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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

三人のデブ男、大自然に挑む ”FAT GUYS IN THE WOODS”

2016-03-18 | アメリカ


1月末に多分インフルエンザにかかっているのにアメリカにわざわざ行って、
その大半を部屋で寝ていたときに見た番組を今日も紹介します。

アメリカ行きのご報告の時にもちらっと書きましたが、
三人の太った男が大自然に挑むという誰得チャレンジ番組、

「FAT GUYS IN THE WOODS」



一週間で人生が変わる、とか字幕が付いてますが、つまりは、
日頃カロリー消費量を上回るだけ食って、その結果脂肪を溜め込んだ男たちを、
厳しい自然にサバイバルさせて根性を叩き直す(たぶん)というのが
この番組のキャッチフレーズ。

以前、夏にアメリカでやっている「ネイキッド・アンド・アフレイド」という
破天荒のチャレンジング番組をご紹介したことがあります。



ネイチャー系の、ナショジオチャンネルとか、このウェザーチャンネルなどでは、
この手の大自然に挑む系が過去たくさんありました。

白髪をおさげにした男が、頼まれもしないのに山の中で穴を掘ったり蛇を食べたり、
といったサバイバルものをすっかり見慣れてしまったアメリカ人にとっても、
この、「見ず知らずの男女が一糸まとわぬ姿でサバイバル」という企画は
一大センセーションであったようです。

昨年の夏は、この人気にあやかって柳の下のドジョウを狙ったらしい
なんとも言えない不愉快な番組を見つけました。

題名は忘れましたが、最初から一糸まとわぬ姿で男女が出会う「マッチング」番組です。
海辺のロッジが一軒与えられ、そこで三人の男、三人の女がいきなり
全てを見せ合うところから始まって、さて、誰がカップルになれるでしょうか、
という、18歳以下は視聴禁止(とはなっていないのが恐ろしい)番組。


つまり「ネイキッド」からサバイバルの部分を抜いた企画です。
一応写真は撮ったのですが、あまりに下品すぎて、ここで
写真をあげて内容を説明するのは憚られる番組でした。

全部を見たわけではありませんが、アメリカのテレビ番組は
その下品さにおいて下を見ればきりがありません。 



そんななかで、この「ファットガイ」はむしろ健全すぎるくらい健全です。
普通すぎて謎です。
なぜ太った男なのか。なぜ三人なのか。


調べてみたら2014年に始まったらしいので、すでに3年目を迎えているのです。
もしかしたら夏しかアメリカにいないわたしが知らなかっただけで、
ここでは結構人気がある番組だったのかもしれません。




太古の昔、人間が狩りによって食べ物を得ていたというところから
本番組のタイトルは始まります。




食物連鎖のトップにいる人類は、今やその座に甘んじて?
肥大したお腹に悩むようになった・・・・・・・

って、そりゃあんたたちアメリカ人だけだろっていう。



「思い出すが良い。我々は打たれても立ち上がった。我々は強かったのだ。
文明に飼いならされて、すっかり牙を抜かれているものたちよ」

そして、

「カウチから降りて、ポテトチップスの脂をスェットパンツで拭き(笑)
そして大自然の声で目覚めようではないか」


と続きます。




というわけでカウチから降りてきたデブ三人。
この姿を見てわたしはたちどころに
「なぜデブなのか」だけは理解することができました。

大抵この番組は凍りつくような雪山で行われるため、
万が一のために脂肪を溜め込んで保温力のあるデブを出演させることで
番組はリスク回避というか、保険をかけているのです。(たぶん)



まず集められた三デブは、「師匠」であるナビゲーターに会うため、
ある程度の苦労をすることを余儀なくされます。

今回は、この大きな氷柱の立つような洞窟を抜けたところに、
その「師匠」がいる、と聞かされ、



立って歩くこともできない難所を越えていくのでした。
ただでさえ日頃から運動に無縁なデブたち、もうここで青息吐息です。



氷柱がまるでオブジェのように立つ洞穴の出口に人影が。
これは一体誰?



この人物が、当番組の「サバイバリスト」、クリーク・スチュアート。
クリークは、14歳の時にイーグル・スカウトになっています。

イーグルスカウトとはアメリカのボーイスカウトにおける最高位の章で、
21以上のメリットバッジ、技能賞を持っていなくてはいけません。

つまり、ボーイスカウトの中でも特別な存在です。
所持者は特別な奨学金を利用できるほか、ときには大統領晩餐会にも招待されるなど、
大変名誉とされている地位なのです。


そんな人ですから、サバイバルにかけてもプロフェッショナル。
現在、そういった自然での知恵を伝授するため、インディアナ州に
サバイバルロッジを持ち、そこで体験指南をしているそうです。

冒頭写真は番組宣伝のHPでポテトチップスに火をつけるクリーク。

ちなみに、番組中この写真のように、「サバイバル豆知識」が字幕で現れます。
たとえば「サバイバルの時にクリークはウールとレザーを着用する」とありますね。

確かに、ダウンジャケットでただでさえデブなのに1.2倍くらいに膨らんでいる

参加者に比べると、クリークは異様なくらいの薄着に見えます。
慣れているのか、他にサバイバリストならではの理由があるのでしょうか。

ところで、この斜めに着る形のスヌードというかマフラーは、
なかなか
おしゃれで素敵だと思いました。
こんなの売ってたらぜひ欲しいけど、多分手編みでしょう。



お互い挨拶が終わったあとは、これからのサバイバルについて
さんざん脅かされるというか、予告を受けます。
神妙な顔でそれを聞く三デブ。



華氏34度というのは摂氏1度のことです。
昼間でこれですから、夜には確実に零下になるでしょう。
まず常緑樹の葉のついた枝を集めて仮眠所を作ったあとは、
火を起こすことを始めねばなりません。



クリークはどんな状況でも確実に火を起こす方法をいくつも知っており、
適宜デブたちにそれを指南します。



二本の立木にかけたベルトでどうにかしてどうかすると、
木と木が人力でするより早くこすり合わせられるということみたいです。



木の幹に火を起こす木を挟み、ベルトで回転させて発火させる方法かな?



「あまり強くこすり過ぎない方法がいいよ」

などとアドバイスをしているうちに、



木切れから煙が出たので、それをおが屑のようなものに移して
みんなでフーフー吹きます。

punky wood、パンクウッドともいいますが、森の朽木から採れる
(幹を蹴飛ばしたりして採る)木屑のことをこういうようです。
簡単に火がつくので、サバイバルには欠かせません。 (豆知識による)



どうもクリークは、人に呼びかける時にいちいち「MAN」をつける癖があるようです。
もっと吹いて火を起こせ、と言っております。



やったー!
ついに火を起こして焚き火をすることができました。
「You sucker」と言っていますが、サッカー=おめでたい人、と、
ふうふう吹く、の反対で「吸う」をかけているのかと思われます。
日本語に翻訳しても何が面白いの、ってことになってしまいますが。 



さて、次はお待ちかね、何かをお腹にいれる時間です。
これまでカウチポテトしてきた歴代のデブたちが、この番組で食べさせられたのは

大カブトムシの幼虫
木のラーメン:トナカイモス(ハナゴケ)
フクロネズミ
ローストしたミツバチ
野兎
どんぐりの粥
皮をむいた蛇
アヒル
エルサレムアーティチョーク
ウズラ
ガマガエル
ワイルドベリー
ローズヒップベリーティー


まあ、全然オッケーなものもたくさんありますよね。
特に最初から料理されていさえすれば。

問題は自分でそれを獲って、殺した獲物の皮を剥いで、
焚き火で炙ったりするというそのプロセスにあります。


今回、カウチポテトの代わりに彼ら三デブに与えられた
自然の中の食べ物とは、なんだったのでしょうか。


後半に続く。 

 

”アーレイバーク提督記念食堂”で昼食を〜横須賀米海軍基地見学

2016-02-26 | アメリカ

わたしの所属する防衛団体のひとつから、ある日お知らせがきました。
真っ先に目に飛び込んできたのは、 

「ロナルド・レーガン見学」

の文字。
横須賀米海軍基地と海上自衛隊第2術科学校での研修見学企画で、
なんとメインは空母「ロナルド・レーガン」に乗艦見学をする、とあります。
昨年、RRが一般公開されたとき、わたしは観艦式で海の上にいたのですが、
もし日にちが違っていれば是非一度見たいと思ってはいたのです。

しかも、一般公開とは違い、今回はRR広報が説明してくれるというではありませんか。
喜び勇んで申し込み、当日を楽しみに待ちました。

待ち合わせは横須賀駅前。
高齢者が多い団体ゆえ、以前参加した横須賀基地見学のように、横須賀駅から
延々とヴェルニー公園の説明をしながらドブ板経由で歩いて行き、
広い基地内を全て徒歩で移動、という無茶はせず、バスを1台チャーターし、
中での移動も全てそれで行うというお大尽企画。
最後の懇親会まで含めて2食お酒付きで参加費一人1万円なら安いものです。


わたしは夜の懇親会会場になったホテルに最初から車を停め、タクシーで
きっちり海軍5分前に集合場所に向かいました。
駅前に停められたバスに全員が乗り込んだところ、ちょうど満席となる盛況振りで、
いかに防衛関係者のRRに対する関心が高いかがうかがえました。
後でお話しした方は福岡からわざわざこのために飛行機で来られたそうです。


参加にあたっては、

国籍がわかる身分証を必ず持参すること(運転免許はダメ)

スカート、ハイヒールは禁止

ドルが使えるので持ってきてください

ということが前もって事務局から告知されていました。
まさか軍艦に乗るのにハイヒールスカートで来る人はいないだろう、
というのは普通の人の考えですが、あとで事務局の人に聞くと、

「これだけ言ってもたまにそのどちらかで来る人がいる」

ということでした。
空母だから階段も広くて「ひゅうが」みたいにエレベーターに乗れるかも?
という甘い考えなのか、それとも自分だけは大丈夫だと思うのか。
このことが話題になったとき、周りのおじさんたちが、

「この間の観艦式でもミニスカートにハイヒールの女の子を見たけどさ」

とぷんぷんしながら言っていましたし、わたしもミニスカートではないけど
タイトスカート(階段の上り下りがさぞ大変だったことでしょう)一人を目撃しました。

本人が現場でどれだけ苦労しようと自業自得ではありますが、防衛団体としては
それで下手に転んで怪我でもされたら大変ですからね。
(と、ハイヒールでもないのに掃海艇の上で転んだわたしが言っても説得力なし)

バスは、米海軍基地のゲートの前で一旦停止。
そこで日本人の警衛係が乗り込んできました。

「このゲートの写真と、警備の隊員の写真は撮らないでください」

注意が入った途端、まわりから、

「あ、撮っちゃった」

という声が上がりました。
SNSやブログにあげたりしなければ、ってことだとは思いますが・・。


その後、バスの中で全員の身分証をちゃんと名簿と照らし合わせて確認し、

一人一人に「チェック済み」のシールを、体のどこかに貼るように渡されました。
これがないと、即追い出されても文句は言えません。(たぶん)
ちなみに、ゲートを出るとき、このシールは全員から徹底的に回収されました。



余談ですが、一度、民主党政権下ならではの「フィーバータイム」で、
なんと中国人記者が横須賀基地に入り、「ジョージ・ワシントン」の取材をした、
という前代未聞の出来事があったのをご存知でしょうか。

日本人であれば、厳しいなりにフリーパスで入れる米軍基地ですが、
これが中国人となると、
そもそも入ることを許されていません。
にもかかわらず、このときは民主党議員の口利きで
(誰だよ)
史上初、中国人が中に入り取材することができたのです。


このときの記者が書いた記事は検索したら出てきますが、それによると、
どうやらこのとき応対した米海軍の広報官は、中国人記者につきっきりで
一挙一動を監視し、(そうだろうなあ)ついでに、


「中国はなぜ洋上で拡張しなければならないのか。
中国の軍事力強化は、『ミドル・キングダム』が過去の朝貢システムの再建を
望んでいるのではないかとの疑念を呼んでいる。
そして西太平洋での米軍の最も根本的な任務は均衡の維持だ」

などという挑発(?)を行い、この記者を怒らせています。


さらには、

「英国など欧州諸国も同様に中国を侵略したのに、
なぜ中国は日本の侵略ばかりいつも頭にあるのか、私にはわからない」

と嫌味を言い(笑)
尖閣諸島については「この問題をめぐる両国間の言い争いは米国には関係ない」
とする一方で、極端な衝突が起きた場合に米国が巻き込まれるか否かについては、
「個人的にはそうだと思う」と述べて、記者をさらに挑発しています。


おそらく第7艦隊関係者は、「今度の日本政府は敵国人を潜入させやがる!」

とそのとき内心苦々しく思ったにちがいありません。
日本人が思う以上に
アメリカは中国をはっきり「敵」だと認識しているのですから、
自分たちがここにいるのがなんのためかわかってんのかよ、とその議員とやらには
文句の一つも言ってやりたかったのではなかったでしょうか。



というわけで、見学のときに日本人であることを確認するのは、当然のことです。

中国人を入れないために、とにかく入れるのは日本国民だけ、
と線引きをしておかなくてはいけないので、当然在日朝鮮人も入れません。



さて、そんなチェックに散々時間をかけ、バスは基地内に入りました。
前回結構な時間をかけて歩いてきたこのオフィサーズ・メスも
バスならあっという間に前に着いてしまいました。
ありがたやありがたや。

士官用飲食施設は

「アドミラル アーレイ・バーク コミッションド オフィサーズ・メス」

といいます。

このcommissionedは「委託された」の意でしょうか。 

大西洋艦隊駆逐艦隊司令官として日本に赴任中、自衛隊の創設に
尽力して日本政府から旭日勲章を送られたバーク提督の名前を冠しています。




接収後、もともと横須賀鎮守府敷地内にあったこういう「碑」の類を
何でもかんでも壊してしまうほどアメリカ人、特に米海軍は野蛮ではありません。

昭和16年に皇太后陛下(昭和天皇の母上)がご行啓されたときの
記念碑はかつてのままに姿をとどめています。



方位版には「サイパン」「パラオ」など、日本領の名前が見えます。
「ワシントン」を「華盛頓」などと書いてあるのは、日本の風習である、
という説明と共に、外側の英語表記部分は、1983年にどこかから「アーレイバークメモリアル」の
前に移転させたときに、わざわざ製作したらしいことが説明に書かれています。



前の基地見学の際には、ここも外から眺めるだけでしたが、今日はなんと!
中で食事ができるというではありませんか。
建物の中に入れるだけでも、今日は来た甲斐があったというものです。



アメリカの街角(大抵バス停の横とか)にはこんなスタンドがあって、
お金を入れるとドアが開いて、一部取るようになっています。
実は一回ドアを開けたら一部と言わず、中にある束を皆持っていけるのですが、
さすがに文明国のシステムなのでそこは良心に任せているようです。



扉を開けてすぐ、一階の大きなホール。
岩国もそうでしたが、和風のパーティションなどをあしらったりして、
そこここで日本の基地らしさを演出しています。



こちらはお昼で営業していませんでしたが、スポーツラウンジ。
大型のテレビが設置され、それで野球やフットボールの試合を見ながら
ビールを飲むのが、アメリカ男の楽しみでもあります。
当ラウンジはその名も「クロフネ」。
かつて自分の先祖が「クロフネ」に乗ってここ横須賀の浦賀に来たことから、
現在の日米関係に至り・・・などとは誰も考えたことはないと思いますが。



オフィサーズクラブ特製の保温ボトル、マグカップなどもあり。
また、当クラブは、太平洋地域での「ベスト・オフィサーズクラブ賞」を
取っております。



横須賀基地司令官であるリア・アドミラルと、自衛隊の海将の皆さん。
右下右から2番目「ヒロシ・ヤマムラ」バイスアドミラル(海将)は、護衛艦隊司令とあります。
その右が潜水艦隊司令の道満海将、山村海将の左は堂下横須賀地方総監。
左は顔も名前も写りませんでしたが、おそらく重岡自衛艦隊司令でしょう。

