goo blog サービス終了のお知らせ 

ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

サバイバル番組「Naked and afraid」~"food"

2014-10-09 | アメリカ

アメリカのテレビショー、Naked and afraid、続きです。
なんとこれを制作しているときに知ったのですが、
アメリカでシリーズが始まって約1年、アメリカで人気が出たせいか、
日本でもディスカバリーチャンネルで放映が始まるそうです。

なんと、今月15日から。一週間後ですね。



「日本ではこんな番組はぜったい作れない!」

と断言したのですが、このインパクトの強さはやはり

「作れないからこそ見てみたい」

と日本の視聴者も望むほどなのです。
去年アメリカで開始したばかりの番組を見たときは
あまりの企画に思わず目が点になってしまったのですが、
いまやわたしも息子もこのシリーズが始まるとチャンネルをあわせ、
お互いに自分の作業をしながら時々画面に目を走らせて

「わー、これはいやだなあ」
「ああ、虫に・・・あんなにさされて」
「わたしどんなお金貰ってもこんなのに出るなんて信じられない」
「俺も絶対やだ」

「どんな人が出演引き受けるんだろうね」

などと好きなだけツッコミを入れながら楽しむお気に入り?です。



さて、彼らのサバイブする場所は様々です。
アフリカ、南アフリカ、国内と、それこそ人間を寄せ付けない
大自然は果てしなくどこにでもあるのですから。

今回はキリンがいるところを見ると多分アフリカ。



おさるかな?


と思ったら女の人でした(笑)
これねー。
何言ってると思います?

男性がどうも仕事をしないんですよ。へたれちゃって。
で、女の人が一人で色々と食料を探したりしていて、
その不満をハンディカムにぶちまけているんです。

何編かこのシリーズを見て思ったのは、男というのは
存外打たれ弱いと言うか、脆いということ。
こういう状況におかれたとき、勿論女性にも想定外の状況に
精神的なダメージを受けてパニクる人もいないではないですが、
男性の場合、パニクりはしないものの、身体的な不快感(餓えや寒さ、陽射し)
に耐えるのが精一杯で、パートナーを助けるどころか落ち込んでしまい、
何もできなくなってしまう人が案外多いのです。

女性はその点、精神的な克服さえできれば環境に順応するのも、

割り切って、というかわたしがやらねば誰がやる!みたいになる
サバイバーが多いようです。

これはアメリカ人だからかもしれませんが。



夕焼け小焼けのあかとんぼ・・・・・

にしては赤すぎないかこのトンボは。
何やら邪悪ですらある赤とんぼです。



こういう鳥もとても食料になってくれそうにはありません。
というかこれ何? 



華氏63°ってことは17.2℃。

案外アフリカって暑くないのね。
しかしこれでは昼はかなり暑く、夜は無茶苦茶寒くなりそう。 



罠を仕掛けて、「ハングリーでグリーディな」獲物を

取ろうとしているようですが・・・。



シカの死体を見つけました。

やった!
と思ったものの、死体はすでに腐敗して、食べたらお腹壊しそう。
というか、腹痛でですめば奇跡というレベルです。
ここでこれに手を出さないのは、所詮しばらくしたらこのゲームは
確実に終わると知っているからです。

もしも、実際に無人島に流されたサバイバーであれば、ためらうことなく
この腐った肉に火を通してでも食べるに違いありません。

 

川岸に巨大なカメ発見。

今まで見た中では、一度、カメ捕獲に成功したカップルがいました。
カメは甲羅ごと火にかけられ、鍋要らずで便利です。

 

と、彼女は大きな鳥の巣を見つけました。

(とコメントに書いてあります)

Hello,と礼儀正しくそこにいたヒナにご挨拶したのち

食料になっていただくべく、テイクアウト。



女性に狩りをしてもらい、食料を手に入れた男は、


「我々の栄養になるための犠牲になってくれて
ほんとうにありがとうございました」

と、こちらも礼儀正しくお礼を。

自分の命もまた他の命に生かされているという、
自然界の摂理が、一層身に沁みますね(適当)




「お母さん鳥が帰ってきたとき、ヒナが皆

いなくなっていることを考えて、心が痛んだの」



女性に取ってきてもらった食べ物に舌鼓を打つ暢気な男。

勿論彼女の葛藤に思いを寄せるはずもなく。



えーと、これ・・・・・なんですか?

食べられるかどうかで言えば、とても無理そうな・・。



虫見っけー!

これは貴重なタンパク質ですよ。
長野の方ならよくご存知だと思いますが。



このパーティの女性は、実はベジタリアン。

こんなところに来てまで肉を拒否しとるわけです。

そもそも虫って
肉なのか?とゲシュタルト崩壊しそうになりますが。




コメントがちょっと面白いと思ってしまった(笑)

「ベジタリアン」と韻を踏んで、「frexitarian」(融通の効く、に
タリアンをくっつけた造語)にならなきゃ、とあります。



「彼女はタンパク質を取るべきだと思う」

こんなところで娑婆のように健康の為とか主義主張とか
言ってる場合じゃないでしょ、ってことですねわかります。



散々逡巡の末・・・、



死んだ気になって、というか死んだら困るので、

虫を口に入れて食べる彼女。
とたんにコメントが

「やった!彼女が食べたぞ!」


でも、一口食べたらもうおしま~~い~~♪
(人食い土人のサムサムのメロディで)

新たな食べ物を探しにいくことになりました。
このパーティの男性は非常にアクティブで、先ほどの男性ほど
モラトリアム化したりしません。



男性も女性も、葉っぱや見つけたもので腰を覆っています。

着るものも、現地で調達するなら何をどうしようと自由。
最後まで全くおかまいなしの人もいますが、
大抵は時間もあることだし、色々工夫して身につけるものを作成します。



アウチ。(トカゲ的に)




やったわー。

やっぱり男はこうでなきゃね。みたいな?



彼が持ってきた一つのガジェットはナイフだったんですね。
というわけでまたも抱き合う二人。



焼き上がりはウェルダンで。


喜んでるってことは、彼女はフレキシタリアンに転向済み?



この表情、マジで美味しそうに食べてます。

空腹に勝る香辛料なしとはよくぞいったものだ。



この二人はアリをつまんで食べています。(たぶん)



食べ物の獲得がうまく行ったパーティは、
雰囲気も最後まで悪くないまま終わります。



時間つぶしの昼寝も心なしか気持ち良さそう。



男性がへたれてしまったパーティの例。
海岸沿いの熱帯地帯に放り出されたこの二人、男性の方が
強烈な陽射しで全身を灼かれ、火傷状態になってしまいました。

動くこともできなくなり、女性が食べ物を探しにいっている間
深く穴を掘って少しでも体温を下げようと必死の努力。



なのに、女性は彼にわずかな侮蔑の眼差しを・・・(T_T)
海兵隊出身と聞いていたのに話が違うわ、と女性は思ったのかもしれません。




この女性の娑婆でのお姿。
やはり普段は山岳トレーナーとか、ヨガの先生とか、
フィジカルな関係の仕事に就いている人が多いようです。

 

陽焼けで戦線脱落した男性は、復帰した後もなぜか妙なこだわりを見せ、
パートナーとの関係もぎこちないものになってしまいました。



女性は葉っぱで見事な帽子を編み上げ、自分のだけでなく
男性にも作って上げたり、努力するのですが。



さて、夜になったとき、彼らはどうやって過ごすのか。

 

このパーティは、大きな葉っぱを布団のように掛け、
みの虫になって就寝。
大抵は猛獣よけに火を焚いてその近くで休みます。




砂が熱すぎて歩けないので枯れ葉でサンダルを作ってみました。



彼(アダムというらしい)はかなり足を保護することに
こだわっていたようですね。



女性の方はサンダルが役に立たなかったようです。



こんな酷い怪我をしてしまいました。
これは痛そうだー。



それにこれ。

わたしが息子との意見で真っ先に一致したのは、

「何がいやといって、裸で虫に刺されまくりなのが一番いや」

トライポフォビアで太宰治の「皮膚と心」には膝打ちまくりだった
わたしとしては、こんな映像を見ただけでもう駄目。
これを見た息子とわたしの会話。

「出演料、いくらだったら出る?」
「1千万でもいやだな」
「1億なら?」
「・・・そんな番組ないから」

いったい皆どういう条件で出演を承諾しているんでしょうね。

 

こちらの男性は娑婆ではこのような方。
なんか同一人物には見えませんね。
番組では勿論サバイバーが日頃一般社会で何をしているか、

その人となりも紹介されます。



動物の糞を半分にして中を点検し、

「毛が入っているがこれは補食した動物のものだな」

なんて言っています。
文明社会の人間と言っても、ある一線を越えたら、
こんなことくらい平気でやってしまえるものです。



21。
これはこのサバイバーたちにとって長い長いサバイバル生活が
終わりを告げる日を意味する素晴らしい数字です。



21日目に、かれらは地図の「脱出ポイント」を目指して移動します。

「ここでポイントにいけなかったらどうなるんだろ」

なぜか今までそのような事故は起こっていません。
しかし、もしかしたら色々問題がありすぎて放映できなかった、
というパーティもいくつかあったのではないかとわたしは踏んでいます。



もう寒さ暑さに耐えたり、空腹をしのぐ為のゲテモノ食いもしません。
彼らはただひたすら、文明への帰路を急ぎます。



こんなところにも舗装していないとはいえ車道のようなものが・・。
もしかしたら案外人が行き来する道路かもしれない、
と思うのはわたしだけ?



ヘリコプターの音が聞こえるやいなや、それはただ喜びだった(直訳)。



こちらの二人(ベジタリアン彼女のパーティ)は、
やはり幹線道路?でトラックのお迎え。



”この挑戦はありえないくらい普通でない体験だ。
サバイバーたちの結びつきは特別なものだね。”



てなことをおっしゃる視聴者もおられますが、ところがどっこい、
こういうパターンもあるわけで。

これは予告編の映像で、わたしは結局見なかったのですが、
どうも相手と相性が悪すぎてそれが最大のストレス、
というサバイバーもいたようです。



例によって、相手の気に入らないところをカメラに向かって訴える人。
ここまで酷くなくても、うまく行っているように見えるパーティで、
こんな風にカメラに相手への不満をぶちまける人は多いのです。

アメリカ人というのはこれが全米放映される(日本でもね)
ことや、当然相手もこれを観るであろうことは
あまり考えないんでしょうかね。

こういうのを見ても、日本人には決して作れない番組だと思います。

 

ヘアバンドとベジタリアンであるせいで、
彼女は「ヒッピー」とあだ名をつけられてしまいました。
このパーティは最初から最後までうまく行った方で、
問題があるとすれば彼女が菜食にこだわったことだけだったので、
この視聴者は彼らを「グレイト」だったと評価しています。

ついでに「ワールドピース」(笑)



ネイションワイドで身体を放映されるので、
特に女性はスタイル自慢の人が多いようです。
中でもこの女性はトップレベルでスタイルよし。

普段マシュマロ系とかに甘んじている人はそもそも
こんなものに出てきませんので、それも必然ですが、
一度だけ、えらくお腹の大きな女性が出演していたのを
見たことがあります。

全裸の場合、局所にはぼかしが入るのですが、彼女の場合


「ついでなら、このおなかにもボカシをかけて上げた方が」

と余計な感想を持ってしまいました。



彼らが最も幸運だったことは、なんといっても
サバイバル中に天然のバナナを見つけたことでしょう。
迎えの車に山ほど積まれた青いバナナはお土産にするつもりでしょうか。



このように万事がうまく行くばかりではありません。
何回に一度はどちらかが倒れてしまい、現地に医者が駆けつけて、
ドクターストップとなり、そのまま連れて帰るということも起こります。
女性が倒れたときより、男性がいなくなって女性が
たった一人で残される場合、そのあとのサバイバルは悲壮なものになります。



バナナ、売るほど取ってるし(笑)

「ニカラグア直送のバナナですよ~」

てか?



番組の最後に、どういう基準なのかそれまでの彼らが
どれくらい経験値を上げたかが数値で表されます。

この二人の場合、男性が6.7から7.1に、女性は8.3にグレードアップ。
きっとベジタリアンがフレキシビリタンになったからですね。 



というわけで、はからずも宣伝みたいになってしまいましたが
(本当に偶然です)日本では「ネイキッド」というタイトルで 
放映されるようですので、興味を持たれた方はどうぞ。


実際に見て、わたしがこのエントリで、彼らの情報について
わりと適当に言っていることが
わかっても、全力でスルーして下さい(笑)

"NAKED AND AFRAID" ホームページ




サバイバル番組「Naked and afraid」~"fire"

2014-10-07 | アメリカ

 

はてなブログに移転しました

日系アメリカ人~外国人土地法と日系人

2014-09-30 | アメリカ

サンノゼのジャパンタウンにある日系アメリカ人博物館の展示を
彼らが日米開戦時に置かれた状況を盛り込みながらお話ししています。




1942年の3月から始まった強制移動は、通知が来てからわずか1週間から

10日以内に今の住居からアッセンブリーという集合センターに
移らなくてはいけないというものでした。

携帯を許されたのは、自分で持って行けるトランクだけ。



少しでも多くの私物を持って行こうと、皆は出来るだけ

大きなトランクに必要最小限の荷物と、貴重品を詰め込みました。

持って行くことが出来なかったものは、知人に預けたり、
あるいは教会の地下に隠しましたが、戦後になって帰ってみると、
それらは姿を消し、自宅や農園も略奪され、あるいは横取りされていて
一世たちが苦労して作り上げた資産財産は全て無に帰していたのです。



収容所で手に入れたらしい鉛筆セット。
1940年のものだそうですが、ほとんど使われていません。



子供用の絵入り図鑑。



実際に収容所に持ち込まれ、戦後解放されたときに
再び手荷物を携えて帰ったトランクの数々。


日系人の、特に一世たちの戦後は酷いものでした。
差別の激しい西海岸は諦め、東海岸などに新天地を求め
移住していった人々もいました。
意外なことに、そこでは歓迎されることもあったということです。



強制収容所に送られる日系人たち。

その服装が、彼らの豊かな生活を表わしています。

西海岸で日本人が疎まれていたことの理由に、勤勉な彼らが一代で財を成し、
成功したことが、アメリカの中産階級の嫉妬を誘ったという構図があります。



博物館の中には、在りし日の収容所が再現されていました。

この部屋の中で、赤の他人の何家族もが共同生活をするのです。



この鏡付きの箱のようなものは、携帯式のストーブ。
ローラ・アベの私物であったものを、中国系のアーティストが
オブジェにしたようです。



アイロン台、薬棚。

小さなホーローの桶で入浴をするとき、
自分たちで吊ったカーテンを引いて目隠しをしました。
一部屋に男も女も一緒に収監されていたのです。


何も努力しなければ、まるで囚人のように動きの取れないこの空間では
たちまち全てが無秩序になってさらに精神を蝕んだでしょう。
彼らはその中でも精一杯清潔を保ち、人間の尊厳を守ろうとしました。


「日系の囚人が入ったあとは前よりも綺麗になる」

ということで、他の国のインタニーと、
収監場所がローテーションされていた
収容所もあったくらいです。



こんな生活でも、いやこんな生活だからこそ、絵を描き、

それを飾るための額を作った収容所の日系人たち。

写生するべき景色がたとえバラックの並ぶ殺風景なものであっても・・。



ツールレイクに収監されていたノリオ・ヤマモト(多分一世)が

作ったクローゼット。



ユダヤ人たちのように囚人服を着せられなかったのは

まだしも幸運だったといえましょう。
大抵の収容所は山間部の、冬は極寒の地にあったからです。



タンスの中に貼られた「日系人追放のお知らせ」。




部屋を出ると、外に見学路は続いていました。
納屋のような展示場所が設えてあります。
日系人たちが農場などで使用した道具が展示されているのです。

写真は、エイイチ・サカウエ(一世)が発明した、

「梨の選別機」

ベルトコンベアの上に乗せると、大きさを選別する仕組みです。
農民や市井の人々ですら、こういった工夫発明を楽々とやってのけ、
しかも真面目で勤勉、骨身を惜しまぬ労働ぶりが、
アメリカ人たちに取ってはさぞ脅威でもあったでしょう。



農場で使われていた木製コンテナ。



イチゴ農家はオフシーズンにはこういったクレートを造っていました。

できるだけ釘を使わない方法で作られた箱は需要があったのです。



ブロッコリーを同じ大きさにカットする機械まで・・・。




トラクターや鋤などの農耕機具。




馬に引かせて農地を耕す器械。




驚いたことに、当時の車も全く手入れをされていない状態で

展示されていました。
リパブリックモーター製のトラック。

1913年に発売されていたものです。



1916年から18年にかけて使用された車のナンバープレート。




フォード車の「Tフォード」。

1918年発売されたもので、この車の登場によって、
アメリカの中産階級が自家用車を持ち、それで旅行をするという
ライフスタイルを手に入れました。
ラインのある工場で組み立てられ、大量生産された最初の車でもあります。



前に二人しか乗れないのに、どうやって家族でドライブするかって?

