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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

イエール大学の戦死者碑銘

2015-08-15 | アメリカ

カリフォルニアに来てしばらくして、息子がニューヘイブンで参加していた
キャンプが全米ネットのニュースで紹介されていました。



息子が「あ、誰それだ!」というので画面を見ると、キャンプのオーナーが、
去年キャンプの行われたボストンのウェルズリー大学の校舎をバックに
インタビューを受けていました。



キャンプが行われていることを表すバナーが窓に掲げられています。



キャンプには全米からはもちろん、デュバイからも来ている、とキャスター。



どうやらこの女の子たちはデュバイからの参加者である模様。

このキャンパスはジュニア・ハイスクールまでの参加者のためのキャンプが
行われているので、去年は息子もここだったのですが、

「惜しかったね。去年ならネイションワイドで映ったかもしれないのに」

「日本からっていうのは確かに少ないけど珍しがられないからなあ」

 



キャンプ出身者の「起業家」のインタビューも有りました。
息子が今西海岸で行っているITキャンプにも、ウェブデザインの会社を立ち上げている
息子と同い年の少年がいるそうで、

「アメックスのビジネスカード持ってた」

とのことです。

「そんな子が今更何を習いに来るの」

「わからないことを習いに来るんじゃない?」

そりゃそうなんでしょうけど、そういう子供がビジネスを立ち上げてしまうっていうのが・・。




さて、息子をこのキャンプに送り込んだ後、私たち夫婦はイエール大学美術館を見学し、
そのあと、ピーボディ博物館の特別展「SAMURAI」を見るために、歩いて行ったのですが、 
車では一瞬に思えたのにその遠いことといったら・・・。
大学構内といっても街全体が大学なもんで、行けども行けども着かないのです。



しかし、300年経過した大学の建物はどれも重厚で美しい。



これはイエール美術館のガーゴイル。
イエール全体のガーゴイルについてそのいわれを説明する本などもあるようです。
ガーゴイルというのはこの写真のものもそうであるように「雨樋」。
雨樋の機能を持たないものは残念ながら単なる彫刻でガーゴイルと言わないそうです。

ゲーム業界では「ガーゴイル降臨」などといって、それ自体が悪魔の名称のようになっていますが、
それはあくまでも日本だけのお話なんだそうです。 



イエール大学のオールドキャンパスの向かいにあったゴシック風の門。
門の取っ手によく見ると落し物らしいベージュの帽子が掛けてあります。

わたしは昨日、ランドリールームで、洗濯機が回っているわずか30分の間に
洗濯物入れのプラ袋に入れて隠しておいたTUIMIIのポーチを盗られました。
中は何のことはない”ランドレス”の携帯用洗剤セットでしたが、
一応一泊200ドル以上とるホテルの宿泊客でも、目の前に小銭らしいものがあると
(ポーチは外から見ると小銭入れに見える)脊髄反射で盗る手癖の悪い人間が
確率的に多い国なんだなと改めて思ったものです。

このベージュのキャップを拾った人は、持ち主にわかりやすいようにノブに掛けたわけですが、
2時間後くらいに前をもう一度通ったら次は無くなっていました。

わたしなどてっきりこのときは落とし主が探しに来て確保したと思い込んだのですが、
よく考えたら、別の人間がひょいっと取っていっただけかもしれません。

ちなみに、美術館の前で大きなお腹を見せながら物乞いをしてきた女性は、
(とてもおめでたの可能そうな年齢には見えなかったけど)
2ドル渡してやると「もう1ドルくれ」と食い下がりました。
厚かましすぎ。

いずれも日本以外では当たり前、日本ではあまり見ないことばかりです。



ハーバード大学の建物もそうでしたが、アメリカの古い建物は、
何百年越えの建築でさえ「バリアフリー」であるのに驚きます。

今ではもちろんどうにかなっていると信じたいですが、何年か前までは
新幹線のモノレール乗換駅である浜松町は階段が多く、
カートを持っていると大変つらかったものですが。
あと、概してフランスの地下鉄には階段しかなかった覚えがあります。



キャンパスの建物と建物の間はこのように芝生が敷き詰められていて、日陰などで
学生が昼寝をしたり本を読んだりしている姿がそちこちにみられます。



ベンチもありますし、カリフォルニアほどではありませんが、日本よりは
かなり湿気もましなので、日陰に入ると快適に過ごしやすいのです。

イエールは圧倒的に白人の教授が多く、マイノリティが少ないので有名ですが、
女子学生を学部が受け入れたのですら1969年になってからのことだそうです。
そういう意味では大変旧式な体質を持っていると言えるかと思いますが、
つい最近、国立シンガポール大学と提携してYale-NUS College
(イエール大学シンガポール校)を開設したそうです。

アジアでの大学総合ランキングの最上位 (学者からの評価では東大が最上位)
大学なので、イエールもこの提携となったのでしょう。



いきなり現れたアーチの門に大学の紋章。
書物の下の大学モットーは、

"Lux et Veritas"(ラテン語で「光と真実」)

ハーバード大学がではVeritas(「真実」)一言を採用していたのに対し、
イエールはハーバードの世俗化を批判して創設されたという関係上、
Lux(「光」)を付け加えたということです。



さて、オールドキャンパスを歩き出してすぐ、冒頭の壮麗な柱を持つ建物が有りました。
道らしい道がないので、アメリカの大学だから中を通り抜けられるだろうと思い、
とりあえず突入してみることにしました。
写真の建物がドームのように見えるのは、ワイドモードで撮ったからです。 



建物の前に置かれた棺のような石碑には、このような文言が。


彼女(イエールのこと)の伝統に殉じて、その命を、
決してこの地上から
消え去ることのない自由のために捧げた、
イエールの男たちの思い出のために


1914 ANNO DOMINI 1918

「彼女」とはこの建物に併設されたウルジーホールのアテナのことかもしれません。

アンノ・ドミニとは西暦のA.Dのことですが、年号は第一次世界大戦を意味します。
南北戦争ではイエール大学出身者のほとんどは北軍として戦ったわけですが、
第一次世界大戦というのはアメリカにとっての最初の大規模な世界大戦であり、
(アメリカの参戦理由というのもわたしにはイマイチよくわかりません)
ここで初めて当大学も「彼らは自由のために命を捧げた」と標榜することができたのでしょう。

底意地の悪い言い方ですが、実際南北戦争の時、同じ大学を出ていながら
南北に分かれて戦うことになった同窓生なんかもいたはずで、さらには
彼らの戦いはどちらにとっても「自由のため」であったということなのです。




中に入ってみてびっくり。
なんと大学のダイニングホールでした。
わたしなど真っ先に思い出したのが「炎のランナー」で、
オックスフォードに入学した学生たちが全員タキシードを着込み、
学長主催の晩餐会に出席するシーンです。

ずらりと並んだテーブルのこちら側には、ビュッフェ台があり、
様々な食べ物がもうすでにスタンバイしていて、夕食の準備が整っていました。

「誰が今日ここで食事するんだろう」

といいながらふと目に留めたこの看板。



あらら、息子さんのキャンプじゃないですか。
誰が食事って、うちの息子が食事する場所だったのね。

「わーいいなあ、MKってこんなところで食事してんだ」

「イエールの学生になった気分だよねー」

「あー、俺、うちの息子に生まれたかった」



そのまま、ダイニングを通り抜けると、ホールがありました。
床に埋め込まれた様々な種類の石材がつくる模様がまるで太陽のよう。

先日、100年近くも前に作られた大学の建物にあるステンドグラスが、
たまたま旭日の模様をしていたからといって、韓国からの留学生が大学側と面談、
問題のステンドグラス撤去を申し入れたという事件がペンシルバニア大学で起こりました。


「韓国人だったら見ただけで吐き気を催す「戦犯旗」だ。
そんな旗が世界でも有数の最高学府にあるとは驚きだった」


結果、当然のことですが大学からは
その訴えも体良く退けられ、
一般学生からは「頭を冷やせ」「呆れた民族」と呆れられたそうな。


1923年に作られたステンドグラスも一国民の民族意識(というか劣等感)の配慮のため
撤去せよと言えるくらい愛国心のある国民としては、ここはもうひと頑張りして

「このホールで戦犯旗を見ると、今食べたばかりなのに吐き気を催してしまう」

とイエール大学に対し、200年前の床を撤去せよというべきではないでしょうか。
というか、彼らはそれくらい馬鹿げたことをペンシルバニア大に要求したってことなんですが、



よく見るとドームの内部の飾り一つ一つに電球が埋め込まれています。



これも「炎のランナー」で主人公が入学手続きをしていたような窓口が。

ここでふと周囲の壁に膨大な人数分の名前が彫り込まれているのに気付きました。
第二次世界大戦の戦没したイエール大学卒業生の名簿でした。
卒業年次、戦死した年月日、戦没場所の後には、軍での所属階級が記されています。



表にも慰霊碑のあった第一次世界大戦での戦死者です。
ここに書かれているのは1914年卒業クラス。
第1次世界大戦は1914年に始まっていますから、卒業してから訓練などの時期を経て
戦地に投入され戦死したということになります。

彼らのほとんどはフランスで行われた戦闘などで戦死したようですが、
中にはコーストガードの大尉として出征して「海で死んだ」ということしかわからない者、
少尉候補生のまま国内で亡くなった(おそらく訓練中の殉職)者もいます。

中には終戦のわずか20日前に戦死した人も・・・。



彼らは全員1942年の卒業生ということがわかります。


ホーヴェイ・セイモア、海軍少尉 1945年1月、太平洋で戦没

ウィリアム・バートン・シモンズ、陸軍歩兵中尉、45年3月8日、ドイツ、マインツで戦没

ロバート・エメット・スティーブンソン、海兵隊中尉、44年7月1日、サイパンで戦没

ジェイムス・ニール・ソーン、ロイヤルエアフォース航空将校、44年9月10日、オランダ上空で戦没

ベンジャミン・ラッシュ・トーランド、海兵隊中尉、45年2月1日、硫黄島で戦没

ウィリアム・ガードナー・ホワイト、海軍航空中尉、44年9月2日、父島付近で戦没


42年にイエール大学を卒業したばかりの彼らは、すぐに戦地に赴き、
そこで遅くても3年以内に命を散らせていくことになったのでした。

第一次世界大戦の時より戦場に出るのが異常に早いような気がするのですが、
アメリカも若い大学生をすぐに戦地に送るようなことをしていたということでしょうか。



名簿はまだまだ続きます。

写真の、壁に刻まれたこの部分の戦没者名簿は1950年卒業生のものです。
ご存知のようにアメリカの大学の卒業は6月なのですが、この年の6月25日、
つまり彼らが卒業して何日か後に朝鮮戦争が勃発しました。



アメリカはベトナム戦争の和平と同時に徴兵制を廃止しましたが、
未だに徴兵制を復活させるべきという意見の基本となる理由は、
志願制だと、就職先または除隊後の大学奨学金を求めて、
経済的に貧しい階層の志願率が高くなるので、経済的階層に関わらず
軍務を国民全員に機会平等に配分するという考えからきています。

例えばハーバードやイエールのような、最難関の名門校を出て国の基幹を
将来担う可能性のある人材であっても、「そうでない」国民と同じように
戦争に行くべきだ、という考えは、「イコーリティ」の点からはもっともでも、
国の存立の点からは「非効率的」であるという考えが主流になったため、
アメリカではこれからもおそらく徴兵制は復活しないであろうと言われています。

確かに、比較的入るのだけは簡単なアメリカの大学の中で(それでも出るのは大変ですが)
入学すること自体難しいこのイエール大学の卒業生が、このように大勢、
水漬く屍草生す屍となって失われていったということを目の当たりにすると、
不謹慎な言い方かもしれませんが、

「なんと勿体無い」

といったような気持ちが湧き上がらずにはいられません。 


先般から日本でもおかしな人たちがただ現政権への反対をするためだけに

「徴兵制になる」

ということを煽り、脅かして先導しようとしたということがありました。(現在形?)
国を守るということにおいて国民の責任に多寡はないはずですから、
その意味だけでいうと、徴兵制は徴兵賛成派の言うように公平なシステムです。

しかし、いつの頃からか、戦争も「専門職化」してきて、誰でも彼でも役に立つかというと
そんなことはないわけでして、やはり大学、特に名門大学を出た人は
国家指導者を目指し、あるいは科学や医学で国のために尽くすべき、という
「適材適所説」が現代の主流となっているということなんですね。

アメリカみたいなしょっちゅう戦争している国でも

「国難における国民の責任は公平であるべきだから皆が戦場にいくべきである」

なんていう精神主義的な国防論は今や全く受け入れられていないわけですから、
ましてや日本みたいな国で、どんな事態になろうと(ていうかその事態に必ずなるというのが
反対の大前提っていうのがもうね)徴兵制だけにはなりっこないのですが。



さて、彼らはイエール大学という全米でもナンバー2に位置する難関大学を
たまたま卒業した年に、アメリカが戦争に突入したという人たちでした。
卒業するや否や徴兵によって出征した彼らは、全米最高の学歴を持ちながら、
ほとんどがそれから数年以内に、銃を撃つこと以外の貢献をすることなく
この世を去ったということになります。 


日本人であれ、アメリカ人であれ、有為の若者があたら若い命を散らしたということを物語る
このような痕跡の前には、わたしは粛然と頭を垂れるのが常ですが、特にここでは、
彼らの死によって失われた未来の可能性の大きさをただ惜しまずにはいられませんでした。

そして戦争とはまさに人類にとって愚挙の最たるものであり、
人類滅亡の日を早めるものがあるとしたら、それは
「国家」という枠組みそのものの存在ではないか、
ということまでつい考えてしまったのです。




ー8月15日、アメリカにてー

 

 


アメリカでホテル火事に遭遇した

2015-07-27 | アメリカ

皆さんは実際に火事に遭遇したことがあるでしょうか。

わたしは4歳くらいの時、「おかあさんといっしょ」を見ていたら、

洗濯をしていた母親が「火事いい〜〜!」と叫んだので駆けていくと、
隣の壁からメラメラと炎が噴き出していて、その日一日は道路に避難して
隣の家が燃えるのを呆然と見ていたのが唯一の経験だったのですが、
今回何の因果かアメリカで、しかも泊まっていたホテルの火災を経験しました。



幹線道路に面しているのに防音設備の何もない古びたインにチェックインし、一晩が明けました。
時差ぼけのせいもありますが、何より耳栓をして寝たにもかかわらず、
その騒音は防げるものではなく、疲れているのに熟睡できた気が全くしません。

「道路に面していない部屋に変えてもらおう。こんなので20日も持たないし」

そう思いながら、その日は息子のキャンプ開始に備えて買い物に出かけました。



夕方6時頃ホテルに帰ってきて、洗濯をすることにしました。
こんな狭いインなのに、どこに洗濯をするところがあるのか全くわかりません。
息子と二人で紙袋を持ったまま二階まで見に行って帰ってきたら、
わたしたちの白いカムリの横に停めてあるグリーンの車からアフリカ系女性が出てきていて、
挨拶をしてきました。

「あなたたちここに泊まってるの?フロントに誰もいないんだけど」

「留守なんじゃないですか?ここに電話しました?」

フロントの上に書かれている電話番号を教えてあげて少し雑談してから
わたしたちは広くもない敷地をまた洗濯機を探して一周しました。
すると息子が、

「窓から煙が出てる!」

と言いました。
写真はこの直後とったもので、すでに廊下の奥が白く煙り出しています。
息子がそういうのとほとんど同時にそのアフリカ系女性が

「あらやだ、(おーまいがー)火事!火事よお!(ファイア!ファイア!)

と叫んで、車の中にいた彼女の友人が中庭に面した全てのドアをたたき、
(後で知ったところそこは洗濯場とか倉庫だった)

「火事だから逃げて〜〜!(えぶりばでぃずあうと!ファイアー)

と叫びだしました。



左がその女性、仮にジャッキーさんとしておきましょう。
赤いシャツの女性は管理人室の真上の部屋にいた人で、火事の知らせを受けてから
まだアンパックしていなかったらしくトランク一つ持って降りてきました。
後は若い男性二人連れ、中国系の若い女性二人連れ、東洋系の男性一人です。

ジャッキーが代表として911に電話をし、住所を説明するときには他の宿泊者が教えたり、
男性のうち一人がもう一度全戸のドアを叩いて周って、皆で協力しあって外に避難しました。

わたしたちは荷物があまりにも多すぎたので、仕方なくパスポートの入った機内持ち込み用の
キャリーバッグと財布とクレジットカードだけ持ち出しました。
そして、とりあえずこれからどうなるかわからないので中庭の車を外に避難させました。



私たちの部屋は火元の管理人室とは反対側だったのでそんなに心配していませんでしたが、
さすがに窓から煙だけではなく、窓の桟から炎が出て不気味に広がりだしたので、
こういう状態からいきなり何かに引火して爆発する確率ってどれくらいだろうか?
などと
縁起でもないことを考え始めた頃、



まず一台、続いて計3台の消防車、赤い消防車の車、パトカーが続々と。
ジャッキーが電話してから5分以内といったところでしょうか。
ちなみに手前の白いトヨタはわたしの車です。



「来た来た・・・早ええ」
「ふええ・・ファイヤーファイター、かっこいいなあ」

もう大丈夫、という安心から他人事のようにわくわくと盛り上がるわたくしたち。



男は職場で最も輝く、と言いますが、仕事中の消防士ほどかっこいいものはありません。
全員が分厚い消火服とヘルメットに身を固め、酸素ボンベを背負って、
なんのためらいもなく、一つの目的を成し遂げるために時には命の危険も顧みず力を尽くします。


消防士の背中に書かれているのは町の名前。
ここはロスアルトスとマウンテンビュー同様シリコンバレーの一部である
メンローパークです。
メンローパークは富裕層の住宅地で、パロアルト同様に教育水準が高く、
25歳以上の住民の約7割が学士以上の学位を保有していることでも有名です。
スタンフォード大学に隣接していて、facebookやSRIインターナショナル本社もあります。




続いてはしご車も到着しました



消防士たちは信じられないスピードで消防車からホースを引き出し、
神経質なくらいきっちりと消火位置を決め、地面に整然と置いていきます。
こういう時ののホースの並べ方のセオリーは決まっているようです。



いつの間にか窓ガラスは割れていました。

前の夜、部屋が異常に暑いので調べてみたらヒーターが入っていて、

これじゃいくら冷房しても涼しくならないはずだと室温ケージを最低温度にしたのですが、
一向にヒーターが消えてくれないので管理人室に言いに行ったとき、
ちょうどこの窓にかかったカーテンの前にテレビがあって、
管理人の子供達(おデブの男の子と女の子)がテレビを見ているのが見えました。

彼らが見ているのが飛行機の中で見たばかりの「マダガスカル」の一場面で、
少しだけですがその偶然に驚いたのをこのとき思い出しました。
ここが一番の火元だとすると、もしかしたら配線からの出火でしょうか。

「スプリンクラー付いてなかったんだねこのホテル。ホテルなのに」

息子に言われてそうだったのかと改めてゾッとしました。
メリカにももちろん宿泊設備における消防法は決められていると思うのですが、
この宿屋の消火器はいったい今から思えばどこに設置されていたのか、
チェックインした時に聞きもしなかったし、確かめることもしませんでした。


そしてわたしたちは部屋の空気の饐えたような臭いを消すため、

アロマキャンドルをほとんど起きている間ずっと焚き続けていましたが、
スプリンクラーのないこの宿では、それが火元となっても消す方法がなく、
火事が広がっていた可能性だってあったということなのです。



今回、本人が留守だったとはいえ、よりによって管理人の部屋から出火したわけですから、
今後このホテルが今まで通り営業を許可されるかどうか・・。
特にカリフォルニアの高額納税者がたくさん住む地域での火事は、
法律もそれに対して厳しい罰則が科されることになるのに違いありません。



二階があることから、はしご車からはしごも降ろされました。




煙が・・・煙がどんどん強くなっていっているう〜〜!

