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All About Emily~二式大艇物語2

2013-04-26 | 海軍

今日は二式大艇の内部写真をお送りします。




パネルを写真に撮ったので、光って見にくいですが・・。



乗降扉は前だけでなく後ろにもあったようです。
トイレにはなんと手洗いまでついています。
素晴らしい、

ところで、水上艇なのにトイレを、しかも排出式のトイレを
造ったりしている場合だったのだろうか。

というのは、二式大艇はそれでなくても水密性はあまりよくなく、
艇の底に溜まる水をしょっちゅう汲み出す必要があったからで、
海水につながる廃棄装置など作っている場合か、
という気がしないでもありません。

しかしそれを設置することは二式には不可欠でした。

なぜなら、この製作に際して川西航空が要求された性能の
主眼ともいえるのが、「航続距離を持つこと」だったからです。

航続距離は偵察時で7,400km、攻撃時6,500km以上というのが
海軍の要求で、これは一式陸攻の二倍というものでしたが、実際にも
二式は攻撃時の魚雷2発を搭載した状態で5000kmを記録しました。

一度索敵や哨戒に出ると24時間近く飛行を続けるので、
生理的現象に対処する必要があったのです。

このトイレですが、なんと、

座ると同時に観音開きの扉が自動で開き、
ペダルを踏むと便座が跳ねあげられるようになっていたとか。

現在、日本という国がこの分野で世界に比類なき地位を占め、
「日本のトイレ」は今や固有名詞になっているわけですが、
そのこだわりの一端がここにも垣間見える気がします。

この写真には「水洗式」と書いてありますが、それは「水上艇」
からきた間違いで、なんのことはない機構そのものは「落下式」でした。

懸念されるところの水密性、という観点からいうとこれは問題でしたが、
それでもやっぱり作ってしまうあたりが、日本人たるゆえん。
水上滑走時、厳格にトイレは使用禁止で、使わないときは水防扉を
固く締めておく必要がありました。

その穴から海水が入ってきて沈没するからです(笑)

二式運用の歴史上、トイレの蓋を閉め忘れて機が海の藻屑に、
なんて事故が一度もなかったのは、さすが規律粛正なる我が海軍航空隊です。

ちなみに、1996年のアエロペルーの航空機墜落の原因は、
機体洗浄時に貼るピトー管のマスキングテープを整備が外し忘れ、
速度、高度が検知不能になって無茶苦茶に飛んだ結果、というものでした。


このトイレ問題ですが、その対策が運用する人間の生理的不快を
顧みないものだと、乗員は勿論、整備員が悲惨です。
人間、いかに志を高く持ったところで生理的な部分がダメだと、
特に日本人のような清潔好きの国民にはダメージが大きいと思います。

しかも非常時であるからそういったことにも耐えよ、と上が言い放つことは
結果としてそうなってしまうことより士気をダダ下がりさせるでしょう。

形だけ作り上げるのがやっとで、艦内にトイレがなく、
バケツに貯めるしかなかった陸軍潜水艦「まるゆ」の乗員は、
この観点からだけ言っても悲運だったの一言に尽きます。

そういった「人間の生理」を極力考慮していたという点においても
二式大艇は偉大な兵器であったと言ってもいいでしょう。


それどころか二式には仮眠用のベッド、食品保存庫、冷蔵庫まで備わっていました。
戦後、哨戒機として開発されたP2V-7には、その後のP-2Jになるまで
冷蔵庫が無かったそうですから、戦時中に製作された二式の方が
その点においては進んでいたということになります。





二式大艇には12名のクルーが乗務しました。
分隊長がサブ(副操縦士)のときは、もう一人サブがいました。
普通、15,6時間飛ぶので交代で操縦するからです。

この次席サブが全員の食糧4食分を石炭箱に入れて
かついで乗り込むことになっていました。

飲み物も公用の魔法瓶のほかに、私物のものに
熱いコーヒーをたっぷり入れて持ち込んだそうです。
操縦時の眠気覚ましとして、時には軍医から
「コーヒー錠剤」
というものを処方される操縦者もいました。
これは効き目絶大だったそうです。

さらに二式の勤務は滞在時間が長く、機内のスペースにも余裕があるので、
各自が「自分に必要なこだわりグッズ」を持ち込みました。

いよいよ用意ができたら、移乗のために大型のゴムボートに乗り込みます。
そして艇体左舷後方の入り口から一人ずつ、艇に入ります。

ある乗組員の述懐によると、艇にはもう一か所、
機首の右側にブイ取り用の小さな出口があった、
ということなのですが、



この丸窓の部分がそれでしょうか。
飛行艇にしてはこの「小さなドア」、大きく見えますが、
後ろに回って写真が撮れなかったので、
出入りするところの大きさがわかりませんでした。