両軍の将官の写真の撮り方を見ても、全く文化が違うという気がします。
アメリカは「とにかく笑う。歯見せは基本」「袖は必ず見せる」
「かならず国旗と海軍旗をバックに撮る」。

歯はともかく、海上自衛隊も自衛艦旗と国旗をバックに写してはどうか。



会場は二階でした。
各ホールの前には、このようなハンガーが設置されていますが、
ほとんど全員が軍帽を置くため、帽子置きの付いた特別仕様となっています。



「キャビンルーム」と名前の付いたホールのドア。



会場のデコレーションは、季節を先取りして桜(の造花)。
というか、年がら年中これなのかもしれませんが。
造花の花活けに添えられた白い石にもそこはかとなく香るジャパネスク・・・。



一人一人のテーブルにはちゃんと形を整えたクロスナプキンが。
テーブルクロスのブルーは海軍施設ならではです。



食事はバッフェ方式で、並んでお皿に取ります。
わたしは最後の方に並んだので、他の人が食べながら「これ硬い」と言っているのを聞き、
ビーフを避け、メインはチキンだけにしました。

お味は、アメリカの平均的なこういうバッフェから見ると上の方ではありました。



案外いけたのがこのデザート。
アメリカ軍人も日本に来ると甘さ控えめを好むのか、
左のムースと右下のミルフィーユを頂いてみたら意外なくらい普通でした。

ここでの昼食時間は1時間と15分取ってあり、食べ終わった後も同じテーブルで歓談し、
ゆっくりと過ごすことができました。

ところで、この中のお手洗いに行った時に思ったのですが、岩国基地のように
ここも、どこにいっても「アメリカの匂い」がしました。
使っている洗剤やペーパー、食べ物のせいで、日本にありながらそこはアメリカでした。



食事が終わって外に出る前に、1階の「アーレイバークコーナー」を見学。

バーク提督の名前は「アーレイ・バーク」級ミサイル駆逐艦に残されています。
「こんごう」「あたご」の設計思想にインスピレーションを与えた艦でもあります。
先の観艦式には、この39番艦の「マスティン」が外国招待軍艦として参加しました。



ゆかりの品、写真などが飾られたガラスケース。
中段右はしのペッパーミルに見えるものは、ペッパーミルです。
誰から寄贈されたということしか書かれていないのですが、
バーク提督愛用のミルだったのでしょうか。



右上の賞状は、バーク提督が士官候補生の時のディプロマ。
右下は、奥さんのボビーさんと浜辺で撮ったらしい写真。
なんか二人揃って妙ないでたちですね。

念のために調べてみると、こんな画像が見つかりました。



海藻巻いて遊んでたみたいです。
っていうか、バーク提督の顔が真剣すぎて怖い。



さて、お昼ご飯を食べた後は、いよいよ「ロナルド・レーガン」見学です。

続く。




 


「イントレピッドの使命」〜イントレピッド航空宇宙博物館

2016-02-20 | アメリカ

ニューヨークの「イントレピッド航空宇宙博物館」見学記です。

「イントレピッド」は空母なので、艦載機をハンガーと甲板の間を上降させる
エレベーターが、中央に2基、舷側に1基ありました。



これが舷側のエレベーターをしたから見たところ。
我が海上自衛隊は空母を持っていないので、「いずも」型に
舷側外付けエレベーターが搭載されたくらいで「おお〜!」などと
驚いてしまうわけですが、アメリカの空母にはふっつうーにこういうのがあるわけ。

「いずも」の外付けEVを見た後だと、その大きさにびっくりだ。
まあ、これで甲板にブラックバードなんかも運んでしまえたわけだから、
(もちろん運用していたわけではありませんが)当然ですね。

 

こちら甲板のエレベーター。
見学者を乗せたまま今下降しているところですが、これは
まだベトナム戦争も真っ最中の1971年に行われたイベントです。

アメリカというのは、イラク戦争の時にアメリカにいたわたしに言わせると、
戦争というのは「いつも遠くで思うもの」だと思っているようです。
軍関係者とその家族しか「戦時中」を実感せずにすむ国なんですね。

何の目的で空母の見学をさせているのかわかりませんが、
「イントレピッド」自身がベトナム戦争に参加していることを考えると、
余裕があるというか、呑気に見えて仕方がありません。

おそらく、日本と戦争していた時もこんな感じだったのでしょう。 



エレベーターの使用例その1。
少しエレベーターを下降すれば、バレーボールコートとして使えます。
これならボールが海に落ちて試合中止というようなことにもなりません。

この写真が撮られたのは大戦中だそうです。



ちなみに使用中には途中で止めます。
なぜ下まで降ろして使わないのかは謎です。



「The equator ceremony」とは日本海軍的に「赤道祭り」のことです。
この写真が撮られたのは1960年代のことだそうですが、上の写真のように
4分の1だけ下降させたところで止めた「ステージ」で何か赤道祭りの出し物が
行われているのを、兵員たちが甲板レベルから覗き込んで見ています。



エレベーターステージ使用例その2、音楽のステージ。
アンプやマイクの電源も普通に利用できます。

このギターのアフリカ系、たぶん上手い(確信)

 

エレベーターステージ使用例その3。
ロープを張ってボクシングのリンクの出来上がりー。

そういえば、映画「パールハーバー」で、戦艦ウェストバージニアで行われた
ボクシングマッチのシーンがあったのを覚えていますか?
真珠湾攻撃の時、機銃を掃射しまくって黒人初の海軍十字章が贈られた、
ドリス・ミラーという黒人兵をキューバ・グッディング・Jr.が演じていました。


この試合で優勝し、ウェストバージニアの艦長(つまり雲上人)に「我が艦の誇りだ」
と言葉をかけられたミラーは感激して涙ぐんでいましたっけね。

黒人が人権を持たなかった当時、海軍では本当にこんな・・・?



さて、このように使いでのあるエレベーターステージですが、「イントレピッド」が
博物館として最改装されたとき、ちょうど艦首側のエレベーター部分を
大幅にリノベーションして、そこに視聴覚室(オーディトリウム)を作りました。
立ち入り自由でいつもテーマに沿った映像が繰り返し放映されています。



アメリカらしく、いくばくかの寄付をすれば、例えばこの椅子の背中に
名前とちょっとした言葉を刻んで名前を残すシステムがあります。



カリフォルニアの「ホーネット博物館」もそうでしたが、艦内のファシリティを
バースデーパーリーのために借りることができます。



結婚式のパーティを「イントレピッド」でやる人がいるのか?という気もしますが、
もしかしたら海軍軍人・・・・・とか?

 

 「OPARATION SLUMBER」。
「お泊まり大作戦」って感じですかね(笑)

「イントレピッド」では艦内でスリープオーバー(お泊まり)するという
イベントも行われています。
「ホーネット」では兵員用のキャンバスベッドなどで寝て、朝になったら
ギャレーで作られた朝食を食べてクルー気分を味わうこともできます。


さて、こんな「宣伝」が終わり、本編が始まりました。



映像はいきなり日米開戦から始まりました。
「surprise attack」が「sneaky attack」でないのにほっとしたりして。
こういう表現には非常に神経を尖らしているわたしである(笑)



えーと、これは日本側の映像?



当時の号外には、真珠湾で戦艦が二隻喪失したとあります。
実際は沈没した戦艦だけでも4隻でしたし、これどころじゃなかったのですが。



続いては「カミカゼ」による攻撃を「ニューウェポン」と紹介。
なんか違うなどころか日本人としてはぜんぜん違うやないかい!と突っ込みたいくらいです。
ちなみに、日本では「特別攻撃隊」という名称だったことを説明しております。



米海軍全艦艇中最多の特攻隊の攻撃によって多くの戦死者を出した「イントレピッド」。
特攻隊の存在はあまりに大きなものだったことは、先日お話しした
「カミカゼ体験」でのあれこれに現れていましたが、ここでもやはりそれを強調しております。



ここで、映像では「カミカゼ体験ショー」よりは踏み込んだ表現として、
特攻隊の側からのアプローチを試みています。

「彼らは自分の愛する人々を守るために特攻に行きました」

アメリカ側の制作した媒体でこのような直截な物言いをしたものを見たのは
わたしの狭い知識においては初めてのような気がします。

と思ったらこの字幕は日本語の翻訳で、



陸軍パイロットだった苗村七郎氏が特攻隊について語っているのでした。
苗村氏は 対戦末期の沖縄戦で、万世陸軍特攻基地において特攻隊員だった人物で、

「至純の心を後世にー陸軍最後の特攻基地・万世」

という著書も表しています。
書評のところで知ったのですが、氏は2012年11月逝去されました。



「イントレピッド」の水兵と航空隊は、301機の日本機を撃墜し、
122隻の艦船を撃沈した。ということです。

カミカゼ体験ショーのエントリで、イントレピッドの特攻隊による攻撃で
何百人もの将兵が死亡・重傷を負ったことを書きましたが、それについては
案の定触れずに終わってしまいました。 



「イントレピッド」は50年代に再就役し、その際、攻撃空母(CVA-11)に艦種変更され、
朝鮮戦争に参加しています。

その後、対潜水艦作戦支援空母(CVS-11)に艦種変更されました。



1965年にはジェミニ計画の支援につき、大西洋上で着水した宇宙船ジェミニ3号を回収しました。
ここにはマーキュリー計画への参画も書かれていますが、こちらは調べてもわかりませんでした。



ベトナム戦争での支援も行っています。
三次にわたって兵団をベトナム湾岸まで輸送しました。



多分地雷のことをお話しされているのだと思います。
ベトナム帰還兵。



この人も。



イントレピッド艦上で行われた海軍葬。
遺体が一体ずつ色鮮やかな星条旗で包まれています。



エンディングに登場、アリゾナ州代議士ジョン・マケイン。
 The Honorableとは衆議院などに用いる敬称です。



イントレピッドの使命とは、

「我々の英雄たちを顕彰する」

「一般に対する周知を深め、若者の啓発を行う」

ってところですか。
戦争に参加したもの=英雄たちを讃える、ということが
普通に言える国が、羨ましい。なんてね。



続く。



 


アメリカで寝てきた

2016-02-04 | アメリカ

といっても差し支えないくらい、今回の滞在は悲惨でした。
そもそも渡米直前にディズニーランドで風邪をもらい(この風邪も
目の前を通った子供が口を覆わずに嫌な咳をした瞬間、あ、今うつったな、
とはっきり分かった)、それが発病したのが出発前日。
明らかに高熱が(しかも計らなかったけど38度以上)出ているのに
よりによってユナイテッドのプラスクラスとはいえエコノミー、
夜中の12時過ぎに出発という踏んだり蹴ったりな旅程です。

そもそもマイレージ特典の期限が近づいていて使うためというのが目的の一つ。
1月中に使わないと西海岸2往復分が失効してしまうと思っていたので、 
ここしかないという日にわたし一人で渡航する予定を立てたのですが、
後から考えたらマイレージを購入でもすれば期限は伸ばせたのよね・・・。


まあ、行くなら行くで用事もあることだし、程度の理由だったので、
この体調不良は気は楽だったけどとにかく堪えました。



サンフランシスコ空港から車で10分くらいにあるマリオット系のチェーンホテルで、
ベッドはキング、部屋はリクエストで一階にしてもらいました。
多少なりともまともなホテルで良かったと思ったのは、ベッドのシーツが良かったことです。

特に着いてすぐの夕方から翌日の夕方4時まで、ほとんどをこのベッドの上で
わりと苦しみながら寝たり起きたりを繰り返していた病人にとっては、
シーツが安いホテルのザラザラしたものでない、エジプト綿のツルツルであっただけで
この綿の肌触りには救われたという感じでした。

少し元気になってからは、当ブログに上げるためのエントリを添削しながら
テレビを見ていましたが、前回にはなかった新番組もできていました。
やはりサバイバルものですが、全裸の男女では冬場に見たくないという声でもあるのか、
三人の太った男がインストラクターと一緒に限界にチャレンジするというものです。
(誰得)



元気になってから、ホテルにちゃんとしたレストランがあることに気づき、
夕ご飯を食べに来てみました。
まだ5時でオープンしたばかりなのでわたししかいません。
テレビではウィンタースポーツの放映をしていましたが、



合間にアメリカ海軍のかっこいいコマーシャルをガンガンやっていました。
テレビで自衛隊の宣伝ができるようになって初めて普通の国よねえ、
とこんな広告をみながらわたしは思うのでした。

ところでこの地図って、日本が完璧に字の影に・・・(怒)



こんなものしか食欲がわかなかった、チャイニーズチキンサラダ。
こちらで言う所のこれとは、甘い酢のようなドレッシングがかかった
チキンサラダのことで、必ずナッツや揚げた「揚げ」などのパリパリする
ものが歯ごたえのために混入している、という代物です。

他に何も食べていなかったのでゆっくり咀嚼しながらそれでも4分の3は食べました。
(だいたいアメリカで出てくるものをわたしは全部食べられた試しがない)
決しておいしいとは言えませんでしたが、体力をつけるためには食べなくては。

三人の太った男のサバイバルで、インストラクターに言われて体力温存のために
無理やり虫を食べさせられて

「うええええ!これまずい!ゲロマズ!」

と唸っていたおっさんの姿がなぜか浮かびました。



今回はレンタカーにもトラブルがありました。
着いてみると予約しておいたはずの車、ありません。
あとからわかったのですが、夜中の12時過ぎに出発してアメリカ時間の前日夕方到着、
という変則便だったため、TOがレンタカーの予約をカード会社に頼む際、
間違って1日あとを予約してしまったのです。

「明日の夕方からなら車借りられますが」

とデスクは言うのですが、この体の状態で明日生きていられるかどうかもわからないのに
わざわざタクシーで車を借りに来れるかどうかさらに自信がありません。
しかも、今日借りられるクラブメンバー枠の車はもうない、と係はぬかしやがります。

背に腹は変えられん!と割引のない車を借りて、次の日、熱をおして
もともとの予約の車に交換に来ました。

長くもない滞在でまったくなにやってんだか。



しかも翌日からずっと雨の降りっぱなし。
夏の間の記憶しかもはやない息子に雨だったというと「へえ!」と
驚いたくらい、夏の間雨の降らないのがカリフォルニアですが、
この時期は雨期でもあるので、結構な確率で雨に遭遇します。
サンフランシスコに住んでいたある年のクリスマスには、
すごい大雨の上台風が来て街路樹が倒れたこともあります。

とにかく、寝ているばかりで日程が終わってしまっては死んでも死にきれないので、
わたしは3日目にして初めて外に出ました。
これも目的の一つである、友人の店に行くためです。

彼女はわたしが日本に帰ってから知り合うようになったコンサイメントショップの
オーナーで、去年の夏行くと、

「来年の3月にはリタイアしてフロリダに行くからこれでお別れね」

と言っていました。
そのときはグッドラック、といって別れを惜しんだのですが、メールが来ていたので
リタイア前に買い物に行ってあげたらさぞ喜ぶだろうな、
と思いついたのが、今回の旅行のもう一つの理由になりました。

電話もメールもせずいきなり現れたわたしに、彼女は驚きながら喜んでくれました。



「かぜなの?辛そうね」

うつしてはいけないと直前にドラッグストアにマスクを買いに行くと、
この50枚入りの大箱しか売っていませんでしたが、(これがアメリカ)
とにかくマスクをして入店すると、

「いい心がけね。みんな風邪ひいてるけどマスクしないの」

確かに店内で盛大に咳をしているひとがいる・・・(−_−#)
しかし日本人と違ってアメリカ人はほんとマスクしませんな。
もしディズニーでもらっていなかったとしても、彼女の店でうつってたと思う。

最後のご祝儀買い物という意味もあって、わたしが最後に選んだのは
新品のヴィトンのヴェルニ、シャネルのジャケット、ロロピアーナのワンピース。



旅行鞄以外のモノグラムのバッグは好きではないので一つも持っていませんが、
このヴェルニタイプならエンボスだけで色は単色。
深い深いバーガンディが最近のわたしの「トレンド」なのでピンときました。
今までに彼女から買った幾つかの洋服やバッグとともに、これからも
彼女の思い出となってわたしと一緒に年を取ってくれるでしょう。