しかし、消防士たちが作業を始めると、すぐに火は消されて彼らはハイ・ファイブを決めました。
(ハイタッチのことをこちらでは”指5本”でハイファイブといいます)
このころ、わたしたち焼け出され組は反対側の歩道に立って写真撮りまくり。
気がついたら散歩に出ていた付近住民などもあつまっています。



「ちょっとちょっとあなた、ここに住んでるの?」

わたしに70歳くらいの美人なおばあちゃまが話しかけてきました。
おばあちゃまはわたしにいろいろとインタビューしていたかと思うと、(笑)
ちょっときなさい、とわたしを警官のところに連れて行き、

「これからどうなるのかしらー、この人ここに泊まっているそうなんだけど」

親切なのか好奇心からなのか、そんなことを聞き出そうとします。

「火を消すことができても、建物が古いから、全戸に渡って
倒壊の危険がないかどうかとかを調べて、完全に大丈夫ということになるまで
何人たりとも部屋に入ることはできません」

「あらそうなの、かわいそうだわー」

「それより、皆さん、もっと後ろに下がってください。
さもないと煙を吸ってしまいますから」



なるほど、こういうときにお巡りさんが出てくるのはこういう指示をするためか。
それにしてもアメリカのお巡りさんは皆ガタイがいいからコワモテで迫力があります。
このスキンヘッドがどうやらこのクルーのチーフである模様。



もっともっと、と言われて皆ここまで下がってきました。

ここで図らずも宿泊者全員がひとところに集まることになり、わたしは
ジャッキーさんとここでまた顔を合わすことになったので、

「災難だったわねー」

「でもすぐにコールしてくれてありがとう」

と言い合い、アメリカ人の慣習に従って、ここでハグしあいました。
なぜかおばあちゃまはこの場を離れず、すっかり場に溶け込んでいます。
時々わたしにも話を振ってくるのですが、ジャッキーさんとその友人とは特に気があったらしく、
家に帰る様子は全く見せずに話し込んでいました。

聞いてみたところおばあちゃまはこの近所に住んでいるということでした。
裕福なおうちで悠々自適だけど、至極刺激の少ない生活をしている彼女にとって、
この火事騒ぎは久しぶりにわくわくするちょっとしたイベントであったようです。



みんなが避難させられたパーキングは、ジョンソンアンドジョンソンの敷地でした。
お巡りさんが「部屋に入るまでまだ最低1時間はかかる」といったので、
わたしたちは近くのモールに行って買い物の続きをして時間を潰すことにしたのですが、
その間おばあちゃまはジャッキーさんをお茶に招きかねない勢いでした。

「本当に招待してても驚かないね。”ジンジャークッキーがあるの”とかいって」


管理人室の上に部屋があった赤い服の女性は、1時間後わたしたちがモールで時間を潰し、
ホテルから荷物を全部運び出すために帰ってきた時、まだ部屋には帰れず
外で待たされていたので、わたしは息子に冷蔵庫のオレンジジュースを持っていかせました。

 

わたしたちはモールでTOに連絡を取って今夜からのホテルを取ってもらうことができたので、
残りの宿泊予定をキャンセルすることにしました。


「しかし、いろいろラッキーだったね」

「あのときおばちゃんとわたしたちが中庭にいなかったらもっと火事が広がっていたかも」

「俺が一番最初に煙に気がついたんだよ」


息子、得意そう。

たとえばあのとき洗濯場がすぐに見つかって洗濯を始めていなくてよかったとか、

部屋を変えてもらって火の元に近い部屋に移ってなくてよかったとか。

どちらにしても騒音の件も含め、期待はずれのホテルであったため、

残りの日数を別のホテルに移ることになってかなりホッとしたのも事実です。

アメリカでのホテル選び、特に値段は「快適さ」だけでなくときとして
安全ですらそれに含まれることもあるなあ、と実感した今回の騒ぎでした。



あまり堂々と写真を撮るのも気の毒なので、遠くからこっそり写した
管理人夫妻が消防署所員から事情聴取されているところ。

ただの家ならともかく、人命を預かる宿泊業として自分ちから出火するってのはどうよ、
と彼らが叱られたかどうかはわかりません。




一泊だけしておそらく今後二度と来ることはないホテルではありますが、
とりあえず荷物を全てパッキングし終わってから最後に記念写真を一枚。

管理人夫婦が消防署員から解放されたらしいのを見計らって、奥さんの方に
鍵を返し、別のホテルに移る旨を告げると彼女は

「今回の宿泊料は全額返金します。
でも、こんなことになっているので、数日くらいしたらペーパーワークのためにもう一回来て」

とさぞかし気落ちしているであろうに、ちゃんとした口調で言いました。

「I am so sorry.」

わたしはそう言ってホテルを後にしました。

・・・が、その後払い戻しでホテルに立ち寄ったら、窓に板をかぶせて火事のあとを隠蔽し、
焼け残ったオフィスはそのまま使用して普通に営業していたので驚きました。
対応した主人(もちろんインド人)は、

「えーと、じゃ結局2泊だけしたってことで」

だから2泊目の夕方に火事がおこったわけですけど?
一泊だよお父さんどさくさに紛れてちゃっかりごまかすんじゃねーよ。
自分たちが火事を起こしたことに反省の色もなくにこにこしながら、

「ホテルすぐ見つかった?そりゃよかったね」

日本ではこういうとき「ご迷惑をおかけしました」ってくらい言うのが社会常識なんだけどな。
一応お約束でこちらからアイムソーリーをいっても”いっつおーけー”、って。

さては保険金でリニューアルウハウハ、内心しめたとか思ってますか?

 

というわけで、去年泊まったホテルのディザーブル・ルーム(ハンディキャップ用)
に空きがあったので、ここで数日過ごし、後は後半のホテルを前倒しして泊まります。

「いやあ驚いたね」

「なんて1日だ・・・・あー、自分が煙臭い」

今までとは別世界のように静かで清潔で火事の心配もなさそうなホテルの部屋で、
今年はちょっとの節約のためにどうしてあんなホテルを取ったのかあらためて考えてしまいました。

もし火事が起こらずにあそこに20日も住んだら、その間ずっと騒音と不快な室温と、
レンジで温めたパンと小さな冷蔵庫を我慢しなければならなかったわけですが、
つまりこれはどういうことかというと、このホテルに宿泊を予約した時点で、


火事が起こっても起こらなくてもわたしたちは
なんらかのダメージを受ける運命だった

ということなのです。


最低限の安全と精神的幸福にお金を惜しんではならない。
あらためてわたしはそう悟りました。


ところで、消防車が来たとき、わたしが思い出したことがあります。
そう、海上自衛隊の航空教育隊に訪問した時、消防車で放水作業をさせてもらったことです。

もちろんあれが生まれてはじめて消防車の運転席に乗ったという瞬間であり、
放水ごっこも、この生涯で行ったはじめての経験であったわけですが、それから
1ヶ月しか経たないのにその消防車のお世話になるとは、いったいどういう偶然なのか・・。

 

 




 


EAST TO WEST〜「サックス」な飛行機&ホテル

2015-07-26 | アメリカ


さて、西海岸に来たとたんまともに編集面の文字打ち込みができるようになりました。
インターネットの速度を調べると、普通のホテルでも異常に速いのがシリコンバレー。
というわけで、東海岸での最後の日のことをご報告します。




息子の参加しているキャンプの解散が週末の午前中であったため、
二日前にボストン入りし、ボストンからニューヘイブンまで、ノンストップで飛ばしました。
学校近くのホテルに着いた時には、フロント係の

「How are you today?」

に、真面目に

「いやー疲れたわー、ボストンから渋滞の中運転してきて疲れたわー」

と答えてしまったくらい疲れました。



息子を迎えに行く前日、食事のためにニューヘイブンの繁華街にでてみました。
この近辺の駐車事情はそう悪くなく、パーキングのメーターもコインとカード両用です。
次の日は民間のパーキングに入れましたが、1時間で1ドル50という値段にのけぞりました。

ふと目に付いた「グッドネイチャーマーケット」というグロッサリーに入って、
ビュッフェ式のお惣菜をパッケージに取って持ち帰り夕食にしましたが、
後で息子もそこで少し前に夕食を取っていたことが判明しました。
この辺りには「先進的地域の証明」ともなっているホールフーズマーケットがなく、
そのかわり地域のオーガニック系グロッサリーが「意識高い系」のニーズを支えています。



明けて次の日、3週間前に息子をドロップオフした「オールドキャンパス」のロータリーに
親子で打ち合わせした時間に行きます。
学校の指定は「8時から12時までの間」と大変幅広く時間が取られています。



よう、お前行くのか!と別れを惜しむ息子とカウンセラー。
彼らもほとんどが大学生のアルバイトですが、なにしろ三週間同じ釜の飯を喰った仲間ですから。

後で聞いたら、解散式の時には挨拶をしたキャンプ主催者が涙ぐんでいたとのことでした。



来年も来いよー、などと言われております。
息子がレインコートを着ているのは、この少し前に土砂降りだったため。
彼が左手に抱えている紙袋はここで購入した本ですが、



滞在中、自分の本を買うついでに、「戦争コーナー」の写真を撮ってを送ってきました。



「ヘル・フロム・ザ・ヘブン」
「帝国陸軍」「帝国海軍」・・・。

「ママが欲しかったら買っておくよ」

ということだったので、「帝国海軍」をお願いしました。
これがなかなかすごい本だったのですが、これについてはまた後日。



息子と荷物を乗せて、いよいよニューヘイブン大学を後にします。

「楽しかった?」

「うん。最初の1週間は1日が長かったけど後はあっという間だった」

というわけで、彼は来年も同じキャンパスに来たいそうです。



帰りのI-95は大変な渋滞でした。
せっかくなので、息子と大学構内の博物館を三軒はしごして、ご飯を食べたら
ちょうど週末の帰宅ラッシュに引っかかってしまったのです。

前に停まっている犬のマークのバスが例の「グレイハウンド」。
ビリー・ジョエルの歌でもおなじみ、アメリカの有名な長距離バスです。



前にいたトラックの後ろにかっこいいバイクが積んであるなあと思ってふと見たら、



「ヨシムラ」・・・?

バイク乗りならおそらく誰でも知っている(らしい)会社のシールが。
バイクも作っていますが、特にマフラーはブランドのようですね。

ホンダやカワサキだけでなく、バイクという分野で日本の「職人スピリット」とも言える
ほとんどが小さな町工場から始まった技術は、今や世界の走り屋の信奉を集めています。



ナビは当初1時間半と予告をしたのですが、結局3時間かかって、
当夜のホテルのあるウェストボローに到着しました。
昔、何度か来たことのあるリーガルシーフード(ボストンの有名なシーフードレストラン)
で晩御飯を食べることになりました。



久しぶりに来たら、フロアーの4角に液晶パネルのテレビが掲げられ、
4つのテレビが皆違うチャンネルになっていました。
食事しながらレッドソックスやニューイングランド・ペイトリオッツの試合が観れる!
ということですね。

前回まで、毎回お店の人は息子に塗り絵とクレヨンを持ってきましたが、
(それがキッズメニューになっている)今回は無論ありません。



日本人の目には、その辺のご飯屋さんの焼き魚定食(レモン乗せ)にしか見えません。
メインを選んだら、二品サイドがついてくるディナープレート。



息子はスウォードフィッシュ(メカジキ)を選びました。
こうしてみると、こちらもせいぜいファミレスのセットみたいですが、
これでもどちらも26ドルします。

52ドルにタックスが加わり、さらにウェイターへのチップを加えると、
日本なら小洒落たフレンチのランチコース二人分がいただける値段に(T_T)

まあ、高いのは重々わかってはいましたがボストンも最後の夜だしねってことで。



明けて次の日。
国内移動はアメリカン航空です。
アメリカンとデルタというのはどうもアメリカ人の間でも評判が悪いらしく、

アメリカン・・・・サックス!」

などといわれているそうです(息子談)



タキシングしているときに横の海でジェットスキーをしていた人。



離陸しました。
さようならニューイングランド。



ボストン湾には大変島が多いのですが、今回こんなのを見つけました。

要塞のような城壁があるので調べてみたところ、「ジョージズ島」といい、
要塞に見えるものはやはり19世紀に建てられた要塞の遺跡でした。
この要塞は南北戦争時に兵士の訓練所や南軍の捕虜収容所として、(まじかよ)
また北西戦争、第一次・二次世界大戦時には海からの攻撃防御役を担っていたそうです。

2階建ての要塞には薄暗い通路や狭い階段などがあり、ダンジョン探検気分で
歩き回ることができるとか。




帆船でクルーズするツァーもあるようですね。
この近海には鯨も回遊してくるため、季節によってはホエールワッチングの船も出ます。



これは無人島・・・・だろうなあ。

そういえば、乗っていた船が難破して無人島にいたところ、アメリカの捕鯨船に助けられ、
鎖国中ゆえに日本へ帰れず船長と共にアメリカに行って暮らしたジョン万次郎っていましたね。
ジョン万次郎は捕鯨船の船長に連れて帰られたそうですが、その船長の家も

ここニューヘブンにあり、今ではその住んだ家が観光名所となっています。



上空からこの光景を見て、思わず鳥肌が立ってしまったわたしです。
海を埋め尽くすようにびっしりと見える白いものは、ヨット。
ケネディ家の別荘もあったというこのボストン港には、ヨットオーナーがたくさんいて、
この日は週末だったので皆がクルーズしているわけですが、それにしてもこの多さ。



国内移動はエコノミーで耐えるというのが家訓の我が家ですが、今回はどういうわけか
国際線の往復のステイタスと別のチケットが取れないことになり(T_T)、
ファーストクラスで行くことになりました。

「アメリカンのファーストって、なんか期待できないよねえ」

と失礼ながらヒソヒソ言い合っていたのですが、
実際ましなことといえば、座席が後ろより広いってだけの話です。
しかもファーストのくせに椅子が1ミリも後ろに倒せないんだよ。
離発着のポジションのまま寝る、これは大変辛うございました。
向こう側の男性みたいに独自の態勢ですっかり安眠しているらしい人もいましたが。



一応ファーストなのでおしぼりは出ましたが、手を拭くと水が滴り落ちました。



そしてこれがファーストの食事である。
いや、シカゴ乗り継ぎまでのせいぜい2時間半くらいだからいいですよ?



ボストンから2時間半でシカゴのオヘア空港に到着。
上からみたシカゴは、完璧に整備された碁盤の目のような街並みが続きます。 


 

計画的に作られた都市なんですね。
街の中心部の広大な公園も、真四角です。



野球場では観客は全くいませんでしたがダイヤモンドには人がいました。
ここで飛行機を乗り換え、サンフランシスコに向かいます。



タキシングの時に飛行機の後尾部分から水が流れているのを発見。
こ、これは一体?



これがサンフランシスコ行きのファーストの食事である。
生ハムのメロン乗せかと思ったら、微妙にハムが変な味でしかもどうしても噛み切れず、
苦しくなってこっそり口から出してしまいました。
アメリカ人ってこんなものを噛まずに食べることができるのか・・。



驚いたのはおやつの時間にアイスクリームが2スクープずつでてきたこと。
キャラメルタフィー入りのアイスで、これだけは美味しかったです。



サンフランシスコ上空にくるといつも不思議に思うこの景色。
地図で確かめると、この部分は「海」です。
浅瀬で泥の質が違うところだけが赤っぽかったりするのだと思いますが。



自然が作り上げた模様に、人工的な灌漑部分が直線を加え、芸術作品となっています。



右側がサンフランシスコ側と対岸を結ぶサンマテオ・ブリッジ。



上空から見えるように「フォスターシティ」と地面に巨大な文字を描いています。
今回後半はこのフォスターシティのホテルを予約しました。
空港の比較的近くです。



この辺は埋立地なのかもしれません。
右手のサンフランシスコ空港に向かう航路は2つあるので、時々
自分の飛行機と平行に飛ぶ他の飛行機を見ることがあります。



コンチネンタル航空ですね。



空港に着いたのに、いつまでもドアが開きません。
わたしは最前列の席だったのですが、CAが来て「場所代わって」といって
わたしが今まで座っていた席に座って外を見てのたまうには

「着いたのが15分早かったせいで誰もいないわ〜」

飛行機のドアに接続する通路を操作する人が来ていないとヘラヘラ笑いながら言っております。
をいをい、そして君は待っておる間、なんでその席で携帯電話のメールチェックを始めるかね。


鶴丸航空の皆さん、サービスが過剰だとか丁寧すぎてうざいとか思ってごめんなさい。
日本の航空会社の従業員教育とサービスは世界一です。ええ、世界一ですとも。



サンフランシスコ到着後、無事に車を借り、ホテルにチェックイン。
学校に極近のモーテル的なキッチン付きインを借りました。



写真に撮るとまあまあですが、おそらく築60年は確実な老朽化した木造の建物。
部屋に入ると変な匂いがし、異常に熱がこもっています。



一応インテリアなども考えている形跡はあるのですが、いかんせん部屋が汚くて暗い。
やっぱり写真だけで安めの宿を取るのは考えものだなあ、とがっかり。

管理人は(オーナーでもある)同じ建物の一角に家族で住み着いているインド人でした。



アメリカでは見たこともない小さな冷蔵庫。トースターなし。



そして問題はこれ。
窓のすぐ外が幹線道路で、しかも窓が防音でもなんでもなく、配管のために開けた壁に
隙間ができていてこのため猛烈にうるさいという・・。

おまけにクーラーというのが、音ばかり大きくて、いくらガンガン稼働していても
全く部屋が涼しくならないという代物で(もちろん日本製じゃありません)
それをつけると普通の会話も不可能になるくらい。

これは大変なところに住むことになってしまったなあ、せめて
道路に向いていない部屋が空いたら変えてもらおう、と思って一夜が明け、
二日目にわたしたちにとんでもない事件が起こったのでした。

火事です。



続く。


 


ニューヨーク、ニューヨーク〜旅しながら写真を淡々と貼る

2015-07-23 | アメリカ

ニューヨークは初めてではありません。
ボストンに住んでいたとき、目的もなくふらっと旅行にきたことがあります。

当時はまだ「グラウンド・ゼロ」と呼ばれていた911の、ワールドトレードセンター跡を
お金を払って観るツァー(中に入れてもらって見学台みたいなところから写真を撮るだけ)
で見学し、ウォルドーフアストリアでお茶を飲んで、寿司◯でおばちゃんに嫌な目に遭わせられ、
ブルックリンブリッジを見て、エンパイアステートビルの屋上に登り、自由の女神を観て、
ついでにジョン・レノンが撃たれた現場を見てきました。

ツァーに参加したわけでもないのに、典型的なおのぼりさんコースの王道を行ったわけですが、
それはそれで、この街の片鱗くらいはわかった気になっていました。

しかし、そのときと今回とで大きく違ったのは、交通手段。
アムトラックという都市間を結ぶ電車(ぢゃないのか・・・とにかく列車)だった前回と、
車での移動だった今回では、見える景色も随分違いました。



ノーウォークのホテルは高速乗り口のすぐ近くだったので、幾つかの分岐をやり過ごせば
あっという間にハドソンリバーを渡り、いつの間にか川沿いを走っています。

アムトラックでは見ることはなかったのがこのハドソン川で、わたしは
写真に見える河にかかっている橋を見るなり、

I'm just taking a greyhound on the Hudson river line
cause I'm in a New York state of mind.

