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海軍兵学校同期会@江田島~大和ミュージアム

2014-10-12 | 海軍

海軍兵学校が閉校して、69年になります。
かつて兵学校で学んだ青年たちは、戦後の日本の復興と、経済発展の
中心となって働き、結婚し、子孫を生み、そして今や老いて、
一人また一人とこの世を去っていきます。

彼らにとって海軍兵学校とは若いうちの4年、終戦間際の学年においては
たった2年、1年、人によっては数ヶ月しか存在しなかった学び舎ですが、
しかしながら
その精神形成に大きな影響をもたらした「原点」であり、
また、俗な言い方ですが「輝ける青春の一こま」でもあったのです。

わたしは、今回ご縁があって、かつての兵学校の期生が一同に会する
最後の機会に立ち会い、それを目撃することになりました。

「最後の」というのは、入校から区切りのいい数字となった今年を最後に
同期会を解散することになったためです。


大正生まれの元生徒たちは、かつては一人で参加してきた人も、
80も後半になり、
遠距離の旅行に付き添いが必要な年頃になってきていました。

そのためか、一人の元生徒に対し、一族郎党が付き添ってきていたり、
また、本人はとうに鬼籍に入っているけれども、故人のよすがをもとめて
遺族がこれまた一族郎党で参加しているという場合もあり、
今回の同期会は、全部で200名くらいの大イベントとなりました。

「これで最後」の同期会ですから、それは江田島の旧海軍兵学校で行われます。
この一泊二日のツァーに、わたしはTOと一緒に参加してきたのでした。



関東在住組は、旅行社の手配によって羽田から同じ飛行機に乗ります。
わたしはTOがどうしても仕事を離れられず遅れて参加したため、
一人で空港の待ち合わせ場所に向かいました。

待ち合わせの目印は・・・・・軍艦旗です。

実はわたしは、この旅行社の人たちが、たちの悪い某国人やサヨクに

絡まれたりしないかと要らない心配をしてしまいました。
この2年ほど、某国が、この意匠を巡っていちゃもんを付け始めたため、
そんなことを考えてしまうこと自体が、実に腹立たしい。



旅行社の人は、軍艦旗を目印に先導します。
軍艦旗に先導されて旅行するなど、おそらく最初で最後だろう、
とこんなところでも感無量です。

参加者はここからバスに乗って、広島市内に向かいました。




直接ホテルに行く人を下し、バスは大和ミュージアムに到着。

大和ミュージアム・・・・というとつい最近来たような。
来たも何も、昨日もここでやっていた「進水式展」について
お話ししたばかりですね。

わたしは案の定このツァーの内容をほとんど頭に入れないまま
当日ぼーっと参加しておりましたので、
最初の行程が大和ミュージアムだと知ったときかなり驚きました。



顔を入れて写真を撮るパネル。
なぜ五代進の顔だけがくり抜かれているのか謎。

ちなみに、わたしが今お話ししている「進水式展」は、
このときにはとうに終了していました。



つい先日来たばかりなので、前回とは違うアプローチで見学しました。

10分の1模型も、三階から撮ってみたり。



このとき気がついたのですが、海自の海曹が大和の脇に立っていました。
おそらく彼もまたミュージアムの見学に来たのだと思うのですが、
どういうわけか
周りの人にいろいろ質問されていました(笑)

 

こんな角度で撮ってみたり。
喫水線の目盛りは50から140まで記されています。



後方から。



全部画面に入れるには後ろの壁に貼り付かねばなりませんでした(笑)



この軍艦旗は、戦艦「長門」に掲げられていたものです。
「進水式展」には同じく「長門」の長官旗も展示されていましたが、
これらはいずれも俳優の石坂浩二氏の寄贈によるものだそうです。
「長門」は最終的に水爆実験の標的にされて沈んだわけですが、
接収されたときにアメリカ軍人がこれらの旗類も持ち帰っていました。