ところで、この店では買い物しながらあれこれとおしゃべりするのが楽しかったのですが、
今回わたしは気になっていたことをアメリカ人の代表として彼女に聞いてみました。

「ねえ、ちょっと聞きたいんだけど、アメリカ人ってドナルド・トランプの事どう思ってるの?」

「トランプ?」

彼女は肩を震わせてイヤイヤをするような仕草をしながら「Ewwww!」と叫び、

「嫌だわ。大っ嫌いだわ。この辺の(サンフランシスコ市内)人だって
誰も支持してないのに、一体アメリカ人の誰が支持してるのかさえわからない」

「実際誰が支持してんだろう」

「そりゃ、頭の悪い人たちとか黒人やヒスパニックじゃない?」

「でも移民反対してなかった?」

「これから入ってくるのはね。今いるのはもう関係ないし」

まったく話に加わっていなかった他のお客さんも怒り出しました。

「本当にあれがアメリカの次の大統領になったらアメリカはもう終わるわ。
だいたいねえ、あのヘアがキモいのよ!!!」

予想通りの返事です。

「日本では、もしあれが大統領になるようならアメリカ人はバカだなって言ってるよ」

「そうでしょ?ああなんとかしてやめさせたい。
つい昨日もね、サラ・ペイリンとのディベートから逃げたのよ。勝てないから」

「ヒラリーはどう?」

「もちろんトランプよりはマシだし、頭もいいけど、あの女は嫌い。
あれが知り合いだったらできるだけ口聞きたくないレベル」

そういえば車のステッカーに

「もし妻がヒラリーだったら俺だってクリントンと同じ事をする」

と書かれていたのを見た事があるなあ。
いわゆる悪妻の見本ってやつですか。

しかし、トランプはきっといろいろとスキャンダルもあるはずなのにまったくそれが
出てこないのは不思議なくらいで、つまりメディアの応援も、得体の知れない支持層も、
すべてお金を持っているから、と皆は諦めているということみたいです。

いいのか。そんなやつが大統領になって。




今日は帰る、という日、サンフランシスコは素晴らしいサンフランシスコ晴れでした。
初めて室内プール付きのこんな庭のあるホテルであることを知るわたし。



目的のもう一つ、改装相成ったアップルストア(本社)に行ってTシャツを買う。

前日「明日息子に頼まれているのでアップルのシャツ買いに行くんだ」
というと、彼女が

「あーわかる、わたしも頼まれるのよねー。
ただのTシャツなんだけどなんで?っていうんだけど、なんかみんな欲しがるの」

まあ、世界のどこにもアップルストアはありますが、Tシャツを売っているのが
世の中でここだけだからでしょうな。



一昨年前までの方がサイズもデザインにもバリエーションがあったのに・・・。
各Tシャツの背中には「ワン・インフィニティドライブ」の住所入りです。



グッズももっといろいろ面白いものがたくさんあったのに、改装後は
ほとんどなくなってしまって、一体何のためだったのか・・・。



アップルの改装には少しがっかりしてしまいました。
今回、わたしがいた頃にはスーパーボウルが行われていたようです。



少し早めに空港に着きました。
チェックインゲートの前のコーナーでは、日本の民芸品を展示してありました。
元気なら見て回りたかったのですが・・・。



招き猫が「Beckoning Cats」であることを初めて知ったサンフランシスコ空港。



今回の目的の(なんだかいろいろと目的があったのね)もうひとつ、
サンフランシスコ空港に新しくできていたカードラウンジに行ってみること。
今回のように病気にもかかわらずクラスラウンジが使えないというときも、
とりあえずここさえあればある程度の食事と休憩場所が得られるので貴重です。

 

ターミナル3という国内線にあると聞いていたのでどう行くのか謎でしたが、
チェックインの時にカウンターの親切な黒人のお兄さんに聞いたところ、
インターナショナルGとターミナル3は廊下で繋がっていると教えてくれました。

「あのラウンジはとてもいいよ!楽しめると思う」



受付ではカードを見せるだけで、アメリカでは信じられないくらい丁寧に

「いつも当社のご利用ありがとうございます」

と三つ指付かんばかりのにこやかさでお迎えいただき(笑)、
お酒ならシャンペンでもなんでもお好きなだけお楽しみいただけますし、
WiFiはお使いになりますか?でしたらパスワードはこちらです、と
至れり尽くせりの(アメリカにしては)サービスの良さ。



さすがに寿司職人はいなかったけど、いつも温かいスープやキリッと冷えたサラダが食べられると。



スープはとても美味しかったですが、他のものはこれも「アメリカにしては」
という注釈付きのお味でした。



トイレタリーはTOTOだ!
これは褒めてつかわす。



もっと早く来てここにずっといてもよかったかな、というくらい居心地は良かったです。
ちなみに窓ガラスの下は第3ターミナル。



壁にはトニー・ベネットの録音の時のフォトが飾ってありました。
何の録音かって? もちろん!

「I Left My Heart In San Francisco 」



さようなら、サンフランシスコ。またすぐ帰ってくるよ。
今度はもう少しマシな状態で(笑)


 


車上から撮るサンフランシスコ

2016-02-01 | アメリカ

というわけで、サンフランシスコからなんとかかんとか帰ってまいりました。


住んでいた時期も含めて毎年月単位で過ごしている町なので、すっかり

第二の故郷のようになってしまっているこの土地ですが、
同じアメリカでも随分特異な土地柄であると思われているようで、
いつ行っても、とくにベイエリアはアメリカ人観光客だらけです。

今日は、移動する車のフロントガラスを通じて見たサンフランシスコ、
という限られたテーマでお送りします。



ゴールデンゲートブリッジを後方に臨むハーバー横の車道。
この右側前方には芝生の緩衝地帯が広がっており、ここでよく
テレビや映画の撮影が行われています。
たくさんのヨットのマストが林立していますが、坂の途中に住み、
ハーバーに自分がオーナーであるヨットを持つのが、サンフランシスカンの
一つのステイタスでもあります。

自転車のほとんどは観光客向けのレンタサイクルのようです。



ご存知チャイナタウン。
昨今サンフランシスコも中国人の観光客が増えておりますが、なぜか
中国語が通じるチャイナタウンに押し掛けたりするようです。

サンフランシスコのジャパンタウンというのは、単にモールの名称ですが、
チャイナタウンは名実ともにそこに中国が展開している居留地です。
チャイナタウンはGGBのようにサンフランシスコの名所?ではあります。

桑港のチャイナタウンって言う渡辺はま子の歌もありましたし。



でも、いまも、そして多分昔もチャイナタウンってこんな歌の中身みたいな
ロマンチックなところじゃないのよね。

建物は西洋風なのに生活様式が中国な人たちが街並みを作り上げ、

歩道は得体の知れない油で黒ずんでベタベタしているし、変な匂いはするし、
町を歩けばレストランの客引きがよってきてうざいし、下手すると
バッグに後ろから手を突っ込まれそうで、(偏見じゃありません)
わたしたちは住んでいる間、そして日本に帰ってからを通じて2度しか来ていません。

そのうちの一度、店の漢字の看板でわかったのですが、どうもここでは
中国元が堂々と流通している模様(笑)



カリフォルニアストリート、というのはサンフランシスコの坂で最も有名な、
「ケーブルカーが空へと登っていく」という歌でも歌われた坂がありますが、
このフェアモントホテルは、その坂の頂点にあります。
今回、この道向かいにあるインターコンチネンタルが安かったのですが、
女性一人でダウンタウンに泊まるのは何かと危険があるため、あえて空港近くにしました。

結果、今回のホテルは空港近くのオフィス街(隣がウォルマートの支社)で、
夜中の三時でも飛行機の爆音がする以外は大変良い環境。
朝の5時に火災警報で叩き起こされた(本当に火事だったらわたしはたぶん
肺炎か何かになって死んでいたと思う)以外は何の問題もないそこそこのステイでした。



フェアモントホテルを過ぎると、ここから急激な坂が始まります。
真ん中にケーブルカーの線路がありますが、雨の日にこの上を走るのは
スリップしそうで無茶苦茶怖いです。

 

左手に見えるとんがったビルが、SFのランドマークともなっている
トランスアメリカ・ピラミッド。

駐車している車の前輪が皆右側に向いていることにご注目。
坂道に止める時、サンフランシスコでは必ずハンドルを路側帯に向けて切り、
万が一車が動き出すことがあっても敷石で止まるようにしておかなくてはなりません。

これは東から西に移住する時に受けなおした自動車免許(アメリカの免許は州ごとに
別の交通法規があるので受け直さなくてはならず、それが州民のIDにもなる)の
取得試験で出される問題になるくらい有名な、SF市の法律になっています。

わたしもこれは合理的だと思うので、坂道に止めるときにはいまでも実行しています。 





道の左手にはチャイナタウンのゲートでもある建物が見えます。
茶色い建物の一階に確か東洋人経営のコインランドリーがあって、

家探しの旅行中利用しましたが、ひでえところでした(笑)

断じて思いますが、アメリカ人の持っている「東洋人は綺麗好き」

「だからクリーニング屋」というイメージは、全て戦前の
日系アメリカ人1世が額に汗して作り上げた実績を中韓系が戦後
横取りしているだけで、彼らの衛生観念なんて、居住地を見れば一発でわかります。



いきなりゴールデンゲートブリッジの写真。
橋を渡り、パーキングから橋とサンフランシスコの街を眺め、(夏でもたいてい寒い)
降りたところでUターンしてもう一度渡って帰ってくる。
観光客のほとんどはこのコースで GGBを観光します。



この日は(上とは別の日)、霧が濃く、ブリッジの上半分が全く見えませんでした。



もう一度ダウンタウン。
左にチラッと見えるのが通称バンカメ、バンクオブアメリカンビル、
向こう側はちょうどケーブルカーのターンテーブルの前のビルで、
格式高く見えますが実はショッピングモール。1階はGAPだったりします。




この手のお店についての事情は全くわかりませんが、なぜか
「マッサーヂ」という日本語があるので、経営者は間違いなく
日系ではない(中華系かコリアン系)であると思われます。

ホームページによると、

美しくて素晴らしいプロフェッショナルのアジアンガール(コリアン、
タイ、ベトナム、チャイニーズ、ラテン)があなたをお待ちしています。
ここから(ログイン)女の子を指名できます。

ってことなので、本当にマッサーヂなのかまた別の話なのかは
さっぱり見当がつきませんが、とにかく日本人がいないのはわかった。



基本的にアメリカの大都市のダウンタウンは皆こんな感じ。
100年越えの古いビルを中だけリノベーションして使い続けたり、
そうかと思ったら超近代的なオフィスビルがその横に屹立していたりします。

地震のある地域ですが、日本のようにビルをしょっちゅう壊すことはせず、
建築にも厳しい規制があって、景観を重視しています。



今回病気を押して出かけた時の「車上ショット」。
道向こうの建物の一角が、昔住んでいたことのあるタウンハウス。

外国人で現地の慣習や近所付き合いについての作法も知らない身には、
そういった住人の多い賃貸式のタウンハウス(その町全部が同じ業者の賃貸で、
町の中には公園やグロッサリー、住人なら無料のジムやパーティルームがあり、
一軒家か高層住宅かも好みで選べる)はありがたかったです。



夏の間サンフランシスコ市内で息子をキャンプに行かせていた頃は、
この中の業者刈り上げコンドを月単位で借りていたものですが、
ちょうど今映っているところにも一夏住んだことがあります。

懐かしいなあ・・・。

このタウンハウス、向かいに今でもゴルフ場があるのですが
(わたしもTOもゴルフと無縁なので意味なかったのですが、もしやるならば
値段的にも毎朝ジム感覚で通えるくらい安かったらしい)
昔この部分もゴルフコースだったのを、1940年住宅地にしたということです。

全米で2番目に大きな一所有者のもつ賃貸地域のコミュニティということです。

Parkmaced, San Francisco

ここも、サンフランシスコへの移転が決まって家探しに来た時、
わたしが車を走らせていてふと直感が働いて決めた住居でした。
ちなみに今住んでいる家も、わたしの直感で決めたものです。
自慢ではありませんが、わたしのこういう住地を決める際の直感はわりとあたります。



サンフランシスコには南に向かうフリーウェイ、108と280が二本並行して走っており、
これが通勤や輸送、移動の動脈となっています。
こちらは280で、海岸寄りの山中を走る道。
こちらの方が空いていることが多いので、シリコンバレーから空港に向かう時には
急がば回れで確実なこちらを使います



今回のサンフランシスコ滞在は雨季のため雨が続いたのですが、
帰る日にはとてもいい天気になりました。
いわし雲と夏雲が一挙に出てくるという妙な気候です。

こちらは101ですが、反対車線は大事故が起こっていて、
片付けが済むまで大変な渋滞だったようなので、このときも
空港へは280で向かいました。


今回の滞在についてはまた別項でご報告させてください。


 


日系アメリカ人~Military Intelligence Service(アメリカ陸軍情報部)

2016-01-31 | アメリカ

今アメリカにいるので?関係のあるところで日系アメリカ人シリーズです。
 


"MIS"とは、アメリカで対外戦のために設置された陸軍情報部の略です。
対日本戦のために日系二世たちが集められました。
情報戦を戦うために、敵国の血を引く者ばかりの部隊を編成したのです。

MISには日系人だけでなく、ドイツ語系の語学要員の部隊もありました。

今回は病気でそれどころではなかったのですが、ここSFに来るたび散歩に訪れる
ゴールデンゲートブリッジ下のクリッシーフィールドという海沿いの一帯があります。
当ブログでも何度かご紹介しているのですが、ここには昔要塞と飛行場があり、
当時クリッシー・陸軍飛行場という名称で呼ばれていました。

ここに日系二世を集めた情報部隊、陸軍第4情報学校が設立されたのは1941年の11月
この日付に何か気づかれませんか?
そう、これは真珠湾攻撃のちょうど1ヶ月前なのです。

校長と4名のインストラクターは日系アメリカ人、生徒がほぼ全員日系二世という部隊を、
アメリカは真珠湾攻撃直前に設置したということです。

これはアメリカが日本に先に攻撃させるべく政治を動かし、その上で

そろそろ日本が開戦に踏み切ることを予想していた

ということでもあり、少なくともこの時召集された日系米人は
真珠湾攻撃のニュースに一般のアメリカ人ほど驚かなかったのでは、
と思うのですが、いかがなものでしょうか。



MISの任務は翻訳、情報収集、文書の分析、開戦してからは捕虜への尋問、
投降の呼びかけなどでした。

授業では、日本の地理・歴史・文化を学び、それを基礎知識として、
 日本語の読み書き・会話・翻訳・通訳・草書の読み方や捕虜尋問の方法、
『作戦要務令』や『応用戦術』を使っての軍隊用語の翻訳、
前線の日本兵から入手した手紙・日記・地図等の押収文書の翻訳を学びました。


さて、開校してから一ヶ月で真珠湾攻撃が起こり、日米両国は戦争に突入します。
その直後からFBIと警察は、ハワイと本土の日系コミュニティ・リーダーを逮捕し始め、
1ヶ月後には米軍に所属していた多くの日系人が説明もされないまま隔離されたり、
除隊されたりということが起こり始めます。

ルーズベルトが日系人の追放と収容所への収監を発令したのが2月19日。
3月30日からはすべての日系人に対して軍が徴兵することが禁止されます。

そしてこの語学学校も、 軍事地域からすべての日系人を排除する命令によって、
サンフランシスコからミネソタ州のキャンプ・サベージに移されることになりました。 
ミネソタが移転先に選ばれたのは、カ州のような偏見がなかったためだそうです。

しかし、戦争が始まってわずか4日後に、ハワイでは高校生を含む日系二世が
ハワイ州の兵隊に志願で集められたり、

大学志願兵部隊(トリプルV、Varsity Victory Volunteers)

が編成されたり、つまりアメリカでは開戦後、日系人の扱いを巡って正反対の、
様々なことが一挙に起こっていたということになります。 



プレシドにあった頃の情報学校の生徒たち。
これはクリッシーフイールドで撮られた写真です。

情報学校での語学訓練は大変厳しいものでした。

午前 8 時から午後 5 時まで毎日9時間の授業。
それが済んだら午後 7 時 から9時までは復習と予習。

土曜日も4時間の授業が行われました。
日常的な日本語に加えて、兵語や地図の読み方、草書にいたるまで。



日本で教育を受けたことのあるものはごくわずかで、あとはゼロからの学習だったため、
「 6 カ月で3000字の漢字を覚えた」生徒もいたそうです。



今現在と、全く様子が変わっていないというこの感動すべき光景。
ゴールデンゲートブリッジが後ろに見えます。
ブリッジ手前は当時の格納庫で、現在はロッククライミングセンターになっており、

ずっと左手に行くと、週3日くらいオープンしている「日系アメリカ人記念館」
があるのは、この関係からに違いありません。

戦争が進むにつれ、終戦後 の日本占領を見据えて兵士は増員されました。
カリキュラムは短縮され、その内容 も政策、産業、法学など、
高度かつ多分野に渡る日本語能力の要求に応じるものとなりました。



MISには女性将兵もいました。
最初のMISランゲージスクールの卒業生たちは、海外にも派遣されています。

海外って日本もですよね?



