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アメリカ陸軍第442戦闘部隊

2011-09-09 | アメリカ



先日、陸軍グリーンベレーの入団試験について書きました。
あのような厳しい試験を経て晴れてアメリカ軍人となった彼らが、その研修課程で必ず
その輝かしい実績と共に教えられる部隊名があります。
アメリカ史上最強の部隊と言われた陸軍第442戦闘部隊、通称日系部隊です。
現在のアメリカ陸軍では、彼らの歴史を学ぶ授業は必修課程となっているのです。

1941年、真珠湾攻撃に始まる日米開戦後、
アメリカ政府は西海岸在住の日系移民およそ12万人を、各地の強制収容所に収容しました。
三か国の敵国の中で、イタリア系、ドイツ系の移民に対して行われなかったこのような仕打ちを、
日本政府は「白人の人種差別かつ横暴な所業」として喧伝し、開戦の理由の一つに加えます。

それに反駁する必要に迫られたアメリカ政府は、日系人からなる戦闘部隊を編成するという
手段を取りました。
あえて「問題児に手伝いをさせる」方法に出たのです。
そして「強制収容所に追いやった日系人に国への忠誠を誓わせる」というダブルスタンダードとしか言えない
「踏み絵」を経て、志願者による日系人ばかりの陸軍部隊が誕生します。
ハワイにもともと存在した第100連隊との合併により、第442連隊と名づけられました。

1943年のことです。

日系人部隊編成の理由は、当時ハワイの日系人によって半分が占められていた部隊を
解散するわけにもいかなかったためで、苦肉の策でとしか言えないスタートであったわけですが、
その訓練段階で彼らは異常な優秀さを発揮します。

1943年9月、第100大隊はイタリアに上陸。
サレルノでのドイツ軍落下傘部隊での戦いを手始めに、連合軍が苦戦していたドイツ軍との戦線で
「死傷者勲章大隊」と言われるほどの犠牲を出しながら戦線を制圧します。
このモンテ・カッシーノの戦いでの勝利が大きく報道され、
彼ら日系部隊の精強ぶりがアメリカ国内に知れ渡ることになります。

しかし、彼らは勝利者として解放されたローマに入ることを許されませんでした。
足止めされた彼らの横を白人の戦車部隊が追い抜いていきます。
それどころかその場でまわれ右させられた442部隊は、北方への戦線に移動させられます。
勇敢な彼らはこの時点ですでに数度に及ぶ感状を与えられていましたが、それでも
カラード(色つき)の日系人である彼らに、ローマを解放した英雄として民衆の歓迎を受ける栄誉は
与えられなかったのです。

それにもかかわらず、彼らの士気は一向に衰えることはありませんでした。
この期間、いくつかの戦線を制圧、フランスのブリュイエールでは
激しい戦闘の末勝利をおさめ、この村を解放しました。
作家、ピエール・ムーラン氏は著書「ブリュイエールのU.S.サムライ」でその戦いを記しています。
そして、この村の人々は今日も日系兵士たちの慰霊と彼らへの感謝の式典を続けているそうです。



今日、アメリカの戦闘史を語るうえで必ず挙げられるのが「10大戦闘」の一つであり、442部隊の行った
「テキサス大隊救出作戦」です。

フランスのボージュの森でドイツ軍に包囲されていた200名のテキサス大隊(第141連隊第一連隊)
は、テキサス州兵が多かったためこのように呼ばれていました。
既に二つの連隊が救出に失敗し、彼らはロスト・バタリオン(失われた大隊)とされていたのです。
ルーズベルト大統領の勅命により、疲労困憊していた442部隊がその地に向かいました。

この作戦の参加者で戦後ハワイ選出の上院議員となった
ダニエル・イノウエ氏(本日画像右)はこのときの日系戦士の気持ちをこう代弁します。

「いわば使い捨てでしょう。しかし、私たちはそれを歓迎したのです。
なぜなら、それこそ(日系人の)価値とアメリカへの忠誠をを証明するチャンスでしたから」


硬直した戦線を打破するため、彼らは「バンザイ攻撃」を決行します。
今日、アメリカでドラマなどを見ていると、何かに飛び込んだりするとき
「バンザイ!」
と普通に叫んでいるシーンにしょっちゅうお目にかかります。
これはこの時のバンザイ攻撃がが由来なのでしょう。

そして本日画像左は、この戦闘中、眼前に落下した手榴弾に覆いかぶさって、
わが身を犠牲にして仲間の命を救ったサダオ(スパッド)ムネモリ上等兵
かれは日系部隊初の名誉勲章を与えられています。

この捨て身の肉弾攻撃により、442部隊は待ちうけていたドイツ軍の戦線を突破。
テキサス大隊を救出することに成功します。
抱き合い、煙草を分け合って喜んだ両隊でしたが、大隊のバーンズ少佐が軽い気持ちで
「ジャップ部隊なのか」と言ったため、442部隊の一少尉が
「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」と掴みかかりました。
少佐は謝罪して敬礼したという逸話が残されています。

この時の作戦参加者の一人、エドワード・ヤマサキが
And Then There Were Eight(『そして八人が残った』)という本を書いています。
この193人の小隊は戦闘後、五体無事だったのは8人だけでした。

この労をねぎらうために、司令ダルキスト少将が閲兵した際、集合した戦闘団を見て、
「部隊全員を整列させろといったはずだ。」と不機嫌に言ったのに対し、側近が
「目の前に並ぶ兵が全員です。」と答えます。
第36師団編入時には約2800名いた兵員は1400名ほどになっていました。
少将はショックのあまり何も訓示ができなかったということです。
211人を救出するために800人の犠牲を出したこの作戦を指示したダルキスト少将は、
後日「理不尽な作戦を下した愚かな指導者」と非難を受けました。

余談ですが、アメリカにとって象徴的なたった一人を救うために多くの犠牲を出す映画
「プライベート・ライアン」(ライアン一等兵)は、
この作戦にインスパイアされたのではないかと言う気がします。

しかし、彼らの犠牲を怖れぬ戦いと大戦果により、日系部隊の評価は確固たるものになりました。
彼らはイタリアで膠着していた戦線に期待され送り込まれることになります。
「問題児」としてスタートした442部隊は、今や「問題解決のエース」とまで呼ばれていたのです。

この、その期待を裏切ることなく、2万人に及ぶ二つの師団が攻略できず手をこまねいていた
ゴシック・ラインの戦いにおいて、総員2,500人の442部隊は
「一週間でも、一日でもない、たった32分で」
敵地を突破してしまいました。

ムネモリ上等兵の叙勲した軍人として最高の栄誉である名誉勲章をはじめ、
殊勲十字章、陸軍勲章・・・授けられた勲章の総数、1万8千143個(全米最高数)
名誉負傷勲章獲得総数、6700(全米最高数)
累積死傷率31・4%(全米最高率)
そして全陸軍軍隊最高数である7枚の大統領感状受賞

アメリカ軍人にとって彼らがいまだにスーパーヒーローであり、
また陸軍史上最強部隊であると賞賛されるゆえんです。

彼らに対する差別的な眼はこれを以て決定的に変わることになります。
終戦後、トルーマン大統領は、雨で周りが中止を進言するのを押し切って
帰国してきた442部隊を直接迎える行事を決行しました。

この式典で大統領はこうスピーチしました。

「諸君は敵と戦っただけでなく、偏見とも戦い、そして勝ったのだ」

かつてローマで賞賛を与えられず悔し涙を飲んだアメリカ陸軍第442戦闘部隊は、
このときアメリカ合衆国大統領が直々に迎えた、米国史上唯一の戦闘部隊になったのです。



続きます。