という、ビリージョエルの曲の一節を思い出し、口ずさんでしまったのでした。

この歌詞の「ハドソンリバー・ライン」というのを、今まさに走っているところです。

「グレイハウンド」というのはアメリカ最大のバス会社ですが、転じてバスのことを
「a grayhound」と名詞扱いで言ったりするのです。
今回、ハドソンリバーラインでグレイハウンドは見なかった気がしますが、
長距離バスは1日に何本も走っているものと思われます。



ニューヨークの中心街に行くには、このように、右側はハドソン川、そして左に
いわゆるハーレムがまず出てくると、あとは高層ビルが連なるニューヨークです。



ハドソン川をこのまま少しだけ下って行くと、河口にはあの「松明を持ったレディ」が立っている
リバティ島、アメリカ人の5人にふたりが、そこにある移民局を通ってきた先祖を持つという
エリス島、沿岸警備隊の置かれていたガバナーズ島があります。



ここからは、それらの島を巡るクルーズツァーが出発しています。



ハドソン川の対岸は、ダウンタウンから離れたところなので、ベッドタウンとなります。
しかし、川のこちら側に住むのと向こうに住むのでは随分ステイタスが違う模様。

「セックス&ザ・シティ」で、主人公のキャリーが自分でへし折った()携帯電話を再発行したとき、
ナンバーがマンハッタン島居住を表す「3で始まらなかった」からといって、

「わたしは”3”の女よ。違う番号から始まる電話なんて持たないわ」

みたいなことを言っていましたが、(あの主人公たちのスノッブなことといったら)
まあそういうことなんでしょう。



この道はハドソンリバーの横を走っている道路です。



外国人が日本に来て驚くことの一つは大都市が清潔、ということですが、
住んでいるものの目から見たら、どこが綺麗なの?と思うこともあるかもしれません。
しかし、ニューヨーク、サンフランシスコ、ロス、パリ、ロンドン、モントリオール、ローマと、
一応先進国の大都市に訪れた経験のあるわたしに言わせれば、東京の清潔さは異常。
もちろん香港、台湾、上海や南京などは「問題外の外」です。

どんな都市にも、大都市ならではの繁栄の澱のような部分がそこここに蓄積していたり、
上の写真のような工事中だから仕方ねえだろう、と言わんばかりの
実にお見苦しい光景が展開していて、
その雑さは目を覆うばかり。

日本では普通にある「工事中のお詫び」みたいな看板を今回ニューヨークで見ましたが、
ご迷惑をかけているお詫びをする気など全くないのが、これを見てもよくお分かりでしょう。



時間によっては大渋滞になるニューヨーク市街。
その中をぶいぶいと走り回っているのがイエローキャブ。
今回ちょっとした発見だったのは、「ニューヨーカーの運転は粗い」ということです。

総じてサンフランシスコもボストンも、アメリカ人の運転は大胆です。
高速道路がどこもまっすぐで広大なせいか、制限速度が日本のように低めに設定されていないせいか、
一旦フリーウェイに入ったが最後、親の仇のように飛ばすのが普通。
しかし、ニューヨークに入る道では、さらに一番右車線で時速100キロで走っていても、
左2車線ではブンブン車が追い越していくほど皆が普通に飛ばします。
追い越し車線に入ったら最低でも120キロ出していなくては後ろに「渋滞」ができます。

それだけならいいのですが、皆車間距離を取らない(笑)

わたしは決して慎重すぎる運転をするわけではなく、周りの流れに合わせた、
空気読む運転を常に心がけているつもりですが、高速の車間距離だけは広くとります。
日本でさえ、今乗っている車の自動制御機能がとってくれる車間距離で走っていると、
前の車と全く同じ速度で走っているのに、間に割り込んで来る”いらち”な車があるのですが、
ここであの車間距離を取って走っていたら、後ろからマジで怒られてしまいそうです。

今回も走行中、なんども後ろの人の顔がバックミラーではっきり確認できるくらい接近され、

「よくこんなので皆事故を起こさないなあ」

と思っていたら、やっぱりNYまでの三往復中、車間距離が原因と思われる事故を
3日の間に2回目撃しました。
みなさん、後ろにどんなに煽られても、車間距離は取りましょう。



渋滞した車が信号で渡りきれずに横断歩道の手前にいるの図。

通りの突き当たりにあるのがタイムズ・スクエアです。
「H&M」のロゴが大変目につくところにありました。



街角にあった謎のペイント。
猫の形のステンシルには天使の羽と輪っかの書込みがあり、
さらに上には

「He's sick. I'm twisted.」

と謎の暗号が・・・・・。



様子がわからないのでオンラインでパーキングの予約をしました。
右角に見えている機械式の駐車場なのですが、これが高い。
都合三回ダウンタウンで車を停めましたが、最低料金が38ドル。
今は円安なので車を止めるだけで4200円は必要ということになります。
日本で一番高いのは表参道付近のパーキングだと思うのですが、おそらくニューヨークは
世界で一番駐車料金の高い都市に違いありません。



ロックフェラーセンターの一角にある「ラジオシティ・ミュージックホール」。
1932年に作られたアールデコ建築のホールで、エミー賞などの授賞式も行われます。



ラジオシティの道を挟んで向かいにあるここもロックフェラーセンター。
そもそもロックフェラーセンターというのは、5番街と6番街にある複数のビルの総称です。
クリスマスには巨大なツリーとスケートリンクが作られ、市民を楽しませています。



ニューヨーク近代美術館の前の道ですが、工事中。
いつ来てもどこかしら工事中というイメージがあります。
労働の場の確保みたいな意味があるんでしょうか。



イエローキャブの群れと「ミニオンズ」の看板はよく似合う(笑)
市中観覧バスも大盛況。
バスの後ろに各国の旗が書かれていますが、ハンディフォンでも貸してくれるのでしょうか。



ミニオンズ看板もう一丁。
日本でも7月30日に公開されますね。
日本ではあまり人気がないみたいですが、アメリカでは何か人々の琴線に触れるものがあるらしく、
あっちこっちでキャラクターグッズも発売されています。



アメリカのおデブ女優、コメディエンヌのメリッサ・マッカーシーの新作。
これ、日本では多分公開されないと思いますが、見てみたいです。



ニューヨークのバスも、動く広告としていろんなペイントがされていますが、
ミュージカルの宣伝バスも多いです。
わたしたちが今回見たのはこの「オペラ座の怪人」と「シカゴ」。

バスの向こうにある店はディスカバリーショップです。
テレビのディスカバリーチャンネルがプロデュースしている面白グッズ屋で、
昔はボストンにもサンフランシスコにもあったのですが、ネットでの販売網が発達したからか、
何年か前に一挙に閉店してしまいました。
ここニューヨークのは旗艦店なので、生きながらえているようです。



ああここか、とちょっと感動してしまった「バードランド」。
ジャズのスタンダードの名曲で

「ララバイ・オブ・バードランド」

というのがあるのですが、「鳥の国の子守唄」ではなく、ここのことです。
マンハッタントランスファーにも「バードランド」がありますね。

Manhattan Transfer Birdland



階段を降りていくと憂さを忘れる・・・どこ? バードランドさ
スイングとバップがそこでは王様・・・どこ?バードランドでは
バード(チャーリー・パーカー)が料理し、マックス(ローチ)が見れるよ・・バードランドでは
マイルスが来たこともある、トレーン(コルトレーン)も来たよ・・どこ?バードランドに
(カウント)ベイシーが吹く、(アート)ブレーキーが吠える・・どこで?バートランドで
キャノンボール(アダレイ)もそのホールで演奏した・・・・バードランドで!
(わたし訳)



錚々たるジャズの巨人たちが通り過ぎていったこのドア。
演奏予定表をみてみましたが、残念ながらわたしが知っている名前はありませんでした。



立派な建物のピッツェリアの向こうにあるのはホテル「セントジェームス」。



ニィーヨーク市消防署の前を通り過ぎました。
バタリオン9の徽章は、ブロードウェイにある消防署らしく、仮面があしらわれています。

あの911のとき、ビルの内部に勇敢にも駆け上っていったのは消防士たちでした。
彼らは「所々から出火しているだけなので、助けられると思う」と通信し、
煙の中かから人々を誘導するために、高層ビルの上階にたどり着いていましたが、
そのときビルはまるで砂糖菓子のように崩壊し、ビルの人々とともに犠牲になったのでした。

この車庫のシャッターには、あのとき亡くなった当消防署の隊員たちの名前が書かれ、
赤いバラと永遠に彼らを顕彰する文言が刻まれています。



署の前には、消防隊員たち(皆マッチョ)が、休憩に出てきていました。
なんとタバコを吸っているようですね。



画面に映っている人の9割が日本ではDEBUと言われるような体重の持ち主ですが、
決してここアメリカでは珍しい光景ではありません。
ただ、ニューヨークのオフィスワーカーには、これほど野放図に太っている人は
男女を問わずあまりいないので、おそらく観光客だと思われます。



ところで地方の土産というのは全世界基準でどうしてこうしょうもないのか(笑)



朝方、ニューヨーク名物の馬車が路上に待機しているところを通り過ぎました。
新婚さん向けなのか、白い馬車のうしろにはハートのマークが。
それにしても汚れの目立つ白い馬車くらい綺麗にしろよと思うのはわたしが日本人だから?



馬が引いている馬車が歩いているのは今回一回だけ見ました。



ミュージカルは5時に終わるので、それからダウンタウンを出ると、渋滞がこの通り。
皆一斉に街を出て自宅に向かうので毎日おなじみの光景のようです。

これはハドソンリバー沿いの道なのですが、この道路の右側にずらりと並ぶビル、
これは「すべて」トランプ・タワーです。



*おまけ*

喧騒の都会から1時間いくと、実にのどかなノーウォークに到着。

このカメラの看板はホテルの横にあったのですが、「スタンフォード」というのは街の名前で、
西海岸のは「N」ですが、こちらは『M」です。(発音は一緒)

ここアメリカではカメラというとご覧の通りNIKONかCanon、たまにソニー、オリンパス。
道行く人を見ていても、それ以外のカメラは見たことがありません。
ことこの分野に関しては、日本企業がアメリカでの占領軍であるといった状況です。

あれ?アメリカのカメラメーカーって何かあったっけ?




 


ボストンの朝

2015-07-21 | アメリカ

最近コメントへのお返事が全くできない状態が続いておりました。
皆様方には衷心よりおわび申し上げるしだいです。
理由は三つあって、アメリカに来た途端gooブログの編集画面の不具合で、
一行打つのになぜか数分かかってしまうこと(今も文字が出てこない(−_−#)。

二つ目は自分のブログなのになぜかコメント欄にアクセスできないこと。

三つ目は前にも告知したように、西海岸まで二往復、間に台湾行きを挟む強行軍で

その間ホテルのベッドを温める間もなく毎日移動か観光が続いたためです。

しかも台湾から帰国して二回目のボストン行きまで日本で数日過ごしたのですが、 
その間あまりの湿度の高さに参ってしまいました。

実はわたくし、ここ15年、日本でこの季節過ごしたことはなかったんですね〜。




ところで、日本に帰ってきた次の朝、いつも遊びに来る猫たちがお迎えしてくれました(笑)
サバ猫の方はすぐに私を思い出しましたが、お年寄りの黒は少し時間がかかり、
私の顔を見てからふーっと目を閉じてしばらく瞑目し、やおらかっ (`ФωФ')と 目を見開いて
思い出した!という顔をしました。

「リロードに時間かかったね」

「ダウンロードの時最後の1パーセントですごく時間かかることあるけど、あれみたい」

猫にとって2週間は人を忘れるに十分な時間である模様。
今度は1ヶ月だから、おそらくまた帰ってきたころにはすっかり忘れてるのかも・・。

というわけで、短期間の間に全く同じ慈間初の鶴丸航空の同じ便に乗ることになりました。



これは台湾初の鶴丸便のコクピットだったと思います。
今回の台湾訪問で、台湾の人たちがいまだに日本の災害について心を寄せ、
実際にボランティアに来てくれていることを知りました。
本当にありがたいことだし、もし台湾に何かあったら、日本人は何をおいても
この友人に救いの手を惜しみなく差し伸べるであろうと確信しました。



成田のサクララウンジは二つあって、前回のはこれとは別のゲートのです。
こちらのは上階にレストランがあり、セルフサービスでちゃんとした料理が食べられます。



メインはカレーかマーボー丼かチキンのトマト煮込み。
もちろんその全てをいただいても構いません。

わたしは食事をしたらすぐに下の階にいってパソコンを広げたのですが、
ここでご飯を食べてから落ち着く人が多いらしく、何度も

「レストランのフロアが人でいっぱいになったので、休憩は下でやれ」

というアナウンス(もっと丁寧ですが)が流れていました。



下の階の方がフロアは広く、仮眠用のベッドまであるんですがね。
ちなみにこのベッドのコーナー、扉がありませんでした。
ここだけの話ですが、仮眠以外の目的に使われることを懸念しての対策だと思われます。

ところでこれで思い出したのですが、わたしは先日、HULUで「エマニエル夫人」
という映画を見てしまい、激しく時間の無駄をしたと後悔しています(笑)

そして”この映画は映像が綺麗だから女性も観れる”みたいなことを言う人に、思わず真剣に

「お前は何を言っているんだ」

と詰め寄りたい気持ちになりました。
まあ、世の中にはいろんな性道徳の基準が存在するわけですが、それらの是非はともかく、
あの主人公って、
要は単なるニンフォマニア(病気?)ってことだったんじゃ・・。

飛行機の中で立て続けに二人の見知らぬ男とほにゃららすることが平気な女が、

タイの娼館みたいなところで襲われてなぜか悲鳴をあげる、(でもすることはする)
人種差別者なのか?と思ったら同じタイ人のキックボクサーと衆人環視の中行う、
って、もう映像以前の問題で、このシチュエーションにドン引きですよ。


後天性免疫不完全症候群、エイズのパンデミックは1981年以降なので、
もしそれ以降であればこんな映画絶対に公開されなかったでしょうし、
なまじのAVなんかより、道徳の観点でいったらよほど不道徳って気がしました(感想)



などという話をしようとは全く思っていなかったのですがつい(笑)

この日日本は朝から猛烈に蒸し暑く、台風の影響で雨が降ったり止んだりの1日で、

中国に向かう便は台風の影響によっては帰ってくるか、あるいは
仁川空港に着陸するというようなアナウンスがされていました。
アメリカへの空路に影響はまったくないようです。



ラウンジ前ではこれから離陸する飛行機への準備が一部始終見れました。



前方からご丁寧にも雨よけのカバーをつけたコンテナが積まれていましたが、
これが前回伺った、「ラウンジ使用クラス以上のラゲッジコンテナ」でしょうか。



というわけで、またもや和洋三種類の選択の中から似たような機内食を食する羽目に・・。
久しぶりに和食をいただいてみることにしましたが、はっきり申しまして、どれも微妙。
ここだけの話、成田ー台湾のコーチで食べた機内食の方が気のせいか美味しかったような気が・・。



しかし、いつも感心するのはとりあえずご飯が大変美味しいこと。
レンジで解凍したものではありえないふっくらした噛みごたえです。



前回と今回では微妙にメニューが変わっていました。
フリークェントパッセンジャーのための配慮でしょうか。
デザートはパンナコッタと一緒でしたが、上のゼリーは前回と違いグレープフルーツです。



今回は9回連続のテレビドラマを全部見るという愚を犯すのはやめて、
「アリスのままで」の続きを見て、(アルツハイマーって怖い・・)
eブックで「銀の匙」を三巻だけ読んで、あとは寝ていました。

疲れもあって、珍しく機内で何時間か続けて寝ることができたのですが、
目が覚めて
アイマスクを外すと、隣の席の男性が開いているPCが見えてしまい、
その内容から、彼は今からボストンで学会を行う内科医であることが判明。

今回は一人なので、隣にどんな人が座るか少し不安だったのですが、
席を立つ時に脚を乗り越えるのも一苦労するようなでかいアメリカ人男性ではなく、
小柄な日本人で、しかもお医者さまであったので何か嬉しかったです。

いや・・・なんか安心じゃないですか?飛行機で隣が医者って。



しかし、最近では飛行機や列車での「お医者さまはおられませんか」コールに

名乗りをあげる医者はめったにいなくなったという話をききました。
理由は、専門外の疾患であった時に対処できないことと、何と言っても
処置を巡って、あとあと法律問題に発展する危険性があるからだそうで。


そういえば晩年の田宮二郎は、「白い巨塔」の財前五郎になりきりすぎたのか、
ドクターコールに名乗りを上げて周囲を唖然とさせたという話を聞いたことがありますが、
現実の医者ははるかに保身的で、少しでも面倒に関わりたくないという傾向なのかもしれません。

ちなみに、見えてしまった論文の表紙でわかったのですが、
隣の医師の苗字は偶然わたしと同じでありました。



というわけで12時間のフライトの後、ボストン到着。
不思議な地形ですが、これゴルフコースであるようです。



何度もしつこいですが、ちょっとこれだけ言わせてもらっていいですか。

2度目の機内食は、自分の好きな時にオーダーすることになっているので、
オーダーストップのギリギリの時間に和食を(洋食がなかったので)頼んだのですが、
これが前回にも増して美味しくないんですよ。

見かけは確かに美味しそうに見えるんですが、れんこんのはさみ揚げは変な歯ざわりだし、

その横にある得体の知れない肉は味が全くないし、後ろの菊のお浸しは
何が入っているのか食べたらビリビリと舌が痺れるという不思議な調味。

案の定一番マシだったのが白飯と漬物だけだったという・・。

まあ、常日頃から機内食に決して期待はしていませんが、ただでさえ食欲がないのに、
これではなあ、とげんなりして、申し訳ないのですがほとんど食べられませんでした。



ボストンの空港は端っこがヨットハーバーだったりするので、
こんな光景を見ながらタキシングしていくのですが、この海岸沿いのお家は
眺めはともかく騒音に関してはどう対処しているんだろうかといつも不思議です。



着いた途端、蒸し暑く不快な日本にいる皆さんに申し訳ないくらい、
爽やかな空気に
生き返った気がしました。
今ボストンは「ベストシーズン」だと鶴丸のパーサーもアナウンスしていましたが、
このとき当地は19度くらい。
今これを空港ホテルで(苦労しながら)製作しているのですが、クーラーは全く必要ありません。
もっとも、アメリカ人は日本人と皮膚感覚が違うらしく寒いくらいクーラーを強くするのが
デフォなので、下のレストランではあいかわらず寒いなと感じましたが。