ご安心下さい。
車の後部にはちゃんと3人くらいなら乗れる引き出し式のシートが。

というか、これじゃあまりご安心できない気もしますが。
一旦事故ったら、まず後ろに乗っている人たちはアウトです。



種まき機。

車の後ろに入れられた種が少しずつ下から撒かれる仕組み。



レタス、ナス、ブロッコリ、アスパラガス・・・。

種まき機に入れて撒かれた種。



イチゴをピックアップして収納する棚と、販売するときのコンテナ。

昔はイチゴは必ずこのケースで売られていたそうです。



ふと上を見上げると、当時使われていたカートンのボックス、
子供に作ってやった玩具の車などが天井から吊り下げられていました。



これも当時の規格であったイチゴ用ケース。

アメリカではこの頃からプラスチック製品が一般的だったのですね。



蒸気式?動力のトラクター。



これはおそらく荒れ地用のトラクター。




農耕用に使われた固定エンジン。




4頭立ての馬車で、市場に出す農作物を搬送します。




全員ベストにネクタイ着用。
農地に腰掛けているので作業中だと思うのですが、
なぜに皆このような格好を・・。

耕作は馬に鋤を引かせて行いました。



農作物用の秤も勿論手作りです。



日系人たちの大規模勾留は、それまで築き上げた彼らの
こういった農場も、全て人手に渡るかあるいは荒廃するままに

放置されてしまうということを意味していました。

もともと、外国人土地法というのは、日本人移民に
アメリカ西海岸地域での農地を購入、または借入を禁じたもので、
その理由というのは人種差別的なものと、経済的理由の双方でした。

白人たちは西海岸地域は自分のものであるとして、一世が荒地を
次々に実り豊かな農場に変えていくのに敵意を抱いたのです。

しかし、法律であからさまに日系人を対象にするわけにもいかず、
土地法は非常に欺瞞的な表現がなされました。

市民権を取得できない外国人は農地を購入、または借り入れができない」

連邦移民法によると、市民権とは

「自由身分の白人」と「アフリカ人の血を引いた者(元奴隷)」に与える

ものでした。
市民権を取得できない外国人とは、アジア系とヒスパニック系です。

しかしヒスパニック系や、アジア系では中国系その他の場合は、
そもそも土地を取得して農地を開墾しようなどという者が皆無でした。
つまり、実質この法律は、日系人だけを対象にしたものであったのです。


一世がそれを回避するためには、親日家のアメリカ人から土地を借りるか、
あるいはアメリカ国民である二世の、つまり子供の名義で
土地を買うしかありませんでした。

しかも、そういう「抜け道」を塞ぐため、外国人土地法は一層厳しくなり、
そしてついには追放令によって、住み慣れた土地すら追われることになるのです。

真珠湾攻撃に続く日米開戦は、西海岸の白人たちに取って
ある意味日系人を駆逐する素晴らしい大義名分となったのでした。

ユダヤ人への嫌悪からその排除を謳うナチス党とヒットラーを
熱烈に支持したドイツ国民と、この時代の西海岸のアメリカ人は
公平な目で見ると、全く同罪であったといえます。


収容所から解放された日系人たちが再び土地を取得できたのは
1950年台になって、外国人土地法が撤回されてからのことでした。



続く。
 


日系アメリカ人~強制収容所と『ノーノー・ボーイ』

2014-09-27 | アメリカ

はてなブログに移転しました


ジャパニーズ・アメリカン~「イッセイ」の入植とその生活

2014-09-24 | アメリカ


はてなブログに移転しました


サンノゼ・ジャパンタウン~「1942年2月19日」

2014-09-18 | アメリカ

アメリカ在住の友人と会うことになったとき、
わたしは滞在前に読者の方との間で話題になっていた
日系アメリカ人の資料館を一緒に見学したいと思い、
検索したところ、サンフランシスコとサンノゼにある
日系アメリカ人記念ミュージアムがあるのを知りました。

友人はサンノゼの妹さんの家に泊まっているということだったので、
サンノゼで待ち合わせることにしました。

HPで調べたところ、ここにあるミュージアムはまだ出来たばかり。
資料も大変豊富で展示も凝っているらしく、期待が持てます。

取りあえずこの前で待ち合わせた我々ですが、開口一番

「お腹すいたから先に何か食べようか」
「わたしもお腹空いた。朝ご飯食べてなくて」
「わたしも~!」

と意見の一致を見たので、レストランに入ることにしました。

 

ここはサンノゼ・ジャパンタウンとして昔から
日系人が住んできた地域です。
とはいえ、中華街と違って街が清潔でオープンな空気。
最初にアメリカに移民してきた「イッセイ」からの街ですから、
100年くらいの歴史があると思うのですが、街並には
排他的なものは一切感じられません。



車を停めた向かいにあった「スシマル」に行くことにしました。



なんと、小規模な回転寿し。
とはいえ、中には板前が3人いて、日本にある回転寿しよりも
「ちゃんとしている」感じ。
ボストンのヒスパニック回転寿しなどとは全く次元の違うスシ屋です。
おそらく随分昔からここには日系人のために寿司屋があったのでしょう。



流れて来るお寿司をみても、マトモなものばかり。
リッツカールトンのバッフェの不揃いなスシとは大違いです。

中にいる板前さんは完璧に日本人で(おそらく日本から来ている)
わたしたちが日本語で話をしていると、こちらに向かって

「お好みのものがあれば握りますので言って下さい」

と声をかけてくれました。
おお、これこそが日本の寿司屋らしいやりとり。



とりあえず流れてきたイカを取ってみました。
身に包丁が入り、シソの緑が透けて見える新鮮なイカ。
ヒスパニック板前にはおそらく思いつきもしない仕様です。

因みに冷凍イカの見分け方は「切り目の有る無し」ですよ皆さん。



太巻きも、リッツのと違ってノリの端がガタガタではありません。
てかこっちが普通なんですけどね日本では。
しかし、アメリカ人のいい加減なスシを見てきた目には
このきっちりとしたスシのシェイプはもはや芸術に見えます。

しかもこの極限にまで具を詰めた巻き方の美しいこと。
タマゴが大きく、味のバランスも最高でした。



この近くには「サンノゼ豆腐」という有名なお豆腐屋さんがあり、
友人の妹さんもそこでいつも豆腐を買うのだそうですが、
友人曰くここのもそれを使っているのではないかとのこと。

アメリカは豆腐がどこでも買えるのですが、なぜか微妙に美味しくないので
(たぶんニガリの量とかの配分のせいだと思う)
殆ど食べることはありません。

ここなら、と頼んでみた冷や奴。
鰹節、小口切りのネギ、針のように細く切ったノリ。
このようなものと共に供された豆腐は、木綿風でしたが
柔らかくしかも味わいがあって日本で食べる豆腐よりも
もしかしたら美味しいのではないかと思われました。



次の休みのとき、息子をこのスシ屋に連れて行ってやろうと思い、
またサンノゼに来てみたのですが、日曜休業でした。
そもそも、この商店街の飲食店は殆どが休んでいました。

案外知られていないことですが、日曜の午前中、
アメリカ人は教会に行く人が多いため、たとえばボストンなどでも
お昼くらいまでモールですらオープンしていないところがあります。

ここでも飲食店は物販店と共に休むのだろうと思われます。




このブディスト・テンプルには周りにたくさんの車が停まっていて
日曜の礼拝が日系人の間では昔と変わりなく行われているらしいことが
わかりました。

日本ではそのような習慣はキリスト教の信者以外にはないので、
やはりアメリカにおいては日系人の生活はアメリカ風になるのだなと
思った次第です。



唯一?開いていたお店はラーメン屋でした。
息子はラーメンが好きなので全く異議
はありません。

お店の前に人がたむろしていますが、これは
外で順番を待っているのです。
もしかしたら「行列のできるラーメン屋」?

じゃなくて他の店がやってないので皆がここに来るんですね。


ここにいる人たちは全員英語をしゃべり、見かけも
どちらかというと東南アジア系の雰囲気でしたが、
どうもこれがサンノゼの日系人の若者である模様。

陽射しが強いところで生まれ育つと、日本人も
こんな風になるんだなあと思いました。



息子は醤油ラーメン、わたしは何となく中華冷麺を頼んでみました。
特に美味しいとかなんとかではなく、全く「日本の味」でした。

神田の古本屋街にひっそりとあって、中国人のバイトが配達している、
そんな店と全く同じ味です。



そしてこの厨房の汚さも全く日本風。
新宿の学生街にありそうなラーメン屋のそれです。
店内に入ったとたん妙な匂いが鼻を突くところも同じ。
お金を払ったその手でドンブリを持ったりチャーシューを触るのも同じ。
おそらく夜中にはゴキブリが運動会しているのも同じでしょう。

ただ、化粧室だけはとても清潔でした。
日本人のかかわるところのトイレは、どこも掃除が行き届き、
街中のスターバックスなどよりずっときれいにしています。

これも国民性かなあと思ってみたり。



さて、友人との一日の話に戻ります。
ごはんを食べ終わり、いざミュージアムに!と思ったところ、
建物に鍵がかけられ、なんとオープンは「木金土日のみ」
であることが判明しました。

「なーんだ」

そこでサンノゼの街を見学することにしました。



サンフランシスコ滞在中、ここに科学博物館があったので、
何度かきたことはあります。

これはサンノゼ大学。
友人の妹夫婦がここで働いているそうです。
彼女の旦那さんは白人でここの数学の教授をしています。



いいカフェはないかと入ってみたサンノゼ美術館。
カフェは建物の割にたいしたことがなかったのでやめて、
美術館を観ることにしました。

この建物も、昔の建物に新しくビルをくっつけて建てる、という
ボストン美術館と同じ工法で建てられているらしく。
今ここに映っている壁はかつて外壁だったところのようです。



で、わたしたち見学中。

後ろのクジャクの羽のついた帚のようなものは、
風の当たり方で姿を変えるというオブジェ。

友人は、ここだけの話ですが絵本作家です。
日本でも彼女の作品は何点か輸入されていて読むことができます。
つまり、アーティストです。
ついでに彼女の夫もアーティストで有名なゲームのキャラデザインをしています。

そのアーティストの彼女がただいま鑑賞中。

「うーん・・・」

彼女、何を言うのか。

「なんかこういうのって、自己満足だよね」

ですよねー。



この作品のタイトルは「空港のショップ」。

「アイデアだけでここまでやっちゃうという・・・」
「これを芸術というなら森羅万象全てのものは芸術だよね」



「何か意味があるんだろうけど。持ってるナイフで髪を切るつもりとか」
「意味を付けてそれを表現みたいなのが現代美術なんだとする風潮って、
意味が無ければじゃーただのがらくた?みたいなのって多いよね」
「これを観て感動する人がいるのかという・・」
「自己満足だよね」



「なんでこれがアートなの?」
「ミニチュアの写真を撮っただけの芸術・・」
「こんなのにお金払ってるんだこの美術館」
「ボストン美術館にもこの手のアートもどきはあったけど、
あそこは何と言ってもコレクションが他にあるからねえ」
「ここはこれだけ・・」
「ここは、だめだね」

彼女が貶すのでわたしも安心して一緒に貶しまくり。



美術館に見学にきた子供たちの作品。
一枚ずつ観ながら

「こちらの方がずっとアートしている気がする」(笑)



子供たちが絵を描くためのテーブル。

「これも作品かと思った」(笑)

というわけで、散々楽しんで美術館を出ました。
(楽しんだのか?)



