ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

海軍おやつ

2011-01-13 | 海軍
靖國神社の遊蹴館にはロビーに軽食喫茶があり、そこでは「海軍」と名のついたものを味わうことができます。

「海軍珈琲」
「海軍カレー」
「海軍ドッグ」

遊蹴館が別に海軍びいきなわけではないでしょうが、なぜか陸軍ものがない。
なぜでしょう。
まさか、陸軍精神が
「泥水すすり草を噛み」
だからというわけでもありますまいが、そちらに少なくともグルメな話は皆無、
なぜか海軍に食べ物の話題や海軍由来の食べ物が多い。

テーブルマナーを重視してみたり、艦隊で司令官の食事のときはフルコースのフランス料理と和食が交互に出て、軍楽隊のBGMがあったとか、肉じゃがは海軍発祥だとか。

戦時中の一般人の認識も似たようなもので、誰かが兵学校に合格すると、
「○○ちゃんは白いテーブルクロスでナイフとフォーク使ってご飯食べるようになるん?」
などと聞かれたりしたようです。

フネという閉鎖された空間では、とくに食について栄養あるいは精神健康上必要べからざる行事としての観点からあらゆる考慮がなされました。

人間がご飯を食べて生きている以上、船上での調理は時として戦闘行為。
「男たちの大和」
で、イケメン主計兵曹森脇一主曹(反町隆史)が戦闘前の握り飯作りをまさに
「これは戦闘や」
って言ってますね。
握り飯も手で握ったので、何百個何千個の熱い握り飯をつくっていると主計兵の手は火傷を起こしたそうです。

まさに戦闘。

おまけに、海軍精神注入棒であるところのバッターですが、主計科の罰直はあくまでも
大きなしゃもじで行われたというのです。
あのこれ・・・笑ってもいいですか?
しゃもじでお尻をぶたれる主計兵。


しかし、実際は主計科というのは縁の下の力持ち的仕事なので、忙しい割には
「主計看護が兵隊ならば、ちょうちょもトンボも鳥のうち」
なんて揶揄されていたようです。

陸軍では海軍の主計兵に相当するのが輜重兵(しちょうへい)と言いました。
輜重は、元来旅行者の荷物、という意味です。
男の戦闘配置としては陸海問わずこの方面には人気がありませんでした。
陸軍でも輜重兵に命ぜられるとリアルorzになったそうです。

さて、船員のストライキ(『食い物の恨み』参照)などを経て、胃袋を統率することこそ狭い船の上ではもっともスムースな兵統率の手段、と悟ったのかどうかは分かりませんが、さすがは海軍、オヤツにも力を入れていました。

そう、オヤツ=心の栄養。



冒頭画像は、最近遊蹴館によることがあると必ず一つ買う
「海軍ドロップス」。

先日息子、
「この間行った、零戦のあるところまた連れてってね」
(おお!)「なぜ?」
「あのドロップまたほしいから」
・・・・そういう理由か。


淡いブルーで、サイダーの味が気にいった模様。
画像ドロップの缶には

旧帝国海軍携帯口糧

海軍携帯ドロップス

自弁調達、慰問袋の必需品


とあります。

この「自弁調達」が、このドロップの謳い文句で、ウリなのですが、これはどういうことかというと・・・。
旧帝国海軍の艦船には、消火装置として、炭酸ガスの発生装置が据え付けられていました。
当時の海軍では、夏場の暑さをしのぐ涼として、この炭酸ガスを利用してラムネをつくっていたのです。

そうかー。
よく、航空糧食は巻きずしとサイダー、という記述を見るではないですか。
坂井三郎さんがガダルカナル決戦に向かう零戦の機内でうっかりサイダーを風防にぶちまけてしまい、それを拭くのに大変な努力をし、そのせいでいやな予感がした、という印象的な話があります。
不時着してしまった搭乗員が海を漂いながら
「サイダーも冷えていたのに飲まずに惜しいことをした」
と後悔したという話もありました。

物資不足のおり、サイダーだけはやたらと出まわっていたのだなあと思ったりしていたのですが、それもそのはず、海軍では「自弁で調達」できたと。

あの戦艦大和内でも、勿論主計科でラムネとして作られ酒保で売られていました。
一瓶、昭和19年当時で三銭。
士官は食費を給料から天引きされていて、つまり自費で払っていたのですが、ラムネは予約して確保していました。
一日の製造数は限られていたので、数少ない残りは兵員の間で取りっこになったそうです。

さて、その大和ですが、その設備の良さ(となかなか前線に出ないことへの揶揄)から、
「大和ホテル」
とあだ名されていました。
当時満州に有名な「ヤマトホテル」というのがあり、戦後中国政府によって陸軍のスパイ容疑で処刑された満州皇帝の娘、川島芳子が最初の夫カンジュルジャップと結婚式を挙げたところですが、ここをもじったものでした。

ホテルと称されるだけあって、その設備の中に、アイスクリーム製造器があったのです。
「バンカーヒルの物語」で二機の特攻機によって壊滅的打撃を受けた空母の話をしましたが、このバンカーヒルにも
「アイスクリームスタンド」
があったといいます。
しかし、当時のアメリカ人がアイスクリームを愛好するのは当たり前としても、大和にそれがあった、というのはなかなか驚くべき話ではありませんか。

今のホームメードアイスクリームメーカーのようなお手軽なものではないので、この製造機の管理は機関科が、製造は主計科がしていました。

フレーバーは
コーヒー、チョコレート、桃、チェリー、パイナップル、イチゴ、蜜柑、梨など。
バニラはもちろんあったでしょう。
ハーゲンダッツ並みの豊富さですね。

大和への食糧配給は「ホテル」と言われるだけあって、他の艦より幾分か優遇されていたようです。
当然ながら砂糖も比較的潤沢に使えたので、前記のラムネも、他の艦のものに比べるとかなり美味しかったということです。
アイスクリームも、きっと美味だったのに違いありません。




画像はやはり遊蹴館売店で購入できる、海上自衛隊の保存用ケーキ。
半分食べたところで写しました。
缶入りなので見た目はなんですが、そこそこ美味しいです。

非常食用に今度いくつか買っておこうかね、と一度息子と一緒に遊就館に行ったときつぶやいたら、
先日初詣で立ち寄った際、
「ママ、非常食買うんじゃなかったの?ホテルでお腹すいたときのために」
いや、そのとき確かにホテル暮らしでしたけどね。

非常食の意味を全く理解していないだろ君は。

















パイプオルガン

2011-01-12 | 音楽
先日TОが新聞の切り抜きをデスクに置いていってくれました。みれば
「復刻版 戦前日本の名行進曲集」
戦前のレコード会社の貴重な音源から厳選。収録作品のほとんどが初CD化!


もう、いくらなんでもこのようなものは買いませんよ、なんといっても一応音楽関係者なんですから、と笑いながら手にとって1分後

「買おうかな・・・・・」

だって、三枚組でそのうち一枚は海軍軍楽隊(あとは陸軍と秘蔵名盤)、
「敷島艦行進曲」「軍艦旗」「連合艦隊行進曲」「大海軍行進曲」勿論原版・・・・
ってこれ、無茶苦茶聴いてみたいんですけどー!


日曜日の家族団らんのひととき、
「映画観ていい?」といいつつ、「軍閥」のパッケージをいそいそ開ける妻に、
さすがに目を細めはしないものの、いつも生暖かく見守ってくれてありがとう、TО。
すっかりこんな連れ合いに慣れてしまったのね。こんな情報まで取っておいてくれて。


ともすれば生活が偏りがちな毎日、やはり腐っても音楽関係者、ブログでは一向に触れませんが、
やはり音楽は空気のごとく当然のようにエリス中尉の傍らにあるわけで。
先日、パイプオルガンの発表会がありましたのでご報告。

この壮大なオルガンは日本の地方都市の津々浦々には当然のごとくある、無駄に立派なホールのものです。
ピアニストの中村紘子さんなども感心して何かに書いておられましたが、
本当に日本と言う国は不思議な国で、どんな田舎に行っても
「いったい誰が演奏するのか」
と言うくらい音響のいいホールがあって、たとえ普段はコロッケのモノマネリサイタルで使われるだけであっても、
スタンウェイのフルコンサートピアノが当たり前のように装備されていたり、
ここのように物凄いパイプオルガンが据えてあったりするわけです。

まあ、いわば地方行政の税金の分かりやすい使い道としての大盤振る舞いの結果なのでしょうが、
ほんと、こういうことは海外では「ありえない」のですよ。
あるヨーロッパのホールでは「押したら元に戻らないピアノのキーを本番中横に控えていて戻す係」
なんていう人がいたりするところもあるっていいますから。


それはともかく、一年に二度、こうやって素晴らしい装置で思う存分オルガンの響きを楽しむおさらい会。
先生はもちろんプロの演奏家です。

先生の模範演奏。
横にいるのは夫君で、たくさんあるボタンを曲の途中に操作して音色を変えるアシスタントをしています。
左手に見えるたくさんのボタンがそれ。
画面左上にはバックミラーがあって、客席から演奏者の顔が少し見えますが、それが目的ではなく、
演奏者がオルガン協奏曲などをするとき、振りかえらずに指揮者を見るためのミラー。
「ウケているかどうか」客席を見るためではありません。


これもエリス中尉ではありません。
御存じとは思いますが、オルガンの場合は両手両足をフルに演奏に使います。
エレクトーンも足鍵盤はありますが、使用するのは左足のみ。
右は強弱ペダルに置きっぱなしです。
当然のように足でメロディーを奏でつつ、指でその旋律を追いかける(フーガですね)
などということもするわけで、TОいわく
「人間のすることとちゃう」

