飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

教育の方法

2024年05月28日 05時00分00秒 | 教育論
言志四録に次のように書かれている。

誘掖して之を導くは、教の常なり。
(子弟の傍らでこれを導き助けるのは、教育の常道である。)
警戒して之れを喩(さと)す、教の時なり。
(子弟が横道に逸れるのを戒めて諭すのは、時宜(じぎ)を得た教育というものである。)
躬行(きゅうこう)して以て之れを率いるは、教の本なり。
(まず自らが率先実行して子弟を率いるのは、教育の基本である。)
言わずして之れを化するは、教の神なり。
(言葉に表さないで自然と子弟を感化するのは、最上の教育である。)
抑えて之れを揚げ、激して之れを進むるは、教の権にして変なるなり。
(抑えつけて褒め、激励して道に進めるのは、その場に応じた臨機応変な教育というものである。)
教も亦術(またじゅつ)多し。
(このように、教育にもまた多様なやり方がある。相手に応じた教育を施すべきである。)

「抑えつけて褒め、激励して道に進める」という教育は現在は否定されることが多いだろう。
しかし、多様性や個別を優先し、取り入れている教育界でありながら教育方法の多様性はなぜ認められないのだろうか。
不思議だ。
もちろん個性を尊重したり、褒めて育てる教育も重要である。
必要ないとは思わない。
しかし、ときに強制と管理の教育が必要なこともある。
要するに、相手をみてその子にとって最適な教育方法を選択することが重要なのだ。
叱ったり、突き放したりすることで新たな自分を発見する子もいる。
担任時代には、私が叱らないでいると、
「先生、もっと厳しくしてください。
 悪いところは叱ってください。」
と子どもたちから言われたことを思い出す。
その子達は、厳しい環境の中でしか、自分たちが成長できないことを知っていたのだ。

古の時代からの真理は変わらない。

saitani
この記事についてブログを書く
« 漢字記憶法 | トップ | ピンチはチャンスとは思えない »

教育論」カテゴリの最新記事