サンノゼのダウンタウンは荒んだ感じがして、あまり雰囲気が良くなく、
わたしたちはもう一度ジャパンタウンまで帰ってきてお茶を飲むことにしました。
ここは街の中心にあるカフェ。
普通のカフェでしたが、むかし日系人の「ロイ」さんがここで
ガソリンスタンドを経営していた跡地だそうです。
ロイさんが引退したので名前をそのままにカフェにした模様。



街を歩いていて、鋭く「土産物屋」を見つけたわたしたち、
ここに突撃してみることにしました。
ちなみに隣のジャパニーズレストランは中国人の経営で、
スシマルが大賑わいに対しガラガラ。
店の外に立っただけでフィリピン人の店員が飛び出してきて
店に呼び込もうとしていました。

アメリカ人ならこの店でも入るのかもしれませんが・・。



土産物屋は二階にあり、また例の饐えたような匂いが鼻を突きます。
空調もなく人気も無かったのですが、わたしたちが店にいると
店主が出てきてクーラーを入れ、音楽をかけました。

「こういうところって一日どれくらい売り上げがあるんだろうね」

ひそひそ言い合うわたしたち。
しかし、店主には日本語はさっぱり分からないようでした。
日系人というのは案外日本語を全く理解しないようです。

そう言えば「カラテ・キッド」のパット・モリタ氏と話したとき

「わたしは日本語が全く話せないのです」

となまった英語でおっしゃっていたのを思い出しました。



こ、これは・・・。

アルミのお弁当箱です。
中にはおかず用の仕切りケースがありました。

「一体いつからあるんだろう、これ」
「昭和30年ってとこじゃないですか」
「うちにこんなのあったなあ」




「何してるのこの箸置きの二人は」
「おふねーはぎっちらこ、ぎっちらぎっちら♪ってやつじゃない?」
「キッチュだね~」



「だ、誰が買うのかこのこけしを」
「47ドル出してこれ買う人いるのかな」
「いないからまだあるんじゃない?」
「にしても高い」
「まあ、メイドインジャパンの手作りですから」



ポケモンやその他日本のアニメが積み重ねられた上には、
これも誰が買うのか「子供の遊び」のフィギュア。
コマ回し、羽根つき、凧揚げ、竹馬・・。

「いまや日本人の子供も知らない遊びだよね」

日本でなら懐古ブームで売れそうです。

ここで散々楽しんでちょっとしたカードなどを買い、
出てきた二人の感想。

「サンノゼ美術館よりずっと面白かった!」



ロイの店の斜め向かいに、日本人街のモニュメントがありました。
このカーブを描く柱が何を意味するのかまではわかりませんでしたが、
その柱の中央付近に、



こう書かれているのに気づきました。

「1942年2月というと、開戦後日系人が収容所に送られることが決まった日かな」

調べてみると、この日はルーズベルト大統領が

「陸軍に危険人物を強制的に立ち退きさせることができる権限を与える」

大統領令第9066号に署名した日でした。
3月から強制立ち退きが始まり、最終的に12万人の日系アメリカ人が
強制収容所に送られることになります。



それらの歴史についてはミュージアムの見学記のエントリにゆずるとして。

わたしたちはそこで別れ、わたしはスタンフォードに戻りました。
途中にあるサンノゼの空港は「ミネタ・エアポート」といいます。

「ノーマン・Y・ミネタ」は日系人して初めてアメリカで閣僚となった
ノーマン・ヨシオ・ミネタ(元サンノゼ市長・下院議員・商務長官・運輸長官)。

現在サンノゼ市は、空港のマーケティングのため、名称に
「シリコンバレー」
を入れることを検討しているそうですが、ミネタの名前は残し、

「サンノゼ・シリコンバレー・ミネタ国際空港」

となるようです。

 


テスラ

2014-08-24 | アメリカ

もうすぐ帰国なので今年アップル本社のストアに行ってきました。



気のせいか去年、一昨年よりも観光客が増えている気がします。
スティーブジョブズの像でも出来ているかと思いましたが
外には何も代わりはありませんでした。

ここの住所はインフィニティ1といいます。



ここに立って写真を撮るためにわざわざ造られたモニュメント。
ですが、今回は誰もやっていませんでした。

アップルとしても物見遊山の客のためにわざわざ
サービスしようと言う気はそこまでないらしく、
この直営ストアは平日の6時までしか営業していません。



こういうロゴも、社内で考えたものを製品化して
背中にリンゴを付けて売っていますが、
アップルの巧いところは、このロゴグッズを

ここでしか売らない

ということです。
ここで売っているTシャツ、マグカップ、ペン、などのロゴグッズを
中国で大量生産させ、世界中のアップルストアに置いたなら
さぞかし売れると思うのですが、アップルに取ってこの物販は
あくまでも「わざわざここに来たという記念」にしてもらうためで、
それによって儲けようとかは全く考えていないのでしょう。

この三枚は息子のために買った「今年バージョン」ですが、
真ん中のシャツには

I left my heart Cupatino.

と書いてあります。
クパチーノに来た、という記念ですね。
ついでに残りの二つは

"
Siri, remind me not to wash this with whites."
「Siri、これを白い物と一緒に洗わないように思い出させてね」

"Degined by Apple in California"

以前のに比べるとTシャツの文句がいい加減になった気がします(笑)



パソコン用のバックパックを息子の学校用に購入。
色がかっこいいので喜んでいました。

 

夏の間ここロスアルトスで過ごすようになって三度目になります。

最初の夏、ここにアップルやグーグルの本社があると知ったときには
わざわざそれを見に行ったわけですが、この2社に限らず世界中が知っている会社
(Facebookとかオラクルとかebayとかインテルとかヒューレットパッカードとか)

が探さずとも目につき、
あらためてここがシリコンバレーであることを実感している毎日です。

シリコンバレー、と言う言葉は良くお聞きになると思いますが、
具体的に何処を指すかというというと、サンフランシスコから
約1時間南下した、サウスベイといわれる地域のこと。

スタンフォード大学がテクノロジーのコミュニティの中心を担っています。

なぜここにシリコンバレーが生まれたかは明らかではありません。
スタンフォード大学があるという理由だけでは、他の工学系大学、
たとえばMITとかカルテックとかの周りになぜそういう現象がないのか
を説明できないからです。

しかしわたしはここで3度の夏を過ごしてみて、その理由はまず間違いなく
この地の「気候」と「自然」であると断言します。

起業家に取って、実はその気分ややる気を左右する気候は
非常に重要な条件です。
たとえば年間降雨量が多く日照時間が短いシアトルには
鬱病者や自殺者、異常犯罪が多いという不名誉なイメージがあります。

それとは全く逆に、決して雨が降らず、一日中たっぷりと日がさし、
しかし日陰に入ればひんやりと冷たくて夜は火が必要、というような
メリハリのある気候は、多くの人々に好まれます。

何と言っても朝一番、お日様が出て空が晴れているかどうかは、
起業家たちに取って何より精神を高揚させやる気を生む
重要なファクターだからではないでしょうか。
一言で言うと、「身体にも頭脳にも快適な環境」なのです。

しかも、最先端の研究所を持ちながら豊かな自然に囲まれ、
少し、どころか隣のブロックに野生動物のある地域があったりします。
グーグルの庭にヤギがいると話題になったことがありますが、
この辺の動物たちがどんな環境で生息しているかを知れば
そんなことは何の不思議もありません。


そして、そんな地域に住む人たちにもある傾向があるようです。

先日ロスアンジェルス近郊のラグーナに住む友人とここで会ったのですが、
一緒にレストランなどに入ってそこに集う面々を見るなり

「やっぱりこの辺の人たちって独特の雰囲気があるわ」

良く言えば知的、洗練されている、余裕があるように見える、
悪く言えばお高く止まっている、スノッブ、よそよそしい・・。

田舎者をあからさまに馬鹿にするような空気もあるかもしれません。

スタンフォード大学周辺、特に今いるロスアルトスなどは
地価がそこだけ異常な高さであるというだけあって、
目を見張るような豪邸が行けども行けども軒を連ねています。
(この比喩はこの状況に全く適切ではありませんが)


全部が開IT企業関係ではないでしょうが、いずれにせよ
収入もアメリカ人の平均を遥かに超える人々ばかりが
この辺りに居を構えている感があります。

さて、去年、今泊まっているホテルの近くの、
高級外車専用ディーラーがリニューアル工事をしていたのですが、
今年行ったら新しいディーラーが出来ていました。



「てすら・・・・・?」

そのまま読んではて、と首を傾げたわたしに息子が

「ニコラ・テスラだよ」
「誰だっけそれ」

すると息子は信じられないといった調子で

「えっ!知らないのニコラ・テスラ」
「知らん」
「発明家だよ。交流電流やラジオを発明した」
「電気の発明ならエジソンしか知らないな」

さらにそれを聞いた息子はいきなり気色ばんで

「エジソンはね!テスラの発明に負けたんだよ。
で、テスラの実験結果の評判を落とすために電流で動物を殺したり」

わかったわかった。ちゃんと調べるよ。

「ていうかテスラを知らないなんて・・」

散々自分がお腹を痛めて生んだ子に呆れられてしまいましたが、
こちとら発明王エジソンの伝記を小さいときには読み、さらには

「天才は99%の努力と1%の霊感である」

なんて名言をちょっと感心したりして育った世代なんですから。

というか、どうして昔はエジソンだけが有名だったんでしょうか。
今でもエジソンの伝記が子供たちに読まれていたりするの?
なぜ、テスラの名前が全然そこに出て来ないの?


ついでですから寄り道になりますが調べたことを説明しておきますと、
ニコラ・テスラはすでに発明家として成功していたエジソンの会社に
技術者として加わり、そこで交流電流を発明し、
それを認めようとしないエジソンとの間に確執があったといわれます。

直流システムだったエジソンの工場を交流電流で動かせたら、
報償を5万ドル払う、とエジソンはテスラに約束したのに
それを成功させた後もエジソンは自分の負けを認めたくないがために報償を
冗談ですませたのが齟齬のきっかけとなりました。

エジソンは確かに実績のある発明家でしたが、
少なくともテスラともう一人の技術者、ウェスティングハウスとの間に
起こったこの「電流戦争」では結果的に完璧に敗北しています。

しかも、自分の主張のため、息子の言うところの(笑)
動物を電流で殺して「交流電流は危険である」という宣伝をやったりしました。
中でも評判が悪かったのが、象の「トプシー」を電気で殺した実験です。


ニュース映像(残酷なので閲覧には注意が必要です)

トプシーは飼育員を踏み殺してしまったかどで薬殺される予定でした。
エジソンはウェスティングハウスとテスラの足を引っ張る
ネガティブキャンペーン目的で、処刑に電気を使うことを提案し、
そのための実験と称して動物を殺処分していました。
トプシーの処刑もその一環です。

今なら愛護団体が黙っていないところですね。
というか、当時は今とは「命」の意味がだいぶ違っていたということでしょう。

しかしエジソンのネガティブキャンペーンは裏目に出ました。
エジソンは「交流は怖い」というイメージを人々に刷り込もうとしたのですが、
人々にはただ

「電気での処刑という残虐行為を首謀した恐ろしい人物はエジソンだ」

というイメージが植え付けられ、それは彼自身の評判を
著しく落とすという結果になります。

人を呪わば穴二つ。ってこういうときにいうんでしょうかね。
さて、エジソンの黒い話はともかく(笑)。


テスラという名称はこの、先見の明が有り交流誘導電動機多相交流
送電システムを考案・設計した発明家に敬意を表してその名にちなんだものです。

テスラの発明は、はるか遠方から安定した電力を送配電し提供することを
可能としました。
 



気がつけば街で遭遇する確立が去年と段違いです。
というか、去年もいたんでしょうけど、わたしが気づかなかったのかも。

Tのロゴといい、このスタイリングといい、実にかっこいい。
新し物好きのシリコンバレーの人々が飛びつくのもわかります。



ところで、ここは場面変わって再びアップルの駐車場。



去年まではこんなことはなかったのですが、あまりにも昨今
「アップル詣で」の客が増えたため、アップル側は駐車場の
係員を雇い、このような二重駐車をさせることにしたようです。

大阪は北新地の名物二重駐車をカリフォルニアで見ようとは。



それはともかく、アメリカの駐車場は大抵が無料ですが、
車いす用の優先区画と並んで「電気自動車充電用」が
どこの施設にも必ず最もいい場所に備え付けられるようになりました。
どちらかというと東海岸より西の方が変革は速いようです。

どこでも必ず充電中の車が停まっていて、アメリカには
こんなに電気で走る自動車が多いものかと感心しているのですが、
(今日はニッサンを見ました)このとき、
ここの駐車場に冒頭の白とこの赤のテスラが
充電中であるのを見て、

テスラが電気自動車であることを初めて知りました。

そのことを息子に言うと

「ああ、それでテスラなのか・・・」

と感動の面持ち。 

テスラモータースは、まさに今いるカリフォルニア州パロアルトに本社を持ち、
PayPalの共同創立者、Googleの共同創立者、ebayの社長などの
そうそうたるここシリコンバレーの起業家たちの協賛を受け、
さらにはかつてニコラ・テスラに出資した歴史を持つJPモルガンの
管理を受けて出発したバッテリー式電気自動車販売会社です。

テスラの燃費はプリウスの2倍で、1回の充電にかかるのは500円。
それでおよそ370kmの走行が可能です。
しかも必要なメンテナンスは極めて少なくオイル交換は不要。
またブレーキのメンテナンスは
回生制動によりこれも少しでOK。
ミッションオイル、ブレーキフルード、および冷却水の交換は、
ガソリン車でないため不要、という夢のような車なのです。

写真を見てもお分かりかと思いますが、電気自動車なのに大きさは
殆どBMWやレクサス並で、高級感もあります。
おそらく静謐性に優れ、乗り心地もいいと思われます。

お洒落で高級感があってしかも先端技術。
今までメルセデスやBMW、レクサスに乗っていたシリコンバレーの人々が
次々とこの車に乗り換えているように見えるのも、
テスラの何たるかを知って見れば合点が行きます。

「次の車はテスラにしよう!」

早速そのコンセプトに感銘を受けた息子がその気になっていました。

「アメリカに住んでるならね・・・」

そう、日本にも輸入されて入るようですが、今のところまだまだ超のつく高級車。
しかも、インフラが少ないため、アメリカのようにどこででも
駐車場には専用スペースがあるような社会になりでもしない限り、
わざわざ乗ろうという物好きはいないと思われます。

今のところ希望は、トヨタがテスラと業務ならびに資本提携に合意し、
共同開発のモデルを制作するという話が進んでいることです。

日本人もこういうことにかけてはシリコンバレーの人々のような
「いい物好き」「新し物好き」なところがありますから、
何年かしたら街を電気自動車が走り回っている光景が見られるかもしれません。

わたしは車を買い替えたばかりなのですが、
次の買い替えのころには日本でテスラが乗れるようになっていてほしいな。



 


 


フィッシャーマンズワーフの一日

2014-08-22 | アメリカ

わたしが平日の昼、ジェレマイア・オブライエンを見るために
フィッシャーマンズワーフに行ったという話をすると、
息子が「いいなあ、行きたかったなあ」というので、最後の週末、
二人で最後のサンフランシスコを楽しむため行って参りました。



サンフランシスコは半島にある街なので、東西北が海に面しています。
ピアが随所に残り、たとえばここはピア33。
観光地として有名なフィッシャーマンズワーフは、JOや
潜水艦パンパニトと同じピア39にあります。

さすがに週末なのでいつも車を停めているセーフウェイなどのある
モールのパーキングには長い列が出来ており、断念。
ピア33の近くの「利用者割引の効かない」パーキングに停めました。



息子はこちらで帽子を買いました。

ちょっとミュージシャン風に決めたつもりで悦にいってます。

ここにはヨットハーバーがあります。

サンフランシスコ湾でヨットというのはいかにも贅沢。
ここにヨットを繋留しているような暮らしはこの地方に住む
豊かな生活の典型で、人々の憧れるライフスタイルです。



かと思えば若くて五体満足なのにホームレスになる人もいて。
おまけに真っ昼間からお酒をかっくらって寝ています。



カモメはこの辺りでは非常に態度がでかくて(笑)
観光客の食べているものを後ろから狙ったりします。(目撃談)



数分歩くとピア39に到着しました。

ここから奥にあるのがいわゆるフィッシャーマンズワーフという名の

ただのモールで、サンフランシスコの観光地の一つとなっています。

日本にも進出しているのでご存知と思いますが、

映画「フォレスト・ガンプ」をテーマにした「ババ・ガンプ」もあります。
わたしたちは何となくお昼ごはんでも食べてぶらっとして、
お土産のTシャツでも買って帰るか、という感じでやってきたので、
まずはどこかに入ることにしました。

「ババ・ガンプは?」
「今は気分じゃないな~」

以前来たときに美味しかったシーフードの店は、前に長蛇の列。
他の店を探してみると、奥の二階に新しく日本料理店がありました。



案内のお姉さんは珍しく全員白人系で、キモノ風の上着を着ています。
シーフードといえばジャパニーズ、スシ。

ここはスシもあるけど石焼きステーキもあります、なお店で
アメリカ人にも人気の模様。
メニューは殆ど日本語がそのまま書いてあり、
インチキジャパニーズではないらしいことが分かりました。



わたしも息子も、写真に撮り損ないましたが、石焼ステーキを注文。
息子はチキン、わたしはスキャロップとエビです。
ガーリックのオイルを垂らして焼いた石の上に乗せ、
自分でジュージューして作ります。