ピアノを弾かない人に右手でテーブルを3回叩く間に左手で2回叩き、さらにそれを連続せよ、というと
まさか、という顔をしますが、ピアノ弾きに取ってこれはできて当たり前。
(あなたはいかがですか)

さらにオルガン弾きはこれに両足が加わります。
本日の生徒さんはわたしも含め、ピアノを経験していてかなり弾ける人間ばかり。
当然のように音大卒もたくさんいます。
趣味の会とはいえ、全員がちゃんとした曲を弾くわけですが、オルガン歴の浅い人は
「ほとんど足鍵盤が出てこない」曲を選びます。

男性もおられました。
この方はバッハのファンタジアを弾かれましたが、お上手でした。


そして、エリス中尉。
バッハのプレリュードとフーガを弾く雄姿。
「あがる」という文字が辞書にはない本番強さを買われてか、
当初トリに弾かせていただくことになっていたのですが、
なぜか直前にアイウエオ順に変わりました。

息子の病気やらなんやらで練習室に行けず、その割には平然としていたので
もしかして先生は不安になられたのかもしれません。
しかし、本番ではなんの大きなミスももなく、壮大な響きを思いっきりエンジョイしながら
「ああ、もっともっと弾いていたい・・・」
という気持ちで弾き終わりました。

一般論ですが、ジャズをする人間って、クラシック一本やりの人間よりある意味いいかげんなので、
「わたしの辞書に間違いはない!わたしが弾いた音が正しい音である」
みたいな開き直りでいってしまう傾向があります。
多少音が違ってもコードさえあってればOK、みたいな。
クラシック畑の人間には(できない腹いせかもしれませんが)そういう態度が嫌われたりするのですが。


そう、趣味でやる音楽の素晴らしいのはやっていて「楽しいこと」。
お金をいただく仕事には必ずしも楽しいとは言い難いときもあるのです。
ブログもそうですね。
報酬がからまないからこそ、誰からも干渉されず自分の「独断日記」を公開できるわけ。
逆に言うとお金を頂く仕事でがまんしたり、不当な目にあったり、
勿論そのためにプロとしての技術や勉強が厳しく要求されたり、

それは当然のことではないですか。なんたってお金もらってるんだから。


演奏する喜びは勿論どちらにもありますが、しかし、あえて違いを言うと

「弾いているときひたすら楽しく、終わると残念なのが趣味」
「弾き終わったとき初めて本当に幸せを感じるのが仕事」

でしょうか。







大和の四六糎砲

2011-01-11 | 海軍
     
     

先日うちに来た戦艦大和設計図の主砲部分です。

こうなってみてあらためて大和について書かれた出版物の多さに目を見張る思いなのですが、
それこそメカを研究しつくしたもの、辞典形式でトリビアの泉風のもの、3G映像のCD付きのもの、
小説、ドキュメンタリー、そしてSF仕立てのもの・・・。
(宇宙戦艦ヤマト、観に行かれました?)

したがって、わたしが思いつくようなことなど、きっとどこかで誰かに検討されているものと思われますし、
それこそ研究している方にとっては笑止の意見が含まれていることを最初にお断りしておきます。

それにしても、大和とはつまり「負けいくさ」だったわけです。
この悲劇をこれほどドラマとして、そして象徴として愛する、というのは
よく言われるように日本人の「もののあわれ」「滅びの美学」好きなのでしょうか。
たとえばホーネットや、バンカーヒルについてアメリカ人が微に入り細に入り、
形を変えあらゆる角度から語っているという話は聞いたことがないのです。


さて、戦艦大和は世界最大の四六糎砲を九門装備していました。
本日画像は主砲の部分を、上面と側面、同じ部分を並べています。
今更説明するまでもありませんが、艦橋の前甲板に六門、後甲板に三門です。


戦艦大和は昭和一二年、国家予算の三パーセントを投入して造られた帝国海軍の最終兵器でした。
秘密主義の旧帝国海軍の徹底した「鉄のカーテン」に隠されたまま建造され、そして、その能力のほとんどを使うことなく海に沈んでしまった悲劇の艦船(ふね)大和。

日本の別名であるこの名を持った大和が、大鑑巨砲主義の終焉の、
そしてあの戦争における日本という国そのものを象徴し、いまだに人々を惹きつけるのはなぜなのでしょうか。


口径四六センチの艦砲を持つのは、この世でただひとつ大和だけでした。

日露戦争でバルチック艦隊に日本海軍が勝利して以降、アメリカは早々に日本を仮想敵国としてその準備を進め、戦艦、空母を急造します。
しかし、それらの持つ主砲は最大で40,6センチ砲。

その射程距離38キロに対し、大和の46センチ砲の持つ射程距離は41,4キロ。
東京駅から撃てば横浜、戸塚に着弾する距離です。
戦後、当時のアメリカ海軍建造部が
「このクラスの主砲を撃つことができ、かつ、戦艦として航行可能であるという艦船はアメリカでは建造不可能」
と一致した意見を出しています。

これは国力では負けていても、造船技術では勝っていた、と言うことです。
零戦や紫電改に見られるように、戦後日本人が技術立国として世界のトップに立つ萌芽は
もうすでにこの時点であらゆる部門に見えていたわけです。

しかしこれもまた現代の日本という国の抱える大きな欠点に思われるのですが、
末端の技術者が優秀でどんなものでも与えられた課題をたちどころに解決し、
さらにいつの間にかオリジナリティまで加えて完璧なものを作ってしまうのに対し、
それを生かすための執行権力を持つ機関―当時は軍といい、現在は政府―
に決定的に「時代を見通す目」が欠けており、
司令部は面子と八方破れの精神論からその技術の粋を使い捨てすることしかできなかったのです。


日露戦争でバルチック艦隊に勝利した連合艦隊司令部はなまじの勝利が災いして
大鑑巨砲主義の呪縛から解き放たれないままに行く末を見誤ったともいえるでしょう。


さらに真珠湾攻撃(アメリカ側は事前に攻撃を知っていた、と言う説も踏まえたうえで)によって、
攻撃を受けた当のアメリカが航空戦争の幕開けを予想し
この後空母をそれこそ一週間にひとつの割で急造することになるのにもかかわらず、
この先見の明ともいえる航空部隊の攻撃の結果を受けていながら
ちょうどその前日の12月7日主砲の試射を実地、開戦当日試験を終了し、就役してしまった大和。

そこには軍縮会議の講和期限の間造船を禁じられていた造船技術者たちが、
その技術の粋をここぞと大和、武蔵に注ぎ込む「技術屋の執念」が覗えます。
それは・・・・


男のロマン?


こんな甘いことを書くと、四方八方から46センチ砲が飛んできそうなのですが、
飛行機屋の小園安名大佐が、中尉時代から
「これからは航空戦の時代です。大和の建設はやめるべきです」
と上に直訴していたと言う話を読むと
「航空屋には分かっていたのに・・・」
と思わずにはいられません。




さて、その山本司令が―当時すでに連合艦隊司令長官であった―大和に乗艦して
「主砲を見せろ」
と言ったらなんと、
「何人たりとも見せるなと言われております」
と追い返されてしまったというのです。
これはいつの段階のことかは書かれていませんでしたが

「俺を誰だと思ってるんだ!」

と、こういう場合くらいは言っても許されるような気がします。
山本長官でダメなら、誰なら見てもよかったんでしょうか。

と言うくらい海軍の秘密主義は徹底していました。

この山本長官も早くから大鑑巨砲主義に見切りをつけ、航空機の時代を作った本人ですから、
大和は建設にすら反対、そんな金があれば航空機を、という主張でした。
「君たちは一生懸命やっているが、いずれ近いうち失職するぜ」
と造船技術者に言ったり、
「大和も、床の間の飾りくらいにはなるだろう」
と皮肉っていたということです。

ともあれこの徹底した秘密主義ゆえ、46センチ砲は46センチ砲とではなく

九四式四〇センチ砲

と言う名前で呼ばれていたのだそうです。
いくらそう呼ぶように言われても、毎日それにまたがって掃除するわけですから、
少なくとも大和乗員は知っていたと思われますが。

あまり秘密にし過ぎて、艦隊で行動するときに作戦の立てようがなく、
したがって折角の巨砲も宝の持ち腐れで終わってしまったという説があります。





大和の戦果というのは、そんなこんなで全く元を取れないまま、四十六センチ砲は三度火を噴きましたが、
それによって相手に与えた損害はほとんどなかったと言われます。

ガンビア・ベイにそれが当たり、沈没したとする説もありますが、
先日「駆逐艦藤波のこと」という記事で書いたように、
実際にガンビアベイの沈没の原因になったのは重巡利根と今日では確定されており、
「当たって欲しい」「当たったはず」という精神作用が、防御煙幕や至近弾を火災と誤認させた、
と利根の艦長は手厳しく断じています。
このときガンビアベイの漂流者に向かって大和の砲兵が感情的になってか副砲を撃ったのを上が慌てて止めた、
という話が伝わっています。




しかし。
大和建造が日本海軍の「日本海海戦よもう一度」という大鑑巨砲主義であったか、ロマンであったかはともかく、
それを歴史を知る後世の人間が「先が見えていなかった」と言うのは実に卑怯なことに違いありません。