この写真の艇底にはメモリがついていますが、
どれくらい海中に没しているかのケージのようです。
1,2,3などのメモリの単位はわかりませんでした。
メートルではないと思うのですが・・。

ポーポイズ運動を防止する波消し仕様を

「かつおぶし」と言いました。



真下から見た銃搭。
後部動力銃座というのは、背中にコブのようにあるドーム。
左に見えているのは射手の座席でしょうか。



操縦席。
伝声管はついていなかったようです。
しかし、クルー(当時はペアと言っている人もいる)は、
いずれも以心伝心、言葉など無くてもたいていのことは
目線だけで通じたそうです。

「そろそろ高度を下げようかなと思っていると、
坂田上飛曹がひょいと後ろを見て手のひらを上方に
ひらひら動かす、そこで私がオーケーサインを出す、
といった具合で、おたがい顔を見ただけで言わんとすることも
行わんとすることも通じるのである」

(炎の翼『二式大艇』に生きる 木下悦朗)


飛行帽の耳隠しをめくったりわめいたり、
そんなことはしなくてすんだということです。
日本的、といえば実に日本的です。



二式も九七式も、操縦装置は皆人力で動かすようになっていて、
操縦を楽にするためのマスバランスが設計されていました。
このため、操縦には力がいるので、二式の操縦者には
大抵体格の大きなものが選ばれたそうです。

米軍の大型機は早くから油圧式補力装置がついていました。




良くわからないのですが、後部下面に射撃扉が開いている、
だから2重構造であったということでしょうか。



アメリカのウィキに掲載されていた写真。

後部銃座です。
銃口があるのがお分かりでしょうか。



PB4Yは、「シーリベレーター」だと思うのですが、
この「ベレーター」というのは間違いでしょうか。
まさに攻撃の雨あられをかいくぐって逃れようとする二式。

この後、無事に避退し、生還することができたのでしょうか。



丹作戦において梓特攻隊を誘導する二式大艇。



ここにいます。
この作戦時に参加した二式は三機。
任務こそ「誘導」でしたが、実質特攻作戦のようなものでした。

「今回、当隊は三機を以て神風とけ別攻撃隊を
編成することになった。梓部隊と命名される」
一瞬室内がシーンとなった。
食器室の蒸気の音までがぴたりとやんだ。
「万歳ッ、その命令を待っていたんだッ、やるぞーッ!」
歓声とも怒声ともつかぬ叫びが飛び交った。

いままでにはなやかな攻撃隊のかげに、
捨石となってただ黙々と戦い、
そして莞爾と死んでいった大艇隊員。
やはり神風の命名を待ちわびていたのだ。

いつ伝わったのか搭乗員室には「総員起こし」がかけられ、
三機のクルーを中心に割れかえるような歓喜の渦が
巻き起こったのである。

私はただひとり呆然として感涙にむせんでいた。

(大いなる愛機「二式大艇」奇跡の飛行日誌 日辻常雄)

この時出撃した三機のうち、一機は撃墜され、
一機は不時着、(乗員は生還)、無事だったのは一機だけでした。




空中性能には優れていた二式でしたが、やはり離着水時に
事故が起こりやすいという欠点は関係者の研究努力にもかかわらず
最後までいかんともしがたいものでした。

訓練中の殉職も、この時に起こりがちであったようです。
中には着水時、艇がぽっきり折れて、前部にいた二人は
海中に投げ出されて助かったが、
あとは沈む機体と運命を共にしたという事故もありました。



二式が高性能であることは誰しもが認めるところでしたが、
これも当事者に言わせると、高性能であればあるほど
口では言い表せないような微妙な操縦者のカンというか、
コツがものを言う、という代物であったようです。

名機と言われた零戦がそうであったように、
誰が操縦しても上手く繰れるというわけではない、というのも
当時の航空機一般に言えることだったかもしれません。

あるパイロットはこのように言っています。


二式大艇を名馬にたとえるならば、これを乗りこなす名騎手が必要で、

騎手としての心構えとその馬の癖をよく呑み込んでおかねばならない。

この馬は走り出したら他の馬をぐんぐん抜いてトップで走るが、
こまったことに発進するときに、ヒヒーンと嘶いて前足で立つのである。
騎手をふるい落として走るのだ。


しかし、このじゃじゃ馬を乗りこなし、完璧に御することができたとき、
操縦者は世界でも有名なこの稀なる名機に乗って闘ったことを
誇りに思い、これを心から愛したのでした。