ミシシッピのフォートスネイリングにあったMISの女性隊。
 スネイリングの情報部基地は、ミネソタのサベージに移転した後、
対日戦争のために人材を必要とされた二世情報部隊の増加に伴って設置されました。 



左がヒロシ・”バド”・ムカイ、真ん中がラルフ・ミノル・サイトウ軍曹。
1945年6月17日、沖縄で捕虜を尋問しています。

日系人であるから日本人に対して同情的であったかというとそうではなく、

「捕虜を生きたまま捉えた者には、アイスクリームがご褒美」

というようなおふれが日系人情報部隊に出回っていたように、やはり彼らも
アメリカ陸軍の人間として日本人との戦闘を行っています。

元MIS隊員のディック・ハマダは、先の尖った竹を地面に突き刺して罠を作り、
日本兵を追い込んで串刺しにして殺したと証言しており、
しかもこれはごく一部の例にすぎませんでした。



左からに番目に立つのはアイケルバーガー将軍。
陸軍第8軍の司令官となり、対日戦、終戦後は占領を指揮しました。
1947年の天皇陛下御巡幸の際、お召し列車とアイケルバーガーの乗った列車がすれ違った時、
お召し列車を待たせたというエピソードがあります。


左の陸軍帽子が捕虜で、二世通訳(ヘルメット)は将軍の言葉を翻訳して質問しています。



左上から、戦場で日本語で降伏を勧告するアナウンスをする二世兵。

右上、降伏した海軍施設の代表に海軍のフレッチャー提督の通訳をするウィリアム・ワダ。

左下、降伏調印式における情報部隊のトム・サカモト。(中央)

そして右下、ジェネラル・マッカーサーと通訳で付き添うMISの将校。

日本占領に当たって、マッカーサー将軍が最もあてにし信頼したのがMISでした。
冒頭挿絵を見てもおわかりのように、対米戦争における二世部隊は「シークレットウェポン」、
つまり強力な秘密部隊でもあったのです。



展示室の一隅に、ジャパネスクを意識した照明の、こんなコーナーがありました。



このユニフォームはMISののサカキダ氏が、フィリピンの日本軍保所収容所を脱出して
ジャングルに潜んだのち、アメリカに帰国するにあたって「制作した」ものだそうです。
細部を見ても手縫いには見えないんですが、ミシンはどこで調達したのでしょうか。



サカキダの受けたブロンズスターメダル、優秀勤務メダル、オナーメダル。
現役時代使っていたコンサイス和英辞典があり、また、日本の陸軍士官の名簿
(アルファベット順)もこんな小さな本に編纂されていたようです。



海軍主計部隊が出征に当たって認めたと思われる日章旗への寄せ書き。

この寄せ書きはMISのメンバーが南方のいずこかで獲得し持ち帰ったものです。

遺族はこの旗をなんとか遺族に返したいと思い、当博物館に寄贈したのですが、
いまだにここにあるということはまだ見つかっていないということなのでしょうか。

この英語の説明には、

「日本では家族が出征する時に、彼の故郷がこれを贈った」

となっているのですが、この寄せ書きは個人に宛てたものではなく、
主計科全体で行ったものだったため、誰に返却していいかわからなかったのかもしれません。

まさかこれを見ておられる方で、ここに書かれた名前をご存知であるという方はおられませんか?



MISのニシジマ(右)が、日本人兵士に捕虜になるよう勧告している(した?)ところ。
沖縄戦では、沖縄方言を使って投降勧告を行うなどの任務に当たりましたが、
もしこれがなければ、沖縄戦の犠牲者はもっと増えていたとも言われています。



与那国島で捕虜になった陸軍大佐に尋問するジロー・アラカキ軍曹。
真ん中はMISの白人将校です。

この陸軍大佐は沖縄で捕虜になってしまったということですが、
生きて虜囚の辱めを受けてしまっているせいか、汗をぬぐっています。 



通訳として「ビッグネーム」に当たった二世は、それも名誉と考えたようです。
マニラの軍事法廷で山下奉文の通訳を務めたタダオ・イチノクチは、
どうやら自分のために、山下大将と一緒にわざわざ写真を撮ってもらった模様。

ご存知のように山下大将はこの法廷で「マッカーサーの復讐」ともいわれる
一方的な裁判を受け、戦犯として有罪判決を受け死刑になったわけですが、これを見る限り
山下の表情は穏やかでかつ悠揚迫らざる迫力に満ちており、卑屈さは微塵もありません。




これを書く前に、山崎豊子の「二つの祖国」をKindleで読み直しましたが、

二世たちにもその数だけ人生があり、日本に対する考え方も様々であったことが描かれています。

軍政府内の住民用尋問室では、暴力的な尋問を行うう日系人通訳がいましたし、また、
沖縄戦と進駐軍MISLSの日系2世米兵のなかには、

「米軍が今もっとも必要とする人間」

として認められた現実に満足して、日本人を見下す者もいました。

当時の日本政府機関や民間の団体が、なにかの許可申請や陳情を行うのには、

まずこの窓口の二世の担当官に媚を売る必要があったと言われます。(wiki)
かと思えば、「二つの祖国」の主人公、天羽賢治のモデルになったデイビッド・イタミのように、
日本とアメリカ、二つの祖国の狭間で重圧に耐えかね、自殺してしまった者も居ました。


シリーズ次回は、そういった二世たちから何人かを取り上げてご紹介したいと思います。



続く。 

 


フィッシャーマンズワーフの一日~旅単シリーズ

2016-01-30 | アメリカ

今サンフランシスコにいるのは間違いないですが、この写真はほとんど
去年の夏に撮ったものです。
本当はこちらで撮った新しい写真をお届けする予定でカメラのセットも
抜かりなく持ってきていたのに、渡航直前にディズニーでうつされた風邪が
来る途中の飛行機で発病し、二日目には立っていられなくなってずっと寝込むハメに。

というわけで、昔の写真を無駄にせずに使うことにしました。



これはゴールデンゲートブリッジ上の海を望む丘陵にある国立墓地です。
アメリカの戦争で戦死した兵士たちが眠っているところです。

去年の夏、この墓地の中を見学し、写真を撮ったのですが、どういうわけか
帰ってきてしばらくしてからチェックしようとしたら、この写真と次のしか残っていませんでした。

同じ時に撮った写真なので、ファイルごと紛失するならわかるのですが、
内部の写真だけが消えるとは、今だに不思議でたまりません。
こういうときにわたしは、何か根本的な技術的ミスではないかと思うより、
ここに眠る霊のどなたかのご意思に反していたからではと考えます。

ここには米西戦争の頃からの兵士の墓があるので、そういう国立墓地の歴史について
個人墓の画像を出さずにエントリを製作しようと思っていたんですが・・・。



かろうじて残っていたもう一枚の写真。
土地の広いアメリカなので、特にこの辺は緑地帯の方が多く、何にも使われていない
スペースが国立墓地の前にもあったのですが、どうやらここに
朝鮮戦争の戦没者に特定したメモリアルゾーンを作る予定をしているようです。

朝鮮戦争・・・・・じつはまだ終わってないんですけどね。



サンフランシスコという町は、ご存知のように下から突き出した半島の形をしています。
半島の北端を向かい岸と連結するのがゴールデンゲートブリッジであり、
半島の東側から向かいのオークランドを繋ぐのがベイブリッジとなります。

ベイブリッジの正式名はSan Francisco-Oakland Bay Bridge、
法律的に正式に言うと、The James 'Sunny Jim' Rolph Bridgeです。

ベイブリッジはサンフランシスコでは高速道路と連結しているため、南側から市内に入ると、
ブリッジに向かう車線ははほぼ一日中大渋滞しているのが常です。

この写真に写っている橋桁はちょうど岸壁の部分で、そこから向こうが海です。
橋の下段はオークランド行き、帰りがサンフランシスコ行きとなっています。

昔、電車が通っていたことがあり、その時には下が電車、上が車専用だったそうです。



ピアを横に見ながら行くと、サンフランシスコのランドマークの一つ、
マーケットストリート突き当たりの時計台が見えてきます。

これがなんなのかわたしは結構最近まで知らなかったのですが、じつは
正確な名前を「サンフランシスコ・フェリービルディング」というそうで、
その名の通り、昔対岸とのあいだを連絡するフェリーのターミナルだったのです。

ベイブリッジが完成したのは1936年、同時に鉄道も橋を渡ることになったため、
フェリーは廃止されて、建物はオフィス使用されていたようですが、
2002年にはパブリックの部分も含めて改修、改装されて保存されることになりました。



シリコンバレーから車で北上してくると、半島を右回りで海に沿っていけば、
ピア(突堤)を表す数字がだんだん大きくなっていきます。 

その39番目、39ピアが、有名なフィッシャーマンズワーフと言われる
観光商業施設です。



週末は季節を問わず大変な人出なので、わたしたちはいつも
日曜日の夕方に行くことにしています。

この大きな看板のところを入っていけば、駐車場があるはず
・・・・だったのですが、行った時間が遅すぎて入庫は終わっていました。

仕方なく、いつも停めるショッピングモールの駐車場に入れます。
ここだと、スーパーマーケットで買い物すれば割引があります。



というわけでやってきたフィッシャーマンズワーフ。
観光地なのでいくらでもテーブルだの椅子だのはあって、休憩もできるのですが、
どう優しい目で見てもホームレスにしか見えない二人が・・・。

二人で何を話すでもなく、目をギラギラ光らせて人々の様子を伺っています。
生きていくために、誰かがうっかり落としたり忘れたりするのを、
全神経を集中して探しているという感じ。

彼らにすればこれが「お仕事」ですから真剣です。


そんな彼らがけっこう目を引いてしまうのも、基本、ここにいる人は
楽しみを求めにやってきた人々ばかりなので、他人には無関心だからです。

こういった大道芸に立ち止まって時間を潰すのも、彼らが観光客だから。




上空をヘリが通過したので望遠レンズで撮ってみました。
機種はわかりませんが、まるでコブラのように薄い。



去年このアザラシコーナーに来た時には一面アザラシだらけだったのですが、
今年は数が全く減ってしまっていました。
昨年度の、ざっと4分の1といった感じでしょうか。

しかもどうしてあの2面にだけ固まってるんだろうと思ってよく見ると、
彼らが集まっているのはどちらも低い台です。
他の板もアザラシのために作られたものであるはずなのですが、
上がるのが大儀なのか、一頭もいません。

いったいフィッシャーマンズワーフのアシカに何があったのでしょうか。



特に美味しいというわけではありませんが、眺めが良かったので
今年も一番奥にあるジャパニーズレストラン、hanazenにいくことにしました。

お皿に置かれたお箸がトレードマークです。



窓際に通してもらって外を通る観光船を見ているだけでも楽しいものです。



ここで新しく投入した望遠レンズでアルカトラズ刑務所跡を撮ってみました。



さっきのホームレスではありませんが、人の様子をじっとうかがっているのが
この辺のカモメ。
冗談抜きで、何か食べながら歩いていると、後ろから飛んできて
かすめ取っていくということが結構あるのだそうです。

カモメは悪食というくらいの雑食で、空飛ぶネズミとも言われるくらい、
なんでも食べる鳥です。
その点カラスと似たようなものですが、この辺ではカラスより威張っています。
やはり港町は俺たちの縄張り、とでも思っているようです。



サンフランシスコ湾をみているとよく目撃するのがペリカンの群れ。

こんな感じで海面ギリギリを這うように集団で飛んでいます。
水陸両用鳥なので、何かあったら着水するのでしょうけど、
それらしい光景を海では一度も見たことがないおで、目的は不明です。



集団といえばこんな集団も見かけました。

お揃いの青い服の若い女性たち。
これは間違いなくブライズメイドを勤めた、あるいはこれから務める、花嫁の友人女性達です。

ブライズメイドとは結婚式では花嫁の側に立ち、バージンロードでで花嫁に先立って入場し、
花嫁の身の回りの世話をすることもあります。
白以外のお揃いのドレスを着てブーケを持ち、花嫁に華を添え引き立てるのが役目で、
主に花嫁の友達、姉妹、親族で、未婚の女性が務めます。

ドレスは新婦が用意してプレゼントすることが多く、アメリカにはこれを選ぶ番組
(花嫁が選ぶ服が気に入らなくて泣いたりする回もある)まであります。


彼女たちは色だけを決めて、自分たちでおのおの購入した模様。

風の吹きすさぶ突堤では辛そうな格好ですが、皆皮下脂肪がありそうなので
思うほど本人は寒くはないのかもしれません。



同じ場所を横切っていった全身赤づくめの女性。

この裏手にパフォーマンスをするテントがあるので、出演者であろうと思われます。



このときでだいたい7時過ぎといった感じでしょうか。
ホテルのあった地域は焼けるように暑かったのに、ここは寒く、
厚い雲の上に太陽が輝いていて雲の隙間から光を降らせます。

左手に見える船が去年見学してお話ししたリバティシップ、「ジェレマイア・オブライエン」。



ゴールデンゲートブリッジのところまで行ってきた観光遊覧船が帰ってきます。




そうしている間にも食事は進み、二人で一つデザートを取ることにしました。

「モチ・アイスクリーム」(雪見大福みたいなものかしら)が売り切れていたので、
熱いチョコレートケーキを。

この変なチョコレートの飾りつけは意味不明。
タコかな?(ジャパニーズレストランだし)と思ったのですが、
ウェイトレスは息子の側に置いたので、それは違うようです。
単にセンスが悪い、でOK?