ですから「もしあの時海軍が大和建造をしなければ」
と言う仮定はまったく意味をなさないのですが、たった一つ、此処で個人的な
「もし」
を問わせていただけるのなら。

「もし、大和の46センチ砲を少なくとも国内で明言していたら
 
艦隊の戦い方が作戦を立てる上でもう少し有利になっていなかったか?」

「もし、大和の46センチ砲を、世界に向かって公開していたら

1940年当時で英米も持ち得ない兵器を持っているということは
  開戦前交渉の段階で核保有にも似た抑止力にならなかったか?」



大和がこれほどの秘密裡に建造された理由は
「相手に同じようなものを造られたら困る」
と言うことに尽きたようですが、現実は(後から分かったことですが)
アメリカにも、勿論イギリスにも建造は不可能だったわけですから。

先ほどの話ではありませんが、現在、「技術一流、政治三流」と言われる日本国が
決定的に国際的な駆け引き、そして戦略に弱いというその原型が、すでにここにも見られるような気がするのです。









傲慢なミューズ、美の唯一神シャネル

2011-01-10 | 映画

2009年の夏、ボストンのいつも訪れるウェルズリーのブティックで
オーナーと雑談していたときのこと。
イタリア系の初老男性である彼が

「今ダウンタウンでシャネルの映画をやっているよ」

と教えてくれました。

女性でファッションに興味があれば一度や二度は
ココ・シャネルというファッションのカリスマについて
耳にした逸話があると思います。
わたし自身遡れば高校時代から、シャネルの神話をいくつか耳にしてきました。

なかでも、当時の社交界のスターを相手に
華やかな恋愛遍歴を繰り広げていたシャネルが
ウェストミンスター卿の恋人であった時の逸話・・・

豪華客船の旅の途中、船上で卿がある人妻に
ちょっかいを出したのにシャネルが激昂。
機嫌を取るために卿はエメラルドの指輪をデッキでシャネルに渡します。
「ダーリン!」
シャネルは「ありがとう」と受取り、
指にはめてしばしその美しさを楽しんでから、皆が見守る中

指輪をはずして海にポイッと投げてしまいます。

息を飲む周りの客。


あるいは一度このブログでもお話ししたことがある

亡くなったときパリのリッツホテルにはスーツが一着しかなかった

などという神話に、小娘はすっかり参ってしまったものです。

それから幾星霜。

ようやくそのシャネルのファッションを身につけても
何とか見られる年齢に達したわけですが、
積極的にその人生について知ろうというほど傾倒していたわけでもなく、
せっかく教えてくれたシャネルの自伝という映画も
観に行くことなく終わってしまいました。

そして先日、「ココ・アヴァン・シャネル」
というDVDを見つけ、購入したのですが、
この「アヴァン」というシャネルの名前の間に入るフランス語によって
この映画のタイトルの意味は

「ココがシャネルになる」

というニュアンスになります。

まさに、シャネルになる以前の無名時代のシャネルを描いたもので、
しかし、この映画にははっきり言ってまったく面白さは感じませんでした。

というのも、シャネルはもともと貧しい歌手兼踊り子。
面倒を見てくれ、あわよくば歌手として成功させてくれるような
力のある男を漁るためにステージに立っています。

愛もなければ真実も無い「パトロン」との関係は、
そのままシャネルが生きていくための手段であり、
学も無い、生まれつき美貌でもない、貧しい生まれの、
しかし成功への野心だけは人一倍持っていたシャネルにとって
男はそれを叶える手段だったのです。

映画は、この好きでもないパトロンに面倒を見させながら、
周りの夫人たちの帽子をデザインすることから自分の才能に目覚めた彼女が
その最低の生活からのし上がっていく途中経過までを描き、
成功したシャネルは最後に少し出てくるのみ。


シャネルという女がシャネルとして輝きだすのはこの後の話なのです。

高校生のとき胸をときめかした数々のシャネルゴーマン伝説は、
要するにこのみじめな下積み時代のうっぷん晴らしだったのか?

と思わず種明かしをされてしまったような、
寒い後味を感じてしまったのはわたしだけでしょうか。

あのブティックのオーナーがこの映画を薦めるとはなあ、
と何か肩すかしをくらったような気持だったのですが、
この映画について書こうと調べてみると、なんと2009年の同時期に
「ココ・シャネル」という、こちらはちゃんと成功した、
シャネルを主人公にした映画が上映されていたことが分かったのです。

ついでにいうと、シャネルを主人公にした映画は全部で四本作られています。
何度も語られたテーマであるので、監督のアン・フォンテーンは、
ここでシャネル以前を語ろうとしたんですね。

まあ、残念ながらシャネル以前のシャネルには、
歯を食いしばってのし上がるハングリーなサクセスストーリーしかなく、
おそらくシャネル自身は伝記として
隠す必要はないがあまり触れて欲しくない部分だったのではないか
と思わざるを得ません。

余談ですが、語られる本人が死んでしまってから書かれる伝記はしばしば
「いや、それ本人は言われたくないだろう」
と思うものがありますよね。

また次回語りますが、作曲家コール・ポーター映画「ディラブリー」も、
「本人は決して喜ぶまい」
という語り口なのですが、こちらはその偽悪的な語り口に愛情が見え、
意外な佳作になっている気がします。

しかし・・・これはどうでしょうか。

ここでシャネルを弁護すると、このような出自でありながら
彼女は後年どんな上流階級の人間と接しても決して気後れすることも
卑屈になることも無く、それどころかハイソサエティの権力者を次々に虜にし、
また自らが芸術家たちのミューズとして、
彼らにインスピレーションを与え続けています。

ただの成上がり者で終わらなかったのが彼女の天才たるゆえんでしょう。


シャネルというひとは、決して高潔でも、
高邁な思想を持つ常識人でもありませんでした。
第二次世界大戦中の1940年、
フランスがアドルフ・ヒトラー率いるドイツ軍に占領され、
親独のヴィシー政権下となった際、レジスタンスとして
ドイツ軍による軍事占領に抵抗した結果、戦死したり、
捕えられた末に拷問されたりしていた人たちがいた一方で、
シャネルはドイツの国家保安本部SD局長
ヴァルター・シェレンベルク親衛隊少将と愛人関係を結び、
彼の庇護の下、自堕落な生活を送ったそうです。

本質のみを尊ぶ彼女にとっては、国家や民族の違いなど何の意味も無く、
権力を持ち愛を与えてくれる男がどこの国の人間であっても
意に介していなかったのでしょう。

彼女のファッションは、それまでの慣習や常識から逸脱するような
斬新なアイデアをいつも秘めていましたが、
モラルの規範に納まらない彼女自身の奔放さがなければ、
それは生まれえたかどうかは謎です。


ともあれ、彼女はこのことから、戦後のフランス人には
対独協力者として激しいバッシングを受け、
彼女を最終的に受け入れたのは本国ではなくアメリカだったと言います。

そして、当時のアメリカのフェミニストたちが一様に讃えた

「男の支配に置かれる女であった今までの生き方から
解放されるファッション」

ですが、皮肉なことに、シャネル自身は
そういう思想とはまったく無縁の生き方を選んできたわけです。


つまり、シャネルは自分の欲望のままに生きた享楽的な、しかし天才であり、
その創造が単にファッションにとどまらず、女性をそれまでの動きにくい服から、
延いては生き方から解放した改革者でしたが、
それとても決して彼女が意図したものではなく、ただその研ぎ澄まされた感覚で
そのとき自分が美しいと思われるものを形にしたにすぎなかったのかもしれません。




映画「ココ・アヴァン・シャネル」はシャネル自身が言ったという

「もし翼を持たずに生まれてきたのなら
翼を生やすためにどんなことでもしなさい」


の「どんなことでも」の部分を描いた映画です。
たとえシャネルがそう言ったとしても、それはあくまでも舞台裏であり
観るものにとっても、まるでおせっかいな噂話を
聞かされている気がしないでもないのですが。


ともあれ傲慢な芸術家は、その伝説とともに美の絶対神となりえたのです。
ココ・ガブリエル・シャネルの生み出したもっとも偉大な作品とは、
神となったシャネル自身だったのではないでしょうか。









同期の桜

2011-01-09 | 海軍

同じ戦死でも、たとえば関行男大尉や真珠湾の特殊潜航艇で散華した横山正治、古野繁實中尉、
あるいはやはり二階級特進であった笹井中尉の葬儀の際は、
その戦功と武勲を讃える相当の計らいがあり、たとえば海軍大臣が弔問に来るといった、
いわば「花道」がありました。

しかし、海軍に奉職し覚悟の上とはいえ、同じ命を捧げるのでも
「普通の戦死」「殉職」では遺族にとっては「割り切れない」思いが残されたようです。

ましてや軍人として戦うことなく病死してしまった場合、家族はいたたまれない気持であったと思われます。
本日画像に挙げたのは宮島巌大尉。
海軍兵学校67期卒で、終戦時は洲崎海軍航空隊の分隊長兼教官でした。
終戦の次の年、昭和21年の12月4日に肺結核で命を閉じました。


この宮島大尉の卒業した67期生徒のうち、なんと17名もが病死しています。
そのほとんどが当時死病であった結核でした。
この宮島大尉は兵学校卒業後すぐ肋膜炎を患い、退院後艦隊勤務(赤城、山城)を経て
航空科特修生として訓練後主に教官職に携わっていたようですが、
その肋膜炎から来たと思われる結核でわずか二十八年の生涯を終えています。

