飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

ぼんやりみることの大切さ

2023年07月31日 08時11分10秒 | 教育論
教師は、子供た発言しているときにどこを見ているだろう。
若い先生に多いが、発言者の方を向いて、必死になって発言内容を理解しようとしている。
子供の発言を目を見て、真剣に聞く姿勢はとてもよいことだ。
まったく目もあわせず、横を向いて子供の話をきくことは誠実は態度とは言わない。
しかし、発言者だけをみていることも問題はある。
そもそも、発言している子供の視線はどこにあるかといことも問題だ。
多くの場合は、教師に向けられている。
教師からの発問や質問に対して答えているのだから、当然と言えば当然なことだ。
しかし、発言者の内容を一番聞かなければならないのは、その他の子どもたちである。
発言者は、聴衆に対して、自分の意見を主張しているのだ。
だから、子どもたちは発言が終ると「いいです」と返事することが多い。
自分はさせないが。
機械的な音声による是非は問わないが、挙手によって賛成か反対かを問うことは多々ある。
聴衆が「いいです」と言っている以上、発言者は他の子供達に聞かせていることになる。
しかし、実際は教師だけに話しかけているのだ。
そのことは、発言する子供は、教師の方に体を向けて、話していることがほとんどだ。
「みんなの方を向いて発言してください」
と教師が投げかけている学級は、子供たちの方を向くこともある。

発言者は、教師に話しかけているので、こんなふうに指導することもある。
「発言する人は、聞いている人の方を向いて話します。
 できれば、自分から一番遠いところのいる人に説明するような気持ちで話します。
 そして、自分の話を全員がきいているか注意します。
 もし、聞いていない人がいたら『◯◯さん、私の話をきいてください』と言います。
 場合によっては、発言のあと『◯◯さん、私の意見をどう思いますか?』とその人に聞いてみてください。」
このような緊張感が教室にあれば、子どもたちは友だちを意見を真剣に聞くようになる。

若い先生に多いのだが、発言者の子供だけに注意をむけてしまうことが多い。
その子だけに注意をむけて、それ以外に子どもたち視線が配られない。
発言者以外のこどもは、手いたずらやよそ見、窓の外をぼんやり眺めていても、教師は気が付かないのである。
この状態がずっと続くと、教室内に私語が始まり、学級の統率が乱れていく。
見落とし見逃しを、教師を日常的にしてしまうからだ。
だから意識を変える必要がある。

バスケットボールは、攻守が一瞬にして切り替わるスポーツだ。
オフェンスとディフェンスの切り替え。
この時、経験の浅い選手は、オフェンス時には自分についている相手だけを見て、ディフェンスのときにも自分のマークマンだけを見てしまう。
人間は意識しなければそうなるのが自然なことでもある。
ディフェンスの時には、自分のマークマンから目を離さないことが大原則であるので、それでいい。
しかし、オフェンスの場合は、それではだめだ。
自分についている選手だけを凝視するような攻撃の仕方は得点にはつながらない。
ならばどうするか。
バスケットボールコート全体をぼんやり見るのである。
ぼんやり見るから、全体が把握できる。
ディフェンスの守備配置がどうなっているか、スペースがどこにあいているか、味方の選手がどこにいて何を次にしようとしているか、ぼんやりみているからわかる。
よく、ノールックパスというのをする選手がいる。
それはなぜ、できる選手とできない選手がいるかと言えば、オフェンスの時に、ぼんやりと見る習慣がついている選手とそうでない選手の差だ。
ノールックのパスは、パスを出すずっと前から、仲間の走る位置やプレーの予測しているからできることで、直前に判断しているのはない。

教師も同じこと。
若い先生はディフェンス的な視点でこどもをみてしまっている。
意識して、オフェンス的視点、ぼんやりと発言者以外をみることを意識する必要がある。
発言者の発言内容は、ずっと見ていなくても教師の頭に入ってくる。

saitnai




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