ヨットが帰ってきて、見ている前でスルスルと帆を下ろしました。



一階の広場ではまだパフォーマンスが行われています。
火を使ったジャグラーをしていた女性。



シャッターを使わないで撮ったらものすごく怖い、日本人形のコーナー。



犬や猫グッズだけを集めて売っている店。

「アタック・キャット・セキュリティシステム」

「この建物はイングリッシュ・トイ・スパニエルセキュリティシステムによって守られています」



階段がピアノ。



8時過ぎだけどまだまだ遊んでいる子供多し。
一階いくらでロープをつけたベルトを装着して、トランポリンの上でぴょんぴょんできます。
この女の子はジャンプだけでひっくり返ったりはしませんでした。
実際にやってみると結構怖いものなのかもしれません。



というわけで、8時半ごろ、またベイブリッジのところまで帰ってきました。

ライトアップと、対岸の灯りが美しい。









My 600-lb Life~バイパス手術

2016-01-29 | アメリカ

375キロの体重を持つ女、チャリティ。

彼女が切羽詰まって(かどうかはしりませんが)駆け込んだ肥満専門外科医は、

入院による食餌療法で22キロ痩せた彼女に、さらに2ヶ月かけて18キロ、
つまりダイエットだけで40キロ落とせば手術をすると宣言し、
それは彼女自身と家族の協力の甲斐あって、なんとかかんとか成功しました。

まあ、375キロの人が40キロ減らすのは、その気になりさえすれば
そんなに無理なことではないような気もしますけど。

ここでドクターが患者に要求するのは「痩せたいという本気」で、
何となれば、いきなり外科的手術を施して胃なり腸なりをカットし、
脂肪も切除したとしても、本人にその気がなければその手術は
ほどんど意味をなさず、すぐに患者は元に戻ってしまうからです。
 



しかしチャリティはその試験にパスし、ドクターは彼女に
バイパス手術をすることを決定しました。



このバイパス手術とは、アメリカで行われている主流のやり方で、
ルーワイ胃バイパス手術といいます。

やり方は、まず胃を20~30ccの小袋に分け、その小袋に小腸をつなぎます。
食べ物が流れる小腸の途中に、胆汁と膵液が流れるように
もう一方の小腸の端を吻合します。
小腸の長さを変えて、栄養吸収の程度を調節し、小袋をつくることによって、
少量の摂取で満腹感をえて食事摂取量を制限するとともに、
吸収を悪くすることによってエネルギーの取り込みをさらに少なくします。



1年後に超過体重の77%を減量できる、というのがこの手術のメリットですが、
デメリットがないわけではありません。



消化吸収そのものを抑えてしまうので、必須の栄養まで取れず、ビタミンや鉄、
カルシウムの欠乏が起こりやすく、
サプリメントからしかそれらを摂ることができなくなり、
また、患者の予後の食生活によっては、また胃が伸びてしまうということもあるのです。



長時間の手術の間、待合室で寝てしまう妹と夫。

二人とも肥満の点では人の心配している場合ではないような気がしますが。



アメリカで他に行われているのは胃を結紮する方法、
胃そのものをカットして小さくしてしまう方法もあります。



バンドは外れたら緊急手術を要しますし、カットしてしまう方法も
バイパス手術と同じく、決して安全な手術ではありません。



同番組の別の回で出ていたこの若い男性、やはり太りすぎで
電動式椅子がなくては歩けないくらい。

もとスポーツ選手(アメフト)で、自分に自信もあるのですが、
こうなってしまってはどうしようもなく、手術を受けました。



しかし彼は手術が原因で危うく死にそうになります。
もともとBMIが60をこえる超々重症肥満の人は、一度で手術をすると
死亡率が高くなるといるのです。
それを避けるため、胃の切除とバイパスを2回に分けるというふうにする

医者もいるのですが・・。



生死の境をくぐり抜けた彼は、こんなにげっそりと痩せてしまいました。
決して望むような痩せ方ではなかったはずですが・・。

十字にかけられたキリストのTシャツを着ているのがリアル。




さて、チャリティの手術は無事に終了しました。



よくわからない写真なのですが、これは彼女の下半身。
白いのが靴下を履いた足です。足って太らないんですね。



手術が終わって生まれ変わったわたし・・・・
といいたいところですが、見た目には全く変わりなし。
まあ、内部を切っただけですからね。



手術の後は少しは食べ物に気を使っているようです。



この家族は、いつもこうやってソファでものを食べながらテレビを見ているのですが、
こういうライフスタイルから抜け出さない限り、彼女の体重は
普通の人レベルに戻ることはないのではないでしょうか。



だ~か~ら~、ポテトは野菜じゃないんですが・・。

太っていることで便利なことが一つだけあるとすれば、食事の時テーブルがいらないことです。

自分の体になんでも乗せて、そこから基本手づかみで食べるのが彼女流。



番組の手配で心理カウンセラーも手配してもらえます。



これに出てくる人たちは、必ず太りすぎた自分に絶望して泣くのですが、
セラピストと話すことによって、また感情がこみ上げてきて泣いてしまうのが常です。
これではいけないと思いながらもずっとそれに逆らえずに生きてきた人というのは、

例外なく精神的にあまりにも脆弱だからでしょう。



軽い運動をすることも課せられました。
運動といっても、軽いダンベルを動かしたりバンドを伸ばしたりする程度ですが、
何もせずにベッドに寝ている毎日を思えば、信じられないほどアクティブです。



妹さんも一緒にやらないとね。
お姉さんを世話することで、彼女にも変化があれば万々歳なのですが。




靴は普通に売っているのが履けるので、サイズ探しに困ることはなさそうです。



というわけで、自宅でしばらくそんな日々を過ごし、いよいよ
再診および再手術のために病院に向かいます。
とりあえず病院の手配した数人の人と特別車がいらなくなっただけ大進歩。 



ドキドキの軽量は587lbs。(266キロ)。
なんと彼女はバイパス手術で86キロの減量に成功しました。
それでも266キロなんですが・・・。



ここで無駄な脂肪、何の役にも立たない部分の脂肪を、
バッサリ切ってしまうという手術を受けます。



切除によって、ものすごい量の脂肪の塊が彼女の体から取り除かれます。



切り取った部分を先生が抱えていますが、むちゃくちゃ重そう。



思うに、彼女の背中から臀部にあった脂肪を切ったのではないでしょうか。
どうせならもっといっぱいいろんなところから切ればいいのに、
と思いますが、これがおそらくできるギリギリの切除なのでしょう。



ドクターの解説つき。
切除した脂肪だけで40キロはあったそうです。




というわけで、とりあえず彼女は寝たきり生活から立ち直り、
少なくとも自分で自分のことくらいはできるようになりました。
おそらくですが、もうトイレも自分でいけるでしょう。


それでもこの肥満ではきっと長生きはできるまい、と
わたしたちは思ってしまいますが、まだしもましになったことは確かです。



さて、ところで手術で危うく死にかけた男性。
せっかく痩せたのですが、元気になった途端彼はバリバリと食べだし、
リバウンドまっしぐら。



そりゃこんなものばっかり食べてたら太るよね、というようなものを
よく噛まずに吸引するがごとく食べまくっていたら・・、



先生が渋い顔をして、

「診察のたびにどんどん太っていってるんだけど・・・。
やる気あんのアンタ」



「なんか文句あんのかよヤブ医者」



母親も心配していろいろ言いますが、そもそも全ての原因を作ったのは
母親だったりするので(食育という意味で)、息子はいうこと聞きゃしねえ。



病院に付き添ってきたお姉さんに八つ当たりして、電動椅子を
全速力で動かして(笑)拗ねて向こうに行ってしまいました。
おそらく彼は先生に手術をしてもらうことはできないでしょう。

そして笑ってしまったのですが、彼の出演番組の最後のオチ?は、


「この二日後、ドナルドの電動椅子は壊れた。
原因は彼の体重であった」

って、そりゃそうでしょうよー。
なにこの虚しさあふれるエンディング。



この番組はもう少し軽度の、トレーナーと一緒に頑張る番組と違って
毎回がチャリティのようにうまくいくわけではありません。
どうしても節制できなかったり、手術をせっかくしたのにリバウンドしたり、
たまには経過観察中に亡くなってしまうこともあるそうです。



そして、今日もまた一人の百貫デブが、なんとかしたいという思いを持って
この番組に登場します。



番組をいくつか見て思うのは、あまりにアメリカ人というのは
栄養に対する知識がなさ過ぎること。
美味しいと思うもの、小さい時から口にしてきたもののほとんどが
ジャンクであり、糖分や脂肪たっぷりの危険なフードであること。

マクドナルドなどのファーストフードで三度三度の食事を済ませ、
アイスクリームにピザ、カロリー0のコーラや炭酸水・・・。


ホテルに泊まると無料で食べられる朝の食事はパンケーキにせいぜいよくてフルーツ、

安ホテルになると、甘い甘いマフィンを朝から振舞います。

この国で若い時はともかく、ある程度の年齢になって太らずにいられるには
慣習と慣れ親しんだ味を、全て否定することから始めなければいけません。

これだけ絶望的までに太っている人が多い社会で受け入れられている栄養学が
正しいわけがない、と私など思ってしまうのですが、国家がこれをなんとかする気は

・・・・・ないだろうなあ。

国民を病気にするためのジャンクフード、病気になりたくない人のための

実はあまり効果のないサプリメント、そしてダイエット薬。

街場にあるダイエットセンターはじめ、この番組の医者のような、

肥満専門医も、みな「肥満ビジネス」の経済的サークルの中にいるわけで、
もはやそこから抜け出すことはできないからです。

皆が健康的なものを食べて肥満が日本レベルに少なくなってしまったら、
それこそ「痩せ細って」しまう人たちがあまりにもたくさんいることも、
アメリカが世界一の肥満大国であり続けている原因のひとつなのではないでしょうか。





My 600-lb Life~「ある百貫デブの物語」

2016-01-27 | アメリカ

えー、いきなりですが、今訳あってアメリカにいます。
今回はこれも訳あって一人での渡米ですので、夜ホテルにいる時には
パソコンに向かいながらテレビをつけてなんとなく見ています。 


アメリカに行ったときだけテレビを見る目的は、

日本ではとてもお目にかかれない「放送禁止」レベルの変なショーを
発見し、皆様にお伝えすることにあります。

引っ越しした人が自分の家の後に来た住人のリノベーションをくさすというもの。
ゴミ屋敷の住人を立ち直らせる「ホーダーズ」。
そして今話題沸騰(笑)、大自然の中に何も着ずに放り出されサバイバルする
初対面の男女をルポした「ネイキッド・アンド・アフレイド」。
そして、デブの前に或る日突然トレーナーが現れ、手取り足取り痩せさせて
大変身させてくれるデブ救済型ショー。

そんな変な番組の中でも、とくにわたし的に「来た」、今年の大発見。
それが「My 600-Ib Life」です。
「日本ではあり得ない」のレベルにおいて、「テレビに出てくる人の羞恥心」

「こんなものを放映していいかという倫理」をはるかに凌駕し、
それよりなにより、こんなになるまで太ってしまう人間がゴロゴロいるというアメリカの
底知れなさに心底震撼するという意味で。

600-Ibとはキロに直すと272キロ。
この番組に出てくるアメリカ人は、全員がこのレベル、あるいは
これ以上の体重になるまで膨れ上がってしまい、もうこのままでは
遅かれ早かれ生命の危険が、という状態の重篤患者ばかりです。



本日の主人公は、チャリティさん。39歳。
彼女の体重は驚くなかれタイトルよりも178lbs、つまり80キロ多い

352kg(778lb)

百貫デブ、と日本では言いますが、それではみなさん、
百貫って何キロのことか知ってます?

一貫が3,75キログラムなので、このチャリティという人は、
まぎれもなく名実ともに百貫あることになります。

日本人はいくら太ったって、300キロ超えることは体質的にあり得ないので、
「百貫デブ」というのは、あくまで誇張であり、「お前の母さん出べそ」と
同レベルの揶揄い口にすぎないと言えるかと思いますが、
ここアメリカには、結構な割合で「百貫」が存在するのです。

ちなみに「100キロ」レベルのデブであれば何十人に一人の割合で見かけます。
テレビのショーに出ているキャスターですら、顔は綺麗だけど日本でいうと
お腹周りがふとすぎ、という人が多い国ですから。 



今回の被験者、じゃなくて患者のレベルがレベルなので、
当然彼女の家族もむちゃくちゃ太っています。
チャリティさんの妹も、かるく100キロは超えていそう。




そしてこの人の少し「特異」な部分は、夫がいること。
あまりにも太りすぎて目標が「自分の足で歩くこと」となっているレベルの
この番組の出演者は、今まで見てきたところほとんどが独身のような気がします。

太っているとやはり相手も見つけにくいでしょうし、それ以前に
自分で歩けないどころか、そもそも部屋から自力では出られないとなると、
お年頃になっても相手を探すどころではないからです。

しかし、この人は、恋愛をして結婚もできたのです。
どこで知り合ってどんなきっかけで恋愛が始まり結婚したか、
なんてことを説明してくれるわけではないのでそれはわかりませんでしたが、
そんな相手がいるのに、どうしてこの人はここまで太ってしまったのか。

「わたしに恋人ができないのは太っているから」

という思い込みでダイエットをする女性のほとんどは、男性から見て
決して太っていないという統計もどこかで見たことがありますが、
いくらぽっちゃり系が好きと言ってもこのレベルは・・・。



しかしこんな”超弩級”を愛してくれる人がいたわけですから、
せめて彼のためにもう少しなんとかしようと思わなかったのでしょうか。



それにしても、これだけ太っていると、生きていくための全てが
大仕事になってしまいます。
彼女が持ち上げているのは自分のお腹。
まるで布団を抱えているようですが、家族が彼女の体を拭く間、
肉を自分で持ち上げるのが彼女の仕事なのです。



お風呂に入るということができないので、折りたたまれた肉が
汗疹による炎症(床ずれみたいな状態)でかぶれてしまうんですね。



デブにもいろんなレベルがありますが、彼女の場合は
自分の足で歩くことは不可能。
350キロの体重を支えるには、この足はあまりにも小さすぎます。
そして骨の細さは常人と全く変わらないわけですから・・。



というわけで、彼女の周りの人たちは、彼女が生きていくための
全てのことに手を貸してあげなくてはいけません。
例えば、ベッドに起き上がった彼女を引き起こし、



とりあえず歩行器で立たせて、約3歩移動させるのも大仕事。
わたしは人間が極限まで太ったら、どこに脂肪をつけるのか、
この写真を見て
初めてわかったような気がします。
まるで大きな風船をつけたような状態ですが、これ全て背中と臀部の脂肪。



彼女が携帯便器の上に腰をかけるのを夫は手伝ってやります。
毎日毎回のことなので、もはや恥ずかしいとも思わないようですが・・。



そしてもう一度歩行器を使ってベッドに戻るのがまた一仕事。
夫は黙って後始末をしてやるのです。

こんな状態で命だけを永らえるのに、プライバシーも人間の尊厳もへったくれもありません。
本人も周りも、全ての作業を黙々と無言で行いますが、
その間、人間らしい会話や、ましてや笑いなどは全くないままです。



もちろん彼女がここまでになってしまったのは、大人になってからです。
たしかに太っている子供ですが、このレベルのまま普通に大人になったとしても、
アメリカ人にはよくいるタイプの一人になりそうです。



この子供が、少なくとも寝たきりになるまでというのは、成長過程で
よほどの精神的問題を抱えていたと考えるのが妥当かもしれません。



ティーンの彼女も、アメリカでは2~30人に一人の割でいるタイプです。



この手の番組を見ていて思うのは、彼らの食事は

日本人から見たらひどいと思われる一般的なアメリカ人の食生活など、
まだマシに見えるくらい、栄養というものを無視しているということです。



ある日の朝食。(朝食ですよ)

アメリカのピザはご存知のように大変巨大なのですが、

もちろん彼らが手作りなどするわけがなく、冷凍のピザを朝になると一枚焼いて、
それを三人で分けて食べてしまうのです。




しかし、彼女にとって食べることは幸せな時間の一つであるらしく、
こんな朝ごはんでも実に美味しそうに平らげます。



彼女があまりに肥大しているので、100キロはありそうな彼女の夫が
まるで蚊トンボのように見えます。
彼女の妹もやせた方がいいと思いますが、とりあえず彼女は
自分でシャワーや排泄はできるわけですから、姉を心配し、
面倒を見る立場であって自分のことはむしろ「健康的」だと思っている節があります。

しかし、やはりこれではいかんだろうということになり、
番組に依頼をして専属の肥満専門医の診察を受けることになりました。



病院へは、数人のスタッフが「太った人専用の搬送車」で迎えに来てくれます。
そしてドクターが登場。

このドクターも、わたしたちが見ればかなりの肥満で、
人のことをどうこういう前に自分もなんとかした方がいいのでは、
という説得力のない体型なのですが、なにしろ患者のレベルが

「胃のバイパス手術」「脂肪大量切除」

を要する段階なので、医者の不養生と言うよりは、患者と比べて自分はまだまだ大丈夫、
と考えてしまうようになったのではないかと推察されます。



どれどれ。太ってますなー。

って見ればわかる。
すぐに手術をしてくれるのかと思ったら、まず、
自力で、
つまり病院食の食餌療法だけで、10キロ~20キロ痩せることを言い渡します。




これで、ダイエットのなんたるかを付き添いの人にもわかってもらうのです。
なぜこんなことをするかというと、この医者は、誰にでも安易な
バイパス手術はしないという主義で、本当に患者が痩せる気があるのか、
ということをここで試験するという意味があるのです。



することがないから(といってもいつも何もしてませんが)お母さんに電話。
母親はこの番組で一度も顔を出しませんでした。



患者はこの病院で3ヶ月を過ごします。

健康保険のないここではものすごい医療費がかかりそうですが、番組負担でしょう。
そして三ヶ月の入院で彼女は49lb、つまり22キロ体重を減らしました。
背中から垂れ下がっている巨大な肉塊には全く変化ありませんが。

三度三度、まともなものを食べるだけで22キロ減です。
もしかしたら彼女は、これまで野菜サラダなど食べたこともなかったのかもしれません。
これは全て、親の食育のせいであり、さらにはその親自身ももそう育てられてきたのです。

何かに責任があるとしたら、彼女のような人間がアメリカに生まれたことでしょうか。



体重が減ってよかったね、という感じの夫。
なんですが、どうにもこの夫という人、暗い。
ほとんどのカットでなぜか目を伏せているのはなぜなんでしょうか。



とりあえずバイパス手術を受けるためには家でもちゃんとした
食生活をせねばならないのですが、退院する彼女、こんなことを言っております。

「食品庫に戻るだけだわ」

自分からは何もしようとしない、太る人の論理ですよね。



しかしこうなったからには、家族も一緒になって朝からピザ一枚食っている場合ではないので、
キッチンで悩んだすえ、二人で料理らしいことを始めました。



さて、ドクターはチャリティに、1ヶ月の自宅療養の間に
40lbs、さらにここから18キロ痩せることを申しつけました。
そうしないと、手術するわけにいかない、というわけです。



相変わらずうつむいてばかりの夫。



さて、ドクターの診察。

「もう1ヶ月がんばってみようかー」



・・・・暗い。

どうしてこの夫が最後まで目を挙げて人を見ないのかはわかりませんでした。
もしかしたらこの男、チャリティとその家族になんか弱みでも握られてるのか?