空港のホテルにチェックインしたときに、フロントの女性がわたしの名前をたどたどしく読んで、

「◯◯◯・・・・ふーん、クールね。ファーストネームは◯◯◯・・・クールね」

と何かわかりませんがクール攻撃をしてきました。
彼女によると

「日本語の響きはとってもクール」

なんだそうです。
よくわからないけど喜んでおこうっと。
こんな風に考えるアメリカ人も少なくないみたいなので、みなさん、間違っても、アメリカで
「レイチェル田中」とか「エドワード鈴木」(あ、実在した)とか名乗らないほうがいいですよ。




さて、朝からテレビのニュースを見ておりますが、ボストンのキー局のキャスターは
西海岸と違って全員が見事にコケイジャンで占められております。
女性のキャスターはメインが必ずブロンドで、現場に出るアナウンサーも白人。
たまーにアフリカ系がいるくらいで、アジア系はまず見ることはありません。



朝から繰り返し放送されているニュースは、テキサスの海兵隊軍施設で
テロリストの銃撃により4人の海兵隊員が死亡したということ。

 

銃撃の犯人はやはりというか、「モハマド」な人でした。
しかし彼はアメリカに生まれ育ち、テネシー大学を卒業しているそうです。

ボストンで報道されているのは、亡くなった4人のうち一人が、
ここボストンの内陸にあるスプリングフィールドの出身であることで、こういうとき
地元出身の被害者だけは名前と写真を公開する習慣があるのかもしれません。

この日は、町のあちらこちらにある国旗が皆半旗になっていました。



こちらは間抜けだけど笑うに笑えない事件。
モールで万引きした犯人が逃げるために高いところから飛び降りたところ、
下に通行人がいてぶつかってしまったという話。
両者の生死についてはわかりませんでした。



日本人のわたしとしては、お、と身を乗り出してしまったニュース。
日本政府が東京オリンピックの新国立競技場の案を「ゼロベース」にしてやり直す、
という決定をしたということが報じられていました。

民主党の議員が国会でいいネタとばかりこの件を非難したら、それは案の定
民主党政権時代に決めたという大ブーメランだったことが話題になりましたが、
民主案だからこそ自民もこの対応に踏み切る決定を下すことができたのでしょう。



アメリカがこのニュースに注目するわけは、ボストンは2024年のオリンピックに
立候補する予定をしているからです。



ボストンオリンピック。なんか良さそうですよね。
なんだかんだいっても土地もあることだし。

ところで皆さん、日本の報道は今、マスコミの「強行採決」という印象操作、
そしてどこの国の報道機関かと思われる中韓寄りの発言者だけを出してくる偏向ぶりで、
あたかも発狂したかのような紙面ばかりという眼を覆うばかりの状態になっていますが、
ここアメリカでは、
日本が安全保障法案で集団的自衛権を行使できるようになったことなど、

全く報じられておりません(笑)

なぜって?
そりゃ普通の国が持っているふっつうの権利が行使されるだけだからじゃないかなあ(棒)

どこぞの民主党議員は、審議拒否をしておきながら説明が足りないとほざき、
マスコミが騒ぐもの
だから、今や自分たちが多数派だと思っている(思ってしまうんでしょうね)
ようですが、前回の選挙は安全保障の改正込みで信を問われたものではなかったのかね?


法案成立後、わかりやすい人たちが強行採決ガー、と騒いでいますが、
審議拒否や、何度も何度も説明されていることをわからないふりしておいて、
マスコミが報道しないのをいいことに「説明不足だ」とはどの口がいうのかって感じですわ。

まあ、最後は全員が立ち上がって「全会一致で決まったわけだから(笑)
少なくとも今回「強行採決」と煽っても、国民は騙されないと思うし、むしろ
審議から逃げてパフォーマンスに走った野党の姿勢には厳しい目が向けられると思います。



日本人をあまりなめたらいかんよ。

 


おまけ*

駐車スペースがなかったのでこんなところにて駐めてしまいましたの図。
これ、ショッピングカートを置いておくスペースですよね? 
さすがアメリカ人、豪快だ。っていうか、どうやってドアを開けたのか。
あ、開けられないから窓から出ましたって?


 


アメリカスシ事情2015

2015-07-17 | アメリカ

去年、ボストンにある「ヒスパニック回転寿し」に突入して、
死んだ気でくそまずい(あらお下品)スシもどきを食し、やはりアメリカのスシは
多民族共生の社会の常として本流とは遠く離れ混迷を極めているということを
あらためて確認したエリス中尉ですが、今年もアメリカのスシ事情をリサーチしてまいりました。

TOいうところの「食べる芸術」であるスシが、海を隔てた海外でもてはやされた結果、
それに便乗し、それらしいものの威光を利用して銭稼ぎ(まあお下品)しようとする
有象無象の姿が見えて来る、というのも毎年感じるところではありますが、
「ご飯を丸めて魚の屍体を乗っけただけの食べ物」であるスシのあり方を知ることは、
その国における日本の何たるかを知ることでもあるのです。

大袈裟だな。



さて、まずは第一次アメリカ滞在最後の夕食となっったニューベリーストリートの
「スナッピー・スシ」のメニューをご覧ください。
そもそも「スナッピー」なる単語をスシと結びつけようというセンスからして
とても日本人が経営しているとは思えない当店ではありますが、
わたしと連れ合いがここに入ることにしたのは、まさに「怖いもの見たさ」。
ちなみに「snappy」の意味は、もともと「冷え冷えした気候」「パチパチ音」ですが、
それから生じて、

元気のいい・活発な・てきぱきした・しゃれた・粋な

といったイメージがあります。

「Make it snappy!」

というと、さっさとやったらんかい、といった意味ですね。
で、メニューですが、スパイシーマヨ入りロブスターロールとか、必ずアボカドを使うとか、
レインボウと称して何でもかんでも魚肉を詰め込み、とかいったセンスは、
もはやスシという名を借りたケイオス(混沌)な何か、としか思えません。

だいたいアメリカ人、シンプルな握りだけで旨い鮨が作れないんだな。
なもんで、それらをごまかすため、サルサとかスパイシーマヨとかわさびバターとか、
味の強いもので生臭さを覆い隠したゴテゴテのスシもどきばかりになってしまうんですよ。



この店において何も期待するものはない、と瞬時にメニューを見て判断したわたしは、
豆腐サラダ(サラダに豆腐を乗せたもの」を頼んだに終わったのですが、
TOが注文したこの「ベジタブル・スシ」はなかなかの(見)ものでした。

キュウリ巻きならぬアボカド巻き、うなぎの色をしたキノコ乗せ。
コーンの「イクラ」の上に何やら唐辛子系のものを乗せた軍艦巻き。
マグロではなくビーツを乗せた握り、そしてこれ。



なんかマグロみたいですか〜?
これは一口食べて

「ん・・・?・・・・ん〜〜〜〜?」

そう、それは時差を置いて猛烈に辛くなってくる「唐辛子ずし」。
パプリカかと思って何の疑いもなく一口食べたものの、
あまりのからさのインパクトにそれ以上食べることもできませんでした。
しかも、しばらくは唇がヒリヒリして他のものを食べる気にならなかったという・・。

というわけで、ここのスシも日本人から見ると、

「こういうジャンルの食べ物も別にあってもよいが、
できれば寿司と名乗るのはやめていただきたい」

という、ありがちなアメリカすしから一歩も出ていない代物となっていました。



さて、時間を少し遡り、ニューヨークにミュージカルを観に行った時の話を。
行ったことがある方はご存知でしょうが、ニューヨークというのはまさに魔都、
汚くて雑駁でごみごみした街に、時折世にも美しいものが点在しているという、
とてもではないけれど一言で語ることを許さないそれこそ混沌の街です。



そんなニューヨークで受け入れられているらしいスーパーグループの

「スーパードライストア」極度乾燥(しなさい)

日本語のキッチュなロゴがうけて今や世界中で展開しているブランドですが、
米国のビンテージ生地と日本に触発されたデザインを取り入れています。
お土産に買って帰ろうかな、と思いましたが、よく考えればイギリスのメーカーなのよね。




ニューヨークの街角には屋台の食べ物屋がたくさん軒を連ねています。
近くのオフィスワーカーの間で評判らしく、12時になると同時に長蛇の列ができていた
ファラフェル屋があるとおもったら、観光客も相手にしない屋台があったり。
歩きながらとか外で食べるのが平気なアメリカ人は、こんな屋台で
ランチを済ませてしまうこともしょっちゅうの模様です。
映画やテレビ番組でも、紙パックのチャイニーズデリを箸で食べるシーンが多いでしょ?



ニューヨークには計3日、いずれもノーウォークから1時間かけて通いましたが、
そのうち1日はミュージカルのマチネが始まるまでの間、近代美術館を見学し、
さらにレストランで食事をとるという作戦でいきました。
外のテーブルに座りたければ並ばなくてはいけませんでしたが、どこでもよければ
すぐに席に案内してもらうことができました。



冷たいスープは具として野菜や穀類が浮かせてあり、具沢山な一品。



さすがここも美術館の併設レストランだけあって、彩りが芸術的です。
これは、とてもそう見えませんが、サラダ・ニソワーズ。
茶色い肉のようなものは、なんとツナです。



アスパラガスとキュウリのサラダ。



斜め向かいのテーブルには、白いドレスと白いリボンでおめかしした
かなりかわいい女の子が座っていましたが、アメリカにはありがちなパターンで、
彼女もあと25年たてば向かいの姿になる運命だと思うとなんだか残念なような(すみません)

まあ、アメリカ人も「東洋人は赤ちゃんの時あんなにかわいいのに、なぜ・・」
とか思っているらしいですから、お互い様ですけどね。



デザートはニューヨークチーズケーキだったはずだが、クリームに覆われて見えぬ(笑)



さて、その次の日、またしてもミュージカルのマチネを観にニューヨークにきたわたしたちは、
ふとわたしが街を見回していて見つけたストリートの角の2階にあるフードコートにきてみました。
新しいビルの階段を上っていくと、法被を着た日本人がいて、

「いらっしゃいませ!」

と挨拶してくれたので、てっきりわたしたちが日本人だからかと思っていたのですが、
この「いらっしゃいませ」攻撃は、「KURO-OBI」というラーメン屋の従業員全員が
声をそろえてやっていたのでした。



「すごい活気だねえ」

「東京のイタリアンやフレンチででボナセーラ!とかシルブプレ!とか日本人がやるようなもんかしら」




こちらの寿司コーナーも、カウンターの中には日本人らしき板前が一人入っていて、
あとは非日本人で占められていましたが、皆キビキビ働いています。
こういう雰囲気の中で仕事をしていると、ヒスパニックもアメリカ系も、
妙にきちんと働いているように見えるから(働いてるんですけど)不思議です。



お寿司もいいけど、この日は夕食に寿司田を予約してもらったので、
ラーメンを食べてみることにしました。
いつぞやコメント欄に「一風堂のラーメンを食べながら」と書いた時のもので、
この「黒帯」というのは一風堂の支店?であるらしいことがわかったからです。
トッピングに頼んだ卵は見事に半熟で、チャーシューも適度な大きさ。
アメリカで食べるものなのに量もそんなに多くなく、二種類用意されたスープも美味しかったです。



窓際に面したカウンターに座って日本風ラーメンをいただきました。
向かいはピザ屋。
ニューヨークはイタリア系の移民も多く、おいしいピザが食べられます。



この日、ミュージカルが終わってから渋滞を避けるため、(ハドソンリバー沿いの道は
帰宅ラッシュで4時くらいからとんでもなく混む)夕ご飯を食べて帰ることにしました。
MOMAにいく途中に見つけた「寿司田」。
一度くらいアメリカでまともな寿司を食べてみようということになったのです。

ニューヨークの寿司と言えば、911の跡地がまだ「グラウンド・ゼロ」と呼ばれていた頃、
わたしたち夫婦は、まだ2歳くらいだった息子を連れて旅行に行き、
築地の寿司◯ニューヨーク支店で
嫌な目にあったことがあります。

うちの息子は外で泣いたことはもちろん、大声を上げることも一度もない、
まるでぬいぐるみのようなおとなしい子供でしたが、
それでも我々は、日本で鮨屋に連れて行ったことはありませんでしたし、
そのときも他のお客の迷惑にならないように、
開店してすぐの5時半に予約をいれました。
しかし、寿司◯の女店主は、わたしたちを見るなりあからさまに憎々しげに睨みつけ、
鮨屋に子供連れで来るな!というオーラ全開で敵意をむき出しにしてきました。

結局その店でも息子は大人しくていてぬいぐるみ同様だったのですが、
そもそも日本人の家族連れが気に入らない風だった彼女は、
帰る段になってTOがお勘定を払っている時にわたしの横の息子がドアに触ったところ、
とんできて叱りつけ(本当)、ぶつぶつ言いながらそこを布で拭いて見せました。

しかし、アメリカ人の客の子供が騒ぎながらカウンターでコーラを飲んでいても

別人のようにお愛想をするという、実にわかりやすいクズでした。

彼女以外の板前さんや男性の店員が、なんとも言えないすまなそうな顔をして
こちらを終始見ていたのが忘れられません。

我が家的には「少しおかしな人がいる鮨屋」として記憶に留められた伝説の店だったのですが、
その後程なくして潰れたという話を聞きました。

「やっぱりね」

「あんな接待していたら日本人はいかなくなるよ」

「同じ日本人でも、アメリカ人同僚と来ていたビジネスマンには愛想よかったじゃない」

「そのビジネスマンが休暇の時に家族を連れてくるという可能性もあるんだけどね」

なるほど、それで潰れてしまったわけですね。ざまあ・・いや、なんでもない(笑)



さて、この寿司田には、旅行を手配するクレジット会社のデスクに予約をいれてもらいました。
あの寿司◯でもそういう予約をしていたら少しは態度も違ってきたのかもしれませんが。

ここは、築地の名店(寿司◯も一応そうですが)であり、従業員が全員日本人。
職人さんはもちろんのこと、お運びの人も全員日本人です。
おそらくニューヨークでは「本物の日本の寿司」として有名なのに違いありません。

もちろんそれは「高い」ということと同義語でもあります。



しかし、ラーメンを食べてからあまり時間が経っていなかったため、
あまりお腹が空いていたなかったのも事実。
せっかく花板さんらしき人に握ってもらえることになったのに、
あまり次々と頼まない「儲からない客」ですみません、なオーダーとなりました。

まず、刺身の盛り合わせを頼んだ後、なぜか揚げ出し豆腐とか(笑)

花板さん(推定)は、ご旅行ですか、などと聞いてこられ、それがきっかけにしばらく
ニューヨークにおける寿司事情を少しばかり伺うことができたのですが、
まず、この寿司田だけでもニューヨークにはいくつもあり、この店は2号店であること、
第1号店はもうオープンして30年にもなることを知りました。
30年前というと、スシがなぜか「健康食」としてもてはやされたころでしょうか。
その後ブームを経て今の「誰でも食べられる日本食」に落ち着くまで、
このお店も27年間ニューヨークの本格的スシの店としてここでやってきたわけです。

このお店はネタを決まったところと契約して仕入れており、
そこは信用の置けるところであるわけですが、中国系が5番街などに開く大きなスシ(もどき)屋は、
どうにも仕入れが怪しいということは言われているのだそうで。
それでなくても中国系の仕入れ業者は怖くて使えないのだそうです。

「酷いのになると魚肉に虫がいるんですよ。目で見えるほど」

ひえええ。そんなの新鮮以前の問題じゃないですか。

「わたしたちはホールフーズで刺身なんかを買っているんですが」

「ホールフーズなんかはちゃんとしたところから仕入れていますよ」

「とんでもなく高いですけどね」

「高くなってしまうのは仕方ないですね。刺身で食べられる魚となると」



話はそのうち寿司職人の育成の話になりました。


「わたしの頃は技術は体で覚えろでしたから、怒鳴られるのはもちろん手や足もでましたが、
今の子は叱られるとやめてしまうんですよ。
ご父兄が出てきて文句を言われたりしたら何も指導できません」

職人が育たない日本。
刀鍛冶の問題でこんな話をしたことがありますが、伝統芸能に限らず、
こんなところにも日本の将来が不安になるような現象が・・。

寿司職人がアメリカの永住権を取りやすいのは有名な話ですが、
腕一本でアメリカに挑戦してやる!みたいな職人志向の若者も減ってきているんでしょうか。




せっかく花板さんの握りなのに、あまり「儲からない」ネタばかりで(納豆巻きとか)
申し訳なく思った、というわけではありませんが、最後にふと炙りものが食べたくなり、
何ができるか聞いてみたところ、金目鯛がいけるというのでいただいてみました。

ほとんど火にかざしただけの金目を塩だけで食べるこのお寿司は絶品でしたが、
一皿26ドル、つまり一個13ドルのお値段だったことが判明。
これ二つでスナッピーズシの「野菜握りセット」と同じくらいという・・。

このコストパフォーマンスに値打ちを認められるアメリカ人って、
果たしてニューヨークに何人くらいいるんでしょうか。




 


独立記念日の花火と退役軍人の心的外傷

2015-07-11 | アメリカ

こちらではインディペンデンス・デイというより「ジュライ・フォース」という
呼び方をするのが一般的なアメリカ独立記念日。
毎年この時期にはわたしはアメリカの東部にいるのですが、キャンプが休みなので
大抵はホテルで1日ゴロゴロして、時々テレビをつけて恒例の
「ホットドッグ大食い選手権」を見るという程度の過ごし方しかしたことがありません。

しかし、今回は7月5日にアメリカを出国することになったので、ジュライフォースの日、
ローガン空港の近くのホテルに移動しながら、おそらく「初めて」この日を肌で感じました。



ノーウォークのおされホテル「ゼロ」をチェックアウトした後、
ニューヘイブン大学(仮名)に立ち寄り、構内の美術館を二つはしごして、
息子を呼び出して様子を聞きました。

洗濯の順番がなかなか回ってこないことと、朝が早いこと以外は
困った様子もなく、楽しくやっているようでした。
サマースクールのイベントは、いくつかの選択肢から選ぶことができるのですが、
息子は「ニューヨークでピザを食べるツァー」「タングルウッド音楽祭鑑賞」
を選んだと言っていました。
ミュージカルを見るツァーもあって、演目は「レ・ミゼラブル」だったそうです。

ニューヘイブンから以前の「ナワバリ」であるウェストボローに帰ってきて、
ここでいつものホテルに一泊だけしました。
1年ぶりに訪れたら、食器、コーヒーメーカーからエキストラベッドのリネン類まで、
皆フロントに言って貸し出してもらうシステムになっていたのでびっくり。

中国人に盗られたから?



次の日は、勝手知ったる地域で台所小物やTシャツなどの服を買い、
いつものホールフーズでランチを食べて名残を惜しみました。(わたしはまたすぐ来ますが)

 

今年もホールフーズのケーキコーナーには、ジュライフォースのための
星条旗カラーのケーキが多数。
だから青とか赤のクリームは食欲をそそらないんだよ!