石坂氏は司会を務める「何でも鑑定団」に出されたこれらの旗を
自費で買い取り、さらにミュージアムに寄贈したということでした。



ところで、今回のツァーには、大和前の写真をご覧になってもお分かりのように
かつての兵学校生徒、海軍の生き証人が多数参加しておられます。

その生の声が聞けるというおそらく最初で最後のチャンスですから、
わたしは日頃の人見知りに鞭打って、できるだけお話を聞いてきました。

その中には何と!お父上が海軍中将でこの戦艦「長門」に乗っていた、
という方や、
「大和を実際に見た」とおっしゃる方もおられました。
その方は乗船実習で乗っていたフネから、航行する大和を眺めたのだそうです。

「そのとき乗っていたフネはなんだったんですか」

と訊ねると

「えーー、あれは・・・・確か・・・利根だったかな?
練習艦でね、明治時代にできたっていう・・・・」
「八雲ですか」
「ああ~そうだったかもしれない」

この学年は、兵学校生徒のときに終戦を迎えており、

実際の海軍経験は殆どないに等しいので、70年が経った今日、
特にこういった記憶が薄れても致し方ないことでしょう。



大和の資料室で今回初めて気がついたことがあります。
それは、展示品は写真撮影ができることでした。
先日見た進水式展と同じで、基本的には撮影可なのだけど、
ときどき「不可」とされているケースがあったりするので、
そもそも撮影をしていいのかどうかわからず、係員に聞いたところ、

「不可と書かれているもの以外は可」

というごもっともな返事でした。

実に中途半端な規則である。
同じケースの中に「可」と「不可」が並んでいたりするわけで、
一体何が基準になっているのかも分かりませんでした。

ともあれ、写真を撮っていいことが分かったので、まずは大和設計図を。
真ん前に貼り付いている人がなかなかどかないのでそのまま撮りました。

設計図には「後部艦橋構造」と書かれており、右上には

「近代産業遺産」

という当時の経産省大臣甘利明の名前で出された認定書があります。




「大和のタンス」の引き出し裏。

長官の寝室にあったタンスで、「大和」が旗艦になっていた頃、
即ち山本五十六の下着類が収納されていたタンスということになります。



最近来たばかりなので、今回は全部見るのに40分かかる

「戦艦大和・遺族・生存者の証言」

も全部観ることができました。
その中で、写真左から2番目の中島武少佐(海軍機関学校卒・戦死)
の妹さんは、

「兄は海軍に入って良かったと言っていました。
『街を歩いたら皆が振り返って見る』と言って」

と、スマートだった兄の想い出を語っていました。
しかし、

「結婚してすぐ大和特攻になった兄が、最後の上陸のときに
わたしたちには何も言わなかったけど、妻に向かってだけ
『本当は行きたくない』と言ったらしい」

という証言も・・・。

中島武大尉の右側の岩佐尚少佐(戦死者は1階級特進)は

海軍軍医学校卒で歯科士官でした。
なぜ大和特攻に歯科医を乗せていく必要があったのだろう、
と不思議な気がしますが、いずれにせよ岩佐大尉は出撃し、
そして戦死しました。


息子の死があきらめきれない父親は、息子の残していった軍服を
服の上から着て、泣きながらよくお酒を飲んでいた、ということです。



「戦艦伊勢の物語」というエントリで、「伊勢」の壮絶な最後について

お話ししたことがありますが、音戸沖で着底した「伊勢」の写真が
3mくらいの大きなパネルになっていました。

展示写真の上部からスポット照明が当たっていますが、
今際の際に「ドンと一発」、主砲を撃って逝った「伊勢」の最後を
知っている者にとっては感慨深い、ドラマチックな展示です。
 

 

今まで一度も出たことのない「潜水艦デッキ」に出てみました。

向かいにある自衛隊の「てつのくじら館」の潜水艦「あきしお」が見えます。

全景を納めたかったのですが、精一杯後ろに下がってもノーズが切れてしまいました。
前にこの潜水艦をここに設置した過程について説明したことがありますが、
帰りのバスの運転手さん(女性)は、これを設置するときに前で見ていたそうです。