さて、それはともかく、彼女は手術を受けることができるのでしょうか。


続く!(笑)






日系アメリカ人部隊~ブリュイエールのU.S.サムライ

2016-01-25 | アメリカ

空母「ホーネット」艦内展示による日系アメリカ人部隊、続きです。
写真は第442連隊、通称日系人部隊。



笑を浮かべている隊員が多いですね。
前列の隊員は愛犬と一緒。

全員で撮られた写真の中央には5人の白人士官がいます。
黒人ばかりの飛行部隊であった「タスキーギ・エアメン」、陸軍のバッファロー中隊と同じく、
日系二世ばかりの部隊の隊長は白人でした。



その白人隊長をヴァン・ジョンソンが演じた映画「二世部隊」。
アメリカでのタイトルはそのものズバリ「ゴー・フォー・ブローク」でした。
二世部隊が主人公なのにこのポスターに一切その姿がなく、この少し間抜けな隊長が、
イタリアでおねえちゃんにデレデレしている写真や、442部隊に救出されるテキサス大隊の
メンバーの写真しかないというのはいかなることかと思うのですが(´・ω・`)

だいたいこのポスターには、ひとことも「日系」という言葉がありません。

映画では、最初のうちこそ上から目線で指揮官として着任するジョンソンが、
だんだん二世たちの優秀さに感服してしまうというふうに描かれ、
圧巻は一人だけ山中ではぐれてしまい(おいおい)、たまたま覚えていた日本語の悪口が
合言葉となって部下と合流できたというシーンでした。

映画には、実際に442部隊の兵士であった何人かが出演しています。

ついでに映画つながりで、「カラテ・キッズ」パット・モリタが演じた
少年の師匠「ミヤギ」は、442部隊で栄誉勲章を与えられたことがあるという設定。
そのパット・モリタは、自分自身が日系人収容所にいたことがあります。



外套を着ているところを見ると、1944年の10月以降にヨーロッパで撮られたものでしょう。
にアルザス地方で行われた戦闘か、あるいはフランスのブリュイエールか、それとも
「テキサス大隊」、ロストバタリオンを救出する前か・・・。

全員の顔に激しい疲労が滲んでいるようにも見えますが、彼らはブリュイエールで
ドイツ軍と激しい戦いを繰り広げ、そのわずか10日後、休養もほとんど取れないまま、
ロストバタリオンの救出に向かっています。

テキサス大隊の211名を救出するために、第442連隊戦闘団の216人が戦死し、
600人以上が手足を失う等の重傷を負うことになりました。



戦後上院議員となり、晩年は上院議長の地位にあり、日系人として
大統領継承権第3位にまでなったダニエル・ケン・イノウエもこの戦いに参加しています。

この写真のイノウエの右手をご覧頂けばおわかりかと思いますが、
彼は1945年、ドイツ軍との戦闘において手りゅう弾による傷を負い、右腕を切断しました。
イノウエは医師を目指していましたが、これによって夢が断たれたため、
戦後は政治学を学んだ後、弁護士資格を取得しました。

88歳で亡くなる4年前、やはり日系アメリカ人のアイリーン・ヒラノと結婚しています。

彼の功績は讃えられ、アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦に
「ダニエル・イノウエ」の名を残すことになりました。

最後の言葉は「アロハ」(さようなら)だったということです。



タツミ・フルカワ上等兵

戦争が始まった時、彼らの一家はアリゾナ州のギラリバー収容所に送られました。
二人の兄も100大隊と442連隊に入隊しています。
ヨーロッパで三つの大きな戦闘に参加したフルカワ上等兵は、
1944年に戦死しましたが、その功績によりパープルハート勲章と勲章を死後与えられました。

彼のお墓は、わたしが度々写真に撮っていたサンマテオの国立墓地の一角にあります。



442連隊にいたヒロ・アサイ氏が来ていた軍服。
スタッフサージャントの階級章、つまり二等軍曹です。

彼は2012年に亡くなったとき、サンフランシスコに住んでいました。



右側の双眼鏡とコンパスは、ブリュイエールの戦いのとき、
ドイツ軍の機銃手から取り上げた・・・、戦利品ですね。
相手が他でもない光学機器にかけてはトップクラスのドイツだったので、
双眼鏡などは嬉々として確保したのではなかったかと思うがどうか。

左のカメラなんて、きっとライカとかでしょ?
この左のコレクション?の人は、十字のペンダントとか、
バックルなど4つも持って帰ってきたみたいですが、これまさか
ドイツ兵のしたい・・・・いやなんでもない。



隊旗らしいドイツ軍の旗を持って帰ってきた人もいます。




2万人に及ぶ二つの師団が攻略できず手をこまねいていた
ゴシック・ラインの戦いにおいて、総員2,500人の442部隊は

「一週間でも、一日でもない、たった32分で」
防御戦を突破してしまいました。

というのは、「ゴシックライン」で検索をかけると未だに上位に出てくる
当ブログからの引用ですが()、
そのゴシックラインを破った
マウント・フォルジョリートの戦いに参加したアーニー・ヒラツカは、

戦闘地となった山の大理石などを持ち帰りました。



未だにアメリカ陸軍の10大戦闘に数えられる「テキサス大隊救出」を成し遂げ、
他の白人部隊ができなかった戦線突破を、32分でやってのけた442部隊。

彼らの戦闘は未だにウェストポイントで教材となり、候補生が学ぶ対象ですし、
巷ではこのような、GIジョーみたいなフィギュアも販売されています。



誰がモデルかはわかりませんが、いかにも日本人な顔の兵士(笑)



戦闘の合間のつかの間の休息をとる二世兵士たち。
意外なくらい和やかな表情をしています。

沐浴中の姿を撮られてしまっている人がいますが、ジョージ・ボクジ・トンプソン
は、アングロサクソン系の父親と、日系の母親の元に生まれたのでしょう。
右下では顔を隠したりしています。
こういう血筋であっても収容所に送られていたのです。

ちなみに、442連隊には一人、朝鮮系アメリカ人のヨンオク・キムも居ました。
アンツィオの戦い、ゴシックラインの戦いの成功に大きく寄与した人物です。
ベトナム戦争にも参加し最終的には大佐まで昇進しています。

彼は純粋な朝鮮人でしたが、戦後は日系人アメリカ人博物館の創設にも寄与しました。



わず吹き出しをつけて漫画にしてしまうのは日本人の習性?

上の二人は白人で、どちらも大尉。
右下は日系人の士官(中尉)です。



前線視察のトラック。

ブリュイエールの戦いについては以前一度書いていますが、
今でもこの地では、その日を記念して式典が行われます。



この激しい戦いで命を失った442部隊の戦死者たちは未だにここに眠っています。



このおじいちゃんたちが、かつてここで激しい戦いに身を投じ、
ドイツ軍から村の人々を解放し、未だに敬愛され、その名を讃えられているのです。

この村には442連隊通りという道があり、このような式典を通じて彼らの功績を顕彰しています。




陸軍が二世だけの部隊を編成したのは1943年のことです。
マサオカ家の5人兄弟は、全員がこれに志願しました。
この写真はキャンプ・シェルビーで撮られたもので、左からベン、マイク、タッド、アイク
五男のハンクは、落下傘兵になったので、このとき442部隊にはいませんでした。

長男のベンは、この後、「ロスト・バタリオン」の救出のときに戦死しています。

なお、本日のタイトル「ブリュイエールのU.S.サムライ」は、ブリュイエール出身の作家、
ピエール・ムーランが第442連隊の戦い描いた著書の題名です。

なお、ムーランはホノルル、フレズノ、サンアントニオなど、日系アメリカ人について
深く関わった関係で名誉市民となっており、同氏の著書には

「ダッハウーホロコーストとU.S.サムライ ダッハウ最初の二世兵士たち」

などがあります。






 


日系二世~ダッハウ解放

2016-01-08 | アメリカ

お正月映画で公開されていた「杉浦千畝」をご覧になった方はおいででしょうか。

リトアニア領事であった杉浦千畝に、国外脱出のための日本へのビザを
発給してもらったユダヤ人は、ソ連経由で日本海側から日本に入国し、
そこから
ニューヨークやその他の亡命地に逃れることができました。
今現在、杉浦が発行したビザによって生き延びた人の子孫は、
全世界で4万人になるといわれます。



映画のシーンにもありましたが、ドイツ侵攻前、リトアニアの日本領事館には、
ビザを求めて
柵の外側でユダヤ人たちが徹夜で待機し、ビザが発行されるや否や、
着の身着のままで脱出していきました。

しかし、一刻を争う事態を甘く見て、脱出できなかったユダヤ人もいました。

杉浦に、「これは移民じゃない、脱出なんだ。早く街を出なさい」と強く勧告されても、
なまじ金持ちは財産の始末に手間取ってそれが遅れ、やっと駅に駆けつけた時には
すでに駅は封鎖されており、杉浦にせっかく書いてもらったビザを破られ、
射殺されたり、
収容所に送られたりした人もいた、というエピソードが映画では描かれていました。


そんな収容所の一つであるダッハウで、収容所を解放した日系人兵士が、
雪に埋もれたユダヤ人を助け上げ覗き込むシーンがあります。
彼は杉原にビザを出してもらったにもかかわらず、逃げられずに収容所に送られ、
いまや瀕死の状態に陥っていたリトアニア出身のユダヤ人でした。
もうろうとした彼の目には、その顔がビザを書いてくれた日本領事に見え、

「センポ」(杉浦の海外での呼び名)

と思わず呼びかけるのでした。



このシーンに描かれていたように、ヨーロッパ戦線に投入されていた日系人部隊が、
ドイツのダッハウに到着した時、
そこにナチスが作った収容所があることを発見しました。

ダッハウ収容所は、当初政治犯を収容するために作られ、戦争中から
ユダヤ人の収監者が大勢を占めるようになってきましたが、ユダヤ人だけでなく
ポーランド人、ソ連軍の捕虜、そしてキリスト教聖職者がも収容されており、

アメリカ軍がここに侵攻してきた時には、チフスの蔓延と栄養状態の極度な悪化、
収容者に行われる強制労働と頻繁に行われる制裁で、収容所の状態は酸鼻を極め、

餓死寸前の収監者が幽鬼のように彷徨う地獄となっていました。

収容所を発見したのは、収容所周辺における掃討作戦の中心的存在となっていた
日系アメリカ人部隊である第442連隊戦闘団所属の第522野戦砲兵大隊です。



しかしなぜか、このことは1992年(ブッシュ政権下)まで公開されませんでした。
アメリカでは公文書を一定の時間が過ぎたら公開するという
アメリカ国立公文書記録管理局
(NARA)の定められた50年が経過するころだった、
という考え方もできますが、
厳密にはこの時点で、まだ50年には3年ほど間があります。

アメリカではブッシュ政権、そしてクリントン政権下において、
日系アメリカ人たちに対し、
かつてのアメリカ政府の扱いを改めて謝罪し、
そして日系兵士たちに叙勲が行われるなどの
復権式典が何度となく持たれています。

おそらく、最初に日系アメリカ人に公的に謝罪を行うことになったブッシュ政権で、
この隠されていた事実も少し早くはなるが公開するべきだということになったのでしょう。


しかし、1945年当時、いかに二世部隊が継子扱いされ、イタリアでは
多数の戦死者を出しながら
ドイツ軍の要塞を打ち破る戦功をあげたのに、
ローマへの凱旋はさせてもらえないなどの
屈辱的な扱いを受けていたとはいえ、
なぜダッハウの発見までが秘匿されねばならなかったのでしょうか。





前にも一度、当ブログでは「ダッハウの虐殺」について触れたことがあります。

「虐殺」といってもナチスのユダヤ人虐殺のことではありません。
アメリカ軍が収容所を占領した後、ドイツ軍人やカポと呼ばれるユダヤ人の「手先」が
戦闘行為ではなく、武装解除された上でリンチを受けたのち、銃殺されたり
収容者に引き渡されて撲殺されたりしたことを言います。


ダッハウは戦後すぐ、アウシュビッツより有名なホロコーストのメッカとされていました。

実際にも人体実験は行われ、ガスでの殺戮もあり、ほとんどの収監者は
半年も生き延びられないという状況ではありました。
なかでも親衛隊の空軍軍医、ジグムンド・ラッシャーが行った人体実験は、
これが人間のすることかと暗然となるような残酷なものです。
(ラッシャーは別の罪を問われナチスによって処刑になっている)

しかしながら、少なくともアメリカの主張する組織的殺戮、つまり
ナチス政府がユダヤ人の抹殺を命令したという事実はなかった
ことが、今日、公的にも証明されています。




1945年4月29日、442連隊の第522野戦砲兵大隊の連絡斥候は、
あの悪名高いダッハウ収容所の
最初の発見者となり、
解放者となって、3万人の収監者を解き放ちました。


彼らの祖国合衆国において、1万2千人以上の日系アメリカ人が西海岸から
強制的に
10箇所のリロケーションセンターに移送されたのは3年前のことです。

522大隊の何人か、そして422連隊のほとんどの兵士たちは、収容所の出身者でした。
家族を収容所に残したまま、自分たちをそこに追いやった他ならぬアメリカのために、
ここヨーロッパで、我が身を犠牲にして戦っていたのです。


これがダッハウの本当の発見者をアメリカ政府が隠し続けた理由でしょう。



ダッハウ開放は、本来英雄的な戦功として、大々的に宣伝されるべきものでした。
しかし、もしそのことを報道するとなれば、開放したのがほかでもない、
アメリカ政府の手によって作られた民族隔離収容所出身の者だった、
ということを語らないわけにはいかなくなります。


ダッハウで行われていなかった「組織的なユダヤ人抹殺」が、あたかも実際にあるかのように

一つのガス室を論拠に喧伝した(実際にはそこで大量の殺人が行われたわけではなかった)
ことも、つまりはそれを発見した人種に対して、アメリカが現在進行形でどんな扱いをし、
ナチスと同じような収容所で、非人道的行為を行っているかが公になるからです。

「アメリカも日系人に同じことをやっているじゃないか」

という批判に対して、

「我が国の日系人の扱いは、ナチスがユダヤ人にやっているのとはまったく違う」

というために、そして自分たちの「戦闘行為ではない虐殺」を正当化するために、
「ホロコーストがあった」ことにしておく必要があったのではないでしょうか。


現にアメリカには、日系人は収容所に集められたものの、食べるものにも困らない
快適な暮らしをしているというアメリカ政府の行った宣伝に、そう思い込まされて、
より一層彼らに憎しみを向ける者もいた、と山崎豊子 著「二つの祖国」には書かれていました。

 


 これは第442連隊の二世兵士が山中でドイツ軍の士官と兵を捕虜にした時のことを
絵に描いて遺したものです。

山中で見張りをしていた彼は、身を隠すのに絶好な木の幹で敵の来るのを待っていると、
ドイツ軍の兵士二人が丘を登っていくところを発見したので発砲した、とあります。

かれは身振りで狙撃手に武器を落とすように、そして士官には
彼の銃ベルトを外して捨てるように言った、
ということが書かれています。

この二世兵士にとって初めて敵と対峙した瞬間だったのでしょう。
敵に発砲したのも初めての経験だったに違いありません。



ガンといえば、彼らが使っていた銃も展示されていました。
ケースの横に添えられた札には、ダグラス・マッカーサーの言葉があります。

"Never in military history did an army know so much
about
 the enemy prior to actual engagement.”

