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クラスヘッド「モグ」

2011-09-03 | 海軍人物伝

坂井知行海軍少佐。海軍兵学校六十六期卒。
加賀乗組、横須賀空分隊長兼教官を経て昭和17年11月15日、五八二海軍航空隊分隊長。
昭和17年11月30日、ラバウル上空にて戦死。


同級生の薬師寺一男氏が初めて坂井知行生徒を入校前江田島のクラブで見たときに受けた印象です。
「こいつ頭のいいような顔をしている」

その印象の通り、秀才ぞろいの江田島でこの坂井生徒は「何の勉強もしないのにいつもトップ」
のハンモックナンバーでした。
「クラス・ヘッド」という項で七十期のクラス・ヘッドについて話しましたが、
天下粒よりの兵学校生徒ともなると、普通の秀才などではなく「何となく何でもわかってしまう」
天才タイプの生徒がその中でもトップを占めたようです。

しゃべるとき何となくもぐもぐと言った調子であることから飛行学生の時に拝命したあだ名は
「モグ」
クラスヘッド・モグの勉強時間は誰よりも少ないので有名でした。
正規の勉強時間以外はもっぱら級や分隊のことをやり、休日には真っ先に倶楽部にでかけました。

なのにかれは難解な天文数字とか熱力学理論の問題も、またたくまに算式を解いてしまうのです。
「貴様、なぜ勉強をあまりしないのに試験がよくできるのだ」
級友のこの質問に対する坂井生徒の答えは
「教官が熱心に講義するところを、教室で覚えてしまうのだ」


『先生のの口調や身ぶりを見て、その力の入ったところを中心に試験のヤマを当てましょう』

と、その昔エリス中尉が読んだ学習雑誌に書いてあったことそのままではないですか。
そのとおり実行してみましたが、ヤマであろうが冗談であろうが、同じ調子で講義する
「敵もさるもの」や、一貫してぼそぼそと同じ調子で眠い講義をする先生の授業には
全く通用しなかった記憶があります。

そういう失敗談はともかく、この坂井生徒の四号時代、それを真に受けたのか、同分隊の生徒たちは
どうもこの「あまり勉強しない」というところだけを見習ったらしく、分隊監事から
「お前たちは坂井生徒とは頭の出来が違うから、刻苦精励の要が大である。
鵜のまねをする鳥(カラス)の結果となるのは当たり前だ云々」

とのお叱りを蒙ってしまったそうです。


この坂井生徒、クラスヘッドでありながら航空、しかも戦闘機を志望し、三〇名の飛行学生の中から
ほぼ全員が志望しながらわずか五人しか選ばれなかった戦闘機専修に選ばれ、
意気揚々と訓練に励みます。

しかし、ある日五人のうちの一人、原正少尉が訓練中で事故を起こし、殉職しました。
この事件で級友の、特にこの四人の戦闘機専修学生の受けたショックは大きかったようで、
何十年後になっても日高盛康少佐、藤田怡与蔵少佐が懐古録でそのときの思い出を語っています。
この坂井生徒は戦後を生きることがなかったのですが、遺稿となった家族への手紙に、
明らかに原少尉のことに衝撃を受けて書かれたと思しき一句が綴られています。


海荒れて夕闇は濃し一機帰らで              山人


山人とは、坂井少尉の句名でしょうか。
この句には「太平洋の真中に不時着行方不明となれる機を思ふて」と添え書きがあります。

原機は訓練中上昇の際両翼が飛び、機体ごと海中に一直線に突っ込み、
さらにその遺体は一週間の捜索を待たねば見つかりませんでした。

この句は、明らかにその一週間の間に書かれています。



さて、飛行機の操縦にも「スランプ」というものは訪れました。
おそらくどんな搭乗員も、そんな波を繰り返しつつ一人前になり、一人前になった後も
調子の波というものは戦況などとは全く関係なくその技術に影響を与えたのでしょう。

クラスヘッドで、操縦技術にも長けていたモグも、飛行学生時代スランプに見舞われました。
同じようにスランプだった薬師寺学生と連れだって水戸連隊に馬術訓練に行っています。
何とかしてそれから脱したいという思いでしたが、効果なし。

そこで悪友のアドバイスがあり、二人は・・・・・
ここは薬師寺氏ご本人の言にお任せしましょう。

「紀元二千六百年の記念作業も兼ねて、思い切ってバージンを捨て
スッキリするに如かずと二議一決」

ちょっと待て。いや、お二人、ちょっと待って下さい。
この「紀元二千六百年の記念」というのは一体何ですか?
何とかスランプを打破するついでにちゃっかり記念作業も、ということですか?

その辺は秀才といえども実に若者らしくて、思わず微笑んでしまいます。
教官に紹介状を書いてもらった(さすが海軍!)お二人、柳橋のさる一流料亭に勇躍乗り込みます。

ところがこの料亭の女将、たった一言、
「勿体ないことしなさんなっ!」
「・・・・・・・・・・・」(._.)(._.)

海軍軍人も、海千山千の女将にかかっては子供扱い。
でも、わたしがこの女将ならやっぱりこう言う。

とにかく二人はこの神の、じゃなくてゴッド(おかみ)の一言で雄図空しく帰隊しました。
その後二人がどのようにスランプを解消したのか、また「記念作業」はその年のうちに行えたのか、
それは薬師寺氏も書きのこしてくれていません。


昭和十七年十二月。
兵学校六十六期同級生の外山三郎氏は、トラック島に出店していた料亭、パイン(小松)に立ち寄りました。
そこで外山氏は他のパイロットから
「坂井知行さんが立ち寄りましたよ。自信満々、米機など鎧袖一触(がいゆういっしょく)、
ものの数ではなさそうな口ぶりでしたよ」

という報告を受けます。

頭脳だけでなく、運動神経もよく、敏捷でパイロットとしてはピカ一の存在である坂井大尉の存在は
関係者の中では有名だったのです。
しかし、同席した一人が「心配だなあ。相手もしたたかだぞ」と言いだし、
しばし座は坂井大尉をめぐって論争になりました。
外山氏は坂井大尉の腕を信じる気持ちと、不安に交互に見舞われつつ、武運を祈って宴を終えましたが、
実はこのときすでに坂井大尉は戦死しており、この世からいなくなっていたのです。
後からそれを知り、外山氏は暗然と打ちのめされたそうです。


着いて早々、地形も敵情も戦闘法も、何も知らない若い士官をいきなり隊長として実戦に出し、
緒戦で未熟な彼らを失ってしまう、ということがこの時期多くありましたが、
飛行学生時代腕のいいパイロットと言われた坂井大尉もこの例にもれなかったのです。

せめて、しばらくの間、状況を把握する時間があったら。
明晰な頭脳に技術を備え、何よりも人望のあった坂井大尉ですから、武運さえあれば指揮官として
腕を奮う逸材に育ったことは間違いないでしょう。
この頃のラバウルでは実に多くの若い士官搭乗員が着任早々亡くなっています。
毎日のようにいなくなる士官パイロットの補充要員として次々に実戦に出されたためです。
すでに「馴らし」を行わせてもらえるほど余裕のある戦場ではなかったということなのですが、
それにしても、この戦場にとってだけではなく、戦後の日本にとっても必要だった
優秀な人材を失わないためにも、あとせめて暫時の猶予が与えられなかったのでしょうか。


坂井大尉は生前家族への手紙に
「人生わずか五十年、軍人半額二十五年」と冗談めかして書いています。

その言葉はそのまま悲しい予言となり、クラスヘッド「モグ」こと坂井知行大尉の人生は、
わずか二十五年で終わりました。