といくら日本人が叫んでも、アメリカ人がこれを止める気配は全くありません。
むしろホールフーズだから「この程度」でおさまっているのであって、巷には
ケーキ全面に赤や青はもちろん蛍光色まで駆使して毒々しい絵が描かれたケーキがあふれます。



移動してホテルに一旦荷物を預け、ニューベリーストリートに行くことにしました。
前を走っていた車のマツダマークがミミズクさんに・・・・。



朝から昼にかけて雨が降ったりしたので心配したのですが(実はあまりしてませんが)
この時間にはすっかり晴れ、しかも湿気がなくなって綺麗な青空が広がりました。

ニューベリーストリート沿いの教会、 Church of the Covenantは1865年の建立です。



ここニューベリーストリートではすべてのお店がセンスを競っています。
ものすごく高級感のあるラルフ・ローレン。



隣にはニューイングランド歴史協会があります。

 

ニューイングランドだけでなく、アフリカンアメリカンの歴史協会も併設しています。
ここは、希望者に「先祖調べ」をしてくれるサービス(有料)もしています。
テレビで宣伝もしていますし、俳優や有名人のご先祖をチェイスして、
本人も知らなかった家のドラマに感極まって泣いたり、という番組もあります。
歴史の短い国ですが、先祖がいつどこから来たかも含め、ルーツにこだわる人も多いのかもしれません。



スペインのキャンパーのウィンドウは、ニューイングランド、独立記念日、
ときてなぜかロブスターをフィーチャーしております(笑)

バルタン星人かとおもた。



中国語と韓国語がない各国語併記って、ここだけの話ですがなんて清々しいんでしょう。



日が暮れてきました。



アートショップのウィンドウを見て歩くだけでも美術館気分です。
おそらくアフリカ系のアーティストの作品だと思われ。



黒猫が青く描かれているのは萩原朔太郎の影響です(嘘)



ホテルに帰る前に軽く夕食を食べておこうということになり、
角にオープンテーブルを出しているインチキずし(多分)、
「スナッピースシ」に怖いもの見たさで入ってみました。
ニューヨークで寿司田のお高いお寿司を食べた後、ここに入ることで、
今年もアメリカ寿司事情についてレポートする用意が整いました。

右手を歩いているカップルは、お洋服のトーンを合わせています。



アメリカ人は熟年夫婦でも愛情表現を惜しみませんが、さすがに
手をつないで通りを歩くカップルは少数です。
ちなみに彼らはかなりの年の差カップルでした。



スナッピー・スシの向かいは、前にも写真をあげたことのある
世界で一番格調高い建物にあるコールハーンです。
アパートを丸ごと買い取って全フロア売り場にしています。
コールハーンはアメリカでもとくに高級ブランドという位置付けではないのですが、
こんなところに入っていると敷居が高く見えてわたしは入ったことがありません(笑)



向こうからおまわりさんの自転車警備隊の軍団が通り過ぎました。
おそらくこの数ブロック向こうのチャールズリバー沿いで
大々的に行われる独立記念日の花火大会の警備に行くものと思われます。



スバッピースシのテーブルの横の植え込みには黄色い山吹のような花が植わっていました。



通りに面したテーブルに座っていると、行き交う人々を観察したり、
大音響でカーステレオを鳴らしながら通り過ぎる車(必ず若いアフリカ系男が乗ってる)
や、上空の飛行体を眺めたりという楽しみがあります。

食事の間ずっと上空をぐるぐると回っていたヘリコプターがありました。



花火の警戒のために出動した州警察のヘリです。



かと思えばこんなアド・プレーンも。
映画「ゲット・スマート」でスティーブ・カレルが飛行機と車のチェイスを行うシーンあって、
その飛行機が「スイサイド・ホットライン」(自殺防止ホットライン)というバナーを
引っ張っていたのが我が家的には大受けでしたが、これは一体?



「DIGってなに?」

「まさか、これも自殺の隠語とか」

「花火大会の客にそんなこと呼びかけるってことはなくない?」

帰って調べてみたら、DIGには深い意味はなく文字通り「掘る」ことで、
庭の芝生でもなんでも、土中にはいろんな管(電気やガスとか)が埋まってるので、
当社に掘る前に電話したら何があるかちゃんと調べてあげますよ、という宣伝でした。 



ふわふわと飛行船も飛んでいます。
ジンのアドバルーンですが、この「眼」のせいで大変なアイキャッチとなり、
皆が立ち止まって写真をとっていました。
真っ青な空とレンガの建物との取り合わせはまるでマグリットの世界です。




わたしは豆腐サラダ、TOは野菜ズシと軽く食事を済ませ、駐車場まで
のんびりと歩いて戻りました。



信号待ちの人々は皆チャールズリバーの河原を目指しています。
バドワイザーのビールのケースや、クーラーボックス、シートを持った人たちも。



赤白青の「星条旗ファッション」で来ている人も多数。
この女の子たちは国旗をマントにしてしまいました。



ホテルに帰ってテレビをつけると、花火大会の中継が始まっていました。
挨拶やめんどくさいセレモニーなど一切なく(あったかもしれませんが)
ただ、音楽とともに打ち上げられる花火を楽しみましょうという企画。
メインスポンサーはアメリカのデパート、メイシーズでお届けしています。



陸海空海兵隊、その他軍組織の制服を着た軍人たちが旗をずっと掲げていました。



今年の演奏はアメリカ空軍軍楽隊。
どうも毎年持ち回りで行われるようです。
軍楽隊の演奏するのは国歌的なものをアレンジした曲や、マーチなど。
歌手もカントリー、ポップスと何人かが出て交互に演奏を行います。

チャイコフスキーの序曲「1812年」は、おそらく日中に行われたのでしょう。



軍楽隊の演奏に合わせて、チャールズリバーに浮かんだ4隻の船から、
全くシンクロした花火が惜しみなく上がります。



両岸には人が詰めかけているので、川の上に浮かべた船から花火を打ち上げるのは
大変理にかなっているというか、たくさんの人が鑑賞することができます。
ただ、秋田大曲の花火大会というおそらく世界一の花火大会を見慣れた私たちには
東海岸一規模の大きい有名な花火大会とはいえ、この程度?と思ってしまったのも事実です。

実際にその場にいたら盛大でさぞ盛り上がるのだとは思うのですが。

それはそうと、7月4日の朝のニュースで、こんなのを見てしまいました。
実際に戦闘を体験した退役軍人が、未だにPTSDに悩まされていて、
花火の破裂音でそれが再発し、トラウマを深くするため、近所の人たちに
花火を遠慮してもらいたい、とお願いする家族が現れた模様。



これは、右側の男性が花火の音で思い出す戦闘の時の銃声、爆撃音が
いかに生々しいものであるかをインタビューで語っているところなのですが、
日本人のわたしが聞いていてもあまり知的な受け答えをする人ではないなという印象でした。

だからどうということではありませんが(笑)アメリカにおいてベテランを

下にも置かぬ扱いというか、腫れ物に触るようなというか、尊重の度を越して、彼らに対して
否定的なことを言えない空気があるらしいとわたしなどかなり昔から感じてきました。
それに便乗する「モンスターベテラン」という言葉が嫁の表情からついよぎってしまいます。

しかしそういう発言はここアメリカでは公の場はもちろん、私的にもタブーとなっています。

チャールズリバーのメイシーズ提供の花火ならともかく、地域の花火大会なんて
せいぜい1年に一回、1時間くらいのものなのに、こんな大騒ぎするくらいなら
その間ヘッドフォンで音楽聞いてれば?
と思うのはわたしが日本人だからでしょうか。

だいたいそんなことを言い出したらチャールズリバー沿いに退役軍人は住めないってことになります。


「アメリカン・スナイパー」で、ベテランのPTSDが社会的問題であるということが
アメリカではクローズアップされたばかりです。(彼らもそれに便乗したのかもしれません)
確かに当人たちにとってそれは深刻な問題なのかもしれませんが、
自分ひとりのために地域の花火を控えろ、
というのは、いかに言ったもん勝ちで、
ベテランの言うことには逆らえない雰囲気の
アメリカでも、賛否の分かれるところではないかと思われます。 


それよりわたしはやはりこの日にニュースでやっていた

「アメリカ全土で毎年この季節花火が原因で亡くなる人の数」

があまりにも多いので(忘れたけど10人20人じゃない)そっちの方が問題だと思いました。
それこそ、花火で亡くなった人の家族は確実に花火がトラウマになると思うけど、
はたして、

「花火で亡くなった人の遺族が住んでいるので、この地域で花火をしないでください」

なんてことを言い出す家族がいたら、世間はどう思うかってことですね。




 


ノーウォークの「ホテル・ゼロ」〜言った者勝ちの国

2015-07-10 | アメリカ

息子を学校に落としたあと、わたしたち夫婦は、ニューヘイブンから
車で約1時間ニューヨークのある南に走ったところにある、ノーウォークに到着しました。
ニューヘイブンがボストン(ウェストボロー)から2時間ですから、空港からだと
だいたい4時間弱車で行ったところということになりましょうか。

ここに5日間の宿を取ることに決めた理由は、ニューヘイブンとニューヨークから
どちらも1時間とちょうど真ん中にあったからで、せっかくなので滞在中、
ニューヨークのイントレピッド博物館(空母イントレピッドを展示している)に
ぜひ取材のため(って感じですよね最近)行ってみたかったからです。

息子を見送ったあと、わたしたちはインターステート95を南下し、
ノーウォーク(Norwalk)に到着しました。



高速から降りると、東部には全くよく見るタイプの郊外型の街並みが続きます。
信号待ちの時にふと右側の窓から上を見ると、ヘアサロンの2階の窓に猫発見。



鼻筋の通った猫さんです(笑)

この猫のヘアサロンから1分も行かないところに、予約したホテル、
「ゼロ・ディグリーズ」、通称「ゼロ」がありました。
レジデンスイン、ヒルトンハウス、コートヤードマリオットなど、全国展開の
だいたいどんな内装かわかってしまうホテルはいくらでもありましたが、
当ホテルはいわゆる「デザイナーズホテル」であるらしいことで、
せっかく久しぶりで夫婦での滞在をするのだからと、思い切って選んだのでした。



ホテルのロビーもこのようにモダンなスタイルです。

期待できそうでしょ?



ロビーで使用できるパソコンはもちろん?アップルの最新型。




時計を兼ねたコーナーの装飾。

全くおなじものが、10メートル向こうにあるのが謎。



ルーフトップに上がってみると、このようなくつろぎコーナーが併設されていました。

ちなみに巨大なチェスの駒は、重くて持つだけで大変です。
このほか、卓球台とビリヤード台などもありましたが、雪深いこの地方、

冬場はここはどうなっているのか気になります。



さて、最初に通された部屋は、HP通りのおしゃれな内装でなかなかです。
ただし、駐車場に面していて景色ははっきり言って最低です。

「5日も泊まるんだから部屋変えてもらおうか」

TOが言いました。
もしわたし一人なら決してこういうときに交渉しません。
外の景色が多少悪かったとしても一人なら別に平気だし、それより何より、
フロントに行って交渉して荷物を運び直して、という面倒なことをするくらいなら、
我慢した方がずっと気が楽だという性格によるものです。

しかし、連れ合いはこういうとき必ず粘り強く交渉するのが趣味(?)で、
過去、何回もフロント係と、時として喧嘩寸前となっても自分の要求を伝えてきた百戦錬磨。
我が夫ながらその熱意には呆れることすらあるのですが、彼によると
これもまたゲームのような感覚だそうで・・・・。

部屋の電話を取るなり彼は眺めのいい部屋が空いていたら変えて欲しいと頼み、
交換できる部屋のキイを取りにフロントに行きました。



そして変えてもらった部屋。
おお、少なくとも窓からは緑が見えておる。



今度の部屋は眺めはこんな感じでまあまあです。

「ここでいいんじゃない?」

ということで、荷物を運び込み、運んできたカートをTOが返しに行っている間。



洗面所をチェックしたわたしは思わず絶句しました。
(一人なのでずっと黙っていましたが心情的表現)

バスタブがないのです。

アメリカのホテルには時々あるのですが、アメリカ人というのは
お風呂に浸からなくても一向に平気な人種で、
バスとはつまりシャワーを浴びることだったりするんですね。
わたしの知り合いでアイルランド系アメリカ人の女性と結婚した人は、

「僕はお風呂に首まで浸かりたいと思うのだけど、彼女はその感覚がわからないらしい」

と実に悲しそうに言っていたことがあります。
日本人の中でも特に風呂好きのわたしとTOが、5泊の宿泊期間
全くお風呂に浸かることなく生きていけるとでも?

「シャワーしかないんだけど」

「・・・・・」

運び込んだ荷物をそのままに、即座にもう一度フロントに向かう彼(笑)
しばらく待っていると、フロントのお姉さんと一緒に帰ってきました。

「今度こそいい部屋に変えてもらったから。フロントの人が荷物を運ぶのを手伝ってくれるって」

どうして今回はフロントの人が来たのだろうと少し不思議ではありましたが、
ともかく彼女の案内で「三度目の正直」の部屋を見たわたしたちは思わず嘆声をあげました。



なんと、いきなりコーナースイートに昇進です。



バスタブはもちろん、シャワーブースと別に存在することを確かめます。



ベッドはキングでしたが、実際に寝てみたところマットレスが大変よくて、
日本のホテルのように片側で寝返りを打たれたら起きてしまうというようなことはありませんでした。

アメリカの夫婦は一つのベッドで寝るのが普通なので、マットレスの方も
そのニーズに応じて機能が発達しているのかと思われました。



広い部屋にはこんなおっしゃれーなワードローブがあり、デザインが装飾にもなっています。



扉を全部開けたところ。
下には冷蔵庫、上には金庫が収納されいています。



そして問題の景色は・・・・・!?



ホテルの前には川が流れ、川沿いに電車の線路が走っているのですが、
さっの部屋は線路だけが見えており、この部屋は川の滝の部分の正面に作られていました。

「すごーい!これコーナースイートでしょ」

「言ってみるもんだねえ」

「あきらめたらそこで終わりだったのね」

後で調べたらこのホテルで一番いい「キングスイート」であったことがわかりました。
値段はわかりませんでしたが、少なくともこんな部屋に5泊していたら、
大変な出費となっていたことだけは確かです。



このホテルのもう一つの特色は、ちゃんとしたレストランが併設されていること。

アメリカのホテルで実は大変これは珍しいことなのです。
もちろんレストランがあるホテルはいくつもありますが、大抵は
宿泊者の便宜のためだけにあるようなもので、味は二の次三の次なのが普通ですが、
ここはちゃんとしたレストランで、ディナーを食べるためによそから人がやってくるレベルです。

イタリアンですが、ローカルグリーンをふんだんに使ったサラダなどもおすすめだそうです。



グリーンピースの冷たいスープには、たっぷりハーブが浮かせてありました。




わたしの頼んだスキャロップのサラダ。




TOは珍しくビーフステーキを頼んでみました。

ステーキなのにハンバーガーのように出てくるのがアメリカ風。



二人で一つデザートを頼んでみました。

イチゴとベリーがメインで、小さなパンナコッタが付いています。
ただ、これは失敗でした。
なぜかこのパンナコッタ、牛乳ではなくヤギのミルクを使用していて、
ヤギや羊のミルクが何より嫌いなわたしは一口も食べられませんでした。 

というわけで、食住について大変ラッキーなホテル滞在となったわけですが、
あらためてこの国では何も言わないことには始まらないというか、
黙っていても何も手に入らないというか・・、
つまり、言ったもの勝ちの国であることを再認識しました。
どうりで押しが強くて主張する声が大きな人ばかりの国になるわけだ。 

よその国からやってきて無茶苦茶なことを言っている外国人を、
我々はつい「みっともない」という目で見てしまうものですが、実際にアメリカのように
声が大きいと大きいなりの見返りがなまじある国がある限り、世界各地において
ああいう民族運動が止むこともないのだろうなと、ふと思いました。

まあ、日本人がそういうとき世界的基準でおとなしすぎるだけで、
ホテルの部屋を変えてもらうくらいはワールドスタンダードの範疇かもしれませんが。 



おまけ*今回初めて見てウケた便利グッズ。
下のスロットにベーグルを入れて、上の部分をがしゃんとやると、
ベーグルが綺麗に二つに切れる、

「ベーグル・ギロチン」

いかにもアメリカ人の考えそうなツール。というかこれ欲しい(笑)

 


ボストン美術館〜「北斎」とミイラ

2015-07-07 | アメリカ

ボストンにある「ファイン・アーツ・ミュージアム・ボストン」に
家族三人で訪れたときのご報告、後半です。



現代美術のコーナーを通り抜けて印象派の部屋に。
ガイドも何も見ずに歩いていると、時系列も何も無茶苦茶な鑑賞をすることになりますが、
それもまあ何度も来ているため気分が変わっていいよねということで、
あえて無茶苦茶に歩き回ってみました。

モネの「睡蓮」ですが、日本に来れば立ち止まることも許されないくらい人が押しかけるこの絵も、
常設であるボストン美術館では前に立ち止まっている人すらいません。



題名はみませんでしたが、確かピサロの作品だったかと。
こういう作品を見ると、印象派の画家たちが描きたかったのは「光の色」だったんだなあとあらためて思います。



モネの「ラ・ジャポネーズ」とドガの「踊り子」が一緒に見えている空間。
「ラ・ジャポネーズ」はアメリカでも「ジャパニーズ・ガール」などと翻訳されず、
フランス語のままで知られています。

この辺りにやたら人が多いなあと思ったら、「ラ・ジャポネーズ」の前で
パフォーマンス的解説が行われる時間を待っていたようです。



キュレーターと思しき女性が、絵とそっくりの打ち掛けを持った女性と一緒に現れ、
今からこの絵についてのレクチャーを約15分行います、と告げました。
わたしはきいていたかったのですが、閉館まであまり時間がなかったことと、
他に見たいものがあったので、泣く泣くパスして次を急ぎました。

しかし、去る前に打ち掛けの仕様をチェックしたところ、これは日本の着物の織りなどではなく、
おそらくこの美術館の製作室が絵とそっくりになるようにパッチワークしたもので、
本来ならば金糸銀糸の縫い取りであろう部分に妙な素材が使われていて、
日本人の目には「いやこれは打ち掛けではないだろう」というものになっていました。

まあ、展示説明用ですし、本物の絹織物などもったいなくて使えませんけどね。

どうも、マネがモデルにどのような着せ方をして絵を描いたかなど、
残されている文献を元に説明をしたようです。 




部屋を去る前に撮った、マネの「音楽家たち」(多分)






彼女らはアメリカ絵画のコーナーにあった肖像。
黒いサッシェを斜めに垂らしたのは画家の注文でしょうか。



前ボストン美術館の正面の写真をアップしたときに気づいた方がおられるかもしれませんが、
わたしたちが行ったとき、美術館では「北斎」を特集していました。

「みてみて、北斎だって!」

わたしたち三人驚喜。
ボストン美術館には、日本に滞在していたことのあるボストン出身のビゲローは、
フェノロサとともに「大森貝塚」のモースの講演を聞いて日本に興味を持ち、
来日の際浮世絵などの作品を買い集め、ボストンに持ち帰りました。

北斎の版画もその一環で、こういった日本の芸術作品を海外に流出させたことが
非難されることもあるのだそうですが、そもそも当時の日本には、浮世絵などを
芸術作品として保護するなどという感覚がなく、ゴミ同然に扱われていたので、
むしろ彼らがアメリカに送ってくれたからこそ後世に残されたと考えたほうが良さそうです。

民主党政権の時、ノムヒョン政権時代から要求されていた「朝鮮王室儀軌」返還に
気前よく応じた(フランスは拒否している)ということがありましたが、これらのものもまた、
当時の朝鮮ではゴミ扱いされていたため、日本で保管したという構図なのです。
これは日本政府がアメリカに「北斎やら浮世絵やら盗んだものを返せ」というようなもので、
民主党が返還に応じたのは、アメリカが日本に浮世絵コレクションを返すようなものだったんですね。

