、このようにすると自分で意思決定したり、置かれた状況を自分で判断したりする力が奪われるのだろうか。
もちろん、すべての学校教育において、教師が決めたように行動したり、規則が決められたりすることは望ましいことではない。
子どもたちが、ある制限の中で、自由に発送したり、創造的な活動をしたりすることは大切なことである。
学校という組織ではどうしても、必要となる配慮やルールが必要ななのである。

45分間という決められた制約の中で、目標達成のために活動する。
そのためには無駄を省き、効率的に行動させる必要がある。
具体的に言えば、素早く集合して、素早く活動を始める。
このことは必須だ。
それは集合するのも、教師の指示や指導を聞く姿勢も自由だとしたら、そもそも体育の授業は成立するのだろうか。
教師の話を聞く態度、集まる体型等もそのときどきて最適を思えるものを選択することは授業を組織する上では重要な要素となる。

また、集団行動は子どもたちの命を守る意味ももっている。
危機的状況になったとき、教師の指示を黙ってきかせ、怪我のないように行動させる、このことは学校の最優先の義務である。
例えば、体育館で全校集会を行っている場面を考えてみる。
突然大地震が起こったときに、どのように対応するだろうか。
当然、まず子どもたちを落ち着かせ、頭を守る姿勢をとらせて、大きな揺れがおさまるのを待つ。
体育館は避難所に指定されているので安全面では問題がないので、そのまま待機するという選択肢もある。
しかし、多くの場合はより安全な運動場に避難させるケースもあるだろう。
そのとき、子どもたちがきちんと整列されていなかったら、どうやって点呼をおこなうのだろう。
また、教師の指示や号令で動くことができず、子どもたちが勝手に体育館から出たら、出入り口に殺到し、将棋倒しとなり、死者やけが人がでることも予想される。
ふだんから、整列したり、素早く指示通りに動く訓練をしているからこそ、非常時に、命を守る行動ができるのである。
先に言った、集団行動を一律に否定する方は、この矛盾をどう説明するのだろうか。
子供の命や安全を守るという最優先事項をどんなふうに考えているのだろうか。

号令のもとに全員が動かななければならない集団行動が「生涯わたって運動に親しむ資質」や「楽しく明るい生活を営む態度」を育てるとは考えられないという。
本当にこの主張は、体育教育の本質を捉えているのだろうか。
疑問に思う。

saitani