このエビはわたしが人生でこれまで食べたエビのベストでした。
焼いてそのまますぐ食べるというのはこれほど美味しいものなんですね。

デザートも、抹茶のアイスやモチなど日本風です。
餅の天ぷらもありましたが、この日はデザートは頼みませんでした。 



はっぴのお姉さんが案内してくれたのは窓際で、海の真ん前。

正面にはアルカトラズが見え、最高のロケーションです。
食事が来るのを待つ間前を行き交う船を見ているだけで楽しい。

この小さな船には客が乗っていましたが、何しろ揺れる揺れる。
良くひっくり返らないなと思うくらいの動揺で、

「これ絶対酔う人続出だと思う」

この日は風が強く、一層揺れが激しかったようです。



釣り船かな。




なぜか全ての船は皆が見ている前を横切ることになっていて、

海を見ている人に皆が手を振ったりしています。



カヌーの貸し出しもあるようです。

後ろの男性が客(ライフベストを着ているから)で、前が
インストラクターあるいは船頭だと思われます。
このカヌーが全く進まないので、この辺りの潮流の速さが良くわかりました。



3階建ての豪華観光船。

おそらくアルカトラズに行って帰って来るツァーではないかと思われます。



この海域を航行する小型の船の特徴は、船首が高く、

まるでアイロンのような形をしていること。
波が高くてもスピードが出せるデザインのようです。



なぜかファイアデパートメント、つまり消防署の

消火ノズル付きの船が、どう見ても消防署員ではない
普通の服を来た人たちを乗せて通りました。

消防署員とその家族のレクリエーションデーか、あるいは
いわゆる「オープンハウスデー」だったのかもしれません。




殆どトビウオ状態で海面を跳ねるように進んでいたボート。




これも観光船なのですが、ロケットフェリーという名の通り、

ものすごいスピードで進んでいました。



と思ったら、沿岸警備隊の船、キター。
気のせいか安定感がハンパではありません。
前にも説明しましたが、アメリカの沿岸警備隊の階級は
海軍のそれと全く同じです。



さて、船も面白いですが、行き交う人々を見るのもまた楽し。


この二人はおそらくヨーロッパからの観光客だと思うのですが、
男性のTシャツに注目。

「スピードレーサー」

タツノコプロが昔「マッハGoGoGo」という題で放映していたアニメです。
このシャツは、1997年にリメイクされた「スピードレーサーX」のもの。
同じ時期に1967年当時の白黒アニメも発売されました。

アメリカで放映されたのも殆ど同じ時期で、そのときのタイトルは
「スピードレーサー」だったとか。

2008年にはウォシャウスキー監督の実写映画が撮られていますが、

このときに同じ東洋人だからとうっかり採用した韓国人俳優のピ(別名1円芸人)
が、撮影の際に「日本人の役をしたくない」という理由で自分の役を
韓国人レーサー(笑)に書き換えることを強要したため「法則」が発動して
日本では勿論のこと、世界でもヒットしませんでした。



目を引いていたブロッコリーヘアの白人男性。




家族の肖像。

右はインド人家族。
左は白人の夫婦に養子二人。

アメリカでは子供に恵まれなかった夫婦が
簡単に養子を取ることができ、
そういう家族の姿が至る所で見られます。

なぜ養子だと分かるかというと、親が白人であるのに対し、
養子の人種が
違っているからです。

実際のところ白人の養子というのは滅多に「出物」がなく、
しかも大変「お高い」のだとか。
というわけで、だいたいは韓国人か中国人の子供になります。
「セックス&シティ」の登場人物の一人も、不妊に悩んだあげく
中国人らしい女の子を養子に迎えていましたね。

左の夫婦は、姉妹になるなら同じ人種にしようと決めたか、
あるいは最初から姉妹ごと養子にしたのかもしれません。




ヒスパニック系の大家族。




一般的なアメリカ人家族。




イスラム系家族。
お母さんは戒律を守って髪の毛を隠しています。

娘たちは髪を隠すなんてかっこわるい、といったところでしょうか。

彼女らはおそらくアメリカ生まれなのでしょう。



インド人の団体。




中国人の団体ももちろんいます。

女性があか抜けているのでおそらく台湾か香港人でしょう。



愛し合う男と女。




愛し合う男と男。





入り口のところまで帰ってきたら、人に触れずには歩けないくらい

観光客が一杯になっていました。



カニの形をしたモニュメント。




ストリートミュージシャンも、ここで演奏するにはオーディションが必要。

なのでここでやっている人は大抵プロです。
このおじさんはカントリーシンガーで、カラオケに合わせて
バンジョーの弾き語りをしていました。
CDもたくさん出しているようで、上手でした。



このあと我々は都心のユニオンスクエアに車を停め、

息子の新学期用に靴を買いに行ったのですが、
途中、車の窓からこんな人を見ました。
ラジカセを横においていますが、どうもオペラ歌手のようでした。


というわけで、実にサンフランシスコらしい一日でした。
最後に思い残すこと無くこの街を堪能した気がします。



この日フィッシャーマンズワーフのお土産に息子が選んだTシャツ(笑)


リッツカールトンバッフェと「アイアンシェフ」

2014-08-21 | アメリカ

TOはボストンで1週間を過ごし、西に移動して
3日を過ごしてから帰国して行ったわけですが、
 それが週末だったため、我が家は恒例のハーフムーンベイ詣でに出かけました。

 ここからはカーナビの予測によると30分のはずなのですが、
ハーフムーンベイに行くには101号線から山を越えて太平洋岸に出るのに
一本道をくねくねと行かねばなりません。
当然ながら週末は大変な渋滞になってしまいます。

前もってレストランに予約しておいた時間を大幅に遅れ、
レストラン「ナビオ」に到着すると・・・・

 

なんと!
去年まではなかったブランチ・バッフェ方式になっています。
サンフランシスコ市内のリッツでは確か「サンデーブランチ」と称して
やたら豪華なブランチを食べ放題で供していたと記憶しますが、
ここはそういう「大量客を捌く」という雑さとは無縁だと思っていたため、
なんとなく凋落を見た気がして

「リッツ・ハーフムーンベイよお前もか」

という感を持ちました。
去年一昨年と食べたタルトのデザートを食べようと思っていたのにな。



とはいえ、リッツのバッフェなら期待できそうではあります。
さっそく食べ物を取りに出撃。

サラダの葉類はどういう趣向なのか植木鉢に入れられ、
そこから取る仕組みになっておりました。
そして見ての通り、今年も中国人がちらほら眼につきます。



客席はほぼ満席でした。
客席どころか、館内がほぼ満員御礼状態であることに
後で気づくことになったのですが。



ローストビーフやラムのもも肉、リブステーキ、
肉系の思いつくものは取りあえずなんでも食べられます。
柱の向こうはシーフードコーナーで、カニ爪やエビのカクテルなどの
甲殻類から生ガキなど、皆眼の色を変えて食べるようなものがふんだんに。

残念ながら肉も甲殻類にもあまり興味がないわたしは
植木鉢から葉っぱを取ってサラダをせっせと食べていましたが、
シーフードのコーナーに、好きなだけ取れるキャビアがあるので
驚いてしまいました。

少し味見をしてみたら余りに塩辛くて、わたしにとっては
猫に小判豚に真珠でしたが、キャビアをまるでイクラのようにイクラでも
食べることが出来る(しかもリッツで)なんて・・・。

特に最近はチョウザメの捕獲量が激減しているので、
キャビアはまさに海のダイヤと化しているはず。
こんなバッフェで好きに取らせていてホテル側は大丈夫なのでしょうか。

・・・・・大丈夫かどうかは後でわかったんですけど(笑)



デザートコーナーは棚を使用。



TOが取ってきたデザート。
右手に持っているのはみたらしダンゴではなく、焼きバナナのチョコレートがけ。
デザートコーナーの奥にシェフがいて何かを作っていたのですが、
クレープではなくこの焼きバナナだったのです。
なぜこんなものを?と大変疑問でしたが、なんか変わったことを、
というレストランの意欲の現れだったのでしょう。

一つ食べてみましたが、「なぜわざわざこれをここで作る?」
というのが感想の全てでした。
他も全体的に甘さが強すぎて、日本人には一口で閉口、というものばかり。

 

そして、高級バッフェにはつきもののスシコーナー。
先日メキシコ人のスシレストランのことをエントリにしましたが、
素材はともかくスシを握る技術に置いてはここも似たようなもんです。

ちょっと離れて撮った写真でも、スシのディスプレイにしては
雑然としていて見た目の美しさが全く無いのがおわかりでしょうか。

マウイのリッツカールトンロビーにあるスシカウンターは、どうやら
日本人ではないかと思われる職人がにぎっているようでしたが、
ここのはまず間違いなく日本人ではないとこれを見ただけで思いました。

 

とそのとき近くをスシシェフが通りかかりました。
本人にカメラを向けるのは失礼なので彼の着用していたエプロンだけを
こうやって写真に撮ったのですが・・・これどう思います?

見かけだけは東洋人で、もしかしたらアメリカ人はこれが
わざわざリッツホテルが日本から招聘した寿司職人だと思うかもしれませんが、
どっこい日本人はこのインチキを見破ってしまうのだった。

近くに来たTOに

「見て、あの前掛け。あれって・・・・」
「酒屋の前掛けだね」
「どんな職種がするものかわかってないみたいね」

別に何人がやっても構わないけど、こういう怪しげなことをするのと、
あと日本人の振りをするのはやめてくれんかな。

ところでたった今、テレビで「ミンのキッチン」という番組をやっています。



右が番組のホスト、蔡明シェフ。
左は今日のゲスト、森本正治。

Morimoto Napa

ワインで有名なナパバレー始めいくつものレストランを経営し、
アイアンシェフ・アメリカで和の鉄人を務めている有名シェフです。

今日のお題は「鯛の切り身」である模様。



ガーデンベジタブルを添えた二通りのタイ。
レシピは番組のHPから手に入るそうです。



ホストのミンシェフはしゃべり方からどうもアメリカ生まれのようです。
森本シェフを「モリモトサン」と呼び、「ドーモ」「イタダキマス」
など、知る限りの日本語を使って番組は和気あいあい。

このとき、

「ところでモリモトサンはシェフのトレーニングを東京でしたの?」
「そうだよ」

といっているのを聴いたのですが、wikiによると
森本正治は広島の崇徳高校野球部で甲子園に出た後、プロ野球の道を諦めて
料理人になり、広島で喫茶店をしてから渡米しています。
つまり「東京で修行」していないのですが・・。
まあ、善意に考えれば「ヒロシマだよ」とここアメリカでは言いにくいので、
出身地を東京であるということにしたのかもしれません。


さらに、彼の店のHPには

「彼は日本のメジャーリーグから選ばれた(drafted by)こともあるが、
肩を壊して野球をやめた」

と書いてありますが、wikiでは

「高校野球の決勝戦で敗れたので料理人を目指した」

となっています。
まあ、どうでもいいんですが、誰も照合しないと思ってこれは酷くない?



森本シェフのお皿を二人で味わった後、同じ素材で今度は
明シェフが一品作るという趣向です。
明さんは、森本氏に針ショウガを刻む仕事をさせ、その包丁さばきを見て

「アイアンシェフ!」

と感嘆します。
いやまあ、これくらいは・・・ねえ?



ミンシェフの一品は

「タイのニュースタイルサシミ  ごまを散らしたオリーブオイルがけ」

サシミじゃないと思うけどサラダとしては美味しそうです。



森本シェフの一品は、タイに絵の具を塗り、それに
ナプキンを押し付けて作った絵の上に盛られています。
この絵の具は体に悪くないのかとか、この程度の絵であれば
自分で描いた方が早くないかとか、いろいろ突っ込みどころはありますが、
こういうアイデアも含めてこの人はアメリカで有名になったのでしょう。



どちらのシェフも別の国の民族でありながら
全く別の国において自分の才能で勝負している者同士。
こういう人材を受け入れてアメリカという国があるのですね。

もちろん、そこまでいかない限りなくインチキに近いものも
その何倍となくここにはあふれかえっているわけですが・・。




さて、リッツカールトンに戻りましょう。
レストランの窓から外を見てびっくり。
まるで難民キャンプのように人が庭にいるではありませんか。



それだけたくさん宿泊客もいたということでもあります。
ここの週末の人出を、アメリカ経済のバロメーターの一つにしてきたわたしですが、
今年の今までにない盛況ぶりを見て、そう悪くないどころか、
かなり良くなっているのではないかと思われました。

もちろんどんな経済状態でも、アメリカには裕福な人々というのは
一定数いるわけですが、今年の混雑ぶりは驚くべきです。

なぜなら、わたしたちは請求書が来て初めて知ったのですが、
この日のバッフェは一人100ドル!
税抜きか税込みか聞くのを忘れたのですが、親子3人でランチに3万円強です。

どんなホテルのディナーでもバッフェで100ドルというのは今まで
一度もなく、このことを他のアメリカ人に言うと

「信じられない」

といったくらいでしたから、かなり常識はずれの値段だったのでしょう。
どうりでキャビアがいくらでも食べられたはずです(笑)

わたしたちのように全員食が細くて、(アメリカ人との比較で)
キャビアにも甲殻類にもましてや肉の類いに全く興味のない人種には
これは実にもったいないランチだったというほかありません。



オープン以来何度となく来ていますが、庭でバンドのパフォーマンスが
行われていたのも初めて見ました。



冒頭のカップルの横のテーブルには犬が2匹つながれていて、
ときどきなにかを貰っているようでした。



左の犬は立ち上がって前足を「かいぐりかいぐり」していました。



屋根の上にはいつものブラックバードたちが、テーブルを
人が去った後のおこぼれを虎視眈々と狙って待機しています。



何度も書いていますが、ここはゴルフコースが売り物。
ホテル内にもコースがありますが、道を隔てた向こうにもコースがあり、
その周辺にはホテルが建った頃には工事をしていた
住宅があります。

わたしたちの横のテーブルは、いかにもリッチそうな初老の男性と
若い男性が二人でバッフェを取っていましたが、
どうやら会社のオーナーと会計士、あるいは弁護士のようでした。

おそらく、そんな人々の週末の家になっているのかと思われます。



皆が眺めているところの真ん前のホールは、ギャラリーが多すぎて
皆不必要に緊張してしまわないだろうか、と思います。
ゴルフなさる方、どんなものでしょう。



ホール越しに向こうに見えている崖には、ホテルが階段をつけたのか
降りることが出来るようです。
今までここに来るときは必ず寒く、人が降りているのもまた
この日初めて目撃しました。

お天気が珍しくいいどころか陽射しが強すぎて外にいるのが辛いくらい。
こんなかんかん照りの中でじっとしていられるアメリカ人って、
皮膚感覚が我々と違うんじゃないかと良く思います。



早々に引き揚げてバレーにカードを渡し車を待ちます。
こんな人出ですからバレーは大忙しで、係は走り回っていました。



夏でもこの暖炉はついていることが多いのですが、
さすがに今日は火は燃えていなかったようです。



ふと視線を感じてそちらを見たら、お行儀の良い犬が
ちゃんと手をそろえて座ってこちらを見ていました。

彼がつながれているのはアイデア商品?
リードがつけられているボトルのような「犬つなぎ器」。
中には水を入れて固定させ、もしかしたら飲み水にも使うのかもしれません。


