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戦艦大和設計図を手に入れる

2010-12-18 | 海軍


タイタニック設計図の記事を見て、何人かの方に
「大和が来たらぜひアップを」
というメールをいただいていたのですが、やっとお約束を果たす日が来ました。


少し前に
「印刷は出来上がったが、額装に(タイタニックのときのことを考えても)半年かかる」
と言っていたのですが、その額装を今回はこちらですることにしたため予定より早くなったのです。


タイタニックよりさらに大きな2メートル半、100分の一の設計図が、2枚。
上が側面図、下が上面図です。

 


この図面について若干の説明があります。

図面来歴
本図を含め全ての図面は第一号艦基、
本設計より呉海軍I廠船設軍極秘19第215号~220号図並びに
戦艦大和資料によるもの200分の1~100分の1に基づき
×××氏長年の本艦実姿研明により作図された諸図面に氏の監修を加え、
それに各部名称その他を追記し永久保存用として作図の意により承諾を得て
原図作成に至ったものである
 


そして、この図面は昭和20年4月時点の復元であるとのこと。
それにしても、あまりにも大きすぎて俯瞰の写真が載せられません。
また別の日に主砲部分や、細かいところを接写したものを載せますが、
「どこの部分が観たい」
というリクエストがあればお寄せ下さい。

取りあえず、今日は艦橋部分です。

艦橋には昇降機(エレベーター)があり、士官はそれで登ったそうですが、
ここだけでざっと30メートルの高さ。
10階建てのビルが建っているようなものです。
この艦橋を、下士官、兵はラッタルを使って登るのですが、常に駆け足でないといけなかったのですから、
フネの上には運動不足などという言葉はありえなかったわけですね。
(メタボ世代の)将官以上こそ、健康のためにラッタルを上り下りしたほうが足腰にいいと思うのですが。
さて、それでは艦橋へどうぞ。




 あまりうまくつながっていませんが・・。

少し字が読みにくいので、興味のある方のために表示を書きうつしました。

方向探知機(一番てっぺん)から右に降りて行って

 二号一型(二十一号)電波探知機
主砲射撃塔
十八糎双眼望遠鏡
二号二型(二十二号)電波探信機
防空指揮所
第一艦橋
十三糎連装機銃
一・五米測距儀
九六式二十五糎機銃射撃指導装置
第二艦橋
司令塔(字が隠れていますが、第二艦橋の下の線の先です)

方向探知機から左に降りて行って

 方位測定儀
十五米測距儀
六十糎信号灯
空中線兼信号灯
風向き及び風速信号器
六十糎信号灯
速力信号標
九四式高角砲射撃指揮装置

となります。

第一艦橋は昼戦艦橋と言い、司令官や艦長が通常の指揮を取る部屋です。
ここにおいて指揮を執った艦長は全部で五人。
勿論旗艦の艦長ですから優秀なのは当たり前ですが、中でも名艦長と言われたのが
四代目艦長森下信衛

シブヤン海海戦のとき、森下艦長は防弾チョッキもつけずに、くわえ煙草で
第一艦橋ではなく防空指揮所で指揮を取り、同行の武蔵が二〇発の爆弾、魚雷を受けているのに
大和は砲塔に爆弾を一発受けただけだったそうです。
10時間にわたる長時間の戦闘でただ一発だけの被弾、というのは森下艦長の操艦の
異常な上手さを物語っています。
 さらに、この戦果を自分の手柄にせず、「対空機銃兵の腕が良かったから助かった」
としか言わなかったそうで、下からの人望も厚かったそうです。

もう一人、松田千秋という名艦長もいますが、五人の艦長の中で大型船艦の操縦に長けていたのは
この森下と松田二人だけであった、とされています。


最後の艦長有賀幸作は、戦艦の操艦は初めてで、沖縄特攻のときには意見の食い違いから
航海長や航海士と空襲中にもかかわらず大げんかをしていたという話も伝わっています。
しかし、結果沈んでしまったとはいえ、あれだけ大部隊の空襲に遭い、
およそ300機からの攻撃を受けながら命中弾はわずか10発であったというのは驚くではありませんか。



沖縄特攻に出撃する際、大和総員の最初に行ったのはなんと「演習」だったそうです。
この期に及んで演習から始めなければならなかったというのは、
普段から十分に演習する時間や、何より燃料がなかったため十分な訓練ができていなかったことと、
有賀艦長に代わってすぐの作戦であったためでした。


それでは最後に海軍旗と中将旗をどうぞ。

  



おまけ。
  






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4 Comments

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大和設計図について (fuyuki)
2013-09-24 01:43:44
浪漫があっていいですね~
自分も欲しいものです(笑)
こういうものってどのようにして入手しているのでしょうか?もしよろしければ教えていただけると嬉しいです。
返信する
この設計図の入手経緯 (エリス中尉)
2013-09-24 22:17:59
fuyukiさん初めまして。

この設計図ですが、図中に記載があり、この本文でも触れている
「××氏」という方から直接この設計図を手に入れた方が、
「二次コピーは決してしないこと」という約束の元にくださった
一次コピーになります。
わたしはそのあたり全く詳しくないのですが、タイタニックも大和も設計図は「コピー禁止」になっているようですね。
おそらく劣化したものが出回らないようにではないかと思います。
ですから、これはもう全くの「運」というか「縁」でしかありません。
くださった方も、わたしがこれを内緒でコピーして配ったり売ったり、
ということを決してしない、と信用してくださったうえでのご厚意なのだと思います。

お役にたつ返事ができず大変申し訳ありません.。
返信する
Unknown (ran)
2015-02-06 23:12:54
はじめまして

戦艦大和の設計図をお持ちの方がいらっしゃるんですね。
実は私の実母は見たことがあり分厚い本のようだったと言っていました。
祖父が呉海軍工廠にいて終戦時だったと思うけど何人かで米軍にみつからないようにと自宅に持ち帰った際に目にしたそうです。

士官だった身内が米兵に見つかったら家族全員殺されるから処分するようにと自宅を訪ねたらしくそれ以降はどうしたのか子どもだったし知らないそうです。

もしかしたら重要な物だからと家族に言わず屋根裏とかの自宅のどこかに隠していないか、家を解体する際に出てこないかとたまに話しています。

××氏という方はもう亡くなっていらっしゃらないでしょうがもしかしたら祖父の同僚かもと思いかなり前の記事ですがコメントさせていただきました。
返信する
ranさん (エリス中尉)
2015-02-07 22:56:54
初めまして。
お話によるとお祖父様は設計図を自宅に持ち帰られ、その後どこかで処分したかもしれないということですか。
どの部分だったのか大変気になりますね。

「××氏」は多分関係者であると思われるのですが、どういった関係者であったかまでは
残念ながら伺えませんでした。
もしかしたらおっしゃる通り呉海軍工廠におられた方の身内かもしれないとは思いますが・・。

しかし、敗戦の時に軍関係者は占領後の身の危険を回避するため、いろんな書類を
設計図も含めて焼いてしまったそうですが、
それで失われた貴重な歴史の記録も多かったようですね。
兵学校で卒業生の遺品などを三日三晩焼いた斗いう話を聞いたとき、思わず涙したものです。
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