飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

治療的やさしさから予防的やさしさへ

2024年03月30日 05時54分27秒 | 教育論
全国の頂点をめざしている選手やプロをめざしている選手のように、本人の中に自分に対する厳しさがある場合は、自分から限界にチャレンジして頑張っていくから、放っておいてもかまわないだろう。
だが、自分に甘いタイプの場合は、周囲が甘やかすと、潜在能力を十分発揮することなく日々が過ぎていくため、あえて厳しい環境を用意する必要がある。  
そのようなケースもあることを考えると、相手のためにあえて厳しくすることを時代遅れと一蹴するのはどうかと思う。  
相手が将来困らないように、あるいは将来自信をもってやっていけるように、今厳しく叩き込むというのは、やさしさではないのだろうか。  
それとも、今厳しくして反発されたり気まずくなったりしないように、まずい点も修正した方がいい点も指摘しないのがやさしさだというのだろうか。


 今は傷つけるかもしれないが将来のためにあえて厳しくするやさしさは、「傷はいつかは治るもの」とみなすことによって成り立っている。それに対して、絶対に傷つけてはいけないというやさしさは、「傷はいつまでたっても傷のまま残る」とみなすことによっている。



旧来のやさしさと新しいやさしさの違いに関しては、つぎのように考察している。
「旧来の「やさしさ」とは、相手の気持を察し共感することで、お互いの関係を滑らかなものにすることでした。
「やさしい」気持になれればそれだけでも「やさしい」関係が可能だったのです」 「一方、新しい〝やさしさ〟では、相手の気持に立ち入ることはタブーです。
相手の気持を詮索しないことが、滑らかな関係を保つのに欠かせません」  旧来のやさしさを「やさしさ」、新しいやさしさを〝やさしさ〟と記述して区別している大平は、「違いは「やさしさ」が相手の気持を察する」のに対して、「〝やさしさ〟が相手の気持に立ち入らない」ことだという。



このような二つのやさしさについて、竹内は、傷つく・傷つけることを引き受ける「やさしさ」と、傷つく・傷つけることを避ける〝やさしさ〟というように区別し、後者がやさしさ世代に特有のやさしさだとしている。

saitani




この記事についてブログを書く
« 優しい人ほど冷たい | トップ | 幸せの絶対条件 »

教育論」カテゴリの最新記事