それにしても100ドルのランチ。
このリッツの思い切ったお値段は一体どうしたことでしょうか。
しかしTOはこんなことを言うのです。

「値段を知っていても来たと思うな。
だってどんなのか食べてみたいじゃない」

この人は、食べ物に対する好奇心が強いのでこういうのですが、
そのお値段が山盛りキャビアだったり食べもしないラムの骨付き肉だったり、
ましてやインチキ日本人寿司職人の前掛けだったり、と分かった今では
今後行こうと思うかと聞かれればわたしはNOですね。

ここは西海岸でも大変好きな、しかも思い出の場所なので、
横のカフェには今後も来るつもりではいますが。





 


サンフランシスコの一日~クリフとフォートポイント

2014-08-12 | アメリカ

さっき車の中でラジオを聞いていたら、突然

「ロビン・ウィリアムズが自殺した」

というニュースが繰り返し始まりました。
昨日、黒人のティーンエイジャーが警察に撃たれて亡くなり、
黒人の暴動が起こって32人が逮捕されている、というニュースが
朝から繰り返されていたのですが、 
一挙にこの話題にかすんでしまいました。

昨日はサンフランシスコに来ていたという証言もあるそうですが、
自殺とは・・・・一体何があったんでしょうね。 



さて、かつてサンフランシスコに住んでいたことがあり、
帰国してからもほぼ毎年ここに来て夏を過ごしていた我が家は
2年前から息子のキャンプの内容の充実を求めて
ここスタンフォードのITキャンプにくるようになっても
かつての懐かしい場所を求めて滞在中何度かSFに行きます。

わたしはお気に入りのブティックがあるので、それらを
一回ずつ訪れるだけでも結構な回数になります。
顔なじみで名前も知ってくれている店もありますが、
それほどでもないところでもレジで

「わたしあなたの顔覚えてるわ」

と言われたことが何度かあります。
どの店も一年に一回しか行かないのに・・・。 

ところで、その中でも最も仲良くしていて、スタッフの名前も
全部熟知している店を先日訪れたのですが、
3年くらい前から働いている70台のおばあちゃまスタッフが、
なんとジャズギタリストの

Bruce Forman (wiki)
ホームページ

のお母さんであることが判明しました。
なんてこった。
ブルース・フォアマンといえばリッチーコールのバックで
日本に来たりしている、ちょいカントリー風ジャズギタリスト。

あらためて写真を見たら、ママンと全く同じ顔をしています。
本人にそれを言うと

そうなの。髭があるだけの違いなの」

ちなみに、彼が何歳からギターを始めたのかと聞いてみたところ、
小さいときにはピアノをやっていたのだが、20歳のときに
急にギターを始め、すぐにプロになっていたということです。
まあ、プロになる人というのはそんなもんですよね。

「プロになろうと思って音楽を始める人はいない、
なろうと思うのではなく気がついたらなっているのがプロだ」

というのは、不肖エリス中尉の名言です(笑)

母上によると現在彼は「ルート66ツァー」をやっていて、
あの「Route 66」に登場する街のライブハウスを次々に
回って演奏しているそうです。

つまり、シカゴを出発してLAまでの2000マイル、

Saint Louis

Joplin,
Missouri

Oklahoma City
Amarillo
Gallup
New Mexico
Flagstaff

Arizona
Winona
Kingman

Barstow
San Bernardino


という順番ですね。
きっとライブの一番最後にこの曲をやるのでしょう。 

ママンによるとブルースは何度も日本に来ているので、
今度行くときにはメールをくれるとのことでした。



翻って当方の息子は相変わらず機嫌良くキャンプに行っています。
ITキャンプなので合間には皆でゲームをするそうですが、
朝のドロップオフのときに

「お前が「X」か。昨日一人で勝ちまくってたという」

などといわれていて、彼が有名人であることに気づきました。
大抵100人近くのクラスの中のゲーム「2強」の一人になるそうで、
カウンセラーといわれる講師に勝つこともしょっちゅうなのだとか。
わたしとしてはそんなことで有名になられても、と思うのですが、
本人はいたって大得意。

「気がついたらゲーマーになっていた」

というのだけは親の立場からもやめてほしい、と祈る今日この頃です。

関係ないですが、彼はまた


「お前デスノートの主人公に似てるな」

とも言われたそうで、それもちょっと嬉しい様子。
どのキャラのことか知りませんが。



さて、その息子がサンフランシスコに一度は行ってみたいというので
先日、I-280で北に向かいました。
サンフランシスコ上空には今日は霧がかかっているようです。
今からあの雲の中に突入だ!
わたしも息子もパロアルトを出発するときからジャケットやマフラーで装備。



隣をまるで絵はがきのようにきれいなオールドカーが
走っていたので息子に写真を撮らせたのですが、失敗。
青い、やはりレストアカーと連れ立ってドライブを楽しんでいます。
タイヤホイールなんかもぴかぴかですね。



こだわってオールドカーに乗る人はここアメリカにも
たくさんいます。
これはサイドミラー越しに撮ったメルセデスのオープン。
カリフォルニアの人はオープンカーが大好きです。
強い陽射しは彼らにとって苦ではないようです。



280を出て太平洋沿いのスカイラインハイウェイを走りました。
パラグライダーを楽しむ人が集まる崖の上の公園があります。
いつも崖沿いや海の上を飛んでいるのですが、
見ているだけでどこに着陸するのか心配になります。
皆個人で楽しんでいるので、日本のように何かあっても
業者に責任を問うみたいなことにならないようです。



サンフランシスコの地図で言うと右上、太平洋を臨むサンセット地域。
この向こうには日本があります。



車から降りるなり激しく冷たい風にあおられて震え上がりました。
海岸を歩く人も寒そうです。

「これが8月の海岸の光景だなんて・・・」

いつ来てもサンフランシスコはクレイジーな気候です。



ここにはかつて風力発電のために使われていた風車が二つあります。
勿論今はその姿が残っているだけです。  



レストランに行くことにして車を停めました。
ここは「クリフ」と呼ばれています。



海岸の向かいにはアパートなどもありますが、
よくボードを抱えて道を横切っている人を見かけます。
近くに住んでいるサーファーも多いと見た。
しかし、冬でもやるのがサーフィンとはいえ、ここで水に落ちたら
さぞかし寒いだろうなあ・・。

風が強いので結構いいチューブが来ているようでしたが。



おばかさん発見。

サンフランシスコの海で海水浴をする、などというのは
体を張ったギャグ以外の何ものでもありません。

おそらくただウケを狙っての決死のパフォーマンスと思われます。
何が君をそうさせている。



というわけで、レストランのあるビルの近くに車を停めました。
ここは3年くらい前に長年かかって行われていた改装があいなって、
観光客や地元の人たちが訪れる人気スポットとなっています。



中のカフェはものすごい人で順番待ちが出来ていましたが、
レストランの方にはすぐに座れました。
ホテルのダイニング並みのお値段設定なので、
ちょっと休憩、という観光客などはこちらを選ばないからです。



案内された席からの眺め。
下のテラスにはしょっちゅう人が来ます。
いかにも寒そうな二人。



海岸にある岩の小山にはしょっちゅう人が登りにきていました。



どこから降りるのだろうと不思議に思って見ていたのですが、
右下の亀裂の隙間に立った墓石のような岩の上に移り、
そこから亀裂の右にさらに移って砂浜に降りていました。



そんな観察をしているうちにスープが来ました。
息子と二人でシェアした人参のスープ。



ここの売りはシーフードです。
素直にスキャロップを注文してみました。
付け合わせにはアサリとポプコンシュリンプもあって
食べ応え十分すぎるほどでした。



息子の頼んだコッドのフライ。
どちらも美味しくて、量が多いのに全部食べられました。



しかもデザートも頼んでしまうのだった(笑)
二人で一つ頼んだ「ラーバ・チョコレートケーキ」。
付け合わせてあるのはホイップクリームとピスタチオのクリーム。



ラーバ、即ち溶岩のように熱々のチョコレートが中から・・。
アメリカのデザートなのに甘さ控えめで激うまでした。



全てに満足したのですが、一点精彩を欠いたのが紅茶。
アメリカ人には紅茶の文化がないので、お湯のポットに
はいどうぞ、とティーバッグを一つ持ってきたりします。
まあ、ポットで3ドル50セントですから文句も言えませんが。



ここにはかつてStro Baths(ストロバス)という温水プールがありました。
よりによってこんなサンフランシスコで一番寒いところに、
と思わないでも無いのですが、決して泳げない海だからこそ
それを見ながらせめて暖かい室内で泳いでみたい、と
考えたサンフランシスカンが多かったということでしょう。

先ほどの水車もここに電力を供給していたのではないでしょうか。




まるで養殖場のいけすのようですが、こんなプールだったようです。

1896年、ユダヤ系ドイツ人で初のサンフランシスコ市長となった
アドルフ・スートロが世界最大の屋内スイミングプールとして建てたもので、
運転コストとメンテナンスに費用がかかりすぎたため経営は思わしくなく、
閉鎖に追い込まれました。

その後ここにはかつての遺跡だけが残っていましたが、
1966年、放火による火災で全ての建物は焼失したそうです。



ここがその跡地。
建物の基礎の跡と、プールに移動するための階段、
そしてトンネルが見えます。



ここに立つとあまりの風の強さにわたしたちはさらに震え上がりました。



そして、水槽の跡のようなものが見えています。



それがこの部分。
今ごはんを食べている建物のあるのが向こうの崖沿いです。



温室ドームは大きなもので、この下の階にもプールがあり、
吹き抜けの二階はこのようなスペースになっていたようです。



さて、息子のリクエストにより、わたしが先日車の鍵を失くしたところの
ゴールデンゲートブリッジに行ってみることにしました。



この日はサンフランシスコ中が深い霧に覆われていました。
晴れているように見えますが、真っ白な写真を加工したものです。



ゴールデンゲートブリッジのある地域をプレシドといいます。
プレシドに建っている家は殆どが築100年もので、
しかも壁や屋根の色をぬりかえることは許されません。
従ってどこにいってもクリーム色の壁にレンガ色の屋根の建物ばかり。
色彩に統一があって実に美しい一帯です。



ブリッジのたもと、フォートポイントに来ました。



ウォーキングでここにたどり着き折り返すときにタッチするパネル。
前に見たものとは違う新しいものになっていました。



下の方にある犬用はそのままです。



上空に水上飛行機発見。
アレスティングワイヤーのようなものを付けていますが・・。

 

駐車場に車を停めて釣りをしている中国人あり。
今夜中華街にある彼の店で「TODAY’S CATCH」として料理されます。(たぶん)
見ている前で瞬く間に一匹釣り上げ、観光客が周りを取り囲み大騒ぎ。
ちょっと得意そうな陳さん(たぶん)でした。



ところで、わたしの今乗っている車です。
え?
前に鍵を失くしてからダッジに乗ったといってなかったかって?
はい、乗り出して数分でGPSがないのに気づいたんです。
そして次の日またもやスイッチしにいき、
すったもんだでプリウスに代えてもらったというわけです。

つまりわたしがこの滞在で乗った車、その数8台。
平均週一回車を代えていたことになります。

このまま最後まで行けますように・・・。(切実)



ここには1800年代に作られた要塞の跡があります。
時々は公開されるのですが、入り口にあった案内によると
それは来週の土曜日でした。
最後の週末になりますが、どうしようかな・・。 


このあと、市内のスーパーで買い物をし、パロアルトに戻ってきたのが夜8時。
夜なのに明るく暖かく感じ、サンフランシスコの異常さをあらためて実感しました。

しかし、また別の日になれば行きたくなるんですよねこれが。

やっぱりサンフランシスコはクレイジーな街です。



 

 


ゴールデンゲートブリッジカーキイ紛失事件~「Good luck! 」

2014-08-08 | アメリカ

「やっちゃった」

エントリのジャンルにこんなタグがあるのに気がつきました。

この際なので使ってみます。

「やっちゃった」というこのタグとタイトルを読めばもう

「ゴールデンゲートブリッジを見に行って車のキーを失くしたのね」

と分かられてしまうというのも情けないですが、まあそう言う話です。



今住んでいるパロアルトからゴールデンゲートブリッジを臨む
クリッシーフィールドまで、車では50分くらいでしょうか。
サンフランシスコに滞在し、息子がこの近くのキャンプに行っていたときには
送って行ったあと必ずここでウォーキングをしたものですが、
今では滞在中1~2度歩きに行くくらいです。



GGBの出来る前、これはちょうど橋の下にあたりますが、
ご覧のような建物がありました。
太平洋に面した防衛の拠点としてフォートが作られたのです。

この建物は勿論現在のものと同じで、時々公開されています。
中にはキャノンやガンパウダーの倉庫などが残されています。



陸軍の基地が置かれ、この草地はバイプレーンの頃滑走路でした。
4機の複葉機の前に全員集合!していますが、後ろの建物をよく見てください。



はいもう一度。

全く同じ建物が並んでいますね。
アメリカはどこでもそうですが、建物をそのまま使い続けるので、
150年前の写真と同じ景色が今も見られるんですね。

最近ですが、この建物をトランポリンやロッククライミング、
自転車の貸し出しセンターとして使うことになったようです。



スミス中尉というのは知りませんが、この

「ハップ・アーノルド少佐」

は知ってるぞ。
この人が少将だったとき、女子飛行隊の結成に難色を示したり、
今から大西洋を渡ろうとしていたナンシー・ラブに禁止命令を出したり、
とにかくあまりいい印象はなかったような。



ママさん飛行隊。
プロペラの上に乗っているのがうちのおじいちゃん、
なんて家もサンフランシスコにはありそうです。



崖に登ったら落ちますよ、って当たり前だが。
今から落ちて行く人の図案が秀逸です。



今日は珍しく、霧がかからない朝です。
晴れて、かつ全くブリッジが隠れていません。



フィールドの向こうはここ何年か続いている高速道路の工事。
今年は開通しているかと思ったのですが、アメリカは日本より
工事に時間がかかります。
この調子では来年の夏も完成しているのを見ることはなさそうです。
ベイブリッジの工事が終わったので、こちらが本格的に始まりました。
これが出来ると帰りが楽になるので早く出来てほしいのですが。



望遠レンズ装着ニコン1とソニーのRX−100を持ってきました。
ブリッジの近くにある国立墓地、つまり戦没者墓地が
こんなにここからはっきりと撮れたのは初めてです。



アルカトラズ島は少しぼやけていますが、
ここは朝来るといつもこんな感じです。



ここは犬をつながなくても良いので、思う存分走らせるために
わざわざ連れて来る犬のオーナーが多いです。



ここには犬の散歩業者が専用のバンで犬を集めてきて、
多い業者で7匹くらい引き連れて(というか引っ張られて)
歩いています。

そんな業者は逃げたら困るので綱を外すことをしませんが、
自分の犬には思いっきり走らせて楽しませます。



特に大はしゃぎしていた3匹。



左の茶色い犬の表情が・・・(笑)
砂が眼に入ったんですかね。



シギの類いもおります。



カモメとテリムクドリモドキは干渉し合いません。



ところで、お母さんが乳幼児と一緒に座っているところに
このムクドリが飛んできて近くに止まったのですが、
母親がまるでハエでも払うように手を振り回し、
叩かんばかりに追い払っていたのを見て、驚きました。