この宮島大尉の兵学校での親友が上村貞蔵大尉でした。
二人は同じ信州の中学から海兵合格を果たし、一緒に江田島に行った仲ですが、
上村氏言うところの「奇妙な因縁」で結ばれていました。

上村生徒が一号になり、慢性胃炎を患い入院したとき、この宮島生徒も慢性気管支炎で入院していたのです。
どちらも慢性病で入院も長きに渡ったのですが、こんなこともありました。


仲よしの二人が同じベッドに入って寝ていると、看護長が来て
「そんなことをしてはいかん」とブリブリ小言を言います。
「男と女ならともかく、男の友達同士が一緒にいたからといって、おかしなことを言う看護長だ」
と二人は言いあったということです。

「今ならその怒られた理由もほぼ想像がつくのだが」
とは戦後の上村氏の言―。


さて、この後卒業し、遠洋航海が始まるのですが、宮島候補生は最初から病院へ。
上村候補生は途中で艦を下ろされ、横須賀病院に入院すると、またもや同室で級友と再会。

どういうわけか、この二人は常に同じ配置になり、横須賀海兵団、館山の城山砲台、航空兵器の特修科学生、
洲の崎航空隊の教官、常に同室か隣りの部屋で遭遇したそうです。


もうこうなると二人は夫婦のようなもので、何もかも知りつくし理解し尽くすことのできる仲、
財布の中身までお互い精通していて
「貴様は無かろう。俺は少しあるからひとつレスへ行こうじゃないか」
などと言いあうほどになっていました。

そのころ、上村中尉は特攻の意見具申をしています。


特攻を志願してから「レス交じりに磨きがかかっていた」ある夜、
近頃こんな歌が、と宮島中尉が「同期の桜」を教えてくれました。

この「同期の桜」は、元々は西條八十の「戦友の唄(二輪の桜)」という曲で、昭和13年発表されたものに、
後に回天の第一期搭乗員となる帖佐裕海軍大尉が海軍兵学校在学中に替え歌にしたと言われており
(同じく潜水艦乗員であった槇(旧姓岡村)幸兵曹長説もある)
終戦末期に兵学校の教官を中心に歌われ広まったと言われます。
宮島大尉は教官であったためその曲を誰かに聞いたものでしょう。


その夜士官室のベランダで、月を眺めながら涙を流しつついつまでも二人はその歌を歌い続けました。



そして敗戦。
特攻に行くことなく終戦を迎えた上村氏が戦後の生活に追われていたある日。
「巌が上村さんに逢いたがっています」
という宮島大尉のお母さんからの連絡を受け、自宅に見舞いました。

「こんなに痩せてしまったよ」

と寂しげに笑いながらも、その夜上村大尉を引き留め、二人は語り明かします。
翌早朝、家人のただならぬ声に起こされました。
その朝友の手を握りながら宮島巌大尉は永遠の眠りについたのです。


「上村さんが来るまで死ねなかったのだね」
家族は誰に言うともなくこのようにつぶやきました。

 
「血肉分けたる仲ではないがなぜか気が合うて離れられぬ」
まるで自分の分身のようであった盟友が突然いなくなったことを夢か現か判じかねるまま、
上村氏は埋葬のあと、宮島大尉に教わった歌を唄いました。

初めて唄ったあの日のようにとめどなく涙を流しながら。











ザノッティのブーツと賢いうさぎ

2011-01-08 | つれづれなるままに
年末、リサイクルショップの買い取り担当の方に自宅にきてもらいました。
このお店はほとんど行ったことがなく、もっぱら着なくなった服や使っていないバッグ、
買ったものの三歩歩くとグリム童話の「人魚姫」の一節

「人魚姫が一歩歩くたびに脚はナイフで切られているように痛むのでした」

というのを思い浮かべる靴などを潔く売っ払ってしまうために、一年に二回このように来ていただいています。

丈夫なゴミ袋2つ分の買い取りお値段がいくらだったと思います?
じゃーん、5万6千円です!
「そんなにいただけるんですか?」←エリス中尉
「たったこれだけですみません」←買い取りマン

いただいたお札を喜び勇んでTОにみせたらば
「それだけもらうのにいったいどれだけ買うとき払ったの」
うっ・・。

あのね、クローゼットというのは「息」をさせないといけないの。
詰め込むだけ、あるいは詰め込みも排出もしない「流れの無い」クローゼットでは
「運気が落ちる」
って言うではないですか。

お金と一緒で、「流通させなければ入っても来ない」のですよ、お洋服も靴もバッグも。


というわけで、昔から気前よくものを流通させて今日に至るエリス中尉、
さすがに近年は買うものの単価が昔より高額になってきたことと、
自分のスタイルが決まってきて流行や何かに振り回されることがなくなってきたので、毎月服を買ったり、
バーゲンの札があるとふらふら入っていって10分前は想像もしていなかった物を買って出てきてしまったり、
そういう愚かな消費はしなくなりました。

以前にも少し書いたように、夏アメリカでまとめて一年分のアイテムを手に入れてしまうので、
日本で買うものは夏の間買ったものに合うような小物やインナー程度。

それでも毎冬、つい買ってしまうアイテムがあります。
それがブーツ。

靴を買うのはこれも以前書いたように好きですが、中でもブーツには目がありません。
防寒になり、お洒落で冬の装いの決め手となるブーツにはただならぬこだわりを持っています。

さすがに一年に二足も三足も買っては収納場所も取るので最近はよく考えて結局買わなかったりするのですが、
今回インターネットショップで即買いしてしまったのが冒頭写真のジュゼッペ・ザノッティのブーツ。


ネットで靴を買うなんて、って?
ちっちっち、エリス中尉、日頃から靴の有名ブランドのサイズの傾向くらいは熟知しているんざますのよ。
ルブタンなら37、マノロならデザインによっては38まで、とか、ザノッティなら36・5でもゆとり、とか。

まあ勿論、その判断が誤っていた場合には
「人魚姫」になってしまうわけで、これも正直過去なかったとはいえないのは冒頭リサイクルショップに売っていることからもばれてますね。


このブーツは、色がバーガンディというか、ワイン色。
こんな色のスウェードの細身のブーツを探していたんです。
というのは、去年購入したシャネルのツイードスーツ、ベージュにワインカラーの織りが入っている生地の服に合う靴が欲しかったんですが、先日撮影で使った靴をお安く買えるショップで、これを見つけました。


撮影でモデルさんが30分着用しただけでも中古になるのですが、これは新品です。


そして、到着して勿論サイズがぴったりだったのですが、驚いたのは
中がつま先まで全部毛皮張りだったということ。





うさぎさんですね・・・(T_T)

この、ファッションのために動物虐待云々についてはまあ、色々と賛同する部分もあります。
しかしネットで見たときはここまでとは思っていなかったんです。
(買う前にちゃんと説明を読め、という声もおありでしょうが)

すごく暖かくてお役立ちのカシミヤににコヨーテの毛が付いたショールを買ったとき
TОが
「いいの?こんな動物虐待アイテム」
「んー、・・・・コヨーテだし」
「コヨーテだから何」
「いや・・・コヨーテ悪い奴だし」
悪い奴なら毛皮にしてもいいんかい!

という会話をして、TОを論破しました?が、このブーツはかわいいうさぎ(数匹分?)
し、知らなかったんだああっ。

そういえば昔、宜保愛子というおばさんがいてだな。
そのおばさんが何かに祟られている人に向かって言うには
「今使っている羽毛布団の羽を取られたガチョウに賢いガチョウが一羽混じっていてそいつが祟り云々」

って、それは、

最近指が訳も無く痛むんだがそれは手袋にされた賢い牛の祟りで

とか

最近豚かつを食べたら気分が悪くなったがそれは油が古いからではなく豚かつにされた賢い豚の祟りで

とか、いくらでもバリエーションできそうなんですけど。

もしかしたら冒頭の
「足が切り裂かれるように痛かった靴」に使われた牛は、もしかしたら賢い牛で、
あれは祟られていたせいだったのか?



よく、毛皮にペンキかけたり、ヌードの写真を撮って
「見栄のために動物を殺さないで」
って言ったりする団体や女優がいるじゃないですか。

いやわかるよ。
わたしも、可愛いごまアザラシを毛皮のために叩き殺している捕獲業者なんか叩き殺してもいいって
(ん?これはたしかシーシェパードの理屈)
それを見ているときは心から思いますよ。

しかし、それを言うなら、羽毛布団は?
とんかつは?
手袋だって靴だって、無くても人間は死なない。
毛皮を買うなという人たちって、牛革の靴は、バッグは持たないんですか?
杉本○さんはエルメスのバッグ持ってないんですか?
ひれだけ切られて放棄されるフカのヒレとか、ガチョウを太らせて脂肪肝にしたフォアグラとか、
食べたことないんですか?

どれもこれも生命維持のために必要不可欠なものじゃないですよね。


クジラを殺すなといいつつステーキを喰う人たちに通じる矛盾を感じるのはエリス中尉だけですか?


所詮人間なんて他の命に生かされている業の深いもの、その大いなる矛盾に異を唱え始めたらそれは自分が生きていることそのものを否定しなければいけなくなるのではないですか?