「設置前迄は艦体に貝の殻とかがついてましたよ」

とのことです。
ここに備え付けてから塗装を行ったってことですね。



行ったことのない場所に、「大和プリクラ」を発見。
ここでアップする、それだけのために、プリクラ撮りました(笑)
ショールの裏地のオレンジとバックの色を合わせたところがこだわりです。
でもこうしてみると、敬礼の上手い下手ってやっぱりありますね。

わたしはどうも「敬礼アプリ」で練習しないとだめっぽい ∠(・_・ )



海軍兵学校とはあまり関係ない内容になってしまいましたが、
ここまでは各自行動だったので仕方ありません。

バスに帰ってきて、次の予定地に移動になったのですが、
車内で週番の腕章を付けた御歳80ウン歳の生徒が
資料を配ったり、旅行社の係員が説明をし終わったとき、

「バスの中で何もしないのはもったいない!」

と大声が上がりました。

「ただ今より軍歌演習を行(おこの)う!」

キタ━━━(≧∀≦)ノ━━━ !!!!!

来たよ軍歌演習。

「戦艦大和の甲板で最後に総員が涙を流しながら歌った
『如何に狂風』を歌う!」

そうそう、そうでした。
「大和特攻」の際、総員が乗艦前に2日の休暇をもらい、
家族や親しいものに別れを告げて再び乗艦してから、
総員(といっても3分の2の2000人)が甲板に集められ、
皆でこの歌を泣きながら歌ったという話・・・・・

あれ?何でわたしこの話を知ってるんだろう。

思い返してみると館内で観た「遺族・生存者の証言」のなかで
生存者がこのようなことを言っていたのだったわ。
そのとき隣にご老人がずっと座っていたような気がしたけど、
あの方がこの声の主だったのかもしれません。

「前へ~~~進め!」

 【軍歌】如何に狂風

わたしが最初の部分を一緒に口ずさむと隣の方が
(義父上が海兵卒)

「歌えるんですか!」

と驚いておられました。
ええ、悲しいくらい歌えてしまうんです。
軍歌集さえあればおそらく完璧に。

それにしても感無量でしたよ~。
本物の「生徒さん」と一緒に軍歌を歌うこのひととき。

続いて歌は「兵学校三勇士」「兵学校数え歌」となりました。
写真の艦内帽の元生徒は「数え歌」を熱唱しておられます。
作詞者不詳(ということは生徒の誰か)のこの歌詞、
内容が面白かったので、探してきました。


♪ 兵学校数え歌

一ツトセ広島県下の江田島は
明日の日本のバロメーター
ソイツァ 豪気だネー

ニツトセ踏んだり蹴ったり殴ったり
攻撃精神棒倒し
ソイツァ 豪気だネー

三ツトセ三ツ星おろして入れた位置
古鷹山の上に出た
ソイツァ 豪気だネー

四ツトセ夜な夜な捻るこの腕で
一号殴った夢を見た
ソイツァ 豪気だネー

五ツトセ粋な短剣伊達じゃない
魔よけ虫よけ女よせ
ソイツァ 豪気だネー

六ツトセ無理もへちまもあるものか
殴り殴られ偉くなる
ソイツァ 豪気だネー

七ツトセ泣き事言う奴ブンなぐれ
にやにやする奴ははりたおせ
ソイツァ 豪気だネー

八ツトセやさしい心もないじゃない
弥山山頂月を見る
ソイツァ 豪気だネー

九ツトセ漕ぎも漕いだり十浬
宮鳥遠漕半殺し
ソイツァ 豪気だネー

十トセとうとう卒業の時が来た
追い出せ蹴り出せ叩き出せ
ソイツァ 豪気だネ

 
彼らの歌を聴きながら、バスは次の目的地に着きました。
そこは、海軍軍人の御霊を鎮めるために墓石や、
軍艦などで戦没した乗員たちの慰霊碑が置かれた長迫公園、別名

呉海軍墓地でした。 


続く。