赤ちゃん(しかも女の子)を育てている母親、
特にアメリカの母親と言うのはみんな

「見てご覧なさい、鳥さんが来たわよ~」

みたいな感じだと思っていたので・・。



望遠レンズならではのこんな写真。
この黒人男性はずっとこのブイの上に立って、
「決まったぜ!」みたいな感じで静止ポーズを決めていました。

バスケットボールを持っている人が彼女だと思うのですが、
何の意図で(しかも長時間)やっていたのかは謎です。



カモメの向こうに見えているのが、
原子爆弾を開発したオッペンハイマーの基金で作られた
科学博物館、エクスプロラトリウム。

息子は小学生のときは後半ここのキャンプに行っていました。

さて(笑)

写真を撮りつつ歩くこと約50分。
ブリッジに向かう途中で引き返し、車まで帰ってきたわたしは
ウェストベルトを探って愕然としました。

鍵 が な い 。

見れば車の鍵はちゃんと閉まっています。
取りあえずiPhoneは音楽を聴くために持っていたので、
止めてあったデータのローミングをしてハーツの非常コールセンターを
インターネットで検索。
検索したページから直接電話がかけられます。

いやー、便利便利。
iPhoneに代えて(観閲式で雨に濡れて前の携帯が壊れたので)
良かった、とこのときほど思ったことはありません。

「あのー、ロックアウトされたようなのですが」
「まず車のナンバーを教えて下さい」

ナンバーから即座に白のプリウスを借りたエリス中尉様、
と向こうが探し出し、またもや便利な世の中になったものだと
当たり前のことにいまさら感謝するわたくし。

「それでは今から60分以内に鍵を開ける人を向かわせます」
「車の中にキーがやっぱりなかったらどうするんですか」
「そしたらそのときはレッカー車で空港のハーツまで行き、
新しい車に乗り換えて頂くことになります」

もしかして7台目?・・・・orz

今年に限ってどうしてこう車関係が波瀾万丈なんでしょう。
今まで約10年間もの間、一度もなかったことが次々と。

いや、一度あったな。

5年前、ゴールデンゲートブリッジの途中でタイヤがパンクし、
煙を吹き出しゴムの焼ける匂いを振りまきながら
なんとかエクスプロラトリウムの駐車場までたどりついて
そこでレッカーを待ったことが。

あのときといい今回といい、GGBはわたしと車の鬼門なのかしら。

しかしまだ車の中にキーがある可能性も捨てられず、
わたしはまずロックを解除してもらうことにしました。

ちなみにお値段は84ドル也。

30分ほどでやってきたメキシコ系の係はわたしを見るなり

「ハウアーユー?」

ファインなわけないだろこの状況で。
彼はすぐにドアの端に金具を入れて1センチくらいの隙間を作り、
素早く長い金具を差し込んでドアのロックを解除しました。

うわーなんて手際がいいの。
こんな技を持っていたら、車上荒しなんてお茶の子いやなんでもない。

そして取りあえず中のバッグや車内を点検。
やっぱりありません。
まああるわけないよね外から鍵かかってるんだから。

「うーん・・・」

レッカーを呼ぶ前に、わたしはもう一度フィールドを
歩いて往復してみることにしました。
歩きながら首を常時40度くらい左右に動かし、
地面に落ちているかもしれないキーを見逃すまいと眼を凝らしましたが、
全くそれらしい影さえありません。

絶対にフィールドのどこかで落としたのにはもう間違いないのに・・。
そして問題は人が多過ぎることです。
歩いている人は知っている人自転車に乗っている人、
一瞬たりとも途切れること無くトレイルを行き来する状況。

「こんなに人がいるなら誰かがすぐ見つけたかもしれないなあ」

誰かがカフェに届けてくれたかもしれない、と思い、
まず一つ目のカフェに。

「ロストアンドファウンドあります?」
「何をなくしたんですか」
「カーキイです」(車の鍵をこういいます)
「ありますが」

なにっ!

お店の人が出してくれたキイを見てがっくし。
キーチガイじゃなくてキイ違いでした。 

Uターンして次は公園事務所に。

「鍵はとどいてないわ」

またしてもがっくしするわたしに

「Good luck! 」

こういうときグッドラック、というのは実に相手をほっとさせる
いい言葉だなあ、とわたしは感心しました。

ずいぶんのんきなようですが、実際のところわたしは
そう大変な気もせず、これも一つのイベント、
と言う感じでどこか楽しんでいたフシがあります。

まあそれもこれもブロガー根性とでもいうんでしょうか、
どんなことでも命に関わることでもない限りそれをネタに
またエントリ書いたる!みたいなことを考えていると、 
あまり悲壮感は感じないものなのかもしれません。

最後にもう一つのカフェに行ってみました。
そういえば朝ご飯を食べずに出てきて50分歩き、
外で立ったまま30分待って、そのあとまた同じコースをもう一回歩いて
時間は現在1時。
そりゃお腹もすきますわ。

カフェでサンドイッチでも買ってそれからレッカーを呼ぼう。
レジでカーキイが届いていないかと聞くと、店長らしい男性が

「あ、一つありますけど」

なにっ!

しかしこれが自分のキイだったなんて奇跡が起こることを
いまのわたしは全く信じる気になれません。
もう今回は車関係何をやってもだめ、と諦めきっているわたしには。 

案の定それもキーチガイで、ガックシしつつも

「・・・・ターキーサンドハーフとスープのセット」

力なくお昼を注文したら、レジの中国系の女の子が控えめに

「Good luck・・・鍵が見つかるようにお祈りしてます」 

とおつりを渡すときに言ってくれました。
ありがとうね。




レッカーが来るのにきっかり1時間かかり、時間は2時。
この時間になると霧がかかってブリッジの上が見えなくなりました。

そしてレッカー車登場。
この係員もメキシコ系です。
さっきの人のようにハウアーユーはありません。

わたしの身分証明を確認し、サインを取ったら
さくさくと作業にかかりました。



もうこのころになるとネタにするつもり満点だったので
作業の様子を写真に撮ってしまうわたし。

アメリカではバック駐車は誰もしませんから、まず車の向きを
買える必要があります。
ロックされているのは前輪だからですね。

レッカー車の前からアームが出てきました。



後輪が回転しないようにバンドで固定して、そのまま
ずるずると引きずり出します。
前輪が動かないので地面とこすれてものすごい音がしました。



幸い向かいには車が停まっていなかったので
ここで作業をします。



何をしているのかと思ったら、アームの先の金具が
プリウスの車体に引っかかって出て来なかった模様。



プリウスの前に出て、バックで近づき、



車体の下にアームが伸びて行くと、
不思議なことに後輪にもがっちりバーがはまります。



そして車体を持ち上げ・・



天井に警告ランプを乗っけて出来上がり。

わたしはレッカー車の助手席に乗って行きます。
道中二言しかしゃべりませんでしたが、この人が無口というより
こういうときには職務として黙っているのがデフォルトのようです。

わたしがカメラの画像を点検していたら

「フォトグラファーですか?」

と聞いてきたので勿論違うといいました。
彼は作業をいちいち写真に撮っているわたしを怪訝そうに見ていましたが、
そんなことをするのはカメラマンに違いないと思ったのでしょう。




そしてハーツに到着。
空港のではなく、修理工場を併設する営業所です。

電話をしたとき最初にオペレーターは二回とも電話がつながるなり

「Are you safe? 」

と聞いてきましたが、レンタカーでも事故を起こす人は起こすらしく、
ここにはどうやったらこんなぐしゃぐしゃに、と背筋が寒くなるくらい
破壊された車体が三台並べておいてありました。



待つことしばし、アップグレード代をディスカウントしてくれたので
借りることに決めたのはダッジ。

「これはいい車ですよ」

と係員が言った通り、加速もパワーもなかなかで
今回乗った車の中で最も走り心地のいい車だと思いました。

・・・・たぶん燃費はすごく悪いと思いますけど。


最後のカフェでサンドイッチを食べていたとき、
コーナーにに店長がやってきて声をかけました。

「見つからなかったの?」
「ブリッジまで2往復したんですが・・だめでした。
レンタカーなので今会社に電話してトウイング頼んでるんですよ」
「ああそりゃお気の毒に。でも、まあそれだけで良かったよ。
またいいことあるから気を落とさないでね」

そして彼も最後に「グッドラック」と。
皆がこうやって心配したり慰めたりしてくれたため、
逆になんだかいいことがあったような気分にすらなってきました。

キーを紛失したことに対しては保険に入っているので
賠償の必要はありませんでした。
ロック解除代84ドル、レッカー代を120ドルは痛かったですが、
お金で全てが済むならありがたいと思わなければ。


まあ最初から鍵を失くさないにこしたことはありませんけど。

 

 





 


シリコンバレーのカリフォルニアジリス

2014-08-03 | アメリカ

お待たせしました。
もしかしたら当ブログ読者で、毎年夏になるとわたしが熱心に写真を撮り、

わざわざそのためにエントリを立ち上げるほどファンであるところの
カリフォルニアジリスの写真を待っていて下さった方がいるかもしれない、
と信じて、今年も画像をアップします。

今年は降下始めのために買った300mm望遠でまずリスさんたちの
大アップを狙ってみました。



撮影は恒例のスタンフォード・ディッシュトレイル。
なだらかな丘陵地帯のごく一部に作られたこのトレイルは、
1周歩いて約1時間10~20分のウォーキングコースで、
このように皆がウォーキングやランニングを楽しんでいます。
ただし、コースは日陰がほとんどなく、日中強烈な陽射しのこの地では、
陽が高くなるととたんに人が減ります。

リスにとっても日向は苦痛らしく、わたしが一周し終わるころには
皆日陰や穴に戻ってしまってほとんど姿を見なくなってしまいます。



歩き出す8時半はまだごはん中のリスが多くいて、
写真を撮るのには絶好のタイミング。



眼をつぶったリスは土下座してるみたい。



望遠レンズを持ってきて良かったと思うのがこんな写真が撮れたとき。

この鳥は

アメリカカケス  Western scrub jay

といい、西部アメリカからメキシコにかけて生息します。
サンフランシスコでもよく見ましたが、wikiの体長27~30cmというのより
実際は小さいように感じました。



望遠レンズを最大限に利用。
お食事中のリスさん大アップ。
やっぱりトウブハイイロリスより可愛いと思います。
口から食べている植物が見えていますが、枯れた藁のようにみえる
この辺り特有の草で、枯れているわけではないようです。

カリフォルニアの山々は表面がこれで覆われていることが多いため、
まるで草一本ない禿げ山が続いているように見えるのですが、
そうではなく、この枯れ草状の植物の色なのです。

これが緑になることはなく、従ってカリフォルニアは
いつ見ても山がはげて見えます。





基本的にリスは両手で食べ物を持ちますが、
それは左右対称の動きが癖になっているからで、
この写真のように実は片方にだけ持っている場合も多いようです。
一生懸命食べている感じが可愛らしいですね。





仔リスも大人リスもあまり頭の大きさは変わりません。
こんな小さな体が、大人になると太って大きくなります。
カリフォルニアジリスは冬眠ではなく夏眠すると去年書いたのですが、
あらためて調べたところ、夏眠はわずか数日間だそうです。



走るリス。



去年、「夏眠するリスはオスだけ」とどこかで読んで、
「それでは今ここにいるリスは全部雌なのか?」
と書いたことがありますが、数日しか夏眠しないのであれば
オスがいなくなってしまうことはありえませんね。

なんかおかしいと思ったんですよ。



うう。可愛い。

サイズは両掌に収まるくらいですが(シマリスより大きい)
手のひらに乗せてダンゴみたいに転がしてもふもふしたい~!



今年もリスのケンカシーンが撮れないかなと思い、
リス同士の様子を注意深く見ながら歩いていると、
しばしにらみあうリス2匹発見。

今日は望遠レンズで連写できないけどどうしよう、
とドキドキしながらシャッターを半押ししながら構えていると、
このあと何ということもなくすれ違いました。

にらみ合っただけだったようです。




ところで冒頭写真のリスの口元を見ると・・・、



舌を長く伸ばして草を食べているらしいことが分かります。



トレイルのコースは起伏が多く、ゆっくり歩くのも大変です。
おしゃべりしながら歩くと苦にならないのか、
女性はよく2~3人で歩いています。

わたしはカメラを持っていない日も必ず
Bluetooth搭載のサングラスで音楽を聴きながら歩きます。
iPhoneに代える前はiPodにトゥースを刺さないといけませんでしたが、
今はサングラスに直接同期できます。



カリフォルニアジリスは「ジリス」という名の通り、地面に穴を掘って
そこに巣を作ります。
穴は中で繋がっていることも多いそうですが、
「自分専用の穴」を掘ってそこから出入りするリスも多いのだとか。

「こだわり派」リスですね。



ここら一帯にはリス穴がたくさんあり、
もしかしたら地下帝国ができているのではないかと思われます。
なぜかこのとき、皆が出てきてこのようにじっとしていました。



プレーリードッグみたいです。

リスは時々「警告音」を発します。
「きっ・・・・・きっ・・・・きっ」
と間欠的に鋭い音を出すのですが、見ていると
「キッ」と同時に尻尾を立てて前方に振っていました。

これが聞こえると周りのリスはとたんに警戒に入り、
取りあえずじっとして動かなくなるのですが、
この尻尾を振る動作は、去年も書いたことのある

「天敵であるガラガラヘビに、尻尾の先から熱を出して
振ることによって何かを警告している」

という動きではないかと思われます。
このとき一斉にリスたちが警戒態勢に入ったので、
まずチャンス!とこの写真を撮っていたら、
向かいから歩いてきていた女性二人がわたしに向かって

「Look at the deer!」

と叫びました。
(deerは複数形を取らない単語ですよ皆さん)



後ろを振り向くと、わたしの真後ろをシカの親子が横切っていましたorz

リスに気を取られて実はこういう「大物」を今まで
かなり見逃していたのかもしれません。
わたしは取りあえずすぐにシャッターを切り、彼女らに
教えてくれたお礼を言いました。

この日、ニコン1に300mm望遠レンズ、さらにバヨネットフード
という重装備のカメラでバシャバシャやっていたので、
何人かのアメリカ人に物珍しそうに見られたのですが、
こういうのを持っていたからこそ教えてくれたんですね。

これだけでなく、この日望遠レンズを装着していったことで、
今までに撮れなかった距離にある被写体を撮ることができました。

 

たとえばこれ。
100mくらい先の立ち入れない場所を走っていたリス。







こういった動きまで遠くにもかかわらず捉えられているので感心しました。



以前は遠景にしか捉えることが出来なかったスタンフォード大学の
フーバータワーも、このとおり。

シリコンバレーのリス写真、後何回かお付き合い下さい。

 





 


ボストン探訪~学生街ボストン

2014-07-29 | アメリカ

昨日の閲覧元URL記録を見ていて、ふとUK並びに
ドイツのグーグルからヒットがあったらしいことに気づきました。
台湾のwikiに当ブログのページが貼られていて、ときどき
そこからの閲覧があるのは知っていましたが、ドイツとは・・・。

で、同日の閲覧ページに久々に上がってきていたのが
「秋水くんとコメートくん」
という4コマ漫画のエントリで・・・・。
まさか、これをドイツ人に見られたんじゃないだろうな。

と心配しているところのアメリカ滞在中であるエリス中尉です。 
いやー、世界は狭くなったものですねえ(棒)


さて、毎年わたしたちがアメリカにいる時期、一度は家長である
TOが夏休みを取って遊びにきます。
大抵は西海岸にいるときなのですが、今回はボストンにやってきました。

