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GO FOR BROKE!~陸軍第442連隊戦闘団

2011-09-12 | アメリカ



前項でアメリカ陸軍史上最強と言われた第442連隊、通称日系人部隊の活躍について書きました。
今日は日米のはざまに翻弄された彼らの国家と民族意識について考えてみます。

本日画像は左からキヨシ・K・ムラナガ上等兵
フランス戦線で不利な敵の射点に一人残り、恐るべき正確な砲撃で反撃をするも被弾し戦死。
享年22。

中央はジョージ・T・サカト一等兵
仏戦線で敵の砲弾の中を単身突撃、
不利であった戦況を一気に逆転させたその勇気ある行動に対し叙勲せらるる。
2011年9月現在、健在。

右はバーニー・フシミ・ハジロ一等兵
ブリュイエール、ラフォンテーヌ、そして失われた大隊の解放に参加し、
自らがおとりとなって砲撃を向けさせ友軍の砲火を助けるなどという、
大胆で勇敢な幾多の行動により、戦時中から勲章を授かり、2011年、没。
享年94。

そして前回説明のなかった画像中央のフランク・H・オノ上等兵は、
イタリア戦線にて、やはり自らをおとりにして仲間の前進を助け、
また傷ついた仲間の手当のために火の海を臆することなく走り抜け、戦中に叙勲されています。

戦中に叙勲された者、そうでない者、亡くなった者、生存していた者。
全ての元442部隊の隊員に対し、戦後新たに叙勲がなされています。
最近では2010年、オバマ大統領によって、
議会名誉黄金勲章(アメリカ合衆国で民間人に与えられる最高位の勲章)が
第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団の功績に対し授与されていますし、
2000年にはクリントン大統領のもとで戦時中に与えられた殊勲勲章を名誉勲章に格上げし、
新たに個人が叙勲されています。


ここで、我が国の戦争従事者に対する仕打ちと対応を鑑みて暗澹たる気分になってしまったのですが、
これについて書くのはまたいずれ。

何故、アメリカ政府が戦後何度もこのように叙勲を精査し格上げなどの措置を図るかというと、
一言で言って社会構造や意識、価値観の変化に伴うものがあるようです。

アメリカ軍のヒーローであり、称賛の的であった日系人部隊でしたが、
終戦後、彼らがアメリカ社会に同じように迎え入れられたかというと、
決してそうではなかったのです。
終戦直後も日本は「敵国」であり、日系人に向けられる眼は「ジャップ」であり、
一般人にとって彼らは敵の仲間でしかなかったということです。

日系人たちが「模範的マイノリティ」として、
そして日系部隊が2次大戦の戦功者として評価されるのは、もう少し先、
1960年代の公民権運動の勃発を待たなければなりませんでした。


社会の意識が変化すると、軍関係者だけでなく、民衆が
「最強のマイノリティ部隊」であった442部隊を再評価する動きになり、
また戦後の何度にもわたる叙勲という措置につながったわけですが、
この再評価が日系人全体全体を見る目に与えた影響は、とても大きなものでした。



第100大隊所属の522野砲部隊は、正確極まりない砲撃力を持つ屈指の部隊でしたが、
この部隊がドイツに侵攻した際、偶然ダッハウのユダヤ人強制収容所を発見し、解放しました。
ユダヤ人の最終処理場として機能していた殺人工場である収容所の酸鼻を極める惨状に
日系人たちは、暗澹とします。
皮肉なことに彼らのほとんどが日系強制収容所から志願した兵でした。

ユダヤ人たちはアメリカ軍であるはずの彼らが何故東洋系なのかいぶかしみながらも
「まるで天から降りてきた天使の顔に見えた」と当時の感激を語っています。
このとき解放した者とされた者、お互いは相手のことを知りたがり、意気投合し、
戦後ずっと強い結びつきを持ち続けているそうです。