民主党のやったことがいかに異常なことだったかわかっていただけるでしょうか。 



「北斎」の展示は、2年前「サムライ!」というテーマで展示されていた
同じ地下のフロアーで行われていました。

「葛飾北斎(1760〜1849)は日本の国内外で最も知られている」

という冒頭の一文に続いて、北斎の芸術的価値、そして1892年に、ボストン美術館は
世界で初めて北斎の展示を行った美術館になったことなどが書かれています。



三味線や琴は直接北斎とは関係ありませんが、浮世絵、ことに遊郭などを描いたものに
こういった楽器が登場することから、実物が展示されているようです。



当世の人気役者とその女房の肖像。
プロマイドのようなものだったのでしょうか。



熱心に細部を眺めている人がいた、吉原遊郭の図。
「火の用心」の札がリアルです。



金竜山仁王門の図。
参拝の人々で賑わっているのが描き込まれています。



この赤富士に「凱風快晴」という題が付いているとは知りませんでした。
英語の題名は「Fine wind, Clear Weather」となっていました。



「北斎漫画」
相撲取りの生態を描いたページですが、解説には「漫画」の定義と、
今日の日本のマンガのルーツはここにあるということが書かれています。




面白かったのは、北斎の絵をこのように立体的に切り出して展示していたこと。
説明はありませんが、喧嘩している人とそれを見物する人、
「いやーねー」と眉をひそめるご婦人といったところでしょうか。 




植物&鳥類図鑑のように、「鵙」「翠雀」(るり)、「蛇苺」
などとちゃんと説明が添えられています。




「桜花に鷹」



「牡丹にアゲハ」



「紫陽花にツバメ」




さて、北斎は怪談絵を多く残していますが、それもここにありました。
版画なので、ここにあるのが唯一のものではなく、同じものが東京にもあります。

「百物語 さらやしき」

おなじみ歌舞伎で知られた番町皿屋敷、有名なお菊さんの幽霊。
蛇をイメージしたらしい胴体に皿が巻き付いています。

お菊さんは美人の妻だったという設定ですが、どんなに美人でも幽霊になるとこうなるという、

北斎のうがった解釈による表現でしょうか。

ちなみに、カップルで鑑賞していた女性の方が、これを見て、

「ゴースト・・・スケアリー!」

と低くつぶやいていました。
向こうの人にはこういうの本当に怖く見えるんだろうなと思います。



「百物語 お岩さん」

「四谷怪談」のお岩さん。
毒を飲まされて目が片方潰れたのが一般的な?お岩さんですが、
北斎は目を大きく開き提灯になったお岩さんです。
これも北斎ならではの表現だったのでしょうか。




「百物語 笑いはんにゃ」

これは怖い。
鬼の顔はともかく、右手に持った子供の生首が怖い。



「百物語 しうねん」

それよりもっと怖いと思ったのがこれ。
題名が「しうねん」つまり「執念」。

位牌と線香立て、お供物にまとわりつく蛇。
どんな物語があるのか、じわっとくる怖さがあります。



「百物語 こはだ小平次」

木幡小平次というのは江戸の売れない役者で、やっと幽霊の役をもらったのですが、
旅先で妻の密通相手に殺されてしまったという、ついていない人。
妻と密通相手を「うらめしや〜」するために蚊帳から顔を出してみました。

もらった役が死んだ後で役に立ったというところです(ちょっと違う?)



当時の版画の制作工程が示されていました。
何回も色を変えて重ねていくやり方であの華麗な色使いがなされたのです。 



それも、色のパートごとに何枚も原板を重ねていくというやり方。
現場のモニターでは、今も同じやり方で版画制作をする日本人が
実演している様子を放映していました。



展示場を出たところのミュージアムショップにも人がたくさん。
全体的にどこも混雑することのないこの美術館で、こんなに人がいたのは
この展示場だけだったような気がします。
アメリカ人(に限らず)北斎は世界中の人々にとって大変関心が深いものなのだと実感しました。

もしかしたら、日本で開催するよりずっと盛況だったかもしれません。(笑)

写真はショップで売られていた「HACHIKO」(ハチ公)の物語の本、
向こうは「SADAKO」つまり原爆症で亡くなった「折り鶴の少女」貞子さんの本です。



ショップのモニターではなぜか「ハウルの動く城」が放映されていました。

宮崎駿の作品はとりあえず全てここで買えるようです。



日本で着ていたら勘違いされそうな浮世絵のTシャツ。



どう見ても中国的なセンスの「北斎をイメージしたデザインの洋服」。
わかっとらん。
というか、誰が着るのかこんな配色の服を。



北斎コーナーを出て、最後に一つだけ、息子が観たことがない古代エジプトを観て帰ることにしました。
途中で見つけたアメリカ大陸で発見された「ネズミのポット」。



ドーンと入り口でお迎えしてくださる大理石像。
遠近感を感じさせるためか、スネから下が異様に長く、頭を小さく作ってあります。



今回ふと目を留めたセクシーなビーズのドレス。
なんと、実際に発掘されたものを復元したものであることがわかりました。



クフ王の墓に埋葬されていた女性のミイラが身につけていたもので、
本体はこんなことになってしまっていたのですが、



ミイラの周囲に金でできたビーズが散らばっており、どうやらこれを
この形に縫い直したということのようです。
すごい根気のいる作業だったと思われ。



ミイラコーナーで少しウケたおそらく内臓入れ。



この時代も絵画は平面的なものしか残す技術がなかったので、
こういった彫塑にリアリズムが感じられるものがあります。
こんな人がいたんだろうな、と思われる表情の男性像。




一番手前がミイラ本体で、それをその向こうのに入れ、最終的には一番向こうの棺に。
ミイラもマトリョーシカみたいになっていることが判明。



ミイラのあるエジプトコーナーは、興味深いものが多いものの、
見学の後どっと疲れるというか、気力が奪われるというか、
軽く暗い気分になってしまうのが常なのですが、(なぜでしょうか)
そこから出た部屋にこんな「かるーい」絵があって、なぜかほっとしました。

お墓にお花を供えている白いドレスの美女なので、なんか意味があるはずですが、
それでもこの明るい光を描いた色彩は土色のエジプトコーナの後には
一種の資料剤のような役目となってくれました。


それにしても、北斎の世界的評価の高さに驚いた今回のボストン美術館見学でした。





ニューヘイブンの大学キャンパスに息子を見送る

2015-07-06 | アメリカ

さて、わたしが毎年夏になるとアメリカに滞在しているのは
息子がこの期間米国民に混じってサマースクールに参加するからで、
例年この期間、わたしはいつものキッチン付きホテルでまったりと過ごし、
エントリ制作をしたり買い物をしたり、美術館巡りをする充電期間にしているのですが、
今年は少し状況が変わりました。

というのも、息子が全寮制のサマースクールに初めて参加することになったため、
とりあえず彼の面倒を見るという大義名分がなくなってしまったのです。
しかも今年はいつも行っている勝手知ったる地域ではなく、
ボストンをずっとニューヨークよりに
行ったところにあるニューヘイブンという場所。

初めての場所で1ヶ月一人でホテル暮らしというのも如何なものか、と思っていたところ、
ちょうどというかたまたまというか、台湾に外せない用事が出来ました。

というわけで、わたしたち一家は、揃ってボストンに行き、そこから
車でニューヘイブンまで移動して息子を学校に放り込んだら、
あとは夫婦で少しの間滞在してから日本に帰国し、成田から台湾に向かうことになったのです。

ボストンに到着して3日目。
慣れ親しんだ地域からニューヘイブンに移動する日がやってきました。
車で高速を行くこと2時間で到着です。



去年のサマースクールはボストンのウェルズリーカレッジという女子大で行われましたが、
今年はグレードが上がったのでこのニューヘイブン大学(仮名)で行われることになりました。

ここに来るのは実は初めてではありません。
昔、TOが留学のための夏季語学講習をボストンで受けていた時、
志望校の一つとしてこの大学の教授と話をしたいというので、わたしが運転して
ここまできたことが一度あるのです。 

わたし自身のことではないので自慢でもなんでもありませんが(笑)、
その後TOはこの大学からも合格のお返事をいただいております。

大学の事務局から電話がかかってきた時、わたしも横にいて聞いていたのですが、


「オー、リアリー? グレイト!グレイト!」

と彼が興奮して言ったのをよく今でも覚えています。
結局TOはここではなく、ボストン・ケンブリッジにある大学に行くことを決めたのですが、
彼としてはどちらに行くか、かなり悩んでいたようです。

「どっちがいいと思う?」

と聞かれたのでわたしは、

「ニューヘイブン大学(仮名)の方が何だか通っぽくていいと思う」

と無責任な返事をしたのですが、結局この大学のあるニューヘイブン(New Haven)は、
大学を除く地域が「ニューヘブン」というくらい貧困地域に手厚い税制を敷いているせいか、
実はあまり環境がよろしくなく、家族で住むには如何なものか、という理由で止めになりました。

まあその他にも、卒業後のアラムナイ・ネットワークの強さとか、彼なりに考えた理由はあったようですが。

とにかく、今回たまたま息子の学校がここになったことで、それ以来初めて
わたしたちは大学キャンパスを訪れることになったのでした。



ジャケットにレジメンタルタイ、白いコットンパンツにジャケットと同色の靴。
街角を歩いている人もさすがは名門大学と思わせる只者ではなさ。
ちなみに彼はこれもアメリカ人にはどちらかというと少数派のメガネ着用でした。



キャンプのチェックインは、アメリカらしく、ドロップオフ方式です。
車で指定されたあたりを走っていると、目立つオレンジのTシャツをきたスタッフが
歩道に立っていて、車を寄せると窓越しに「ここまで車で行ってください」と書かれた紙をくれます。
車の列に並ぶと、ここがチェックインする場所のようで、女性のおまわりさんが、
(大学警察の警官。アメリカの大学は警察組織を持っている)ロータリーに車を誘導しています。



泊まりのキャンプなので、皆トランクなどを持って降りると、
スタッフがモッコのような手押し車に荷物を載せて、各自の部屋まで運んでくれるのです。



ゴミを運んでいるのではなく、キャンパーの荷物を手押し車に載せています。



息子によると、ドミトリーもこの建物にあるとのことでした。



車から降りていく息子を迎えてくれるスタッフ。

 

後から息子が送ってきた宿舎の内部。
これはどういうことかというと、6月にはこの大学の4年生が卒業していき、
彼らのいた部屋は9月になって新入生が入って来るまで空いています。
大学としては、夏の間もそこを遊ばせないため、こういうサマースクールに
施設を貸し出すというわけです。



さすがは東部アイビーリーグの雄として名高い大学、
米国史上三番目に古い、1701年の創立時に建てられた校舎がいまだに健在です。
1701年ったら、日本では元禄初期ですよ。

クリントン夫妻、ブッシュ、ケリー、チェイニー、フォードなどの政治家、
映画関係ではポール・ニューマン、メリル・ストリープ、ジョディ・フォスター、
シガニー・ウィーバーなどもここの出身です。



街をうろうろしている人たちにアフリカ系が多いのもニューヘイブンの特徴で、
保守的なボストンケンブリッジの人々は、

「あそこは黒人が多いから治安が悪い」

などとさらりと言ったりします。
最初にボストンに行ったとき、MITの教授のお宅に夕ご飯に招かれたのですが、
そこにいた大学関係の人たちも本人たちは差別しているという意識もなく、
「事実だから」といった感じでこのようなことを言っていました。

確かにケンブリッジ近辺には労働階級ですら、驚くほどアフリカ系がいません。 
中華系も、最近の「中国イナゴ」はともかく、西海岸に比べると少数派です。

保守的といえば、全米ナンバーワンの大学といえばハーバードですが、当大学は


「ハーバードが世俗化したから」

という理由でつくられたという経緯があったそうです。
ちなみにここができてしばらくして、「世俗化したから」という理由で
つくられた大学が、プリンストン大学です。

今でもこの順番で後者に行くほどリベラルな傾向があるのはそのせいだという話です。



これは大学の近くにあったアパートメントで、おそらく大学関係者が住むところでしょう。
アメリカの国旗を筆頭に、イギリス、フランス、イタリアの旗ときて、
一番右がなぜか韓国国旗(笑)

おそらくここは昔日本の旗があったものと思われますが、近年日本からの留学生が減り、
大学内での両国の比率が逆転したとき、韓国系が大騒ぎして付け替えたのでしょう。
あんな人口の少ない国なのに、皆国内から逃げ出すようにアメリカにやってきて、
留学ついでに移住もしてしまおうという人間ばかりなのでこういう現象も多々あります。



お腹が空いたので、このアパートメントの向かいにあるヴェジタリアンレストランで
遅いお昼ゴハンを食べました。
ローストベジタブルのひよこ豆添えは、見た目はなんですがかなり美味しかったです。



車を近くのパーキングに入れ、チェックインしたあとすることのない息子を
迎えに構内に少し入ってみました。

キャンプの受付テーブルが外に並べてあります。
この日はアメリカには珍しく、朝からまとまった雨が降る1日で、このときも
実は細かい雨がひっきりなしに降っていたのですが、アメリカ人的には
こういうのは雨のうちに入らないので傘をさす人など全くいません。



「バースデイケーキ」とは?

 

今は海外旅行中でも簡単に電話でお互い連絡が取れるので本当に便利です。
息子に電話すると、今別に何もしていないというので呼び出しました。



大学全体がこのような壮麗な石造りの建物ばかり。
この大学にも出身者が作った「秘密結社」がいくつも存在し、有名なのは

スカル・アンド・ボーンズ

というもので、映画にも時々取り上げられるようです。
秘密結社の置かれている建物は、「窓がない」と言われています。

建物の形がどれも教会風なのは、建造物を寄付する人たちがそれを希望したからだとか。



息子が出てきたので、三人でまず近くの本屋に行きました。
そこで欲しいといった本を2冊ほど買ってやり、スターバックスでお茶を飲もうとしたら長蛇の列。
アメリカ人のスターバックス好きははもはや信仰です。
今いるホテルはいわゆるデザイナーホテルで、いけてる内装とスタイリッシュな雰囲気が売りなのですが、

「スターバックスのコーヒーが24時間飲めます」

というのをセールスポイントの一つにしていました。

それはともかく、息子が「あまり長い時間部屋を空けたくない」というので、
スターバックスは諦めて、こちらでは全米展開しているベーカリーカフェ、
「パネーラ」で休憩しました。
息子はわたしたちと違い何も食べていなかったのですが、

「もうすぐクックアウト(野外でバーベキューのディナー)なのでちょっとにしとく」

と、サンドイッチをTOと分け合って食べました。

「一人の部屋と違ってルームメイトがいるんだから、ちゃんと起きたらベッドをメイクするのよ」

「わかってるよ」

「歯磨きは絶対にいい加減にしないように」

「わかってるって」

「くれぐれもあの日本人は変な奴だと思われるようなことはしないでね」

「たとえば?」

「朝はやく起きて『きえええ!』とか気合いを入れたり棒で素振りしたり、床で瞑想してたり」

「しねーよ。てかどんな日本人だよそれ」

「あああ心配だ」

「大丈夫だって。アメリカ人の中で暮らすのはママよりずっと俺慣れてんだから」 

「そういやそうでした」

そんな「心配するおかんと息子の会話」をしていたと思ったら、きっぱりと

「もう行くよ。トロイ(ルームメイト。ドイツ系らしい)も一人だし」

と立ち上がって、少しだけ緊張した様子でドミトリーに入って行きました。
わたしたち夫婦にとって息子の初めての「独り立ち」だったわけですが、
いつの間にかこんなに成長したんだなあと感慨を深くしながら、ニューヘイブンを後にしました。

こうやって子供は親の元から離れていくんですね。
 


 


ボストン美術館~カフェのブランチと「自己満足系アート」

2015-07-05 | アメリカ

例年ボストンにはわたしと息子だけでくるのですが、今年は初めて
TOが夏休みを前倒しして一緒に飛行機に乗ってきました。
これは息子が参加するサマースクールが初めての場所となるからなのですが、
着いて3日間はフリーだったので、ボストン美術館に家族で行きました。



入場料は大人25ドルですが、17歳以下は無料です。
25ドルというのは物価の安いアメリカでは高めの値段設定ですが、
一度来館すれば何日か以内であれば同じチケットで二度入場できるシステム。

定期的に4時半の閉館時間が週末の夜9時までに延長され、しかもその日は
あらゆる入館者が無料だったり、一般市民の呼び込みにいろんな努力をしています。

さて、今回の訪問は、到着してから息子の学校が始まるまでの3日間、
家族で予定がフリーとなっていたところ、TOの

「去年夕食を食べた美術館のレストランでまたご飯を食べたい」

という強い希望により実現しました。
家族三人で行動できるのはこのときだけなので、ボストン美術館には乳児の時以来行ったことのない息子に
ここの膨大なコレクションを観せてやりたかったというのもあります。

世界地理や歴史が得意科目で、学校で習った歴史的薀蓄を教えたがる息子には
ちょうどいい時期であったとも言えましょう。

余談ですが、最近聞いた息子の薀蓄で「知らなかった!」と感心したのが

「グレートブリテンって、大英帝国とか訳されてるけど、偉大とかいう意味じゃなくて、
ブリテン島の大きい方(スモールブリテンもあるらしい)だから、フランス人がそう呼んだだけ」

ということでした。
自分の国をグレイトなんて公称してしまう国っていったい、
と大英帝国のことを思っておりましたが、ちょっとした誤解だったということになります。
(ところで戦後になって自分の国に「大」とかつけてしまうお隣の国っていったい・・) 

余談はさておき、昔ルーブル美術館とオルセー美術館で

「もう”絵が”(子供は一文字の言葉を覚える時”火”=”ひが”、”血”=”ちが”ということがある)
のあるところいや~~」

とごねた1歳半の息子も、今や世界地理に関しては「負うた親」に蘊蓄を講義する立場。
素直に美術館行きを承諾し、

「オレ、アフリカ美術とか観たいな」

というくらいの成長ぶりです(T_T)



というわけで、いつ行ってもどこに何があるか把握できないボストン美術館。
こういうのはローマ文化でしたっけ?
今回は階段を上って二階から見学を始めたので、さらにわけがわかりません。



これはヘレニズム文化、ギリシャ彫刻というものですよね。
しかし、この時代、絵画のリアリズム手法が発明されていなかったため、
人々が彫刻にそれを求めたということが、この作品などを見てもよくわかります。

この時代の芸術が後世に遺されたのも素材のおかげです。



人物像が多いこの時代のもので珍しく鶏の彫刻。



髭を生やしていたことまでリアルに表現されている「似顔像」。



歩いて行ったら、絵画修復室が公開されているコーナーがありました。
さすがはアメリカ。
この日は日曜だったので、作業をしている人はおりませんが、巨大な宗教画が
修復作業中のものとして展示してありました。



磔刑にされたキリストを降架しているの図。
それにしても大きい。
上部に四角い穴が2箇所空いていますが、この部分を今制作しているということでしょうか。

天井から降りてきている掃除機のホースのようなものは部屋の2箇所にあり、
作業中の作品を乾かすか、あるいは埃がつかないようにするものかと思われます。



階段の踊り場ホールにはフルコンサートピアノがありました。
当美術館は篤志家が何億も出仕するような欧米の文化に支えられているので、
このピアノ(おそらくスタインウェイ)もそういった寄付で賄われたものかもしれません。



