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Formidable Emily~二式大艇物語

2013-04-25 | 海軍

戦争中の日本の飛行機というと、零戦や紫電改、隼などが
日本の航空技術の最高峰であると称えられるわけですが、
実は知る人ぞ知る戦前の航空機の傑作が、この水上艇です。



二式飛行艇(Kawanishi H8K)、
通称、二式大型飛行艇、二式大艇。
米軍コードネーム、Emily。

現在、鹿屋航空基地に展示されている二式大艇は、
ここにある史料館の敷地内に翼を永遠に休めている
戦後の海上自衛隊の航空機群を見てきた目に、
一種異様な威圧感と存在感を与えずにはいられません。

それは決してその巨大な機体からくるものだけでなく、
制式採用以来、空中においては大型ながら俊敏な動きをする機体の、
しかも強力な攻撃によって米軍には怖れられ、
絶大な航続力から「K作戦」などの長距離作戦に従事するなど、
この「空の戦艦」が「世界最高の飛行艇」として受けてきた称賛と畏敬が、
残光としてこの機体を内側から照らしているように見えるからでしょう。

「K作戦」とは、昭和17年の3月、制式になったばかりの二式大艇三機で
「お披露目」とばかりに真珠湾を攻撃してきた作戦です。
偵察機に「真珠湾攻撃」後の米軍の様子を探らせたところ、
大急ぎで復旧を行っていることがわかったので、
その妨害をするとともに米軍の士気を殺ごうというものでした。

オアフ島に行って爆撃を行うという任務は果たしましたが、
いかんせん密雲にさえぎられ、下方が見えないまま、

「目標と思しきところに投弾してきました。
これが本当の盲爆ですよ」
(二番機機長・笹生庄助特務中尉)

で、相手に与えた被害は軽微なものでした。
これによって米軍の士気が落ちたかどうかは・・・・。
それは言うまでもありますまい。



さて、この鹿屋基地に展示されている二式大艇のノーズを見ても、
全体の写真を見ても、戦時中基地だった詫間(香川県)の人々が
その威容に目を見張ったというのがよくわかりますが、
実はこの水上艇、空から見ると



このように非常にスマート。(画像下)
このスマートな機体ゆえ、空中性能は抜群だったのですが、
いかんせん水上ではこれが機体が跳ねて制御できなくなる
ポーポイズ現象の原因になりました。

これを解消するために川西の技術者たちは、
機首ピトー管に横棒(カンザシ)をさし、これをガイドとして
風防に書かれた横線を基準にして操縦するべし、という
操縦法のマニュアルを配布したのですが、前線では
皆が全く読まなかったため
事故が多発したそうです。

エミリーがなぜピトー管になぜカンザシをさしているのか、
誰も疑問に思わなかったのでしょうか。

この二式大艇も九七式飛行艇も、川西航空機の製作です。
川西航空機は戦後新明和工業として、PS-1など、
やはり大型の水上艇を作った会社ですが、
日本海軍は意識的に川西を大型水上機の専門メーカーとして
育成しようとしたということだったようです。


海軍兵学校六七期の水上機専攻佐々木孝輔大尉は、
豪州地方のアラフラ海上空でこのような空戦を経験しています。



ひょいと後方を見ると、双発機がすぐお尻のところにくっついて、
わが機めがけてバリバリ撃っている。
敵機は豪州空軍のロッキードハドソン高速爆撃機で、
われわれを水蒸気と侮って追尾してきたらしい。

雲に入って敵を振り切ろうと思ったが、何度か雲を出入りするうちに
敵が気になって元のところに戻ってきたら、
サンゴ礁の真ん中にドラム缶のようなものが二個浮いている。

後で電信員に聞いたところこういうことだった。

「我が機はどんどん旋回するのに、敵機はなおも追っかけてきて、
いつまでも照準器ん中におったです
10発くらい撃ったらぐらりと左に傾いて海中に突っ込みました」

敵は二連装機銃で我々のおしりにくっつき、
ゆうゆうと撃ちまくったのだろう。
水上機と見て、いつまでも追いかけてきて、その結果
正副操縦士とも空中で被弾したのだろう。

(『飛べ!空中巡洋艦』「丸」掲載)

水上機だと思って簡単に撃墜できると侮り追撃し、
後ろに銃座があることに撃たれて初めて気づいたのでしょうか。

どちらにしても、この「エミリー」は、敵にとって恐ろしい相手で、
一式陸攻のように防戦一方の飛行機とは違い、
見かけによらず俊敏な動きをしました。
モノにできると甘く見てついて行ったら手酷くやられてしまう。
彼女はそんな一筋縄ではいかない淑女たったわけです。

さらに、血気盛んな詫間飛行隊のパイロットは、
索敵に出てもB-17やB-25などの大型爆撃機を追い掛け回し、
時にはこれを撃墜することもありました。

Formidable Emily(手強いエミリー)

というニックネームの所以です。

しかし、戦況は愈々悪化の一路を辿り、一機、また一機と
二式大艇はその数を失っていきました。
その巨大な躯体ゆえ、避退させることもできず、
むざむざと空襲を受け破壊されたものもあります。

