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三河吉田藩 お国入り道中記 久住祐一郎  インターナショナル新書

2021年01月12日 09時00分00秒 | 雷日記
こんにちは。 落雷抑制の松本です。

 三河吉田城は、豊臣秀吉の家臣・池田輝政が城主であったが、輝政はその後、徳川家康の娘婿になり関が原での武功に対し播磨姫路藩に入封されたそうで、大政奉還後は吉田藩、その後、豊橋藩は廃藩置県で豊橋県、額田県を経て愛知県に編入されたそうで、現在の愛知県豊橋市にありました。 その藩の参勤交代が実際にどのように行われたか藩の目付け役が遺した詳細な記録が残っていて、参勤交代の全貌が明らかにされています。 現在では、東京から豊橋まで、「ひかり」なら90分、「こだま」でも約2時間ですが、当時は江戸を出たあと、戸塚、小田原、三島、由比、岡部、袋井、新居に宿を散りながら吉田につくまでは8日、お正月の大学駅伝では、東京から箱根まで半日で走ってしまいますが、大名行列では2日半かかっていました。

 この大名行列が、実は行列のメンバーは派遣で社員で、参勤交代のプロジェクトは、民間の商人が請負で仕切っていたのも面白いのですが、更にこの商人の家訓として言い伝えられていたのは、「役人への付け届けは、組織の上から下まで満遍なくすること。 上の者にだけ気にられても、下の者に嫌われたら組織が動かない」と言うようなことは、現代でも通じる事ですが、旅先で体を壊し、死亡するような事故が発生した場合、当時の宿場町には必ず、医師がいたので、その医師にいわゆる「死亡診断書」を、泊まっていた宿の主人からも顛末を書面で、藩とやり取りした書面を元にお寺に遺体を安置してもらう事などが、色々とマニュアル化された提出書類についての決まりがあったというのも面白い話しです。病気になった旅人を故郷に繰り返す「村送り」なる制度まであったというのも驚きです。

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