中世の宗教美術コーナーにあった普通のおばちゃんらしき人の胸像。
目鼻のバランスが悪いので、もしかしたらこのおばちゃんの知り合いが作ったとか、
何しろプロの手によるものではないことは確か(だと思う)



こちらの中国美術のコーナーにあった立像も、正面からはともかく
横から見るとバランス悪くてこの通り。
まあこれも表現の範囲かもしれませんが。

展示作品が多いボストン美術館には、突っ込みどころ満載の
「世が世なら駄作?」と疑ってしまうものも時たまあります。



去年も写真をアップした現代アートのセクションにある「雲と飛ぶ人」。
この吹き抜けには全部で5人くらい飛んでいます。



そこに本日ブランチの予約を取ったレストランがあります。
裏口から、ピアノとベースのデュオが準備しているのが見えました。
生演奏付きとはついています。

パフォーマーはジャズピアニストで、「マイ・シェリー・アムール」などの
S・ワンダーのナンバーもやっていましたが、本業はバッパーらしく、
「ハニーサックルローズ」「ワン・フォー・マイ・ベイビー」などを演奏していました。

アメリカに来て「ジャズの発祥の地だなあ」といつも思うのは、こういうレストランでも、
たとえショッピングモールやノードストロームのフロアでも、

下手な人は見たことがない

という事実です。
日本では場の華やぎに女の子を投入するようなところでも、アメリカではまずそれはありません。
下手な人はプロになれないというだけなのですが、日本ではそうでもないので(笑)



レストランの窓からは向かいの現代アートの壁画が鑑賞できます。
この日は日曜のブランチでしたが、店内は閑散としていました。



付け合わせのブレッドにコーンブレッド(甘みのないパウンドケーキのようなパン)
がついているのがいかにもアメリカ。



メニューは「2course」「3course」とあり、前菜、メイン、デザートから2つか3つ選びます。
わたしは前菜とメインの2courseで、グリーンカレー風スープを前菜に頼みました。



TOが頼んだサラダ。



わたしのメインはサーモンです。
全員でお皿を回しましたが食べきれませんでしたorz



息子のエッグベネディクト。
一人分なのに二つついてくるあたりがアメリカです。

「これ一人で全部食べちゃうアメリカ人って・・・」

「だから太るんだよ」



TOの頼んだステーキ。
アメリカで肉を選ぶことなど滅多にありませんが、頼んでみたそうです。
彼らが日本の肉を食べて

「今まで我々の食べていたのはゴム草履であった」

と驚くのがよく分かる味気なさでした(笑)
調理そのものは悪くなかったんですがね。



デザートはラズベリーアイス。
一人分に3スクープって・・・。



TOの頼んだチョコレートケーキ。
何も申しますまい。

というわけで、アメリカにしては美味しいけど、日本からきたばかりの日本人には
色々とこれも突っ込みどころの多いブランチでした。



すっかり満足して、鑑賞の続きを向かいの現代アートから始めました。
小さな洗面所で身なりを整える人。
配管までむやみにちゃんと再現されているリアリズム。



裸婦のブロンズ像が壁に張り付いておりました。
下で写真を撮る人も含めて「アート」ってことで。

それにしても、これは何を表現したかったのか。



お盆の上に生首が三つ載っているの図。
と思ったら左の生首には足がついています。



無印良品に「人間をダメにする椅子」という製品がありますが、それと同じです。
あちらは椅子ですが、こちらは芸術作品で、かつ「座ってもい椅子」。
どうも作者は、座っている人も込みで作品だといいはっているようです。 

作品紹介に「座ってください」と書いてありましたが、それを作品といってしまいますか。
これ、単なるクッションというものなんじゃ・・・。



こういった抽象アートの「イタさ」について去年友人の絵本作家が一言で 

「 自己満足だよね」

とバッサリ斬ってくれたので安心したという話をしましたが、去年、

「自分とそっくりの人形を吊るし、棒でたたいて破壊し、中から
血(のつもりの赤い粉)や内臓(のつもりの造りもの)などが出てくる」

パフォーマンス系アートなど、その典型といったところ。
今回はその同じスペースで、画像のようなビデオが放映されていました。
女の人の顔に糸をきつくぐるぐる巻きにしていき、それを外して彼女の顔に
ほら、糸の跡がついてますよ、という芸術です。

・・・自己満足だよね。


続く。
 


 



 


成田発ボストン行き鶴丸航空(仮名)での偶然

2015-06-29 | アメリカ

というわけで、今年もアメリカからネイ恋をお届けすることとなりました。
最近、コメント欄へのお返事が遅れ気味だったのは旅行の準備のせいです。
いつも遅れ気味じゃないかとおっしゃるあなた、それはもしかしたら気のせいではないでしょうか。

今年のスケジュールはハードで、10日前後ボストンとニューヨークの間をうろうろし、
一度日本に帰ってきて成田から第三国に出国し、そこで用事を済ませて帰ってきたら、
またすぐに東海岸に行って、3日後に西海岸に移動という過酷なもの。

ただでさえ年々時差ぼけから立ち直るのが遅くなっていっているというのに、
こんな全盛期のシンディ・ローパーみたいな旅程をこなしたら、果たして帰国後、
一応行くつもりをしている富士総合火力演習と花火大会はどうなってしまうのか。
考えたくもないので考えていませんが、とにかくそういう怒涛の日々が始まったのでした。



某月某日、我々は鶴丸航空ラウンジにおりました。
成田の出発ロビーには鶴丸航空ラウンジが二つありますが、そのうち一つのみ、
ダイニングメニューを出しているということだったので、そちらに行ってみました。



お昼ご飯代わりにちょっと軽く食べられるものが充実しています。
インスタントとはいえ味噌汁、コンビニのではないおにぎり、焼きおにぎり茶漬けなんてのもありました。
小皿に二種類の副菜もあって、充実です。

ちなみに、このラウンジの上の階はファーストクラス専用ラウンジでした。
普通のラウンジと何が違うんだろう、と思って調べてみたら、そちらでは

寿司職人がご注文に応じて寿司を握ってくれる

ジョン・ロブの専門靴磨き職人(そんなのあるんだ)による靴磨きサービス

スカルプ、ボディ、足ツボの無料マッサージ

があるということです。
足ツボのマッサージしている間に靴を磨けるってことですねわかります。



ラウンジからは向かいに到着した鶴丸機の作業を、車椅子を押す係のブリーフィングに始まり、
全行程みっちりと見学することができました。
飛行機の荷物を降ろすところをわたしは初めて見たわけですが、
荷下ろし専用の小さなドアからベルトコンベアに向かって、荷物がバンバン投げおろされていました。
荷物をこんな扱いするのはアメリカ人だけだと思ったわたしが間違っていました。

写真のハッチからは人の姿は全く見えないのですが、荷物だけが飛んで出てきます。

「うわー、乱暴だねどうも」
「日本の航空会社なら丁寧に扱うと思ってたんだけどな」
「いや、短時間に100個単位の荷物を降ろすんだからこんなもんでしょう」

昔、息子の子供用チェロをどうやって預けたらいいか聞いたら、
普通に預けるしかないと言われたことがあるのですが、あれを真に受けていたら
あのときチェロはきっと五体満足で戻ってくることはなかったことを確信しました。



これから乗る飛行機・・・なんですが、この写真を後から見て、

「コクピットを拡大して撮っておけばよかった」

と思いました。その理由は後ほど。



今回ちょっと嬉しかったのは、いつもアイマスクや耳栓が入っているポーチが、
アメリカのカバンブランド、「TUMI」の製品であったことです。
伊達に名前だけつけているのではなく、ファスナーは堅牢、内側には小物ポケット付き。

「これいいね。持って帰ろうっと」

「ネクタイを入れて持ち運ぶのにちょうどいいねこれ」

「わたしはサングラス入れかな」

「コード類を入れるにもいいかも」

我が家の評判は上々です。

「これ帰りも貰えるんだよね」

「わたしなんか二往復するから4つ貰える予定」(´・ω・`)



機内の楽しみといえば、機内食。

前菜のテリーヌはフォアグラとウナギのようなものが入っていました。
パンは、いつも鶴丸はメゾンカイザー。
右の赤いパンはトマトブレッドでした。



去年同じ便の鶴丸便で洋食を和食に変えさせられ、1万回CAに謝られたわたしですが、
今回は無事魚がメインの洋食を注文することができました。
白身のお魚は・・・これなんだっけ。

鶴丸の痒いところに手が届きすぎて鬱陶しい恐縮してしまうほどのサービスには定評がありますが、

今回も映画を見ていてヘッドフォンをしている時に前にぐっと顔を寄せてきて
なにやら笑顔で囁くので、ヘッドフォンを外して、「は?」と聞き返すと・・。

「本日はどうもありがとうございました。またのご搭乗をこころより云々」

大変ご丁寧にありがとうございます(−_−;)



デザートはムース。

さて、成田~ボストン便のフライト時間は約12時間です。
長時間ですが、それだけ映画をたくさん見る余裕だけはあります。
というわけで、今回観たのが、まず

ジョーカーゲーム

日本映画でジャニ俳優が主演したものなど普段は観る気にもならないのですが、
タイトルで伊勢谷友介(これを変換するまで”いせたにともすけ”って読んでたorz)が
陸軍の軍装をしていたのでついそれにつられて()観てしまいました。

大東亜戦争時の「D機関」というスパイ組織が魔都上海でどうたらこうたら、
という「浪漫的」なものを狙った作品だと思うんですが、あらすじはともかく、
全体的に漂うこの、少女漫画的臭さはなんとかならんのか、と思ったら
原作はミステリー大賞受賞作で少女漫画家が作品にしていました。やっぱり。


D機関創設者の伊勢谷が「魔王」で、女スパイの深田恭子がメイドの格好で登場、
訓練生が「怪物」と呼ばれ・・。もう設定だけでお腹いっぱいです。

呆れたのが、亀梨(これももしかして”かめなし”?)がスパイとして採用される日、

「今上った階段は何段あった」

「24段です。何段めのどこそこに傷が」


地図をテーブルの上に広げて

「マニラは何処だ 」


「この地図にはありません」

「地図の下には何があった」

「コーヒーカップ三客、タバコはしんせい・・」

 

これって、市川雷蔵の「陸軍中野学校」の丸々パクリじゃないですか。
原作でパクってあったのか、映画でパクったかはわかりませんが、ここでがっくりときました。
深田恭子の絶望的なセリフまわしの稚拙さ(昭和初期にそのギャル喋りは何?みたいな)も、
この映画の評価を著しく落とした大きな要因です。
深田さん・・・・黙っている分にはビジュアル的にいいと思うんですけどね。

二つめが

ビッグアイズ

で、これはさすがのティムバートン、トレーラーを裏切る?面白さでした。
奥さんの作品を旦那が自分の作品だと言って有名になり、
ある日妻がそのことを世間に公表して裁判で実際に絵を描いて証明、
というまるで映画のような実話を映画化したものです。

それから、ちょっとおどろいたのは、



今国際線では画面で読書もできるんですね。
わたしは今回初めて知ったのですが、漫画も読めます。
「進撃の巨人」を読み始めたのですが、1巻終わらないうちに到着してしまいました。
まあ二往復する予定なので全部読めるでしょう。




ボストン到着~。
これで夜の7時くらいです。

ローガン空港では今年はイミグレのやり方が大幅に変わっていて、
日本人が申請する「ESTA」(また今年も空港で申請しましたorz)は、専用のラインがあり、
承認機でパスポートをセルフ承認させ、そこで写真を撮り、ブースを通過する仕組み。

ESTAは信頼されている日本国の国民が持つことができる、大いなる特権なのですが、
このESTA持ちであっても、グループのうち一人だけは、なぜか承認機から出てくる顔写真に
大きな×が付けられていて、(わたしだったorz)その人物はもう一度指紋検査と写真を撮影されるなど、
入国手続きは年々厳しくなっていっているように見えます。

それでも他のESTA承認国以外の入国者にかかる時間の5分の1位かもしれません。
日本国民でよかった、とイミグレーションを通るたびに思います。



到着したボストンは9時くらいに日の入りです。
明るいですが、フライトの後で疲れているので空港のホテルに一泊。



部屋からはジェットブルーなど、各社の駐機場が見えました。
バージンエア、JAL、ルフトハンザ、トルコ航空の飛行機が停まっていました。

次の日、ホテルを出て買い物(わたしがまたしてもメモリーカードを忘れたので)したり、
ご飯を食べて次のホテルにチェックイン。



例年息子のキャンプで泊まるホテルを予約したつもりが、ホテルズ.comで頼んだせいで、
近隣の同じ名前の違うホテルを予約してしまっていました。

全く、毎年毎年、無事に予約やなんかをすることができんのか。

最初のホテルで「名前がありません」と言われて、ホテルのPCで調べたところ
そこから15分離れた別のホテルに予約していたというわけ。

「ま、まあいいか。今まで一度泊まってみたいと思ってたから・・」

家族の冷たい目に言い訳するわたし。



いつものホテルより少し狭いですが、仕様は同じ。
まあ、ここには2泊しかしないので文句は何もありません。



ベッドも向こうより少し狭いかな。



夜は「ホールフーズ」(オーガニックスーパー)で買い物してきて、部屋で食べました。

30センチはありそうなツナの塊(10ドルくらいだった)に塩胡椒して、
野菜と一緒に炒め、出来あいの玄米を口に合うように調理しなおした簡単なもの。

「ナショジオチャンネル」の「Deadlist Catch 」(ベーリング海の一攫千金)
という番組で、漁に命をかける男たちのドキュメンタリーを見ながら食べたのですが(笑)
番組で知ったのは、一本釣りされたマグロは高く売れること、しかし高いと言っても
ワンシーズンに1匹しか捕獲できず、しかも一匹がせいぜい110万円であることです。

それでも危険を冒して一本釣りにこだわる、彼らの男気、そして汗と涙の結晶であるツナ。
こころして、ありがた~くいただきました
 

ところで、今回の鶴丸便機中、機長を紹介するアナウンスがあったとき、息子がそれを耳に止め、

「あ、このフライトの機長、もしかしたら同級生の女の子のお父さんかもしれない」

と言いました。
イノウエとかタケウチとかフジイといった、よくあるようなないような名前なので

「 鶴丸航空(仮名)にイノウエ(仮名)なんて機長たくさんいると思うけど・・」


といって話を終わったのですが、その後息子がSNSで着陸後に彼女にすぐ連絡を取り、
それが実際に彼女の父親であることを確認しました。

「へえ、Mちゃんのお父さんだったんだー」

お父さんとは学校の送り迎えや行事で何度もお会いしていましたが、
鶴丸のパイロットであることは最近息子から聞いたばかりです。
12時間の長いフライト、それを操縦していたのがが知っている人だったとはびっくり。
しかも、その同級生のMちゃんは、先日ディズニーシーで息子の寝癖から
人ごみの中の息子を見つけ声をかけてきたという偶然の出会いがあったばかり。


先日も旅行先の空港ラウンジでメールを受け取ったら、その人は実は壁の向こうにいたことがわかり、

「案外人って、こういった偶然に気づかないでいるだけで、実はしょっちゅう
なんらかの関係がある人や、過去あった人とすれ違っているのかもしれない」


と思ったということがありましたが、またもやその偶然に驚かされた次第です。

例えば、わたしが過去乗った飛行機の機長がハーロック三世さんだったり、

お仕事やお店でお世話になった方がこのブログを読んだことがあったり、
自衛隊のイベントなどですれ違っていたり(これはとくに確率高いかな)。


こんなことを想像するとなんだか楽しくなってきます。



またアメリカ滞在で見たものを折に触れご報告しますので、宜しくお付き合いください。
 





 


ある海兵隊パイロット夫妻の結婚式(とその犬)

2015-04-30 | アメリカ




一通りの見学を終わって、ブラッドが「飛行機の時間までうちでコーヒー飲んでけば?」
と提案してくれたので、お言葉に甘えることにしました。
日本人らしくわたしたちがえ?そんなのいいんですか?お邪魔じゃないですか?
と気を遣ったのに対し、ブラッドは軽~く

「House is just a house」

と言ったのがなんかおかしかったです。
彼らの家は、基地からわずか5分くらい車で行った高台の住宅街の、
いわば「普通の日本家屋」でした。

玄関を開けたら上がり框があって、入ってすぐ廊下があって、応接間の横に和室があって・・、
というあのお馴染みのタイプの家屋です。

もちろん基地の中にドミトリーがあるのだけど、職場と家は切り替えたい、
という二人の考えで、外に住むことになったそうです。
こういう風に考える軍人は結構多いものらしく、この家も前の借主は
やはり海兵隊の軍人家族だったということを言っていました。


わたしたちがとまどったのは、日本家屋の玄関のたたき、普通ならそこで靴を脱ぐところを
ひょいと階段のように上がって靴のまま入ってしまうことで、全員がそこでえ?と
立ち止まってしまい、二人にそのままでいいよ~と促されて中に入りました。

そして、お留守番していた彼らの愛犬が上がり框までお迎えしてくれました。



和室にダイニングテーブルを置いてそこで食事、日本人がダイニングテーブルを
置きそうなスペースには何も置かず、その分ソファーのスペースが広くとっています。

同じ間取りなのに、アメリカ人が住むとこうなるのか、とちょっとした驚きでした。
そして畳のダイニングのところも靴で歩いてしまうというあたりも。
日本人ならスリッパすら憚られる(畳が傷むから)ところですよね。



ブラッドはいかにもイヌ好きなタイプだなと思っていたのですが、やはり。
この犬(時間が経ったので名前を忘れてしまいました)はもともとブラッドの飼い犬だそうです。

わたしたちのためにキッチンに立ってコーヒーを入れてくれているブラッドを
期待の眼差しで見つめる犬。

耳が垂れているのに短毛で精悍な体型のこの犬、なんていう種類でしょうかね。

とにかく、彼はアメリカ生まれで、子犬の時日本に連れてきたのだそうです。



ところでキャリーさんはブラッドがシミュレーターに入っている間車であちらこちら
基地を案内してくれていたのですが、そのときにブラッドとの結婚式について

「サーベルのトンネルをくぐっている写真があるから後で見せてあげる」

と言ってくれていました。
もしかしたら、家に呼ぶことは最初から二人の間で決まっていたのかもしれません。
ほとんど初対面の人間を家に招じるくらい信用するというのは、ひとえにTOと
大学のアルムナイ同士であったということに他ならないと思います。

それはともかく、その二人の結婚アルバムを見せていただきました。
写真を撮ることも許可済みです。

ブログにアップするとは断っていないので顔隠しで。

この表紙らしい写真の飛行機、何でしょう?




