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市谷・防衛省ツァー~旧便殿の間と恩賜の銀時計

2013-04-08 | 陸軍

この建物はかつてはA棟庁舎のところにあり、
「一号館」と称していました。
極東国際軍事裁判が行われたため「負の遺産」
であることから取り壊しを求める声や、逆にだからこそ
保存を求める声が右から左から喧しかったそうです。

ごもっとも。

どちらの意見も尊重した、というところかもしれませんが、
歴史的な意味のある部分だけを資料館として残し、
コンパクトに作り変えたというわけです。



わたしのような「現物主義」には、
このような「作り直されたもの」を見ても、
心底感動できないのも事実。
例えば三島事件の現場なども窓の桟やドアはそのままでも
後は壁も天井も新たに作ったものですからね。



まあ愚痴はほどほどにして。
これは前にもお見せした「大本営表札」。

三島事件の現場とドアを通じてつながっている部屋が
かつて天皇陛下の休憩所であった

旧便殿の間

この「旧」というのがいつからついた名前なのか
いまいち不明です。
昔は「便殿の間」と称していたということでしょうか。

因みに三島事件の現場になったのは、
旧陸軍大臣室で、事件の10年前からここに置かれていた
東部方面総監部の総監室でした。

総監室で総監を人質に取り、一号館の前に自衛官を集めさせ、
総監室からすぐに出られるバルコニーから彼らに語りかける。

今にして思うとこの計画はいろんな意味でビジュアル的にも、
機能的にも完璧だったのではないでしょうか。

ここまでは。

三島がマイクを用意せず、自衛官のヤジとヘリの音に
その声をかき消されて、全く言いたいことが伝わらなかった、
というあたりから「計画失敗」の感は拭えません。

前も言ったようにサラリーマン的に「専守防衛」が身についていた
自衛隊員がそもそも蹶起する可能性はなかった、
という最大の「計算違い」は仕方がないこととしても、
事件後の自衛官へのアンケートではほとんどが
「三島の意見には賛同できる」と答えたと言いますから、
もう少し計画を最後まで詰めて実行していたら、
少しくらいは結果が変わっていたのではないかと思います。

三島はどちらにしてもその日の朝、車の中で

「あと数時間で死ぬなんて信じられない」

と言ったとされ、自衛官たちの反応がどうであったとしても
切腹による自決という幕切れに変わりはなかったと思いますが。



さてそれはともかく、その隣の部屋、旧便殿の間。
ドアは外開きです。
天皇陛下専用の休憩室だったので、

「陛下が客を迎えることは決してない」

という理由から、ドアは外向き。
そういえばこういうドアは大抵内向きでしたね。



ガイドさん

「ドア上部の網の小窓をご覧くださいませ。
この部屋の壁は非常に分厚くなっていますが、
実はそこは空洞になっていて、地下の冷たい風を送り込み、
この小窓から冷気を出して部屋を涼しくしていました」

クーラーなど無い時代の心遣いです。



窓の桟は材質が紫檀でしょうか。
つやつやとまことに美しい艶を今でも放っています。

この窓の角近く、上部に小さな四角い網が見えますね?
これもまた地下からの冷気を出していた「空気穴」。

すごい省エネ工法です。
全ての家がこのような「地下冷気冷房」を採用したら、
クーラーの排熱は減り、電気の使用量はだだ下がり!

これからの住宅メーカーはこんな工夫もしてみては?



鏡の下はヒーター。
当時最新式のセントラルヒーティングだと思われます。

女性が写っていますが、足元を見てお分かりのように
この記念館は土足厳禁。
皆入り口でスリッパに履き替えます。



光ってしまってちゃんと撮れませんでしたが、
この部屋に掛けてある

「陸軍大演習の全員写真」

ガラス乾板写真だ、と聞いた気がします。
特に高画質の写真を要求されたため、
ネガを原寸大に焼き付けたとかなんとか。

というわけで、一番後ろにいる人も
「完璧に顔がはっきりと写っている」のだとか。
海軍兵学校の入学写真に是非もこれを採用してほしかったです。

そして、並び方ですが、写真の隅から隅までびっちりと、
真四角になるように人が並んでいるでしょう?
これは、実際は後ろに行くほど人数が多い「扇形」
に整列して撮っているのだそうです。



特別ゲストらしい海軍軍人がところどころ見えますね。
カメラは特別に設置された高い台から撮影していますが、
全員視線はカメラではなく真正面に向けられています。



山本五十六発見。
緑色の光はガイドさんの持っているレーザーポインター。

「演習に参加した士官が全員写っています」

という説明に横にいた年配の方が

「じゃ、下っ端の軍人も写ってるんだ・・・・ええと少佐じゃなくて」
「少尉ですね」

これはエリス中尉。

反射的に隣から口を出してしまいました。(てへっ)
えっ、と驚いたような顔で顔を見直されました。

それより、昨今ではこんな年配の人でも
軍隊の階級のことなど全く知らない人がいるんですね。

(と自分の数年前のことを棚に上げるエリス中尉である)




おお、これは。

これが噂の恩師の銀時計

陸士で主席次席の二人に与えられる優等賞です。

明治時代から日本では、帝国大学、学習院、商船学校、
陸軍士官学校や陸軍騎兵学校等軍学校において、
各学部の成績優秀者(首席と次席)に対して、
天皇からの褒章として銀時計が授与されました。
元々は陸士などの軍学校がこの制度の発祥だそうです。

裏返せばこの時計には「恩賜」と刻まれています。

成績優秀者に贈られるものは銀時計だけではなく、
海軍兵学校では恩賜の短剣でしたし、
陸士陸大も「恩賜の軍刀」が授与されました。

初期の陸大では「恩賜の望遠鏡」だった時代もあったそうです。
(ツァイス製かしら)

貰えた者は「将来の栄達」が約束されたということで、
これらの授与者を「恩賜組」と称しました。

でも、「ハンモックナンバー」でもお話ししたように、
陸軍海軍問わず恩賜組が必ず順調に出世するわけでもないらしい、
というのもまた人の世の現実です。



さて、いろいろ見たものについてお話ししてきましたが、
防衛庁の見学記、最終回としてあと一回、
ちょっとした雑感などを挙げたいと思います。