別にうさぎちゃん(外側は牛さん)のブーツを買ってしまったこと自体を正当化するつもりはありませんが、
せめて大いに愛用し、飽きたらリサイクルに回して捨ててもらった命を最大活用しましょう、くらいしか言えないなあ。

それから、せいぜい賢いうさぎが混じっていないことを祈るか。


取ってつけたようにファッションタグらしいことを書きますと、
このブーツ、ニーハイで伸ばして履くと膝が隠れるんです。
スカートやパンツの形状によって長さを調節できるというわけ。
これは実に使えそうなデザインですね。


今日はこの冬一番の寒さでしたが、うさぎさんのおかげで足先まで寒風の中でもポカポカでした。
こうなったら履きまくってうさぎには成仏してもらおうっと。














艦爆気質、艦攻気質

2011-01-07 | 海軍

1944年の映画「雷撃隊出動」を観ました。
戦中の制作であることから、東京上空三〇秒のような和製国威発揚映画だったら辛いなあ、
と危惧しつつ観たのですが、いい方に想像は外れ。

またこの映画について書きたいのですが、とにかく大興奮。
内容もさることながら、この映画には航空機は

艦上攻撃機天山
九七式艦上攻撃機
一式陸上攻撃機
零式艦上戦闘機
九七式飛行艇

艦船は
空母瑞鶴
空母鳳翔
 

という実機が使われ、鳳翔は艦内のロケまで行われているのです。

まさにこれを知らない航空ファンはモグリ、と言っていいほどの垂涎の名画。
もちろんエリス中尉は知りませんでしたがね。

ところで、この映画を、かの艦攻隊長肥田真幸大尉はご覧になったのでしょうか。
DVDの発売が最近のことらしいので、もしかしてビデオではなくこの鮮明な画像で
実機をあらためてご覧になればさぞ驚かれるのでは、

と全く存じ上げないのに思ってしまいました。
肥田大尉、2010年年末現在もご健在でおられるようです。


この映画について「連合艦隊」「大空のサムライ」の脚本を書いた須崎勝彌氏がコメントをしています。
当時一度だけ上映されたものを観た須崎氏は
「ずいぶんおとなしい映画だなと思った」
と語っています。

出てくる士官たちが紳士に見えた、というのですが、この映画の主人公は「艦攻乗り」。

航空予備士官として海軍に籍を置いたことのある須崎氏は、
航空では練習課程を終えて戦闘機か、雷撃か、といった機種を選ぶのだが、
明らかにその選択は彼らの傾向を表わしていた、というのです。
例えばですが「荒くれ者は艦爆」という通説があったとか。

ここで専門の音楽についてですが、エリス中尉の知る限り、音楽でも楽器によって性格の傾向があります。
一例をご紹介すると、

管楽器は弦楽器より体育会系であるが、その中でも
フルートは繊細、オーボエは神経質で唯我独尊、
クラリネットは協調性があってトランペットは武士のような人間が多い。
そしてチューバ吹きは何も考えていない<(_ _)>
弦楽器も大きくなるほど人格が鷹揚になる、という。

人が楽器を選ぶのか、楽器が人を作るのかはわかりませんが、
なんと飛行機の種別によって「気質」があると言うではないですか。

今日はこれを検証してみることにしました。

さて、初心者とエリス中尉自身のためにおさらいですが、飛行機の種類は次のように大別されます。

陸攻、陸上攻撃機
陸上基地より飛び立ち爆撃や雷撃を行うもの。一式陸上攻撃機、九六式陸攻、深山など
艦攻、艦上攻撃機
航空母艦に搭載して運用する攻撃機。天山艦攻、九六式艦攻、九七式艦攻など
艦爆、艦上爆撃機九九式艦爆、彗星など


九七式艦攻、零戦、九九式艦爆は、日華事変末期から空母部隊の花形トリオとして
太平洋戦争の緒戦で活躍しました。



攻撃法も、機種により変わってきます。
以下、図解で示します。

天山艦攻が行う水平爆撃
高高度から目標の上空に侵入し、爆弾を投下する。


航空魚雷攻撃
日本海軍では、急降下爆撃の能力をもたない代わりに大型爆弾または魚雷を搭載可能で、
長距離の作戦が可能な(3座の)爆撃機を艦上攻撃機と呼称しました。
目標から三千メートル付近まで緩やかな角度を取り全速で接近します。
そして、距離千メートル、高度50から200メートルほどのところで魚雷を発射。


上空より目標に向かって急角度で降下接近し、叩きつけるように爆弾を投下してから急上昇し避退。
   

いかがでしょうか。
急降下で叩きつけるように爆弾を投下する艦爆乗りが「荒くれ者集団」で、
対象に接近しつつ投下地点を計算し見極める艦攻乗りが「紳士的」
というのは、いかにもその攻撃方法が作り出した性質ではないかと思われるのですが。

須崎氏は、実際に監督の山本嘉二郎が航空士官、艦攻乗りに会って紳士的な若者が多い
と思った結果のこの描き方ではないか、と想像するそうです。


この映画の主役は「雷撃の神様、三カミ」とあだ名される「村上、三上、川上」の三人の艦攻乗り。
兵学校のクラスメートです。

三人いるとそのキャラクターは名作「三匹の侍」に例えると

少しニヒルな男前「桔梗」(平幹二郎)=川上
西郷さんタイプの熱血漢「桜」(長門勇)=村上
呑気なようで剛直なリーダー格「芝」(丹波哲郎)=三上

ということになるのですが、はっきりしたキャラ立ちはなされておらず、三人とも穏やかでそこそこ陽気、
しかし、戦闘に及んでは淡々と任務を全うする、というむしろ現実的な描かれ方をされています。


この艦攻乗りがどうやら紳士であったということなのですが、荒くれ者の艦爆。
例を挙げようと思いましたが、戦闘機一本やりのエリス中尉、艦爆乗りといえば作家の豊田穣氏、
そして、艦攻乗りといえば前述の肥田大尉しかサンプルを知りません。

しかし、この豊田穣氏といえば、兵学校では「土方クラス」の名付け親であり牽引者。
柔道で鍛えた体躯をフルに生かして下級生を殴りまくったと述懐しています。
のみならず戦後も、井上大将の自宅に押しかけ酔っぱらって唄う、踊る。
鴛渕孝大尉の妹君にはインタビューに訪れて
「あんなに酔っていてよく取材ができるものだと思いました」などと言われてしまう始末。
荒くれ者の片鱗ありありです。


そして、肥田大尉は、闘志あふれる指揮官でありながら、隊員の心的ケアにまで気配りをし、
さらには天山の輸送には「敵を見たら自爆してしまうから」加わらない、という自己判断の冷静さ。
やはりこの艦攻乗りは紳士的と評してよいかと思います。



須崎氏は述べていませんが、それでは戦闘機乗りは?
よくあちこちで見る評価は

「あたりを払うような迫力がある」

この、まさに一対一で真剣を構え対峙する侍のような気迫を持つ人物が多かったようです。
それは西沢廣義や岩本徹三、といった有名な人物に限ったことはなく、
一機で空の真剣勝負に臨む搭乗員はなぜかどんなに風体は荒んでいても、
澄み切った眼をした不思議な空気を漂わせていたと言います。

そして、いつも陽気さを忘れなかったと。






靖國神社に初詣

2011-01-06 | つれづれなるままに
皆さん、初詣は行かれましたか?
我が家は基本的にホテルで寝正月だったのですが、唯一の食事以外のイベントとして靖国神社の初詣をしました。
都内で最も人が殺到するのは明治神宮。
こちらは例年ディズニーどころではない人出なので「時間と気力があれば」。
そう思って結局は時間も気力もなくなり行くことができませんでした。
あくまでも靖國優先です。


さて、この参拝のために、エリス中尉頑張って着物を着ました。
日本人として母国の伝統を守るため民族衣装である着物を着よう、
と決心し何かのイベントにはできるだけ着物を着るように心がけているのはおととしから。

こだわりぬいて選んだ着物は「貝紫」という非常に希少な貝の抽出液からとった染料を使った「高貴な紫」のもの。
この染料を取るための貝がいまや絶滅に瀕していて、一部分を染めたものでも非常に珍しいとされています。

このクレオパトラの船の帆やイエスキリストのローブを染めたという染料の薀蓄はまた別の日に譲るとして、そのこだわりの紫に意匠は日本の国花、菊をあしらった着物、そして帯は青海波文様。
 

熱烈なネイビー・エス(海軍好きの芸者)が選びそうな意匠かもしれません。
靖國に詣でるにはこれ以上ないというくらいの国粋的な装いとなりました。
紫はここの宮司の袴の色でもあります。


しかし、この気概はともかく、着物を着るというのは実に大変な修行でもあります。
「日本人として着物を着たい」
位の気持ちがあっても気軽に着るわけにはいかないのがこの世界の怖いところ。
この日、ホテルに午前中ヘアメイク、着付けの方に来ていただき、2時間半かけて支度が整ったときにはすでに
ぐったりと青息吐息。
自分一人では何一つできないのが付け焼刃の着物歴を物語っています。

着付けの方は銀座の有名ママ(本など書いて講演会などするというような)の着付けを毎日やっているそうです。
少しそういう方々の話も聞きましたが、いくらそれが仕事とはいえ、毎日、それもガチンコに固め結いあげた髪にこの拘束衣で装い、さらににこやかに接客をするなんて、そのプロ根性には頭が下がります。
美しいだけではほんと、できない仕事です。

とはいえ、このような装いをすると、気分が高揚し、日本人でよかった、と実感するのも事実。
所作も自然とたおやかに上品に、と(できるだけ)心がけます。



さて、そんなこんなでようやく支度が整い靖國神社へ。
8月15日の物凄い参拝客の数を知っていると、むしろ森閑としているという気もしますが、それでも帰りは人波に逆らって歩くことができないくらいでした。
境内では国立追悼施設の建設に反対する
「英霊に答える会」の人々が署名運動をしていました。
前にしたことがあるのですがもう一度してもいい、ということでTОに無理やり署名させ、わたしもしました。