出た、アメリカ人の好きな写真ポーズ。
ジェシカさんはアメリカ女性の中でも少数派に属する「ものすごくスマートな人」で、
体型的にはジョン・F・ケネディの息子の奥さん(ファッション関係者だった)の
キャロラインという人に雰囲気が似ているタイプ。
つまり美人です。

ある集まりで偶然出会ってブラッドが一目惚れしたとのこと。



そうそう、これが見たかったのよ。
教会から出てくる二人をサーベルのトンネルが・・・・・
・・・・まあ、飛行中隊なのでずらりとというわけにはいかなかったようだけど、
いや本当にかっこよろしいなあ。

自衛隊員と結婚した人も、メスジャケットなどをお召しになった新郎が
かっこいいので新婦はもちろん新婦の友人大感激、というものらしいですが、
このときのブライドメイド(花束を持っている新婦の友人、左のブルーのドレス)
たちは新郎友人にときめいたりしたのではないかと勝手に思ってみたり。

ちなみにこのブライドメイドの衣装も、結婚式の雰囲気を決する重要なファクターなので、
新婦と友人たちはこれにこだわりまくります。
これを決める様子を毎回三組ずつカメラで追う番組がアメリカにはあるくらいで。

さすがに彼女の友人は美人さんが多いようで、このような難ありスタイルの人には
難しそうなデザインと色も、綺麗に着こなしています。
ブルーはやはり海兵隊のブルードレス?と思ったのですが、ブライドメイドのドレスは
「サムシングブルー」で圧倒的に青が多いのです。



結婚式会場の上空をおめでとう飛行するF-18ホーネット。
すごいですよね。
一回の飛行にとんでもなくお金がかかるらしいということはわかりますが、
それを(さすがに編隊飛行ではないにせよ)出してくれるとはさすがアメリカ。

それぐらいせんでなんのアメリカ軍か、というわけでしょう。



皆に祝福を受ける二人。
ブラッドの左胸にはウィングマークがありますね。
ちなみに彼は軍人になろうとは全く考えておらず、エンジニアになりたかったそうです。



棚の上に飛行機の模型が(笑)

彼らは結婚して3年目でしたが、まだ子供を作る時期ではないということで、
日本では犬との三人暮らしでした。
もしかしたら日本に赴任している間は色々と大変なので(彼女の不便とか)、
アメリカに帰るときまで我慢するつもりなのかもしれないと思われました。


また、キャロラインさんの親族には軍関係の人物は一人もいなかったため、

「軍人の妻」の立場に未だに慣れていないという部分があり、特に夫が危険な仕事をしていることについては

「考えないようにしている」

とのことでした。 



時間が来てお宅を辞する時、ブラッドがわたしたちにくれたお土産の一つ。
ペナントやコップのカバー、メダルなど、マーク入りの品ばかりです。
Tシャツは2枚あって、わざわざ基地でわたしたちのために買い求めてくれたのだと思うと感激でした。 



ところでこのわんちゃんなんですが(笑)
カメラ目線でしょ?
このあとなぜかわたしのところにまっしぐらにやってきて、熱烈歓迎。

昔から犬猫に妙になつかれるという体質を自負するわたしですが、

ここでもまたものすごく好かれてしまい、もう舐めなさる舐めなさる(笑)
とりあえず外に出ている部分、肘から先は満遍なく彼の唾液まみれです。

舐めるって、本当に犬の歓迎のしるしなんでしょうね?
と疑わしくなるくらい、わたし一人が集中して「舐刑」(舐めの刑)にあいました。

TOも息子も普通に犬好きなんですが、わたしほどではないので、
動物ってそういうのがわかるのかな、と度重なる彼らの歓迎にあらためて思った次第です。



ブラッドはさようならのとき、わたしに向かって敬意溢れる態度で、

「ハグさせて」

といい、ハグ(息子とTOは握手だけ)をして別れの挨拶をしました。


優しく、かっこよくていかにもパイロットらしい精悍な男性と

やはり知性溢れる美人の(しかもブロンド)カップル。
まるでアメリカのドラマに出てくるような絵になる二人です。


「もし息子ができて自分と同じ道を選ぶといったらどうする?」

という質問には、知的な人たちらしく

「彼がそうしたいと言うならそれは彼の意思なので尊重する」

と答えていましたが、とりあえずそれについてはこだわらないそうです。 

ブラッドの部隊はこの後すぐ外地に行く予定になっており、そのあとも
二人が一緒に居られる時間はあまり多くない、ということでしたが、
この美しい夫婦と、将来彼らの間に生まれてくる子供達ががこれからも幸せでいられるように、
アメリカと彼らの上に何事も起こらないでほしいと、心から今も祈らずにいられません。





 


ある海兵隊パイロットとその妻の話(前半)

2015-04-29 | アメリカ

2013年というともう何年も前のことのような気がしますが、
1年半前なのでやっぱり気のせいではなく随分前のことになります。
当ブログでもご報告した岩国の海兵隊基地訪問記で、彼らのうちに遊びに行ったことだけ
なんとなくそのときに書き残したまま日にちが経ってしまいました。

海兵隊の話題になるたびになんとなく思い出していたのですが、
今日ふとお話しする気になったので、お付き合いください。


うちのTOがアメリカで留学した大学には、日本にもいわゆる同門会があり、
日本に仕事で立ち寄ったりあるいは縁あって住むことになったアラムナイ
(alumuni・学校のOB、OGのこと)のために定期的に会合を持っています。

アメリカ人を始め外国から来たアラムナイと日本の卒業生の懇親会のようなもので、
いわゆる「外人受け」するような催し、築地市場を見に行ったり、花火大会に行ったり、
というようなイベントが企画されることが多いのですが、そこで出会ったのが、
海兵隊のホーネットドライバーを夫に持つ女性、レイラさんでした。

・・・・え?

たしかそのときはアンジーとか言ってなかったかって?
はい、ブラッドというのがドライバーの名前だったので、つい実在のカップルの名前から
拝借してきたのですが、その後アンジェリーナ・ジョリーの方が嫌箱入りしてしまったので(笑)
というか男性は本名だったのか、と気づかれた方は速やかにスルーしてください。
軍機ですから。

というわけで、一度上げた写真で、今日はおさらいをしておきます。
レイチェルさんがTOと話をしていて、

「わたしの夫はマリーンでF-18のパイロットをしているの。
息子さんがいるのなら家族で基地にぜひ遊びに来てちょうだい」

とお誘いを受けたTOは、

「その件については息子より妻の方が興味を持つだろうと思う」

と、わたしのために海兵隊基地訪問を実現させてくれたのでした。
上の写真は、彼の飛行隊のスコードロンマークで、もともとのキャラクターである
コウモリの意匠を、在日部隊の典型的な象徴である旭日と絡ませたもの。

これは木のテーブルに彫り込んだものですが、基地にはかつてここに駐在した
飛行中隊のマークが数多く飾られていて見ることができ、その約35%に
日本駐在の印として旭日があしらわれているのにわたしは気づきました。
全く、旭日旭日と大騒ぎする何処かの国の人に、在日米軍に一度文句をつけてみろ、
といってやりたいですね。

何処かの国と違ってアメリカ軍というのはかつて日本と戦争していた当の相手で、
その相手が今や「イケてること」至上たるスコードロンマークに使いまくってる、
これは一体どういうことなんですか?
どうしても文句を言いたいのなら在日米軍にも言うべきでは?と。



廊下に剥製が飾られているなんてまるで学校みたいですが、
スコードロンマークがコウモリなのでコウモリの剥製。
なんかこういうセンスが日本人とはちょっと違うなと思ってしまったりするのですが。



ロッカールームを見学した時、息子に耐圧スーツを着せてくれているブラッド。

わたしなど民間人で、自衛隊の方々ほど在日米軍との付き合いがないせいか、
こういう光景を見ると、というかアメリカ軍の軍人と一緒にご飯を食べたりして
親しく付き合うと、わたしなどふとその間も、70年前のアメリカ人と日本人が
こんな未来をもし知ったらどれほど驚くだろうか、などという他愛もないことを
ついつい想像せずにいられません。

もしお互い70年前に生まれていたら、間違いなく殺し殺される国民同士だったのに、
今、ここ日本でこんな風に友好している・・。

当時の若者たちはよく「悪い時代に生まれた」と自嘲するように言ったようですが、
今の我々と何が違うかというと、ただ生まれた時代だけなのです。

生まれた時代が不幸だった、生まれた場所が不幸だった。

よくぞ当時でなく現代に、政情不安でテロの続発する場所はなく平和な日本で
子を為したものだとただ、自分の幸運を喜ぶとともに

これからも息子を戦地にやる母親が日本に生まれるようなことが決してないようにと
心から祈らずにいられません。



ロッカールームでは他の人の耐圧スーツやヘルメットも興味深く見学。
この真ん中のヘルメットですが、どう見ても日本の面ですよね?
フォークみたいなのが突き出しているのが謎ですが。



飛行隊の作戦会議室にデカデカとかけられていたポスター。
こういうのを面白がって飾ってしまうのがアメリカ人らしいというか。
ブラッドに意味を知っているかと聞いてみたらなんと知らないと言ったので、お節介にも
中国語でアメリカの侵略者はきっと負けるって書いてあるよ~と教えてあげました。
きっとブラッドは仲間に教えてあげて、彼の飛行隊は中国人に対して一層印象を悪くしたでしょう。

どう見てもベトナム戦争時代のポスターであることを言い忘れたけどまあいいや。



こんな風に本ちゃんの軍人さんが航空模型を操っているのを目の当たりにすることができて感激です。

ところでブラッドのしているかっこいい時計、軍支給でしょうか。

やっぱり耐圧の専用時計があったりするんだろうか。



アメリカ人の悪趣味というか悪ノリ好きが遺憾なく現れている会議室のドア。
ここは彼らのブリーフィングルームの後ろにある小さな二つの小部屋のうちの一つで、
それぞれのドアには中国国旗とこのイラン国旗がペインティングされており、
先ほどのベトナムのポスターは「中国の間」に飾ってありました。

議題によって部屋の使い分けをするのかどうか聞きそびれました。



部屋を出たところにあった各自の「マイカップ」掛けボード。

汚い~!
リリアンさんが呆れたように「ボーイズ・・・」とつぶやくと、

「わたしはちゃんと洗ってますよ?」

とブラッドが一生懸命言い訳していたのが可愛かったです。




それから、基地内にある零戦の格納庫を見学させてもらいました。

昔海軍の飛行基地だった頃の掩体壕が銃痕の痕も生々しくそのまま保存されています。

ここには航空基地の他に終戦間際には海軍兵学校が分校として間借りしていたそうです。




中には映画「零戦燃ゆ」のために作られた零戦52型がこのように格納されています。
空いたスペースには日の丸に書かれた寄せ書きや写真など、日本海軍についての資料がありました。

ところでここの鍵を開けてもらうために下士官の到着を待っている間、ここにも懲りずにやってくるらしい
基地反対派の『市民団体」の話になったときTOが、


「ああいう人たちのバックには中国共産党がいる、というのが彼女(わたし)の説で」

とふともらしたところ(もらすな)、ブラッドが妙に真剣な顔をして「そうなの?」と
聞いてきたという話をしたことを覚えておられる方もいらっしゃるかもしれませんね。
その後、ここの海兵隊基地の偉い人が全く同じ発言をして、案の定基地の外の人とマスゴミが大騒ぎ、
という事件があったのは記憶に新しいかと思います。

このニュースを見た時、まさかとは思うけどこの時の会話が発端になったりしてないよね?
と思わずドキドキしてしまった小心者のわたしでございました。



この後格納庫のホーネットF-18を実際に見せてもらいました。
ブラッドがここは撮らないようにね、と言ったところでは、
ホーネットのエンジンがむき出しで置かれていました。

そして、絶対撮影禁止のホーネットのシミュレーターを体験。
たしたちの中で一番まともに操縦できたのは息子でした。
ブラッドは飛行機に乗らない日も必ずトレーニングとしてシミュレーターに入るそうで、
この日も午前中はずっとここにいたというくらいで、いかにこのシミュレータが
本物のホーネットのコクピット通りに作られているかということだと思うのですが、

わたしたちが全員墜落死した後、みんなで頼んでブラッドの操縦を見せてもらいました。

皆でワイワイやっていたらシミュレータのエンジニアが監視所から出てきて、

「キンタイキョウブリッジの下をくぐれ」

とリクエストするではありませんか。
普通のトレーニングでシミュレータを使うときにはそんなおふざけはできないのだが、
お客さんと一緒に遊んでいる時なら構わないだろう、といったところです。

わたしたちがわあと囃し立て、ブラッドは錦帯橋の下にトライしてくれました。

さしもの現役パイロットもようやく3回目にくぐることができたのですが、
実際は橋桁がもっと低いのでおそらく絶対無理だよね、と皆で笑いあったものです。


さて、というわけで、基地見学が終わったわたしたちを、ブラッドは飛行機の時間まで
家でコーヒーでも飲んでいかないか?と誘いました。

というか、前もここで終わったんでしたね・・。


続く。


 


日系アメリカ人~442部隊・ロストバタリオン救出

2014-10-16 | アメリカ

日本人の血が流れているというだけで、「危険・監視対象」とされ、
日系アメリカ人たちは強制収容所の生活を余儀なくされました。

西海岸の多数のアメリカ人が元々持っていた人種的な偏見と嫌悪は
政治家と陸軍を動かし、強制収容所への追放という悲劇を生みましたが、
この非人道的措置に対し、反対を唱えるアメリカ人もいたのです。

その一人が、FBI長官のジョン・エドガー・フーバーであり、
また、大統領夫人であったエレノア・ルーズベルトでした。

フーバーの反対は非常に論理的で、国内の危険人物は真珠湾攻撃後、
既にFBIの手で拘束したから、必要がないというものでした。


エレノア・ルーズベルトは人道的な面から、夫に法案への署名をしないよう、

プライベートで訴えていたのですが、それは聞き入れられなかったそうです。
(旦那のしたこと分かってんのかなこのおばちゃん?とか言ってごめんなさい)

その他にもコロラド州知事であったラルフ・カー、駐日大使も務めた
エドウィン・ライシャワー博士も反対を表明しています。
カー知事はこの立場を取ったため、後に政治生命を絶たれることになりました。



日系人の中には、強制収容所から出ることが出来た人たちもいました。

忠誠心があると認められた日系人は、外での農作業(ただし、
戦争で人手の取られたアメリカ人の農場など)が許されましたし、
アメリカ人の人道主義者や宗教団体なども、声を上げていましたから、
その助けで、二世の大学生は学業に戻るというケースもあるにはあったのです。

そして、収容所を出ることのできる確実な方法がもう一つありました。
アメリカ軍の兵士として入隊することです。



第2次大戦中、収容所を出て兵役に就いた日系アメリカ人は3万3000人いました。
太平洋地域に赴いた日系兵士の任務は、諜報が主なものでした。
アメリカ軍情報部に訓練を受けた二世の言語専門家は、入手書類を翻訳し、
捕虜を尋問しました。



日本兵を尋問する日系兵士。
戦争中、日系アメリカ人の諜報に関する活動は最高機密とされ、
その訓練段階から世間からは厳密に秘匿されたそうです。



日本人捕虜を尋問しているハリー・フクハラ。
いかにも切れ者のような容貌のフクハラは、後に大佐まで昇進しています。



ブーゲンビル(山本五十六の乗機が撃墜された地です)を
訪れたカイ・ラスムッセン大佐と現地の日系人将兵たち。
ここでラスムッセン大佐は、ロイ・ウエハラ、ヒトシ・マツダらに
敵の攻撃についてのより詳細な注意を与えたそうです。

敵とは、他でもない日本軍のことです。



アメリカ政府は敵を知るため、日系人を使って徹底的に情報収集を行いました。
彼らは日本の書物、パンフレットを英語に翻訳する作業をしています。
その数は何千冊にも及びました。



陸軍第162ランゲージ・デタッチメント部隊
言語専門の特殊部隊です。
こういった部隊に所属する日系兵士たちは、日本人兵士に向けて
戦意を失わせるようなビラをまいたり、投降を呼びかけるときの
アナウンスをしたりといった任務に就きました。

しかし日本側の記述による日系の通訳たちの評判はいいものではありません。
東京裁判における彼らの同時通訳は非常に拙いもので、
何を言っているかわからないと怒り出す被告もいたということです。

国際裁判の通訳をするからには、彼らの中でも優秀な人物が選ばれたはずなのですが。

山崎豊子の小説「二つの祖国」では、日系アメリカ人として育ち、
東京裁判に通訳として出廷する主人公が登場します。 



通称442部隊、名称

第442連隊戦闘団(The 442nd Regimental Combat Team)

は、日系アメリカ人ばかりを集めた部隊でした。

大隊長以下3人の指揮官は白人の士官で、後は日系人です。

指揮系統の上の士官には日系人が昇進して就きました。

映画「俺たちの星条旗」(アメリカン・パスタイム)では、
志願して442部隊に出征した主人公が、名誉の負傷で収容所に帰還したとき、
陸軍兵曹である看守たちが、かつての「囚人」に、
「サー」「ルテナント・ノムラ」と敬礼する様子が描かれています。



日系兵士の制服。
彼らを差別せず、アメリカの軍人として対等に扱ったことは、
4442部隊の日系人たちの士気を高めることになったと思われます。



「白人支配からの解放」を大義名分にしていた日本に、
アメリカの日系人排除を非難されたことに対して、
アメリカが反駁する必要から生まれたのが「日系人部隊」でした。

日系アメリカ人たちの立場から言うと、収容所を出ることができるうえ、
政府によって親が強制収容所に監禁されている中、祖国のために
生命の危険を犯すことで、忠実な市民として認められるチャンスでもあったのです。




「プリズンキャンプからアーミーキャンプへ
おめでとう 君たちは100大隊/442大隊の一員だ」

と題された写真。
第100歩兵大隊の士気が高く、訓練で高い成績をあげたことも
アメリカ政府が彼らを重用した理由でした。



漢和辞典、コンサイス英和辞典に混じって
さり気なく置かれた勲章?



「ペン習字書範」という本の上に置かれた認識票。



水筒、背嚢、ベルトポーチ、軍靴。



携帯用の鍋にもなる食器セット。
「アリイ」と書かれた背嚢にはカードが付けられていますが、
そのカードには、10カ所あった強制収容所が書かれています。
もしかしたら、収容所に帰還する日系兵士たちの荷物を
送り先を間違えないようにチェックするカードだったのかもしれません。

 



ミシシッピーのシェルビーで訓練中の442部隊。
隊長も小隊長も日系人だけです。



イタリアのサレルノに上陸した歩兵第100大隊の兵士たち。
カメラを見て微笑んでいます。

彼らはこの後ドイツ国防軍との戦いで初の戦死者を出しました。



日系の隊長が握手しているのは、イタリア軍人のように見えます。
後ろにはがれきの山。



サレルノの戦いで山中に陣地を構築する日系人部隊。



彼らがアメリカ陸軍最強の部隊となったのは、「ロストバタリオン」
となっていたテキサス大隊を救出したことでした。

敵に囲まれ孤立した211名の「テキサン」を、442部隊は
それを上回る214名の犠牲と、600名の負傷者を出しながら救出しました。



このときの戦いは、アメリカ陸軍の10大戦闘のうちのひとつに数えられ、
彼らの勇敢さは、日系人全体に対するアメリカ人の見方を変えることに
少しは成功しました。


「少し」というのは、これだけの犠牲を払ってアメリカのために戦っても、
戦後、帰ってきた彼らをアメリカ人は相変わらず「ジャップ」と呼んで
白眼視し、彼らはろくに職に就くこともできなかったからです。

皮肉なことですが、1960年代になって公民権運動が高まりを見せると、
アメリカ人は急に「模範的なマイノリティ」である日系人たちを
持て囃し出しました。

黒人たちの激しい人権復興運動の嵐に驚いた彼らは、
そういう方法ではなく、自分たちを犠牲にして国のために戦い、
アメリカ国民として認めてもらおうとした日系人たちを見直し、
あらためて評価する気になったのです。


勝手なものです(笑) 

 



続く。