その理由はわたしが落馬事故で右手首を骨折し、
8月の再手術で骨を固定している金具を取るまでは
決して多い荷物を持たないようにと医師から言い渡されているため、
大量のトランクを持って東から西海岸に移動するのに不安が
(わたしじゃなくてTOが)あったからです。

息子ももう大きいので重いものは任せてもいいのですが、
心配性でかつ愛妻家のTOはやはり自分が行かなくては!
と張り切って自分が出動してきたというわけです。

彼に取っては東海岸は実に久しぶりなので、滞在中、
普段はわたしも行かないような昔住んでいた地域やお気に入りの店、
ボストン美術館などを毎日見て回りました。

そして、この日、わたしたちはTOが留学していたボストンの
大学キャンパスを久しぶりに訪ねることにしたのです。



ボストンには大学がたくさんあります。
この大学はその中でも特に古い歴史を誇ります。



大学最大の図書館。
何本も立ち並ぶ立派な柱と石段が有名です。

この図書館は、ここの学生だった息子を海難事故で失くした
資産家の両親が、息子の思い出のために寄付したお金で作られました。

 

彼女が寄付をするとき、大学関係者にこんな注文をつけたそうです。

図書館内にいつでも花を絶やさないこと。

当大学の学生には水泳を習うことを義務とすること。

図書館内でアイスクリームが食べられるようにすること。

花は当然として、「水泳」は、彼女の息子が海難事故で死んだのは
彼が泳げなかったせいだと彼女はそのことを悔やんでいたためであり、
アイスクリームは息子の好物だったからです。



水泳を習わせることは学生が多くなると不可能になり、
アイスクリームもなかなか難しいものになってしまい、
現在では花を飾ること以外は廃止されました。

廃止に当たっては寄贈者がとうに故人となっていたため、
遺族にその許可を得たそうです。


ところでこの海難事故ですが、彼らの息子が乗っていたのは、
あのタイタニック号でした。
突っ込むわけではありませんが、もし彼が泳ぎができたとしても
助かる可能性はあまりなかったという気がするのですが、
それでも親なら「もし泳げたら助かったかも」と
わずかな可能性を思いこころをいためるものなのでしょう。



寄贈によって大学の建物に自分の名前を遺す、というのは
アメリカの名門大学の出身者にとって名誉なことです。

「ある愛の詩」で、主人公の学生が恋人になる女学生に
父親が寄贈した建物の名前と同じであることを聞かれて

「あれは親父がやったことで僕とは関係ない」

とふてくされるシーンがありましたね。

あるいは、夫の遺産を、夫の出身校に寄付する未亡人もいます。
ある日、大学の事務局に老婦人が訪れてこういいました。

「当大学出身の夫が亡くなりましたので、
ほんの少しですが寄付をさせていただければと思うのですけど」
「それはそれは。お志だけでも大歓迎ですよ」
「本当に少なくて申し訳ないんですけど」

彼女がそう言いながら出した小切手には50億円が書かれていたそうです。

どこの大学でもそうですが、特にこの大学は、寄付金などを蓄積してきた、
米国内はもとより、全世界でも飛び抜けて巨大な大学基金によって支えられています。
年間の寄付金(エンダウメント)は、約800億円。

ちなみに日本の
21世紀COEプログラムは年間全予算が約370億円です。

 

ツタが絡まるれんが造りの校舎はかなり昔からバリアフリーです。



ゲートをくぐっているのは警備員。
アメリカの大きな大学は警察を持っていて、
パトカーで学内を警邏しています。


広大なキャンパスはあちらこちらが区切られ、門が区画を区別します。



学校の敷地の中に教会もありますが、TOに聞くと
これは学校とは一応関係ないとのこと。

警備員の写真の右上に教会の塔が見えていますが、
これは大学の設備?でメモリアルホールといい、
戦没した出身者の名前(南北戦争)が壁に刻まれていた記憶があります。

ここでときどきコンサートが行われたので何度か行きましたが、
ここがイグノーベル賞の授賞式会場でもあることは当時知りませんでした。



「ああ~久しぶりだなあ!」

感極まったTOが嘆声を漏らします。
彼はここで勉強していたのです。



円柱の上にはラテン語で何やら書かれております。
因みにこの学校の卒業式には、卒業生代表がラテン語で卒業の辞を
述べるのが慣例になっています。
TOのときには確か女子学生が総代でした。



その偉容に圧倒されそうになる学舎。
アメリカの大学って本当に威厳に満ちていて、
歴史の重さを肌で感じることが出来ます。

このような環境で勉強する学生は嫌でも誇りと挟持を持って
大学名に相応しい学問の徒であろうとするでしょう。



「あれ~!こんなものができてる!」

彼がしばらく来ないうちに、大学は新しい学生センターを完成させていました。

「そう言えば、これこれを造るから寄付をよろしく、ってきてたなあ」
「寄付したの」
「してますよー。毎年少しずつコンスタントにしているのもあるし」
「それがランプの傘とか花瓶代くらいにはなってるわけね」

新しいホールに入ってみました。



TOの恩師その1。



TOの恩師その2。

「気難しい先生でものすごく怖かった」

そうです。
確かにそんな感じですね。



毎日ここから入っていったそうです。



無駄に多い柱に支えられたアーチ。



この学校で最初に造られた図書館。

昔、この図書館はタバコの火の不始末で全焼したことがあるのだそうです。
しかし不幸中の幸い、最も貴重な初版本の何冊かを、不始末をした学生が
家に借りて持っていたため、焼失を免れました。

本来ならばその学生は退学処分になるはずだったのですが、
ここで学生は学校に取引を申し出ました。

「わたしを退学にしたら、これらの本は返さない」

それは取引ではなくて
脅迫ではないのかと思ったあなた、あなたは正しい。
どう見ても立派な脅迫ですありがとうございます。 


しかしこの辺りがこの大学の面白いところで、
引っ捕らえて脅迫罪とか器物損壊で訴えてしまうことなく、
彼の申し出の通り彼の学籍の確保の保証と引き換えに
貴重な本を取り戻し、双方ハッピーとなったそうです。



大学創始者と皆が思っている人物の銅像の周りには
いつも観光客や、ここで行われているサマーキャンプの生徒で一杯です。
本物の学生は今の時期ここにはおりません。

この銅像の人物は創始者ではなく、遺言で蔵書と所有不動産の半分をカレッジに遺贈した、
最初の寄付者で清教徒派の牧師です。

しかも本物はこの銅像のようにハンサムではなく、モデルは
全く別人だということです。



学内を歩いて反対側の門までたどり着きました。



1794年の卒業生、ジョセフ・マッキーンを記念した
「マッキーン・ゲート」であると書いてあります。
なぜマッキーンを記念しているのかまでわかりません。



「入学するまではこの門が高く見えたもんなんだよ」

・・なんか最近どこかで聞いたな同じセリフを。

「全然高く見えないんですがこれは」
「高くじゃないな。立派すぎるというか権威の象徴と言うか」
「確かに古くて趣はあるけどそんなに立派かなあ」
「これから入ろうとする人にはそう見えるんです」



さて、懐かしの母校を出て、次の目的地に向かいますと・・。



道沿いに東部工学系の雄、マサチューセッツ工科大学が見えてきました。
MIT、通称ミット。
ここを出ている知り合いはわたしの交友範囲では一人だけです。

今は某携帯会社で働いていますが、昔はBOSEにいました。
同居している彼のパートナーいわく、あのウェーブシステムは

「彼が内部のどこかを造ったはずよ」

だそうです。



かっこいいなあ。
言っては何だけど、なんだかTOの大学よりMIT出身、という響きに
心の底から「すげー!」と思ってしまうわたしです。

通りがかりに見えるキャンパスのオブジェ。
割と最近出来たものらしく、見るのは初めてです。
全部数字で出来た人形は、いかにもMITらしい。



さらに進んでいくと、わたしのお買い物エリアである
ニューベリーストリートを横切るのですが、この地域に
あの有名なバークリー音楽大学があります。

そのせいでこの道の反対側は全て楽器店。



この辺りを歩いているのは殆どがここの学生であるため、
殆どが何らかの楽器を携えています。
髪をちょんまげにした東洋人は、まず間違いなく全員日本人です。

わたしの仕事仲間のベーシストもここに留学しましたが、
入学するなり見も知らない他の学生からセッションの電話がかかってきたそうです。

ちなみに彼女は日本でやはりミュージシャンの彼氏と付き合っていて、
お別れの原因というのが彼の「ドメバイ」だったというのですが、
バークリー在学中に付き合い出した男性も「殴る男」だったそうです。
わざわざアメリカに行ってまで殴る男と付き合わなくても・・・。

わたしはこの人生で殴る男性を一度も身近に見たことがないのですが、
その手の人とばかり付き合ってしまう女性っているんだなあ、
と妙に感心したのを思い出しました。




向かいに見えているのはシンフォニーホール。
ボストン交響楽団の本拠地です。
わたしたちがいたころ、まだ小沢征爾がボストン響にいたので、
演奏を何度か聴きにいったものです。

「オザワはボストンの人々にとても愛されているよ」

ボストン在住の知人はこう言っていました。


このようにボストンはカレッジを含む古い大学がたくさんあり、かつ
学校自体が歴史的史跡でもあるので、街全体が美術館のようです。

TOが「入る前は門が高く見えた」と言った日本の出身大学は京都にあるのですが、
このボストンと京都とは偶然姉妹都市です。

いずれにしてもどちらの門もくぐれてよかったね。








 


 


アメリカ食生活その2~ボストン美術館のレストラン

2014-07-28 | アメリカ

アメリカの食は決して悪くない、と常々このブログで書いていますが、
旅行者としてアメリカを訪れ、高くてまずいだけのホテルのレストランで
美味しくもないのにウェイターが

「エブリシングイズグッド?」

とか聞いて来るとグッド、とかイエスとか答えてしまい、
チップも置くはめになって忌々しい思いをし、
街中のジャンクなファストフードや空港のサンドイッチで空腹を満たして

「やっぱりアメリカは飯がまずい」

と決めつけて帰ってくる日本人は多いと思われます。
アメリカには美味しいものもたくさんあるのですが、それは
実際ここに長期間住んで、地元の人々の評価するレストランや、
ローカルフードを自分で調理するということでもないとわかりにくいものです。



アメリカの便利な点は、食材を自分の好きな量買えること。
スーパーに行くと、あらゆる食材、調味料やスナックがこのように
「バルク」という量り売りをしています。
写真はナッツなどのコーナーですが、レーズンやカシューなどの他に、
調理に使う豆や米(玄米、胚芽米、白米、ジャスミンライス、その他たくさん)、
カレーパウダーや蜂蜜、紅茶の葉、ピーナツバター、オリーブの身・・・、
これらも全て少しだけ買うことが可能。



さらに、ほとんどのオーガニックスーパー「ホールフーズ」には、
野菜や総菜をバッフェのように好きなだけ取り、その場で食べる
イートインテーブルがかならずこのようにあります。



このホールフーズは、イートインのためにダイニングがあり、
時々はここのキッチンで料理教室も行われています。
掲示板にはヨガ教室などのお知らせも貼られ、大抵は
ちょっとしたコミュニュティとなっているのです。



この日お昼ごはんに買ってみたのは、息子の持っているのがラップ、
わたしはニューイングランド・ターキーサンドウィッチ。

右側の白い飲料は、2年前新発売になったシリーズで、
カシューナッツミルクにアガベシロップでわずかに味を整えたもの。
アメリカには代替ミルクとしての飲み物がたくさんあり、
豆乳以外にもゴートミルク、シープミルク(無茶苦茶まずい)

ライス
ライススプラウト
アーモンド
カシューナッツ

などの種類豊富なドリンクがよりどりみどりです。



何度かこのブログではターキーを話題にしてきましたが、この、
脂肪が少なくあっさりとしてしかも味わいのあるターキーが、
わたしはチキンよりも好きで、とくにターキーハムを、
クランベリーとクルミの入った胚芽パンに挟んだ、このサンドイッチは大好物。

ターキーはどこでも手軽に手に入る肉なのですが、



これではありません。
これはワイルドターキー。
食用の足の短いターキーです。
ワイルドの方が食べられるのかどうかはわかりません。



ターキーを見た日、前にもお伝えしましたが、
学校の近くのアイスクリーム屋に行きました。

持ち帰りが出来ない、その場で食べる昔ながらのアイスクリームショップ。
種類は豊富で、おそらく100種のフレーバーがあるでしょう。



隣の牧場にはニュージャージ種の牛が放牧されています。
去年3頭しかいなかったのですが、今年は増えて8頭になっていました。



遠くにここの子供と牧場主らしい男性が車から降りて来るのが見えています。




向こうに見えているのは芝刈り機で、放牧場以外のところを刈ります。
牧場の方は牛が食べてくれます。

牛も団体行動をするのか、このとき一頭が水を飲みに向かうと、
皆ぞろぞろとついてきて一斉に水を飲み出しました。



牧場主の自宅は、放牧場と同じところにあります。
アイスクリームを食べに来る客のために、このような
ホルスタインの親子を飾っていますが、長年の観察によると、
この牧場主とアイスクリーム屋のウルマンさんは別の人である模様。
アイスクリーム用のミルクはここから購入しているのかもしれません。



ニュージャージー種と同じ柄のセントバーナード。
この犬は牛をバックに何枚も飼い主が写真を撮ってあげていました。
老夫婦の子供がわりのように見えます。



どうも老犬らしく、自力で車に乗ることがなかなか出来ません。
飼い主も巨体の犬を抱えることもままならず、
長い時間かけてやっとのことで座席に上げていました。

夫婦と共に犬も年を取ってきたのでしょう。



さて、今年はボストンにTOが来たので、わたしの恒例である
ボストン美術館見学に二人で行きました。

このカフェは新しく併設された部分で、元々は外でした。
奥に見えているのがかつての外壁です。
明るく天井の高いスペースにある、ちょっとした食事もできるカフェです。

一人で来たときに軽くサラダを食べたことがありますが、
二人なのでちゃんとしたランチを取ることにしました。



前菜とメイン、デザートがついて来るコースを取ってみました。
それぞれいくつかから選べます。
まず冷たいガスパッチョ。



メインはアーティチョークのキッシュ。
アーティチョークも日本ではあまり見ませんが、
こちらではサラダの具やスープに多用されます。

キッシュは絶妙の柔らかさで、しかも暖かく、
外側のパイはサックリとしていながら口の中で
ほろほろとほどけるような食感。

TOの頼んだのはサーモンですが、赤いビーツとレモンの
ストリングのようなトッピング、そしてピスタチオの
ソースが単調なサーモンに味わいを加えてこれも秀逸です。





デザートは「エンジェルケーキ」。
エンジェルケーキとは、たまごの黄身を使わず、
泡立てた白身だけで作ったふわふわのケーキのことで、
大抵はリング型に流し込んで焼くのですが、ここでは一人分ずつ
カップケーキ型で焼いています。
ソースはラズベリーで、ピーチの煮込んだものが添えられています。

さて、ボストン美術館の素晴らしいところは、一度訪れたら
10日以内にもう一度同じ入場券で再入場できることです。

一日目に食事に時間を使ってしまったので、わたしたちはその翌日、
こんどはしっかり鑑賞するつもりで再訪しました。

すると入り口で

「今日はオープンハウスで、入場料無料です。
このチケットは10日以内にもう一度使えますから
取っておいて下さい」

と言われました。
どれくらいの割合かは知りませんが、当美術館では
こうやって時々、全ての人々に開放されるのです。
しかも週末は9時45分まで美術館は開いています。