彼らを解放するとともに、惨劇の告発者にもなった522部隊ですが、
戦後、日系人が収容所を解放したことは当局によって語ることを禁じられていました。


日系人による部隊結成当初、ハワイ出身者と本土出身者の間には激しい相克がありました。
憎み合うといってもいいくらいのもので、それに手を焼いた上層部は、
ある日ハワイ出身者を本土の強制収容所に連れて行き、見学をさせました。
「(日系人の)女の子に会えるな」
などと浮かれていたハワイ組の顔がこわばり、青ざめました。
鉄条網に囲まれたキャンプ。外ではなく敷地内に向けられた銃口。
これが我々が忠誠を誓うアメリカの答えか・・・・・。

そして、その時以来両者の対立は無くなったのです。
「日系人同士で争っている場合ではない。敵は人種差別だ」
誰もがこのように悟った瞬間だったのでしょう。
そして、その偏見をはねのけるには、日系部隊の価値を彼らに認めさせるしかないことも。


二世である彼らは、父母の本国と戦うことをどのように受け止めていたか。
やはりそれについては考え方はさまざまであったようです。

国家から忠誠をあらためて問われ、ノーと答えた者、そして徴兵には決して行かないと
言明した者もいました。
それは収容所から刑務所に入るということでもあり、考えようによっては
「志願するより勇気のいること」(ダニエル・イノウエ)と言えます。
当時日系社会では毎日のように自らの血と国家への忠誠のあり方について話し合いが持たれました。


そんなある日、ある日系人は、所属する学校に宛てて東条英機が送ってきた手紙に衝撃を受けます。

「これは君たち二世への手紙である
 君たちはアメリカ人である
 したがって、君たちの国に忠誠を尽くさなければならない」


また外務大臣であった松岡洋右も、日系人の忠誠を尽くすべきはアメリカである、
という意味の発言をしています。



つまり、日本人は、侍なのである。
武士道に則り、君主と国家に忠誠を尽くすものである。



これが東条英機が在米の日系アメリカ人に向けて言いたかったことであり、
彼らもまたそのように理解したのでしょう。
たとえ祖国に刃を向けることになっても、己の帰属する社会に殉じるのは
サムライの末裔である日本人として当然のこと。
そしてそれがその社会に対する恩返しであり、
これからもそこで生きていくための当然の義務であると。

そして日系部隊の編成を許可する文書で、ルーズベルト大統領はこのように書いています。
「我が国建国の原則は米国精神(アメリカニズム)である。
それは内面の問題であり、人種や祖先の問題ではない」



彼ら日系人の部隊が何故優秀であったか。
それはひとえに彼ら自身の「日本人としてのプライド」が、
そしてアメリカという国にそれを認めさせるという強い意志が、
そのモチベーションと勇気を高めたのだと思われます。
そしてその誇りの源となっていたのが、日本人の価値観でしょう。

移民であった一世の両親から、彼らへと日本の価値観は受け継がれました。

Gimu、 Meiyo、 Gayoku 、Haji 、GamanそしてDoryoku。 

Shikata-ga-nai 。Shinjiru。Seisei-doudou。

このような日本語が、日本人であることの尊厳とともに、血となり肉となって
二世であるかれらの精神を形作っていったのではないでしょうか。

そして、そんな彼らの合言葉は、隊のモットーにもなった

Go For Broke!(当たって砕けろ)

でした。
この一見文法のおかしな英語は、もともと日系人独特の、いわゆる「ピジンpidgin言語」
(シンガポールのシングリッシュや、中国人の『わたし中国人あるよ』のような接触言語)で、
ブローク、つまり破産するまで賭け金を突っ込め、という賭場でのスラングです。
彼らの隊旗にはこの言葉が誇り高く記されているのです。

かつての442部隊の戦士は言います。
「アメリカはいい国です。チャンスを与えてくれる。何にでもなれる」
しかし、この国では自ら血を流してつかみ取った者だけにしか本当の自由は与えられないのです。

今日の日系人に対するアメリカ社会の尊敬は、文字通り彼らが体当たりで手に入れた、
自由の国アメリカからの最高の贈り物なのかもしれません。