暴走する資本主義 | |
ロバート・B・ライシュ | |
東洋経済新報社 |
著者は、クリントン政権で労働長官を務め、オバマ次期大統領の政策ブレーンでもある人物。
その経歴や、日本語タイトルからは、共和党の金持ち優遇政策で暴走を続け一気に崩壊したアメリカ流金融資本主義を批判した本であるかのように思えてしまいますが、内容は全く違う。
まず、原題"Supercapitalism"を「暴走する資本主義」という邦題にしたのがミスリーディングで、本の中では「超資本主義」と直訳されています。
米国において戦後長らく続いた、古き良き「民主的資本主義」の社会が1970年代を境に変容し、企業はグローバルなサプライチェーンを展開し、生産性は急激に向上し、株価の爆発的な上昇を描く経済成長の時代、それが「超資本主義」の時代と呼ばれています。
この超資本主義の時代における勝者は、消費者であり投資家である国民ひとりひとりである、と論じられます。
消費者としての我々は、以前に比べて格段に選択肢の増えたモノやサービスを安価に手に入れることができるようになり、投資家としての我々は個人投資家として、或いは年金基金などを通じて株価上昇の果実を得ることができるようになった。
超資本主義による恩恵の最大の受益者は、強力な力を与えられた、消費者そして投資家としての我々である、と。
が、一方で消費者・投資家であると同時に「市民」であるところの我々国民は、超資本主義の弊害に苦しめられる存在でもあります。
上がらない賃金、不安定な雇用、崩壊する地域コミュニティ、環境破壊、莫大な報酬を得る大企業CEOやウォール街の金融マンとの格差感・不平等感。
政治にも商業主義が入り込み、企業ロビイストや弁護士、広報専門家が幅を利かせる。
民主主義が機能しなくなっているという問題が生じている、と。
超資本主義が生まれた要因として、一般的にはレーガノミックスによる減税や規制緩和が挙げられますが、著者の見方は異なります。
冷戦が生み出した、輸送や通信に関する技術革新が実用化され、国境を越えたサプライチェーン構築が可能になった企業間に激しい競争が生まれたことが、その要因である、と。
大企業CEOの莫大な報酬も、優秀な経営者を獲得するための企業間の熾烈な競争の当然の帰結であり、それを金満主義と批判・糾弾したところで溜飲を下げられるかもしれないが根本的な解決にはなりはしない。
それよりも、消費者・投資家である我々が利益を求めれば求めるほど、市民としての我々の不利益や不満は溜まっていくという二面性の構造を自覚することが本質だ、と論じられます。
著者の主張は、簡単にまとめれば上のような内容で、このことが豊富な実例の紹介をもって丹念に解説されていきます。
きわめて客観的でバランスのとれた議論で、特に、我々のなかにあるアンビバレンスについては、自分も常々感じていたことなので、このように明解に説かれると嬉しくなってきます。
米国を題材に議論が進められていますが、超資本主義の現象は、先進国では共通に見られるものであることは著者も指摘しています。
日本においても、格差社会論や市場原理主義批判などが盛んに語られるなど、米国ほどではないまでも、同様の傾向を感じることができます。
著者は、超資本主義への処方箋として、法人税を廃止する代わりに企業の(法)人格を否定し、人間のみが市民としての権利・義務を保有し、民主主義を個人に取り戻すことを唱えます。
やはりポイントになるのは、我々国民ひとりひとりに政治の主体となる覚悟がちゃんと備わっているか否かなのでしょう。
いくら政治家や官僚や大企業の振る舞いが酷いとしても、それをただ批判するだけで、我々自身が受け身の姿勢を脱することを心がけなければ、社会は変わらないのでしょう。
自戒を込めて。