あまりにも広大で、膨大なコレクションを誇るこの美術館、
いつ来ても全部見られたことはないのですが、
9時半までどう時間を使ってもいいのなら、ゆっくりと
(それでも全部は無理ですが)見て回ることが出来ます。

そして、そんな楽しみに食を提供するため、館内には
先ほどのカフェを含めて4つのレストランが併設されているのです。

この日、TOと、ここで一番グレードの高いレストランを予約し、
鑑賞の合間に夕食を頂くことにしました。



ブラボーというレストラン。
ミュージアムの中なのだから、もう少し凝ればいいのに、
なんだか直球みたいなネーミングですね。




テラス席があったので迷わずそこにテーブルを取ってもらいました。



手すりから下を見ると、美術館の中庭が広がっています。






皆思い思いにテーブルに座って、鑑賞の合間のひとときを楽しんでいます。
手前のお母さんと息子は、キャッチボールをしていました。

こういう時間と空間に余裕のある美術館で、一日過ごす楽しみ。
別に「勉強」のつもりで肩肘はって来る必要などないのです。
鑑賞に飽きたり、疲れたら、ここでずっと座っていてもいいのです。
極端な話、別に鑑賞しなくたっていいのですから。 




中庭を囲んでいるので、夕日を受けた背の高い木々から
吹き渡る風が夕方の空気を運んでくれます。
ボストンの夏は夕焼けのときがとても美しいのです。
 


床にこぼれているパン屑を目当てに、スズメも多数出張。



昨日のお昼、ガスパッチョが美味しかったので、ここでは
別の味が楽しめるかと思って頼んでみました。

どれもガスパッチョですが、違うベースで味が違います。
右からトマト、真ん中はおそらくパプリカ、左はズッキーニ。

日本のレストランのように運んで来るたびに料理の説明をしないので
何か分かりませんでした。

会話しているのを遮ってまで、メニューの説明を何としてでもしようとする
日本のあのサービスも時によりけりだとは思いますが、
こういうところでは少しくらい説明してくれてもいいかなと思います。



わたしの頼んだメインディッシュ。
カモのローストです。
ターキーもそうですが、わたしは日本で食べられないカモのような家禽が好きです。
日本では鴨南蛮とフレンチレストランで食べられるくらいで、
そもそも肉を買うことが出来ないのですが、アメリカでは
このカモのステーキというのもポピュラーです。

ところで皆さん、このカモの下にあるヌードル、何だと思います?
これ、うどんだったんですよ。
ジャパニーズ・ウドン・ヌードル。

ウドン、エダマメ、 ポンズ、フジアップルなど、日本の食材で
そのまま英語になっているものは結構あります。
大根は「ダイコンラディッシュ」。日本のカボチャは「カボチャパンプキン」。

白菜のことは「ナッパキャベッジ」といいます。
この「ナッパ」が「菜っ葉」から来ているのは明白ですが、
それが気に入らないらしい韓国政府が、これを「キムチキャベッジ」
と言う名称にするために頑張っているそうです。(なにを?)
しかし、あまり功を奏していないらしく未だに「キムチキャベッジ」になっていません。

日本海の名称もそうだけど、長年そう言うことになっている名称を
政府や一国が主導したからと言って、そんな簡単には変えられないと思うがどうか。



それはともかく、このうどんですが、オイリーなカモの下に敷いてあり、
どうもホースラディッシュにミソを混ぜたソースで和えているようでした。
添え物としては日本人には思いつかないアイディアですが、
これはこれでなかなか美味しかったです。

シソを乗せたカモの素晴らしかったことはいうまでもありません。



TOはマスを頼みました。
こういう場合、日本の料理人は顔を落とすと思うのですが、
あえておかしら付き(頭だけ)です。
しかも外側を黒こげのように焼いているので、我々日本人には
いまひとつの見かけに思われましたが、これが意外や意外!
マスのお腹をスライスして,中にポテトとリーキのソテー
(うちわのような育ち方をする太いネギの一種)が詰めてあり、
これもマスが淡白であるのを巧くカバーしていました。

さすがはボストン美術館、レストランのシェフも一流のようです。

「美味しいねえ」
「さすがは世界に名だたる美術館だけのことはあるね」

ルーブル美術館がそうであるように、美術館での観覧、
というのをただのお勉強の時間だけに終わらせず、
大人も子供も楽しく過ごせる時間にするための最も効果的な方法は、
美味しい食事を提供することなのです。

そう言えば、ある世界的なジャズミュージシャンが

「いいライブハウス?それはいいキッチンがあるところだよ」

と言ったという話がありました。
見る、聴くという楽しみを最大限に高めるには、「食べる喜び」
が大きな演出となるのです。

五感を全て刺激する美術館、しかも全ての人が訪れることの出来る施設。
こういうのが本当の「文化」だと思うのですが、皆さんどう思われますか。

わたしは、こんなときアメリカ人を心から羨ましく思うのです。
 





 


アメリカ食生活その1~ヒスパニック寿司

2014-07-27 | アメリカ

アメリカの食、というとほとんどの方は
ハンバーガーにピザ、ディナーはワラジのような肉、
皆夜は電子レンジで冷凍食品を暖めたカウチフード、
といった雑駁な、日本人にはとても受け入れられないものを
味覚の後進国民アメリカ人は量重視で食べまくっている、というのが
現状であると思われるかもしれません。

勿論、日本人の中にコンビニ総菜やインスタントラーメンばかり
食べている人がいるように、アメリカ人にもそういう人はかなりの数
いるわけですが、そうではない人だって実はかなりたくさんいるのです。

そしてアメリカの食は決して絶望的ではありません。
特に食材に関しては日本などよりよほど安く新鮮で素性のはっきりした
生鮮食品や加工品が手に入ります。


食材はオーガニック、ローカルフードを自分で料理して食べるといった
超こだわりの食生活を送っている人はおそらく日本以上にいますし、
厳格なベジタリアン、ビーガン(アニマルフードを取らない)は
徹底的にそれを厳守し、わたしは実は行ったことがありますが、
マクロヴィオティック道場を兼ねた宿泊施設なんてのもアメリカにはあるのです。

つまり、アメリカの食べ物は全てまずい、などと決めつけるのは偏見です。

もっとも外食になるとかなり美味しい店はその数が限られてきます。
そしてそんな中でも、なかなかマトモなものに巡り会えないのが、日本食、
特にスシというジャンル。

そもそも、本物の日本人がやっているスシ屋自体が稀少なのです。
本場のここ日本でさえ、たいしたことのない店やまずい店はいくらでもありますし、
多くの回転寿しは大抵美味しくないのですから、ましてやチャイニーズやコリアンが
アメリカで売られている「スシ・ハンドブック」を見て作ったようなスシが、
本物とは光年の彼我にまで隔絶した別のものになってしまうのは当然のことなのです。

しかし、わたしはここボストンに3年前オープンした、

「アメリカで非日本人が経営しているモールの回転寿し」

という、数え役満(麻雀しないんであまり意味わかってないんですが)
みたいなインチキ寿司屋に、アメリカのスシ現場の生の声をお送りするべく
体を張って毎年特攻をかけています。

2年連続でそのレポートをここにアップしてきたので、さすがにもう今年はいいかな、
と思っていた今年、日本からやってきたTOが俄然興味を示し、是非行きたいと
所望したため、第三次攻撃となる今回の突入を試みることにしたのでした。



この地域で比較的高級とされるこのモールには、アップルストアがあり、
ニーマンマーカスなどの高級デパート、一流ブランド品のショップが並びます。
写真は日本でも珍しいスタンウェイピアノの専門店。



この秋にユニクロがオープンするようで、日本人らしい社員が
パンフを配り説明するためにテーブルを出していました。



お店の名前は「ワサビ」。
こういう名前を付けるとき、アメリカ人は日本の
実際の寿司屋などをチェックするのかもしれません。
先日、

「シェフが推薦する世界のお店」

という本の日本のページを立ち読みしたら、大阪に
「わさび」という寿司屋があることが判明しました。
因みに、この本には他にいろいろ「アメリカ人のシェフが推薦している店」
がありましたが、どれもこれも聞いたことのない店ばかりでした。



日本ではあまり見ないタイプのコンベア。
ベルトに皿を乗せるのではなく、スリットから突き出た
短いバーに皿を乗せるオレンジのステーションがセットされています。



炙りのサーモンを一つ取ってみました。
上にかかっているのは何やら辛い、唐辛子ベースのソース。

そんなものが乗っていたらワサビと喧嘩しないか、って?

ご安心下さい。当店のスシにはワサビは一切入っておりません。
店名はワサビですが。

飲み物は、と聞かれたので「グリーンティー」というと、
伊藤園のおーいお茶のボトルがそのまま出てきました。
せめてグラスに入れようよ。

そして一口。

「うーん。やっぱりすし飯は酢の味がしない」
「ほんと?」

目を丸くするTO。

いや、厳密にいうと入っていないのではなく、
日本の寿司の10分の1くらいの量であろうと思われる
酢の匂いは時々しないでもないのです。

つまり、だしを全く使わず炊いたご飯に、いきなり
酢をちょろっと入れて混ぜただけのすし飯なので、
味がまだらについているんですね。どんなだよ。



「ほんとだ。酢の味がしない」

というわけで、結局わたしたちが取った寿司はこれだけ。
あとはテリヤキボウル状のものを頼み、寿司ではないものを取りました。

写真のクロウフィッシュ、というのはザリガニのことですが、
日本ではザリガニを寿司にすることはあまりありません。

てか全くありえねーよ。ザリガニ寿司。 

「伊勢エビのことかな」
「伊勢エビならロブスターっていうでしょ。
それに、わざわざロブスターをこんな店が使用するわけがない」
「じゃ本当にザリガニ・・・?」
「試してみる?」
「いいです」

最も無難であろうと思われるサーモン炙りがあれなのだから、
それ以上に素性の怪しいネタのものなど怖くて口に出来ません。 



こういう、外側ではなく内側にノリを巻き込む形の巻き寿司は
カリフォルニアロールの流れだと思うのですが、ノリで巻いて手でつかむ、
という巻き寿司の根本的な機能を全く理解していない構造です。

細巻きとか不格好な軍艦巻きはあるので、おそらくこれは不器用なアメリカ人が
太巻きを作れないからではないかとわたしはにらんでいます。

しかも、何でもかんでも「スパイシー」と称して唐辛子味をつけてしまう。
上質のネタにあっさりと少しだけ醤油とワサビをつけて食べるのが最高、
と考えている日本人にはありえないセンスです。

おそらく、彼らの使用するネタはろくなものではないため、
そのような食べ方では生臭いネタの味がごまかせないのだろうと思われます。



エビ天を巻き込んでいるそうです。
さすがに外側がご飯というのは見てくれが悪い、
という美意識くらいは持ち合わせているのか、いちいち外側に
わけのわからないソースをかける傾向にあります。

それがかえって見た目の悪さになってしまっています。



この「カズヨロール」というのも創業当時からの謎の一つ。
なんでもいいから日本人の名前をつけてみたのか。

ロールの上部にさらにネタを乗せる豪華版。
もう、日本のオリジナル寿司とは縁もゆかりもない別の食べ物と化しています。

寿司の内部にはお約束のアボカドが必ず混入。
前にも書きましたが、アメリカ人は寿司には必ずアボカドを使います。
きっと日本の寿司にもアボカドが入っていると信じているのでしょう。



ロールの上にエビを乗せ、マヨネーズをかけたもの。
なんのつもりか天かすをトッピングにしております。
見た目も汚いですね。



いなり寿司のことをアメリカ人は「イナリポット」というのですが、
これは「シーウィード・イナリ」。
ご飯ではなく和布蕪と人参を詰めてみました。
ヘルシーなアイデアですね。(棒)



TOが頼んだミソスープ。
緑のものが浮かんでいると思ったら、メキシコ料理によく使う
シアントロが浮いていました。

「みそ汁にこんな香りの強いものを入れるなんて・・・」

絶句するTO。
シラントロは、タイ料理にもよく使われ、タイでは「パクチー」、
中国では「香菜(シャンツァイ)」英語ではコリアンダー、
日本では「中国パセリ」といったりもするようです・

香りが独特で強いので、猛烈に嫌い、という人は世の中にたくさんいて、
息子などは「頭が痛くなる」そうです。
わたしは嫌いではなく、むしろメキシカンのときにはないと寂しい、
という程度に好きなのですが、さすがにみそ汁にはどうかと思いました。



寿司は回っているのを写真に撮るだけに留め(笑)、
あきらめたわたしは何か食べられるものはないかと
コンベアを流れてきた「そば」を取ってみることにしました。

確かにそばですが、ごま油の味がします。
いわゆる「そばサラダ」という位置づけのものではないかと思われます。

日本食と思わなければ許せる一品でした。



他に食べられるものはないのか、と思ったところに
枝豆が流れてきたので取ってみました。
いくらなんでも枝豆なら日本のそれと変わるところはないだろう。

と思ったら・・・・、

塩味がしない。

ゆでただけのシンプルな調理法です。
枝豆には必ず塩をふって食べるもの、という感覚の我々には
塩がないだけでかなり異様な味に思えました。

「僕の行きつけの小料理屋さんは枝豆の皮の毛も
こすり合わせて取ってくれるんだけど・・・。
まあ、でも塩抜き案外美味しいじゃない」

どうして食べるわけでもない枝豆の毛を取るのか、おそらく
この人たちには全く理解できないに違いありません。



日本の回転寿しのようにデザートの類いも回っています。
これは中にピーナツの入った豆だと思われます。

 

スポンジケーキにクリーム乗せただけの

「マウント富士ケーキ」

 

オイシイケーキ。ってなんなんだよ。
だいたい見本と現物が違いすぎないか。



でたー。
キャタピラー・ロール
カリフォルニアロールの中身にアボカドの薄切りをのせ、
人参で触角を付けて芋虫のできあがり。

食べ物を虫に喩えると言うセンスがもう終わっとる。



マグロの刺身をこれまた唐辛子で和えたものと思われます。



「あんな人が作っているんだからしかたないね」

オープンキッチンの寿司職人、とも呼びたくない従業員の
このような人相風体を見ながらひそひそ言い合うわたしたち。



決して美味しいわけでも感心したわけでもないけど、
ある意味日本人に取ってこういう店はネタの宝庫です。

ここがまずいことを知り抜いているわたしが、初回のTOを連れて
三度目の来店をしたのも、全ては本来のレストラン選びとは
全く方向性の違う、この理由によるものです。


ところで、かねがねここのオーナーは

「中国人ではない、韓国人でもない、日本人では勿論無い、
それじゃどこの国の出身か」

と思っていたのですが、写真を見ても分かるように従業員が全員ヒスパニック。
アメリカの寿司屋では従業員を東洋系にしているのがほとんどです。



ちなみにアボカドのロールの上に割いたカニかまと、
なぜかハムをのせ和布蕪をトッピングしたのが

「タイソンズ・ロール」

2年前からあるネーミングなので、もしかしたら
タイソン・ドミンゲスとかいうのがオーナーなのかもしれません。
それならメキシカンに使うおなじみの食材が入っている理由も納得ですね。

・・じゃなくて、みそ汁にシアントロ入れんじゃねえ!(怒)