アメリカ軍の歴史において、軍が交戦に先んじて
これほど相手のことをよく知っていたことはなかった


「相手を先んじて知る」ことができたのは、他でもない日系二世たちを
アメリカ軍に組み入れ、日本人の風習や慣習、行動原理や思考までを
あらかじめ情報として収集できたことを言います。

これは裏を返せば、当時の日本軍から見た彼らは「裏切り者」だったということです。



わたしは日系二世のことを調べるまで、彼らが日本に対して帰属意識を持つのが

当然であると何となく信じていたところがあるのですが、一世ならともかく
アメリカ生まれの二世は、
軍に加わる時点で、日本人であることを
どこかで捨て去っていたのではないかと思います。


今回、ダッハウ開放をネットで検索していて、

「日本人がダッハウを開放した。正確に言えば日系アメリカ人であるが」

という記述を目にしましたが、この言い方には違和感を覚えました。

彼らは自分自身が「日本人」であるとはみじんも思っていなかったでしょうし、

実際にも、彼らが「日本人」であったことは、生まれて一度もなかったのです。

彼らが渡米一世ではなく、あくまでも「二世」であることを考慮しないと、
なぜ彼らが大挙してアメリカ側に立って戦ったのかを理解することはできないでしょう。


なぜかこのホーネット博物館の日系部隊コーナーにあったナチスドイツ旗。
武装解除した時に取ってきたんでしょうか。 



日系二世部隊を描いたコミックが展示されていました。
ダッハウ開放時の、ドイツ兵と将軍(ダッハウの責任者に高官はいなかったため、
これが誰であるのかは謎)
が会話しているシーン。

「いいえ、将軍閣下(ヘア・ゲネラル)」

「畜生!その時何か見たか?」

「アメリカ軍の格好をした日本の兵士を見ました」

「神がどちらの側に居られたのか、わたしは今わかったよ」


「アウフヴィーダーゼーン、わたしの若者たち、アウフヴィーダーゼーン」

lowenというドイツ語がわからなかったので適当に訳しました。




この展示場には、有名な日系アメリカ人軍人の写真がいくつかありますが、
これもその一つ。

彼に自衛隊の制服を着せたら
そっくりな方を、実はわたし存じ上げています。



技術軍曹だったベン・クロキも442部隊出身です。
真珠湾攻撃が起こってすぐ、かれは空軍に加わりました。

不幸にもかれの最初の「戦闘」は、偏見と差別、無理解からくる周りの反発でしたが、
それを跳ね返すようにかれはヨーロッパ戦線で30もの危険なミッションをこなし、
B-29の爆撃手として「サッド・サキ」というニックネームで
周りに受け入れられるようになりました。

右の写真は、同機の下でパイロット、ジェンキンス中尉とのショット。



トーマス・サカモトはMISのトップでした。
フクハラがそうだったように、彼もまた日本で学校を卒業したため、
日本語に長けていてMIS学校の教授を務めることができたのです。

志願してマッカーサーのオーストラリアでの任務に付き添ったサカモトは、
そこで日本軍の「捕虜第1号」を尋問し、その部隊に自殺攻撃をすることを
勧告文書を撒いてやめさせることに成功しています。



かれは終戦後、ミズーリ感情での降伏文書調印に立ち会うという名誉を得ました。
日本の占領政策に携わった後、サカモトは朝鮮戦争、ベトナム戦争にも参加します。 




なぜ降伏調印に立ち会った記念を旭日旗の上にする(笑)

どうもこの辺のセンスが日本人には分かりかねるのですが、まあとにかく、
この旭日旗がかっこいいから、ってことでよろしいですかね。

あなたは降伏調印式に立ち会いました、という証明書。



小泉首相が訪米した時には、ホワイトハウスに日系アメリカ人軍人の代表として、
前述のベン・クロキ(左から二番目)が招かれました。 




戦後50年を経て名誉回復された日系アメリカ人と、あらたに叙勲が行われた日系部隊。
彼らは、こうやって同期会を行なっております。
なんだか兵学校同期会のおじいちゃんたちとそっくりの雰囲気です。

戦争が終わった今、日本の血を引くアメリカ人である彼らは、

「どこの国に生まれ、どこの民族の血を持ち、どの国に忠誠を誓ったか」

という自分の心の深淵から解き放たれ、
どちらかを選ばなくてはならないことを強制されない世の中になったことを、
何よりも歓迎しているに違いありません。




 


「カミカゼ体験ショー」(笑) イントレピッド航空科学博物館

2015-12-08 | アメリカ

日向灘の掃海隊訓練参加記の途中ですが、今日12月8日は真珠湾攻撃、
つまり日米開戦となった日なので、関連話題をお送りすることにします。 


アメリカ人はどこかの日本人と違って、「愛国心」を発露させることに衒いがなく、
パトリオティシズムを否定しない点では世界スタンダードだと思いますが、
反面とにかくアメリカ万歳のあまり、時として無神経で空気を読まないところがあります。


といきなり言い放ってしまうわけですが、例えばこの冒頭写真を見て、
うんうん、こういうところがなんかついていけないよねー、と
言っていることに賛同していただける方もおられるのではないでしょうか。

この大きな壁に書かれた「カミカゼ体験ショー」のお知らせの前に立った
わたしとTOが思わず絶句して、

「うーん・・・」

と二人で唸っていたら、その時ちょうどショーとやらが始まってしまいました。


イントレピッドの最も暗い、そして最も輝ける日を追体験せよ。
新型マルチメディアによる”カミカゼ:暗黒の日、輝ける日”が、あなたを1944年11月25日、
イントレピッドに2機のカミカゼ自殺機((−_−#))が激突した日に誘います。
そこであなたは炎の下の真のヒロイズムを体験することになるでしょう。

「メモリアル・ウォール・オナーズ」にはそのときイントレピッドに乗り組んで
命を捧げたすべての士官とクルーの名前が記されています。

という説明によるこのショーは、その何機かの特攻隊の攻撃の一回を
再現してみせるというもののようです。
見せてもらいましょう。どんなものなのか。



その前に、甲板で目を留めたボードについて少し説明しておきましょう。
ちょうどフランスのダッソー・エタンダールが置いてある部分にあたるのですが、
この説明によるとちょうどこの部分にかつて特攻機が突っ込んだことがあるのだそうです。



これは、「イントレピッド」が受けた初めての特攻機による攻撃でした。
日にちは1944年、10月29日。フィリピン海でのことです。

そこにはかつてガン・タブ10(10番銃座)があり、そこの銃撃手は全員アフリカ系でした。
彼らは勇敢にも特攻機に対して砲撃を加えますが、飛行機はちょうど彼らのところに激突し、
24名の乗員たちは6人を除いて重軽傷を負い、8名が死亡しました。

この日付を所蔵の「特別攻撃隊全史」で検索してみると、これは比島方面作戦の
第一次、そして第二次神風特攻隊による攻撃によるもので、

初桜隊 野並晢一飛曹(甲飛10)以下、零戦3機

義烈隊 近藤寿男中尉(海機53)以下、彗星2機

神武隊 坂田馨上飛曹(乙飛13)以下、99艦爆2機

神兵隊 藤本勇中尉(海兵71)以下、9艦爆2機

が少なくともこの日、フィリピン方面で戦死を遂げたことがわかります。
この日の特攻による戦死者、12名。
直掩機での戦死や、機上戦死も入れての人数ですが、数だけで言えば
イントレピッドの戦死者より多くの命がこの日一日で失われました。

ただし、一連の「カミカゼ・アクション」が米軍にもたらしたショックは
計り知れないものでした。
それが証拠に、未だにアメリカでは「カミカゼ」を、まるで天災でもあるような、
抗しがたい恐怖を齎すものとしてこうやって語られているのです。

ちなみに、あの関行男大尉が初めて組織された特攻隊として、
敷島隊の5人を率いて特攻を行ったのはこの4日前の10月25日。
10月29日のイントレピッド突入は、これに続く第5次に亘る特攻攻撃の一つでした。



ショー(笑)の始まりを告げるアナウンスがあると、その辺の見学者が
三々五々集まってきてすべての見学者が何も言われないのに床に座り込みました。

日本では少し奇異な光景ですが、アメリカ人というのは常日頃
家の中でも靴で生活しているせいか、建物の中であれば(時には外も)
室内と同じように座り込む性質があります。

アメリカの大型書店、最近はアマゾンのおかげで減ってきましたが、
バーンズアンドノーブルスなどに行ってみると、通路という通路に
子供が(時々大人も)座り込んで本を立ち読み(座り読みか)しています。
まあこういうのからも、アメリカ人の清潔観念というのがうかがい知れるのですが、
総じてアメリカの道は綺麗で、たとえそうでなくても皆そもそも
あまり「外」というものを歩かない(ほとんど目的地まで車でドアトゥドア)
せいなんだろうと思っています。

日本人であるわたしたちは、座り込むことなく、立ったまま15分の間、
ショーを皆の輪の外から眺めることになりました。
まず会場が暗くなります。

「イントレピッド」艦上で、10月25日以降、連日フィリピンの各基地から
飛び立っておそってくる特攻機を待つ状態の乗組員たち。

右ではやはりアメリカ人らしく甲板にゴロゴロ転がって仮眠を取っている人もいますが、
左のまるで鉢担ぎ姫のような大きなヘルメットをかぶっている乗組員の
表情からは、不安と恐怖が隠せません。 

このころの米軍側の戦史から抜粋してみます。

「さらに、フィリピン諸島の各基地から飛来した特別攻撃隊の
アメリカ高速空母機動部隊に対する攻撃は、一層、被害甚大であった。
すなわち10月29日には大型航空母艦”イントレピッド”が損害を被り、その翌日は、
さらに大型空母”フランクリン”が飛行甲板に40フィートの大穴を開けられ、
アメリカ本国に修理のため回送された。

ついで、高速軽空母”ベローウッド”にも、また特攻機が体当たりをした。
11月5日には大型空母”レキシントン”が日本爆撃機の体当たりを喰らって損傷し、
死傷者182名を出した。

このような型破りの戦術はアメリカ海軍に深刻な関心を呼び起こした。
なぜならばアメリカ海軍は、いまだかつて、この自己犠牲の光景ほど、
ゾッと身の毛のよだつような気味悪いものを見たことがなかったからであった」




「イントレピッド」の乗員にとって、この日11月25日以前にも
カミカゼのアタックを受けていたため、その恐怖は大変なものだった、
と続くのですが、今映し出されているのは先ほど説明した、、10番砲座の
アフリカ系ばかりの小隊を狙うように突入した日本機(99艦爆ですね?)と、
この時に戦死した、小隊長のアルフォンソ・チャバリアスだと思われます。



そこでライトが点滅したり、警報が鳴らされたり、艦内のあちこちから
危急をつげる報告が飛び交ったりする緊迫感溢れる音声がさんざん流されたと思ったら、
いきなり子供が二人寝そべったり座ったりしている部分の床から煙が出てきました。



それまで立っていたダディがなぜか一緒になってくつろぐ展開(笑)
艦上は特攻機突入の際の爆発でもはや火の海となっている
・・・・・のでこういう演出をしたようですが、残念ながら
見ている皆にも全く緊迫感なし。

えーと・・・・・。



恐ろしい11月25日のカミカゼアタックによって、なんと69名もの将兵がなくなりました。
このショーは、それらの戦死者に捧ぐ、とありますが、なんというか
こんなショーを捧げられてもなあ、と思ってしまったのはわたしが日本人だから?

いや、きっとアメリカ人だってそう思う人は多いと思う。



海軍葬の行われんとする「イントレピッド」艦上。

この時に「イントレピッド」を襲った第3・第5神風特攻隊は目的が最初から機動部隊でした。

第3高徳隊 植竹功上飛曹(甲飛9) 以下5名 零戦

吉野隊 高武公美中尉(西南学院) 以下12名 零戦

笠置隊 鮎川幸男中尉(海兵71) 以下5名 零戦

疾風隊 前田操上飛曹(普電練) 以下8名 銀河・零戦

強風隊 山口晴雄上飛曹(甲飛9) 以下6名  銀河・零戦

計36名の特攻隊員が戦死しています。
レイテ湾には150隻にわたる艦船が充満していましたが、
この時の猛烈な攻撃によって、イントレピッドを含む空母4隻が
重篤な損害を受けることになりました。




この時の「イントレピッド」艦上。
皆がホースを持ち必死の消火に当たっています。

現在、「イントレピッド」に突入したのは、吉野隊の零戦のうち2機であることがわかっています。
 

 続きます。

 


アメリカ最後の日と帰国 鶴丸新型機に乗った

2015-08-21 | アメリカ


長いアメリカでの滞在もあっという間に終わり、西海岸に別れを告げる日がきました。



最後の日に日本で必要なものを買いに出て見つけたフィアット。
ドアミラーだけが赤いのがまるで耳のようでかわいい!