「二式大艇にしかできない」
と任命された、丹作戦における梓特攻隊の誘導や、あるいは
ラバウルへの強硬輸送や人員救出などの作戦においても、
大艇は大きな戦果を挙げつつ、決して無傷ではいられませんでした。

そして終戦。

終戦時、まともな機体で残された二式大艇は5機。
派生型の「晴空」が6機、計11機のみ。
そしてそのうち8機は終戦の報に際して処分されます。

終戦から6日目のことです。
日本海側にある七尾基地には三機の二式が残っていました。
詫間基地に戻るようにとの命を受けた三機は飛び立ちますが、
一機は燃料不足で中国山脈が越えられず、
島根県の中海に不時着してしまいます。

乗員は詫間基地に連絡しますが、

「その機を飛ばせる手段は尽きた。
搭載兵器を破壊したうえで機体は銃撃で処分せよ」

という詫間基地の隊長、日辻少佐の命令が返ってきます。
哀惜の念にかられながら、一同は機銃をおろし、
無線を破壊したうえで湖岸に整列し、
愛機に対し決別の挙手の礼を送りました。


全員滂沱たる涙で顔はくしゃくしゃになった。
言わず語らずに事情を知った近くの住民が、
搭乗員の後ろに集まって涙ながらに合掌していた。

機銃を湖岸に据え、まさに銃撃を開始しようとしたとき、
今まで岸に並行して横腹を見せていた大艇は、
風もないのにその向きを変え始めた。

そして、まるで撃たないでと哀願するかのように
こちらに尾部を向けてしまった。

(略)
射手は弾倉を交換しながら涙の射撃を続けねばならなかったが、
ついにタンクから火を噴いた。

あの特徴のある高い尾翼をしばらくの間湖面に浮かべていたが、
やがて聖者の最後を思わせるかのように水面から姿を消した。

搭乗員は呆然と立ち尽くしていたが、
しばらくして号泣に変わった。

流れ弾丸のために稲田に火災が起きたが、
住民たちはこの火を消そうともせず、
我々とともに沈みゆく悲劇の大艇をいつまでも見守っていた。

(日辻常雄著「大空への追憶」より)


戦後、この命令を心ならずも下した日辻少佐は、
米国の空軍調査団のシルバー中尉の、

「あなたのことは皆知っています」

という第一声に驚きます。
そしてシルバー中尉からさらに、、米海軍が日本海軍を尊敬していたこと、
そして二式大艇を極めて高く評価していたことを知らされます。


その後、米国に運ばれることになった大艇を横浜に空輸することになり、
日辻少佐は三か月ぶりに、シルバー大尉を乗せて操縦席に座りました。

空輸にあたって試飛行が許されることになりました。
二式大艇が詫間の空に飛翔するのを見て、
敗戦に打ちのめされていた隊員は勿論、
詫間の住民までもが歓喜し、その姿に再興への闘志を
かきたてられたそうです。

「日の丸こそ消されていたが、久しぶりに詫間に羽ばたく
二式大艇の姿を拝し、市民は地にひれ伏して手を合わせた」

(飛べ!空中巡洋艦)

飛行の後、日辻少佐は二式の前で写真のモデルを務め、
カメラマンの要求に応じで色々なポーズを取りました。

そして、いよいよ空輸のときがやってきます。
同乗のシルバー中尉は操縦する日辻少佐に

「日本海軍はこんな優秀な機を持っていながら
なぜ敗れたんだ」

と聞きました。
日辻少佐はそれにこう答えます。

「戦いには敗れたが、二式大艇だけは
世界のどこにも破れていない」



横浜沖が近づいてきました。
日辻少佐と二式大艇の最後の飛行も、終わりに近づきました。
そこはすでに米軍の基地となり、かつてソロモンで戦った
PBM(マーリン)が荒れた海面で苦心惨憺の訓練をしています。
それを見ているうちに、日辻少佐の口はこう言っていました。


「最後のお願いだ。
超低空飛行を許可してほしい」

シルバー中尉はなにも言わなかった。
わたしは、

「世界一の二式大艇ただいま見算ッ!」

と心の中でさけびながら、
艦隊の列間を超低空でぬい、機首を回した、

わんさと飛んでいたPBMたちは
かつての強敵、空の巨人のために道を譲ってくれた。
わたしは米海軍全員の注目を意識しながら、
全身全霊を最後の着水に打ち込んだ。

シルバー中尉が私の目の前に右指で丸印を作って
”ナンバーワン!”と叫んだ。


その後、米軍は日本で川西航空機改め新明和工業が
水上飛行機を開発するにあたり、実験用の改造に使う
飛行艇の提供や電子機器、あるいは研究レポートや
データの供与を惜しまなかったと言います。

そして、その協力と関係者一同の努力の成果は、
新明和工業の水上飛行艇PS-1、US-1となって結実します。


これらはかつての敵国アメリカが、かつて畏怖した、
「フォーミダブル・エミリー」に対して捧げる尊敬のしるしでもあったのです。