朝日新聞が始めた中国、韓国への「御注進報道」のおかげですっかり靖國参拝が政治カードにされてしまっている現実、
そしてそれに柳腰の配慮をするあまり「靖國」から逃げようとする政治家。
この運動をしている人々の言う「英霊の声」とは、当然のことながら
「靖國で会おう」
と言って死んでいった方々の声のことです。

「死んでいった家族が靖國に勝手に祀られたので精神的な苦痛を感じた」
という理由で靖國神社を訴えた遺族もいたというニュースが先日ありましたが、
さて、遺族ならそういうふうに解釈する権利があるということなのでしょうか。
どう考えても、死んでいったものの気持ちをここまで忖度する権利が遺族といえどあるのだろうか?
と思わずにはいられないのですが・・・・。

裁判は原告側の敗訴に終わったようですが。
 

8月15日のように後ろから順番に並んで神殿前に設けてある巨大なお賽銭入れにお賽銭を入れ右に退場。
この日は昇殿参拝もできそうで、TОは
「申し込む?」
と聞いてくれたのですが、お経と違い比較的早く済む神式のお祈りとはいえ、
この着物と帯で正座は無理。
しまった、敬意を表したつもりがこういう落とし穴が。


この後遊就館に立ち寄ったら、特別企画でなんと本物の刀匠が実演をしているコーナーが。

鎧を着せてくれる体験コーナーもありました。
そして、太刀(柄無し)を持たせてくれるコーナーで、そのあまりの重さに驚愕。


いや、先日陸戦で有名な中村虎彦大尉のことを調べたのですが、なんでも背中には菊一文字という大刀を背負い、腰には軍刀を指して泥のなかに這いつくばり、そして、突撃のときはその菊一文字を振りかざしながら走ったというんですね。

嘘だ・・・・。

それができたのは戦闘中のアドレナリン吹き出しまくりの状態だったから、
としか説明できないような異常な重さを実感しましたよ。
勿論ある程度の重さがないと何も切れないのでしょうが。
ふと宮本武蔵は二刀流だったというけど途轍もない腕力があったのだなあと感心しました。



この後露店で息子が射的をしたり、甘酒をいただいたり。
寒くなってきたのでホテルに帰ってきて和服だからと近くの和食、
「桜川」でお食事にしました。
花板さんが関西出身で、ミシュランガイドに載ったこともあるというこのお店は当然味も関西風。
ディズニーと違いお雑煮の汁は関西風のお澄まし。

もうそれこそ着物の帯がひと皿ごとに食い込むころになっても次々とお菜が出てきます。
もったいないと言われそうですが、こんなフグの薄造りも全部いただけませんでした。

フグというと眼の色を変える向きもございましょうが、わたし特に思い入れはないんですよね。
ヘルシーな白身、くらいの認識なので・・・。
うちはお酒を飲まない家庭だったし、初めて食べたのも大人になってからだったという理由もありましょうが。

かわいい鯛の入れ物に入って出てきたのはお赤飯でした。
ここは器も非常に凝ったものを出してくれ、目でも楽しみます。
息子のお刺身は「屋形船」に乗ってきました。

そして別腹デザート。
コースがあまりに長々と続くので、退屈しのぎにこのとき
「海軍組織におけるヨーソロの意味とその定義」
についてTОに講義してあげていたのですが、二種類のデザートを一つづつ選んで
わらび餅(右)和菓子(左)が出てきたとき。

「あ、僕わらび餅ヨーソロ。和菓子は取り舵で」

って全然使い方間違ってるし。


さて、部屋に帰って帯をとき、何本もの紐やら布やらを一つ一つ外していくとき
その徐々に訪れる解放感にたまらない至福を感じました。


着物って、着たとき以上に脱ぐときが幸せなのです。








特別善行章

2011-01-05 | 海軍


「じゃくる」の日に、下士官兵の階級に付いてお話ししましたが、よく言われるように、海軍の階級は複雑です。
途中で制度が改正されたことなども理由のひとつです。

そしてそのとき話題になった善行章ですが、これも本数が多ければいいというものではなく、それにともなった階級が無いとかえって馬鹿にされたり、怪しまれたり、階級社会中の階級社会、軍隊の中は本当に色々あるようです。

階級差は絶対なのに、善行章の本数もまたその「箔」にものをいうわけで、誰が偉いのか、非常にコトガラを難しくしてしまう例もありました。

ある陸攻の機長は若い上等飛行兵曹でした。
若いので善行章は一本です。
ところが搭乗員は全員が年次の古い下士官や、善行章二本の一等整兵など。
つまり「階級は上でも若造かよ~」みたいな、そう、いきなり兵曹長になって七人のさむらいの隊長を任されてしまった滝城太郎のような(わかるかな?)状態ですね。

うわべはへいへいと言うことを聞いていても、何となく古参兵がなめてかかる様子、それを敏感に感じる若い隊長の苛立ちが、全体のチームワークを著しく損なったそうです。

階級が絶対であるはずなのに、やはり善行章、つまり海軍の釜の飯を何年食ったか、と言うあたりが統率するのにものを言ったのです。


あまりにこのような問題が紛争を巻き起こし、あるいは表になり裏になって不協和の種となったためでしょう、ついに帝国海軍は昭和二十年四月をもって普通善行章の軍服への付着を廃止しました。


・・・・・あれ?


大和特攻って・・・・・いつでした?
出港は四月五日ですよね?

最後の上陸のとき、下士官全員善行章をつけていますよ。
これは・・・・実際はどうだったのでしょうか。
およそ日本のお上が絡んだ物事は、すべからく四角四面に「一日より施行」されます。
つまり、最後の上陸のときにはもう「善行章廃止」になっていたはず。

全員が「これが最後」と覚悟をしていた大和への乗組みに際し、誇りでもあった善行章をあえて掟に逆らって付けていたのでしょうか。

エリス中尉、いまだに大和に関しては一般常識プラスあの映画くらいの知識しか持ち合わせていないので、そのへんについて疑問の晴らしようがないのですが、謎ですね~。
単に映画の考証者がそれを知らなかっただけ?


さて、ここでやっと冒頭四コマ漫画です。
少し劇画調で始めてみました。

左側のいかつい上等水兵、顔はいかついですがまだ善行章なしです。
半舷上陸で軍港の街を歩いていたら向こうからジョンベラがやってきました。

「む、善一(善行章一本)だな。兵長らしい」

このように判断したかれは、挙手注目の敬礼をしました。

「男たちの大和」を観ていてなるほど、と思ったのですが、ジョンベラが一斉にパッと敬礼する、それを受ける士官たちの敬礼はジョンベラの三倍くらいのスピードです。
答礼はあくまでも威厳を以てゆっくりと。
こういう様式美があるわけですが、

なんと、兵長と思ったジョンベラ、同時にぴしっと敬礼を返してきました。

「あれ?」

右腕をもう一度よく見ると、彼が善行章だと思っていたのは山形のてっぺんに桜のマーク、
つまり特別善行章だったのでした。
階級は上等水兵、おまけに彼は一期下だったそうです。

この特善、善行章が廃止されてもこちらは廃止されず終戦までそのままだったそうです。


それでは特別善行について、もう一度お話ししましょう。


勇敢な行為によって特別の手柄を立てた
奇特な行為をした

このような、今ならさしずめ警察から表彰されるような「善行」をした場合、これがもらえました。

たとえば
「日華事変のとき、揚子江に不時着した僚友を助けるため、敵前にもかかわらず強行着水して無事救出した」
「戦艦の見張りで当直交代後も艦橋に残り、敵潜水艦から発射された魚雷をいち早く発見して回避を成功させた」

という、軍ならではの善行もあれば

「田舎に帰郷していたときに川で溺れている子供を飛び込んで助けた」
「泥棒をつかまえた」

などという、一般的な善行で貰うこともありました。

それでは。
「男たちの大和」で主計兵曹である森脇一主曹はどんな「善行」をしたのでしょうか。
およそ戦争映画の主演格に主計兵曹が扱われた、という例はほかになかったのでは、とおもわれるのですが、この辺りがこの映画のリアリティだと評価する部分です。
主計兵の戦いについてはまた別の日にお話ししたいと思います。

因みに大和の花形職場といえば主砲に携わる部門。勿論決して主計科ではありえないのですがそんな地味なこの職場でも善行賞をもらってしまった優秀な森脇兵曹の善行とは?


「夏場の傷んだ食材をいち早く匂いで見わけ、大和全員を食中毒から救った」

・・・・・・・とか?