最後にどこを見ておこうか、ということになったとき、
やはり足を向けてしまうのがゴールデンゲートブリッジ。

こちらで観た最新作「ターミネーター・ジェニシス」によると、サイバーダイン社は
この付近に会社があったことになっていて、シュワルツネッガー扮する旧型ターミネーターと
サラ・コナー、カイル・リースとその追っ手がカーチェイスの末、
乗っていたスクールバスがこのブリッジから下に落ちたりします。

しかしあのシーン、昼間だというのに、橋の通路に観光客が一人も人がいないのが
嘘っぽーい、と思いました。
平日でもなんでも、昼間のゴールデンゲートブリッジに人がいないなんてありえません。

今見えている右側の通路は観光客は立ち入り禁止部分です。



ゴールデンゲートの近くの「プレシディオ」も最後に立ち寄りました。
昔、スペイン人が入植した地域で、その後米西戦争によって
彼らが追い出されてからも、その町並みにはスペイン風の名残りを残します。
この部分はいわば「路側帯」で、広大な緑地が広がっています。



同じような建物が続きますが、ちょうどこの右側は
ウォルト・ディズニー・ミュージアムです。
今年の夏は特別展として「ダリとディズニー」というのをやっていました。

ダリとディズニーの関係は、ダリとウォルト・ディズニーの兄が、
アニメを作ろうとして途中で終わってしまったことがあるというもので、
2003年とつい最近、ディズニーの甥がその部分を基にしてアニメを完成させました。

 Walt Disney's & Salvador Dali - Destino 2003 (HD 1080p)

若い女性がダリの絵のような背景を彷徨うというもので、
はっきりいって7分は長いと思いますが、まあ意欲作ではあります。
個人的にはダリみたいな人たちが皆頭にフランスパンを乗っけて
自転車に乗っているシーンがウケました。
企画展を見ることはできませんでしたが、だいたいこのアニメを中心に
展示が行われていた(セル画とか)のではないかと推測されます。




ディズニーミュージアムの反対側。
こちらがゴールデンゲートブリッジの方向になります。
この辺りには珍しく、風は強いもののそう寒くありませんでした。



クリッシーフィールドに降りてみようということでここに向かったのですが、
イベントがあったため付近の道路は大変な混雑となってしまっていました。
後で調べたら、バドワイザーの提供によるコンサートだったそうで、
バドのテーマカラーである赤と白のテントが並んでいます。
おそらく、ビールがバンバン振舞われていたりするので、
車で来る人はあまりいなかったと思うのですが、それでも周りは大渋滞。 

最後にクリッシーフィールドからブリッジを眺め、その後行きつけの
ブーランジェリで軽く夕ご飯を食べようという案は、
どちらもが残念ながら不可能に終わりました。
ロンバードストリートのくねくね坂道を降りようとする物好きを含め、
ものすごい数の車がこの一帯に 集結していたからです。

わたしたちは車からほとんど降りないままホテルに戻り、9時にチェックアウトしました。
なぜかというと、飛行機の出発が夜中の1時55分だったからです(爆)

 

深夜に出発して成田に朝の4時に着く便なんて誰が乗るんだと思ったら、
なんとこれが満席だったようです。
そして、こんな時間の便なのに、というかこんな時間の便だからか、
仕様機は新型で座席がコンパートメントスイートのタイプでした。



話には聞いていましたが乗ったのは初めてです。
一人の居住スペースがパーティションで区切られていて、
独立した部屋のようにくつろげるというもの。
上の写真は立って撮った写真ですが、まるで会社のコンパートメントみたいです。
わたしの席は5列のちょうど真ん中(写真で黒く写っている部分)になりました。



席に座って自分の正面を撮ってみる。
何よりありがたかったのは、座席が完璧なフルフラットになることで、
少しでも寝台が傾いていると寝られないわたしが熟睡しようと思ったら、
ファーストクラスに乗るしか方法はなかったのですが、それもこの座席なら可能です。

座席をフルフラットにすると、ちょうど足の部分がテレビの棚のところと
同じ高さになり、背の高い人でもここに足を収納すればOKの仕組み。

そして、嬉しかったのが、睡眠用の「ウェーブマットレス」が各自に用意されていて、
上の棚から出して座席に敷けば、わりと本格的なベッドの寝心地になること。
寝る時のコンディションにやたら神経質なわたしには、嬉しいサービスです。
おかげでこれまでの人生で初めて(こんな夜中の便に乗ったせいもありますが)、
西海岸からの便でまとまった時間、熟睡することができました。



隣との仕切りは壁の上げ下げによって解放したり閉じたりできます。
これは息子の席の画面で、座席の位置が横一列に並んでいないため、
わたしの位置からは、隣が何を見ているかわかりますが、向こうからはわかりません。

仕切りはフライト中にのみ上げることができ、
離着陸体制のときは
自動的に下がって解放状態になります。




そして壁のシールにご注目。
なんと、機内でインターネットができるようになったのです。
モニターでカード支払いをすれば(忘れたけど16ドルくらい)、
飛行中ずっとオンライン状態にしておくことが可。

ちらっとページを開けてみたところ、ホテルなどよりずっと通信速度が速く、
これは作業がはかどりそうだなと思ったのですが、残念ながら
搭乗した時間が時間なので、席に着いた時にはもう眠くて朦朧としていました。



国際線というのは出発時間に関わらず離陸の1時間後くらいに食事を出してきますが、
夜中の2時に出発する便で、まさかそんなことしないよね?
と思っていたらやはり、食事はこの「リフレッシュメント」と「朝食」だけ。

頼みたい人は手元のスマホみたいなコントローラーでメニューを選択し、
ボタンを押せばオーダーがギャレーに送信され、持ってきてくれます。
わたしはフルフラットのせいか、珍しく爆睡していて知りませんでしたが、
息子はいつの間にかカレーを頼んで食べたそうです。

映画の選択も、CAを呼ぶのも、機内販売もコントローラーで可能、とあります。

わたしは今回の旅行の記念に、先月の予告の段階から目をつけていた
パスポートケースを購入することにしました。
コントローラーを操作してもなかなか「機内販売」のページが出ないので
(工事中だったみたい)悪戦苦闘していたら、乗務員が

「機内販売はいかがっすかー」(東南アジア系の男性クルーだった)

と通り過ぎたので、呼び止めて普通に買いました。(−_−;)



今までのパスポートケースはもうボロボロだったので、交換です。
ティファニーブルーといわれるこの色が気に入って、名刺入れにも同じものをつかっていますが、
さらに嬉しいことに、鶴丸カードで支払えば免税価格からさらに一割引!



着陸の2時間半前には朝食がサービスされました。

洋食か和食が選べたので、「機内で和食は食べない」という飛行機業界の中の人、
ハーロック三世さんのお言葉を思い出し、当然のように洋食にしました。


最初にフルーツの盛り合わせを持ってこられたのは大いに謎でしたが、
それが「前菜」というつもりだったのかもしれません。(普通デザートですよね)
サラダにポーチドエッグ、小さなキッシュが二つ、というメニューです。

せっかくのメゾンカイザーのパンがレンジで温めたため台無しになっていたのが残念。


さて、というわけで朝の4時に羽田に到着。
現地の気温26度、というので少しホッとして機外にでたところ、
むわーーっと湿気が襲ってきたので思わず「暑っ!」と声が出ました。
そして空気の乾燥したサンフランシスコから日本に帰って来れば感じるところは皆同じ、
後ろに続いて降りるひとたちは、ほぼ全員が一歩外に踏み出した途端、
「うわ」とか「わー蒸し暑い!」とか口々にうんざりとしたように言っています。

時差ぼけとともに、西海岸から帰ってくると、これが体にこたえるんですよね。


というわけで、東海岸と2往復し、さらにはその間台湾にも行き、
ボストンからニューヨークまで車を運転したわたしに、また新たな試練が。
そう、総火演と翌日の花火大会です。

いったいどうなるわたし?

 


 


ジス・イズ・サンフランシスコ〜旅単シリーズ

2015-08-18 | アメリカ

西海岸滞在中に最低でも2度は足を向けるのがゴールデンゲートブリッジの
サンフランシスコ側橋脚から海岸線に沿って伸びて作られた公園、
クリッシーフィールドです。

ここは昔、パナマー太平洋国際博覧会のために展示飛行が行われ、(1915年)その後
アメリカ軍が防衛拠点にしたため、飛行場となっていた時期があります。

クリッシーという名前は、黎明期の飛行家で、1927年に耐久レースに出場し、
墜落死したダナ・クリッシーにちなんでつけられています。



遊歩道の脇の地面に、よくよく注意してみないとわからない
飛行帽とめがね、バイプレーンのモニュメントが埋め込まれています。
説明が何もないのですが、クリッシーにちなんだものでしょうか。



去年はまだ工事中で通行止めだったここに続くトンネルが開通していました。
まるまる3年、回り道をさせられましたが、ようやく直接来ることができました。
その開通したトンネルのすぐ上は、実はお墓だったりします。

公園から見えているサンフランシスコ国立墓地。
主に戦争で亡くなった人のお墓があるのですが、クリッシーもここに埋葬されています。

この一帯はプリシディオといい、1700年代はスペインが統治していたため、
スペイン人が住み着いたのが最初の住人となりました。
その後、まずスペインがここに要塞を作りました。



まだゴールデンゲートブリッジができていない頃にすでにこの要塞は存在しました。
そののち、地形上ブリッジをこの建物の真上に作るしかないということがわかり、
さぞかし関係者の間では危険性を懸念する意見が巻き起こったのではないかと思われます。



何年か前は夏の間中、内部を公開していたので、息子を連れて
大砲を撃つデモンストレーションなどを見学したものです。
これは今にして思えば南北戦争中に使われた「ナポレオン12パウンド砲」でした。



フォートですから、堅牢なレンガの壁にある窓は、砲口だけが出される小さなもので、
周りは鉄鋼で崩れないようにカバーされています。

フォートポイントは映画にも登場しています。

ヒッチコックの1958年作品「めまい」。
キム・ノヴァクが海に飛び込もうとするシーンはここで撮られました。

しかし、ここから飛び込んだら、普通の人はまず間違いなく流されて死ぬよ?



と思ったら、流されている人がいた(笑)
このフォートポイントでボディボードをしている人を見たのは初めてです。
こんなところで一体何を?と思ったら、実はこのあたり、風が強くて波も高いところがあり、
そこまで泳いで行って波乗りするつもりだったようです。
ここ、結構岩だらけなのに、大丈夫なんだろうか・・。



結構男前で、観光客の注目の的となっていました。
このエリアは地元民の散歩でなければ来ているのは観光客ばかりで、いつもここで
釣り糸を垂らして釣りをしている中国人ですら、皆にガン見され、話しかけられています。

この「中国人」というのがポイントで、わたしはかねがねここで釣りをしているのは、

中華街で料理店を経営していて、ガチで材料を仕入れているつもりなのではないかと
ずっと思っています。




こちらサンフランシスコの太平洋に面した海岸でまじ釣りしていた人。
この人も東洋系で、まず間違いなく中国人。
いやー、ほんとうに仕事熱心というか(決めてかかっている)



フォートポイントから市内を臨んだところにあるこの建物、
一時息子をここのサマーキャンプに行かせていたエクスプロラトリウム(科学博物館)でした。
「でした」というのは今年フィッシャマンズワーフに行ったら、
ピアに移転して新築されていたので初めて知ったのです。


こちらは歴史的な建築物なので、その方向で保存することになったのでしょう。

ところで、アメリカでは最近「原爆を2発も投下したのは悪いことだった」
という意見が若い人を中心に増えているらしい、と先日8月6日のニュースで見ました。
しかし、ここアメリカでは表面的にそれは絶対に表には出てこず、
あくまでもインターネットで広島や長崎の写真などを検索して持つ個人的感想にとどまっています。

8月6日の原爆慰霊式典の様子はこちらでもニュースで流れましたが、
時間にしたら、そう、せいぜい15秒といったところでしょうか。

「投下から70年目にあたる広島で慰霊祭が行われ、ケネディ駐日大使が出席した」

という言葉とともに、ケネディさんの顔が大写しになって、おしまい。
思わず「これだけかい!」と口に出てしまいましたよ。

和歌山で「たま駅長」のお葬式が営まれたというニュースの方がよっぽど大々的でした。




さて、ここからはいつもの望遠レンズでの写真となります。

NIKON1専用望遠レンズ70-300mmで撮りました。

このシギは、ここに定住している

Marbled Gotwit

という鳥ですが、ゴットウィット・・・神の機知?
ゴー・トゥイットだと・・・・・バカになるっていう意味になるかと思いますが、
もちろん前者でしようね?




頭の大きさの割に嘴が異常に長い鳥さんです。

多分小さな泥中の生き物を食べるためにこんな長いのかと。



水辺ではおなじみ、ヘロン。




望遠レンズで思いっきりアップにしてみました。




中洲にはサギとウが仲良く共存しています。




水中にしょっちゅう潜って何かを加えて浮いてくるときもありますが、

このときには長い藻を加えていました。
見ていたら食べてしまったので、時々緑のものもたべるのかもしれません。



この日サンフランシスコは珍しく気温が高い(日本だと4月くらい)1日でしたが、

風はとても強く、長い羽が煽られてこんなことになっていました。



カワウが皆で餌探しを始めたら、サギも一緒になって

何かいないかな?という様子でソワソワしだしました。
共生ではなく、あわよくば人の獲物を横取りしようという考えのようです。



人と鳥。
ここは立ち入り禁止区域なので、関係者が何か作業をしているようですが、
それを一羽の鳥が横でずっと見守っていました。



お天気の良い1日だと、こんな風にブリッジが全く霧で隠れずに見えます。

毎年来ていますが、これは案外珍しいことでもあるのです。

そういえば前に来たときは・・・・・・・そう、ここで車の鍵をなくしたんだった・・・。
嫌なことを思い出しちまったぜ。ちっ。



巨大なグレートハウンドを散歩させていた女の人。

こんなでかい犬は日本でもほとんど見たことはありません。
今は大型犬でも室内飼いするのが普通である日本では、

こんな大きな犬が家の中にいたら場所ふさぎですし(笑)犬もストレスでしょう。



ベンチに座って携帯メールを始めました。

犬はおとなしく長い脚をたたんで座っていたのですが、
他の犬が通りかかるとその度にウーファーサウンドのような低音の、
思わず振り返るような大音声でうおんうおんと吠え、その度に
通りがかりの犬は怯えて首を縮めて通り過ぎていました。

やっぱり大きすぎる犬って、犬同士でも怖いもんなんですかね。



手前の男の子は、写真を撮るために飼い犬のリーシュを持たされています。




おそらく犬が全力で走ったら、男の子は引きずられると思われ(笑)

「CA」のTシャツは、他所から旅行に来たものの思っていたより寒いので
あわてて長袖のお土産シャツを買ったらしいことまでわかります。

話には聞いていても、サンフランシスコの夏の寒さは他州の人間には予想以上です。



何人かの「犬友達」同士で来て、飼い犬を遊ばせている人たちもいました。
赤い引き綱がよく似合う黒犬くん、脚に綱を結んであるのかと思ったら
たまたま脚に絡まっていただけでした。



黒くん、友達が水に入ろうとしているので一緒に水際まで来たのですが、




どうやら水に入るのが怖いようです。




尻尾の先が扇子のように広がった白黒の犬が水浴びして出てきても、

黒くんは恐々で、興味はあるもののどうしても水に浸かれないという感じ。



「お前濡れてんだろ?近づくなよお〜」




「黒くんいいこと教えたげる。あのねえ」


「だから濡れてるんだから近づくなって〜」

ここクリッシーフィールドの犬は、散歩業者につながれて10匹単位で
散歩している犬たちはともかく、飼い主ときている犬は皆元気に走り回って、
時々は冷たい海にも果敢に飼い主の投げたボールを取りにいったりします。



ここに見えている建物は全てプレシディオの、大変古いものばかりです。
鳥は・・・・



あ、アジサシ?
と思ったのですが、どうも尻尾が違いますね。



上空で円を描いて飛び、獲物を見つけると急降下して水にダイブ、
というのも一緒なのですが・・・・・。



ちょうどGGブリッジがよく見えるところに止まってくれたので、
かがみこんで下の方から狙って撮った絵になるカラス。



スズメはもちろんのこと・・・・・、



テリムクドリモドキもいつものようにいました。



ところで、時々は晴れることもあるGGブリッジですが、こちらの太平洋側は

ほぼいつもこんな感じで曇っている(特に朝は)日が圧倒的多い様な気がします。
寒々としたこの海の向こうの日本では、猛暑で人が死んでいて、
西海岸でも、もう少し南に下がればガンガン日差しの強い場所もあるというのに・・。

本当にサンフランシスコって不思議な町だと思います。



この海岸にも『神さまのウィット』がいました。



ところで、2年前の夏、ここでCSI:NYのロケに遭遇しましたが、
ここはサンフランシスコの名所だけあって、一夏に必ず一回はテレビや映画の
撮影ロケが行われているのを目撃します。


もちろんバックにゴールデンゲートブリッジの映るこのポイントは
撮影ポイントとしてたいへん「絵になる」からですが、この日は、
お揃いのスーツを着た男性二人が、プロのカメラマンとフォトセッションをしていました。 

写真家が前衛的な作品でも撮影しているのかと思って見ていたのですが、
カメラマンが軽装備すぎるので、単なる「カップル写真」の撮影かもしれません。

サンフランシスコというのは、前にも書きましたがカストロストリートを中心に
全米でも有名なゲイ・コミニュティがあります。

またカリフォルニア州では2013年に同性婚を禁止していた法律を無効とし、

婚姻関係を結ぶことが可能になっていましたが、つい先日の2015年6月26日、
合衆国最高裁判所は「法の下の平等」を定めた「アメリカ合衆国憲法修正第14条
を根拠にアメリカ合衆国のすべての州での同性結婚を認める判決をだし、
これによりアメリカ合衆国において、同性婚のカップルは異性婚のカップルと
平等の権利を享受することになりました。

というわけで、この法律制定後、晴れて夫婦になって他州から新婚旅行に来たカップルが、
プロを雇って結婚アルバムに載せる写真を撮っているのだとわたしは思いましたが、
確かめる訳にもいかないので、本当のところはわかりません。
ここまで書いて、もし間違いだったらごめんなさい。


とにかく、いかにもサンフランシスコな風景ではあります。