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Emily Goes To America~二式大艇物語3

2013-04-29 | 海軍

「日本海軍、二式大艇ただいま見参ッ!」

心の中でそう叫びながら、日辻常雄少佐が
二式大艇の完璧な着水を決めたのは昭和20年11月。

すっかりPBM「マリナー」の基地となっていた横浜港に、
ジャンプもせず千両役者のように堂々と降り立った、
この「世界最高の水上艇」に、アメリカ軍は早くから大変な興味を持っていました。

そして終戦後、詫間基地にあった三艇の二式のうち、
一機をアメリカに送ることに決めました。
その驚異的な航続距離と運動性能について調査をするためです。

アメリカに引き渡すにあたり、広島呉にある第一工廠の技術者は

「日本の技術屋の意地にかけても
完璧な二式をアメリカ人に見せつけてやる」

という意気込みで、すでに海軍もなくなっていたそのとき、
家庭も顧みないほどの渾身の努力で整備にあたりました。

整備にあたっては、三機のうち、もっとも状態の良い一機を決め、
後の二機から部品を取ってこれに使うことにしました。


そして、この二式大艇が有終の美を飾ることになった、
横浜までのラストフライトを任されたのが、「二式大艇の神様」
といわれた(といわれる)、日辻常雄少佐(海軍兵学校64期)です。

日辻少佐はこの後、9年後に、海上自衛隊が創設したとき、
再び飛行艇乗りとして大空にカムバックし、川西航空が、
戦後の飛行艇を開発するにあたり多大な貢献をしました。



さて。

最後まで生き残り、アメリカに渡っていった二式大艇26号、
製造番号426号、エミリーのその後の運命はどうなったでしょうか。

横浜から航空母艦でアメリカの大西洋岸北部にある海軍基地、
ノーフォークに輸送されたエミリーは、そこで徹底的に
分解、調査ののち、テスト飛行をすることになりました。


実験はパトクセン基地の飛行実験部で行われましたが、
あれほど米軍を感嘆させたエミリー。
日本の技術者が渾身の調整をして送り出したというのに、
ここではへそを曲げてごねまくります。

米軍機との比較データはしっかり残っているので、実験そのものは
最後に自分性能を見せつけるが如く成功させ、実際にも米軍は
あらためて二式の優秀さに驚愕したわけですが・・・・。

分解後の整備のせいか、単に寿命が来ていたのか。

日辻少佐が横浜に運んだときは完璧な飛行と着水で
米海軍関係者の目を見張らせた彼女になにがあったのか、
ここでの試験飛行中、つぎつぎにエンジンが停止し、
ついには三つ目のエンジンも完全に止まってしまったのです。

こういうのを二夫(じふ)に見(まみ)えずというのでしょうか。
日本海軍という夫亡き後、あたかも亡夫への貞操を貫く未亡人のように、
彼女は一切飛ぶことを止めてしまったのです。

この「かつての敵」の元でのテスト飛行は、
彼女、エミリーこと二式大艇の機体が空を飛んだ最後となりました。


米軍は仕方なく、エンジンを修理し、水上滑走のテストを続けましたが、
この間、飛ばなくなった彼女の翼には、接収される際に描かれた星を消して、
そのかわりに再び日の丸が描かれていたそうです。



このときの水上滑走テストの様子。


「わかったよ。エミリー。
お前が前の夫に操を立てて飛ばないのは、もっともだ。
ほら、せめて日の丸をつけてやるから、
機嫌を直して水上滑走のテストはさせてくれよ」


こんなことを言いながら米海軍の技術者は、
最後のテストのために彼女の機嫌を取ったのでしょうか。
それとも、彼女を生んだ帝国海軍に敬意を表したのでしょうか。


その水上滑走テストは昭和22年、1947年に終わり、
アメリカ軍がほかの機体をそうしてきたように、
やはり彼女もスクラップにされる運命であったのですが、
熱心なファン・関係者の嘆願により、彼女は生き長らえることになり、
ノーフォークでその機体を保管されることになりました。

その保管法は極めて丁寧なもので翼を外し、機体には
風雨で傷まないようにゴム塗料が掛けられ、さらに
内部には空調まで施されていたということです。

二式大艇の製作者である菊原静雄は、米軍の招きでノーフォークを訪れ、
自らが生み出した二式大艇と対面します。
ぜひ日本に帰したい、と菊原は頼み、米軍の方も快くそれを請け負ったのですが、
輸送代がネックとなり、心ならずもエミリーの帰還は17年もの間成りませんでした。


その後のことは次のエントリでお話しするとして、
このときに二式大艇がアメリカで受けたテストの結果について書いておきましょう。



二式大艇は同程度の大きさの米軍飛行艇「コロネード」との
性能を比較されました。
この「コロネード」は哨戒用の四発飛行艇で、コンソリデーテッド社製。

この結果をスペックから比較してみると

【航続距離】

二式・・・・7153km    コロネード・・・・3814km

【速力】

二式・・・・465km/h   コロネード・・・・365km/h

【上昇限度】

二式・・・・7630m    コロネード・・・・6250m


この他、離水能力や巡航速度などでも、二式大艇は
コロネードの性能を大きく上回っていることがわかりました。


二式大艇のテストが終わった昭和22年。
菊原の元にアメリカ海軍の技官からの手紙が届きました。

手紙の主は米海軍トップの技官であるフレッド・ロック技官で、
彼がエミリーこと二式大艇をアメリカに持ち帰るアレンジをしたこと、
テストは終了し、その性能がきわめてすぐれているとわかったこと、
よって製作者であるあなたに連絡を取った、という内容でした。


ロック技官の手紙は優れた飛行機を製作した技術者に敬意を表したものでしたが、
その当時、海上自衛隊のために対潜哨戒、救難のための荒波能力を備えた
飛行艇の開発をしていた菊原がその計画について返信に書いたところ、
ロック技官始め米海軍は俄然興味を示しました。

米海軍はこの頃、飛行艇の開発において試作機(マーチンXP6M)を
相次いで事故で失ったばかりのショックにあったからです。
それでなくても米海軍はこれまでの現用飛行艇には
荒波での運用に対して非常な不満を持っていました。

この後、米海軍は開発中の飛行艇「マーリン」の着水波消し装置を
新明和(川西航空機あらため)に依頼することになります。

このマーチン社に続き、グラマン社も開発中の「アルバトロス」
の飛沫解消についての依頼を受けることになった新明和は、
対策を提案するという形での航空技術の海外輸出を戦後初めて果たしました。

さらにこの研究が社内で開発していたUF-XSにとっては前段階実験ともなり
大きなヒントを得るという願ってもない収穫を得ることになります。


孝行娘のエミリーが、生みの親の新明和に遺してくれた遺産は
無形のものながらはかり知れないほど大きかったのです。


菊原博士は、このとき依頼を受け米軍の招待で渡米した折りに、
我が手で開発した二式大艇に一目逢いたい、と希望し、
その望みはロック技官の力添えで叶いました。


たとえ敗戦国の技術者であっても、真価を認めた相手には
最大の敬意をもって接するアメリカという国の公正さに菊原はあらためて感激し、
さらに二式大艇、エミリーを何とか日本に連れて帰ってやりたい、
という思いをこのとき新たにしたのでした。




参考:
炎の翼「二式大艇」に生きる 『丸』編集部 光人社
帰ってきた二式大艇 碇義朗 光人社
ウィキペディア フリー辞書
Wikipedia,the free encyclopedia
http://www.militaryfactory.com/aircraft/detail.asp?aircraft_id=594