ところでさきほどのいかつい上等兵曹ですが、階級は同じ、年齢は下の
「じゃく」に間違えてつい敬礼してしまったわけです。
現代の私たちには
「下のモン」に敬礼してしまった当時の兵隊の悔しさというのはおそらく想像もつかないものに違いありません。


かれはそれこそいまいましくてたまりませんでしたが
「なに、特善に敬意を表したのさ」
と自分を慰めたそうです。








我が家の年末年始の過ごし方

2011-01-04 | つれづれなるままに

我が家のお正月は昨年末に始まっておりました。
28日の夜、息子のチューター(家庭教師)から帰ってきて、
さあ、明日から都内ホテル行脚だのう、とパッキングの途中、
あれは夜11時過ぎでしたか、TОから電話が。

「なんでチェックインしてないの」

ええっ!確か明日からじゃあ・・・。
「今日フォーシーズンズなんだけど」

しまったああああっ。

海軍軍人であれば出港する時間を勘違いしてフネに乗り損ねるようなもの。
以前調べた懲罰報告書から判断すると、おそらくこのたびは30日謹慎の罰則です。

息子をすぐさま叩きおこし、「わーいナイトドライブ~」とはしゃぐ息子を乗せて都内のホテルに着いたのは12時。
なんと、この日の部屋はアップグレードで(勿論ホテルの御好意です)スィートルームだったというのに・・・
 

チェックインできるのが3時からですから、9時間もロスしたわけです。
日頃鷹揚な息子が
「ママー、これ、チョーもったいなくない?」
と非難のまなざし。

「いや、今日からお出かけと知ってたとしてもチューターは決して休ませません!
よしんば天が許したとしてもママが許しません。
だから一緒です」

「えー、教室の後すぐ行けば7時半にはチェックインできたのにぃ」
「・・・・・」
 
部屋に到着して真っ先にお出迎えしてくれたのは変なオブジェ(冒頭画像)
とホテル心づくしのウェルカムクッキー。



明けて次の日、何とこの部屋からは東京駅の新幹線発着が真下に見えることが判明。
全路線の新幹線くんが鼻面を揃えた瞬間です。
当然なのですが、全ての新幹線はこのホームに入り、同じ位置から出発していきます。
年末年始を故郷で迎える人でホームがいっぱいなのが見えました。

そして、12時にチェックアウト。
相変わらず駆け込みで仕事やら会食やらで忙しいTОと別れ、息子と二人でパッキングしにいったん自宅に戻りました。
昨夜着のみ着のままで飛び出したため、着替えを取りにいって出直し。

そして、次の停泊地、マンダリンオリエンタルに到着。 
ここは、我が家が都内で最もホスピタリティ、ハード含めて評価しているベストスリー
(マンダリン、フォーシーズンズ丸の内、丸の内ホテル)の一角。
評価の大きな理由は「気」が良いということ。

霊感ではありませんが、不穏当な「気」には非常に敏感なわたしは少しでもいやーな気配がある場所にいると
「次第に気分が悪くなる」のです。
昔、サイパンのバンザイクリフではいきなり強烈な頭痛に襲われました。
また、ホテルではありませんが、銀座にある某玩具屋は気配が悪く立ち入ると頭が痛くなるので
「絶対ここ昔ヤヴァイことがあった」と思ってます。

さて、ここは「マンダリン」なので、ウェルカムお菓子も中華風。
現在フリーチャイナを心がけている我が家ですがここは香港系なのでOKとしています。

ところで、ここは近隣の「気」もいいのです。
この一角には三越本店や日銀があり、窓の下にはその日銀の建物が見えるのですが、皆さんご存知でしたか?
日銀の建物を上から見るとなんと

漢字の「円」の形をしている!

ということを。
この建物が立った当時、周りに高いビルは全く無かったんですよね?
一体鳥以外にだれがこの漢字に気づくというのでしょう!
鳥漢字読めないし。
それにもかかわらずこのような仕掛けを作る当時の日銀って。



今回のプランには毎朝食と何度か夕食が付いています。
そこで、美味しいイタリアンのバッフェ(チーズボウルでシーザーサラダを作ってくれる)をいただいたり
もしましたが、食べるばかりではなく、ここぞとエクササイズにも励みました。
ここ、ジムがすごくいいんですよ。
顔なじみのトレーナーに「最近来なかったですね」って言われてしまいましたが。

そして、此処から物凄く良く見えるのが今話題のスカイツリー。
これ、TОの知り合いの方が建設に携わる会社の社長なんですって。
伝わるかどうかわかりませんが、畏れながら伝言を頼んであります。
「デザインがイマイチでないかい?」って。

そう思いませんか?
東京タワーが(エッフェル塔のマネなので当然という説もありますが)完璧すぎるのでしょうか。




そして、この後、またしても家に着替えを取りに帰りました。
ホテルに泊まるのに毎日のように自宅に帰る。
まるで出勤しているかのようです。
そしてこの後、先日お伝えしたようにディズニーシーへと向かったわけです。

年明けはもう一度フォーシーズンズ、マンダリンとローテーションの予定。
ホテルから初詣に行ったり、いつもはしない大画面での映画三昧、
息子はミスバスターズ(怪しい伝説)スペシャルを楽しみにしています。


お正月にはゆったりといい「気」の場所に身を置いて一年のよきスタートを切ります。
皆さまも幸先の良いお正月をお過ごしください。











映画「連合艦隊」十の泣き所

2011-01-03 | 映画

1981年に公開され、大ヒットしました。
松林宗恵監督、東宝映画。
今日は、この映画についてです。

これが戦争映画にもかかわらずヒットした原因の一つに、
単なる戦史描写に架空の家族の人間模様を絡ませ、
一般の共感を多く得たことがあるそうです。
つまり同じ連合艦隊を描いても「トラ!トラ!トラ!」と違い
「さあ泣け」と言わんばかりの「泣き所」が多いのが特徴。

 などと言うひねくれもののエリス中尉、
さぞどんな映画を観ても鼻であしらって観ているのか?
と思われたあなた。

もちろん泣きます。



この映画は戦時下の二つの家庭の物語が、史実に絡んで展開します。

小田切家の父、武市は海軍に奉職して一八年。
今は予備役で、大工の仕事をしています。
「洗濯板」と言われる善行章五本の叩き上げでありながら、
兵学校を出ていないため準士官どまりの武市は
一人息子の正人が兵学校に受かったので有頂天。

画像は、この映画がデビュー作となった中井喜一演ずる小田切正人が
兵学校を恩賜の短剣で卒業し、帰郷して下士官である父親武市(財津一郎)
に敬礼するシーンです。

「お前から先下ろさんかい。
おんなじ金筋一本でも、兵曹長よりは候補生の方が位は上じゃけんのう」

「でも・・・」

「わしゃどんだけ我が子に向かって敬礼する日の来るのを待っちょったか」

武市は、兵学校出の息子がとんとん拍子に出世して、
自分の無念を晴らしてくれると信じて疑いません。
しかし、正人は特攻隊を志願し、武市は愕然とします。

「わしは何ちゅうあほな親じゃ。
下士官上がりのひがみ根性がせがれの命を縮めてしもうた。」


実際、特攻に志願することをこのように家族に伝えることはできなかったはずです。
家族は、本人がもうとっくにこの世にいなくなってから
戦死の事実を公報によって知り、遺書を目にして初めて息子が、夫が、
そして兄弟が特攻に行ったことを知ったのです。


監督の松林宗恵も脚本家の須崎勝弥も旧海軍の予備士官出身ですから、
当然こういうことも知っていたはずです。
ですから、仏壇に隠してあった息子の遺髪を見つけ、
問いただしてそれを知る、という形を取っています。

父の乗る沈みゆく大和に向かってその午後には特攻に出撃する息子が

「お父さん 親よりもほんの少しだけ長く生きていることがせめてもの親孝行です」


と敬礼する。

(泣き所1)


そして、もう一つの「戦下の家族」、奈良の博物館館長が家長(森繁久弥)である本郷家。
長兄の海軍大尉英一は瑞鶴の艦爆隊長。

この瑞鶴上でもドラマがあります。

瑞鶴整備士長(長門裕之)のところにやってくる三人の幼い搭乗員。

「班長、私たちは未だ母艦から飛んだことはありません」


中鉢という搭乗員が言います。

「でも、発艦だけはうまくやるつもりです」

「あたりまえだ!ブーン、ボチャン、じゃこっちがたまらん」

「私たちは、発艦することはできても着艦することはできません!
ですから、出撃したらもう二度と帰ってきません。
敵艦に体当たりします」



「何?」

「折角整備してくださった大事なゼロ戦を壊してしまいますけど、許して下さい」

「貴様ら、わざわざそれを言いに来たのか」



(泣き所2)


この中鉢二飛曹という岩手の予科練出の搭乗員の名前は、
松林監督の海軍時代に実際の部下だった中鉢一等水兵という
実在の戦傷死した少年兵の名に由来しているそうです。


この映画は、当時の豪華キャストを惜しげもなく使ってオールスター総出演の感があります。


山本五十六  小林桂樹

宇垣纏     高橋幸治


南雲忠一    金子信雄


草鹿龍之介  三橋達也


永野修身   小沢栄太郎


及川古志郎   藤田進


福留繁     藤岡琢也


富岡定俊    橋本功


黒島亀人    南道郎


源田実     斎藤真


小沢治三郎   丹波哲郎


貝塚武男    神山繁



豊田副武    田崎潤


神重徳     佐藤慶



伊藤整一   鶴田浩二


有賀幸作   中谷一郎


特に山本司令がはまっていないですか?
似ているかどうかはともかく、丹波哲郎の小沢治三郎がいいです。

「瑞鶴、沈みます!」

操舵席にロープで身体を縛り、航海長と煙草を回し飲みする貝塚艦長(神山繁)。
敬礼で見送る小沢司令。

エリス中尉は残念ながら、このような瞬間に弱い。

(泣き所3)


本郷英一が敵艦に突入する瞬間、婚約者の白無垢姿がフラッシュバックする、
といういかにも泣き所なシーンには、その意図が邪魔をして素直に泣けません。

(それにもかかわらず泣いたので泣き所4

この、死を覚悟した兄が、自分の婚約者を弟に託す、というのは、
当時の結婚が家同士のものであったということを考えると理解できます。
この話は実在の瑞鶴飛行隊長の遺書からとられているのだそうです。

しかし、兄の意を受けいったんはプロポーズした弟眞二が、
大和乗組みが決まったため、死を覚悟して破談にして欲しいと言うと

「あたしって一体何やの?
男の人たちが自分の都合でどうにでもできるお人形やの?」

と迫って、その日のうちに結婚してしまいます。

大空のサムライのときにも思いましたが、
この脚本家の女性の描き方って、なんか不思議。
会話や女性の台詞に、こう言っては何ですが独特の女性観を持っている様子が覗えます。


(中尉になった英一に)

「出世が速すぎる」

「いけないかい」

「そうかて、あたし・・・」

「じゃ婚約取り消そうか」

「いけず!」


・・・どなたか、この会話の意味がわかる方、解説をお願いします。


しかし、この婚約者(小手川裕子)が、兄を愛しているという気持ちを持ちつつも、
血のつながった弟と結ばれることを選ぶ、という決心は十分理解できます。
 最後に、この弟(大和で戦死)の遺して行った男の子が
おじいちゃんと浜辺で遊ぶシーンで、この弟の

「僕は必ず生きて帰ってくる」


という約束がこういう形で果たされたのだと知るわけです。

ええ、泣きましたともさ。
浜辺で「結婚しよう」というシーンでね。

(泣き所5)



さて、大和沈没の際、有賀(あるが)艦長は、
この映画で最後まで紺色の第一種軍装を着用しています。
史実では艦長の最後の姿は第三種軍装であったそうなのですが、
監督はあえて「死に装束」としての第一種軍装を着せたのだということです。
艦を北に向けて羅針儀に抱きつき艦とともに沈む艦長。

(泣き所6)



草鹿中将と宇垣中将が最後、

「あなたとはずいぶんやりあってきましたが、
もはやお互いフネでも飛行機でもなくなりましたな」

「連合艦隊を崩壊の危機に追い込んだ責任だけが残ったということだ」


こう言いあうのですが、このとき見つめ合う名優(三橋達也、高橋浩二)の眼の演技が・・・
泣かせます。

(泣き所7)

このクラスに演技力が求められるのは当然ですが、仮面ライダーシリーズのように、
若い軍人の演技は一応の定型を踏まえていれば様になってしまうようです。

とくに金田賢一とデビュー作の中井喜一の演技は、なかなかの「棒」なのですが、
軍服を着て様になっているので、軍隊調のしゃべり方でなんとかなっています。
後年の大化けからは想像もつかないのですが、
中井喜一はこの頃、つまりデビューのときは発声すら全くできていません。
しかし、大和に向かって敬礼する表情は素晴らしい。


そして「さらばラバウル」で男前だった平田昭彦が、
瑞鶴飛行隊長の役で出ているんですが、あの映画から早26年経過したお姿が(T_T)

笹井中尉の役は、27歳当時の平田昭彦に限るってことで、超個人的な別の意味での
泣き所8
(何度もくどいって?すみません)


どの俳優も軍服が見事に似合っています。
独断と偏見ですが、みんな実力?より二割増しの男前に見えます。
これは単にエリス中尉が海軍好き故の感想でしょうか。

特に鶴田浩二の軍服姿。


それもそのはず。

鶴田浩二は整備課予備士官で、特攻を見送る立場でした。
葬儀の際には多くの戦友や元特攻隊員が駆けつけ、
その亡骸に第二種軍装を着せた上、棺を旭日旗で包み、
戦友たちの歌う軍歌と葬送ラッパの流れる中を送られていったということです。



この映画の鶴田浩二の凛々しい二種軍装姿に、その逸話を重ね合わせて・・・また涙。
(泣き所9)

そして名曲「群青」の一節、「せめて海に散れ」という言葉の響き・・・・・。
(泣き所10)




ディズニーシーの初日の出

2011-01-02 | つれづれなるままに


去年のモルジブ、おととしのバリと例年ビーチリゾートで新年を迎えてきた我が家です。
今年はなんと、ディズニーシーで過ごすことになってしまいました。

「なってしまった」などという消極的な態度は許されないくらい、このカウントダウンをディズニーで過ごすことはディズニー好きにとって難しいことなのだそうです。
誰が言い出すとも無く?カウントダウンをディズニーシーで、というプランがわたしを除いた家族全員の間で囁かれたのは去年早々。
例によって全ての手続きをいつも旅行を手配するカード会社のデスクに丸投げしたのですが、なんでもチケット発売20分後には一般枠は売り切れ。
旅行会社の持っているホテル宿泊券とセットの券を取るのもずいぶん大変らしい。

しかしながら、この件の経過報告があり、もう抽選しかない、と聞いたとき
「どうか取れませんように」
と祈った罰あたりものがいました。

だってー、そうじゃないですか。
子供がいなけりゃ一生に一度二度行けば十分なディズニーで、一年でよりにもよって一番寒い夜にたかが着ぐるみのかけ声でカウントダウンするのに人ごみの修羅場をくぐらなければいけないなんて、いったい何の罰ゲーム?


しかし、こんな罰あたりものに罰があたりました。
特別入園料金1万5千円のチケット×3と特別宿泊料金素泊まり6万円のミラコスタの一泊が取れてしまったのです。

我が家は28日から都内のホテル生活をしており、31日だけディズニーに来ることになったのですが、当日もやる気がないので6時頃にようやくチェックイン。
しかし、後から知ったのですがこれが大正解でした。
ホテルにどんな早く来ても、夜7時半までパークには入れない日だったのです。

見よ驚くなかれ、ホテルロビーにあふれる難民の群れ。
この日、ディズニーシーは6時になるとそれまでの客を全部追い出します。
そして、その後カウントダウンを含めオールナイトで営業するため、入れ替えをするのです。
これは、夜7時半に入園する順番を整理券をもらって保温シートをもち並ぶ人々。
なんと、朝6時にホテルでは整理券の抽せんが行われたそうです。

何のために?

それは、ひとえに11時半から行われるカウントダウンショー。
地べたに座って皆3時間半ひたすら待つのです。

苦労ということを一切しようとしないキリギリスのような我々は当然夜10時前にゆったりと御入来し、さんざんアトラクションに乗って時間を潰してからショーを迎えたので、全く見る場所など見つけることもできません。
地べたのアリさんはショーを楽しんでいましたが、あぶれるとホテルの階段踊り場からこのありさま。そして、外ではあんなショーやらこんなショーやらが 

行われていたようです。

我々も一応人垣のまわりを歩きながら場所を探していたのですが、少しでも立ち止まるとナチスの看守のような自称キャストというディズニーの係員が
「ドゥーハルテストニヒト!」←いい加減
って、怒るんです。

ユダヤ人狩りといえば、6時に客の入れ替えをするときにトイレに隠れていて摘発をやり過ごし、カウントダウンに紛れこむ不埒ものはいないのか?とホテルの人に聞いてみました。

「聞いたことがありません」

とのこと。
ディズニーランドに来る人に悪人はいないってことでいいですか?
それともゲシュタポはトイレの個室も全部調べるのでしょうか?

さて、そんなこんなで新年を迎え、ホテルの廊下で振る舞われるスープとスパークリングワインで乾杯。
そして仮眠をとり朝方出かけた我々が見たものは・・・
そう、ご来光を見ようと待ち構える善男善女の群れ。

いやー、若かろうがなんだろうが、日本人のDNAに
「ご来光をありがたがる気持ち」
というのは刷り込まれているんですね。

2011年の初日の出@ディズニーシーメディテレーニアンハーバー。

さて、何の罰ゲームなんて言っていた割には、しっかり楽しんだ我が家のメンバーです。
そして意外なことには、食べ物がとっても美味しかった。
アメリカの本場ディズニーでは、なぜ世界のうちで日本のディズニーリゾートだけがぶっちぎりで成功しているのか?という研究が始まっているのだそうです。
日本人のキャラクター好きとか、アメリカのものに憧れた戦後の記憶とか、人文学的に研究すると面白そうなテーマですが、食べ物に対するこだわりもその一つではないでしょうか?
朝7時まで限定、400円のお雑煮。
エリス中尉の実家は関西風薄味おだしのお雑煮をいただきます。
真っ黒なダシなんて田舎者の食べるもの、そう思って今日まで来ましたが、この関東そば風ダシが、意外やお餅の淡白さと合っていて美味しゅうございました。
野菜たっぷり、サトイモまで入っていました。
食べませんでしたが、昨夜は年越し蕎麦も出していたようです。
このあたりがアメリカのディズニーではありえないサービス(笑)
数量限定で出していた和食レストランのおせち。
驚きました。
二の重まであり、これにもお雑煮がついて、鴨肉、栗きんとんや昆布巻き、なます。
数の子はさすがにありませんでしたが、こちらも美味しゅうございました。ディズニーランドお約束、ミッキーの形のニンジン。

そして、もうこの頃になると、徹夜組でかつ寝るホテルの無い人々が討ち死にし始めます。
  皆お疲れさま。

私たちはこの後もう一度ホテルでお昼まで寝ましたが、ずっと寝ないで一日の最終まで頑張るつわものもいるそうです。
チェックアウトしてからいちどだけパークに入りましたが、息子とTОによると
「もう道端や地べたで寝てる人までいた」
とのこと。
そういえば、学生の頃はそんな無茶な徹夜、ときどきしたっけ。若いって素晴らしい。

息子は
「今度はカウントダウンショーが見える部屋がいい」
とのこと。

大人になったらぜひ自分の力で実現してください。